海棠 一
二本の刀が風を切る音が聞こえる。
優雅にたおやかに、一人の若い娘が舞っていた。彼女が舞う庭には、いくつか案山子のような物が立てられていた。
ひゅんという音とともに一つめの案山子の腕が飛んだ。次の瞬間、刃が唸りをあげ今度は頭の部分が飛んだ。
刀が風を巻き込み、速度を増してゆく。ふたつ、みっつ、よっつと次々と案山子が無残にも四散してゆく。その間にも刀の勢いは衰える事を知らない。
だがその娘は最後の案山子に近づく事なく距離を置いた。一丈ほどの距離があっただろうか。
娘は一歩だけ踏み込み、刀を横薙ぎに払った。
青白い寒光が閃いた。
娘はくるりと案山子に背を向けると刀を納めた。
ぽとりと案山子の首が地に落ちた。とても刀の届く距離ではないはずだった。
それをじっと腕を組んで見ている男がいた。娘の腕前に感心するでもなく、難しい顔をしていた。
「本当に行くのか、三娘」
「当り前じゃない、兄さん。この扈家は、李家と祝家と生死の誓いを立てているのよ。祝家が梁山泊と戦うのなら、扈家も全力でそれに応じなくては」
「それは親父たちが決めた事だ。それに梁山泊は凶暴な連中の集まりだと聞く。お前にもしもの事があったら」
「私は祝彪の許婚なのよ。あの人にもしもの事があれば、どうするのよ」
むう、と三娘の兄、扈成がうなった。
確かに妹、扈三娘の武芸の腕前は一流だった。
日月二刀を巧みに操り、並みの男では敵わぬほどの腕前だった。驚くべきはその間合いの広さだった。一丈ほどの距離にあっても届き、その相手は青い光だけを見るという。
誰知らず、扈三娘は一丈青と呼ばれるようになっていた。
またその強さに加えて、扈三娘は美しくもあった。海棠の花などと例えられるほどでもあったのだ。強さと美しさを兼ね備えた妹に、扈成は強く言う事ができないでいた。
飛天虎などとお情けで呼ばれる自分はもちろん、許婚である祝彪よりも強いのではないだろうか。
じゃあ、と去っていく扈三娘を、扈成は黙って見送ることしかできなかった。
背に薪用の粗朶を背負った石秀が歩いていた。その前には山伏の姿をした楊林がいた。
道はあちこちに曲がりくねり、しかも樹木が生い茂りその道筋が見て取れない。まるで迷路のような村道だった。
二人は祝家荘の様子を探るべく、変装して忍び込んでいた。
この前、祝家荘から脱出した際は無我夢中であったし、李家荘へは杜興の案内を受けていたのだ。
「こうして見ると、まるで道が分からんな、はたして」
楊林はそっと石秀に近づき、同じようにそっと話しかける。
「うむ、村の者は迷うことなく歩いている。何か秘密があるに違いないが、とりあえず広い道を選んで行くとしよう」
楊林が少し先を歩き、日も暮れた頃ようやく広い通りに出た。人家と数軒の酒屋や肉やが見えた。どの家にも、あの時見たように刀が立て掛けてあった。また村人は、祝と大きな字を染めた黄色い袖なしを着こんでいた。
石秀は酒屋の前で荷を下ろし、一息入れる振りをした。楊林は、先へ行くという合図をして、錫杖を鳴らすと足を速めた。
目の前を通った老人を呼び止め、石秀が訊ねた。
「すみません、ご老人。この土地は変わった習わしがあるのですなあ。どの家も刀を壁にかけて」
「あんた、ここは初めてかい。なら悪い事は言わん、早く出て行った方が良い」
少し心配そうな顔をして老人が告げる。
「私は商売をしておりましたが元手をすってしまい、やむなく粗朶を売り歩いているのです。故郷へも帰れずどこへ行けというのです」
「それは難儀な事だな。しかしここいらではもうすぐ大きな戦が始まるのだよ」
「戦ですって」
「本当に何も知らんのか。この前、この祝家荘と梁山泊との間でいざこざがあってな。怒った梁山泊が今にもここへ攻めてこようという時なのだよ」
祝朝奉からの号令がかかっており、若い者はすでに戦の為にいつでも飛び出せるようにしているのだという。
「それならば何も怖い事はありませんね」
「まあ、道が分からずに奴らも捕まってしまうだろうなあ。とはいえ、巻き添えを食ってはいかん、お前さんも早く逃げなさい」
石秀は、さっとひれ伏し涙声になる。
「せめて死ぬ時は故郷でと思っておりますが、私もここの道が分からず、出る事が叶いません。この粗朶を差し上げますから、どうか道を教えていただけませんか」
「まあまあ、ただでもらう訳にはいかんよ。とりあえず、わしの家に来なさい」
老人は、鐘離という姓で土地の者だと言った。鐘離老人は石秀に濁酒と粥を振る舞ってくれた。石秀は、本心から感謝の言葉を述べ、それで腹を満たした。ひと息つくと、鐘離老人が道の秘密を教えてくれた。
祝家荘の道は迷路のように入り組んでおり、入って来るのは易いが出るのは容易ではないという。外敵を防ぐためで、とぐろのようになった道は目印を知らぬ者にとって、まさに蛇の腹の中という訳だ。
白楊が目印だった。どんなに入り組んだ道であっても、白楊があれば曲がる。それ以外は行き止まりになっていて数多くの罠が仕掛けられているというのだ。
「わしもしっかりと隠れておくことにするよ。梁山泊の連中が襲ってこないようにな」
「しかし梁山泊は、善良な民には手を出さないとか。旅の途中で、そういう噂をあちこちで聞きましたが」
鐘離老人は人好きのする顔で笑った。
「いやに梁山泊の肩を持つじゃないか。しかしここでは敵なのだよ」
「すみません」
石秀は肩を落とした。梁山泊の名を貶められ、少し感情的になってしまったようだ。正体がばれては目的が果たせない。
「まあ、お前さんが何者でもかまわんがね。お前さんのまっすぐな瞳が気に入ったから、村から出る方法を教えたまでの事。気にせんどいておくれ」
石秀は礼を言い、鐘離老人と別れた。時遷を捕え、梁山泊をつぶそうと豪語する祝家荘に敵愾心を抱いていた石秀であったが、祝彪のような人間ばかりではないのだ。鐘離老人のように、善良な住民も多くいるに違いない。彼らを戦に巻き込んではならない。
石秀の横を朴刀を手にした男たちが駆け抜けた。一瞬、身構えた石秀だったが目的は違ったようだ。男たちは角を曲がり、なにやら叫んでいた。
そっと見ると、そこには祝家の男たちが一人の男を打ち据えていた。破れた笠が道に落ちている。それは山伏の姿をした楊林だった。
「貴様、何者だ。祝家荘をうろうろしやがって」
「待ってください、私はただの雲水です。修行の途中、ここへ来たのですが、出るに出られなくなり」
「嘘をつくな。縛りあげてしまえ」
楊林が捕まった。助けようと石秀が踏み出そうとした時である。
「これは祝の若さま」
馬に乗った堂々たる姿をした若者が現れた。忘れもしない、李応に怪我を負わせた祝家の三男、祝彪であった。手下を何人も引き連れ、村人たちが一斉にひれ伏していた。
石秀は慌てて裏道に入り、姿を隠した。向こうもこちらの顔を覚えているはずだ。自分まで捕えられては、何の意味も無い。
すまぬ楊林。必ず救い出してみせる。
引っ立てられる楊林に背を向け、石秀は白楊を目指した。
遅い。石秀も楊林もまだ戻ってくる気配が無い。
「村では、間者を捕まえたと騒いでおりました。それ以上は危険と思い、戻ってきました」
後から偵察に向かった欧鵬がそう報告した。
「だから言わんこっちゃない。おいらが斬り込んで、全員ぶった斬ってやると言ったのに」
「慌てるでない、李逵」
とは言ったものの宋江は渋い顔をしていた。
もしや二人とも捕えられたのかもしれない。このまま待っていても埒が明かない。
「どうするね、宋江どの」
李俊がそう聞き、宋江は出撃を命じた。先陣を李逵と楊雄が受け持つ。左右にそれぞれ穆弘と黄信の隊、そして中央には宋江、花栄、欧鵬。後詰めを李俊の隊が担当する事になった。
李逵は喜び勇んで斧を振り回し、曲がりくねる道を駆けた。
やがて黄昏どき、城門にたどり着いた。しかしすでに吊橋が上げられており、門もしっかりと閉じられていた。
堀へ降りようとする李逵を、楊雄が止め、宋江の到着を待たせた。だが李逵は待ちきれず斧を打ち鳴らし、大声で叫び出した。
「この祝家のおいぼれめ。この黒旋風さまが来てやったぞ、とっとと殺されに出て来やがれ」
しかし中から反応は無く。あたりは静まり返るばかりだった。
そこへ宋江の隊が到着した。楊雄が状況を告げる。
これほどの大軍を率いてきたのだ、祝家荘としても分かっているはずだ。宋江は、ふと思い出した。
鄆城の環道村で手にした玄女の天書。あの後、何度も何度も食い入るように調べていた。
初めに浮かんだ四行の句、それ以外は一向に浮かび上がって来なかった。しかし、思い返すとあれは楊雄と石秀が梁山泊に来る少し前のことだっただろうか。ある一文が浮かび上がった。
敵に臨んで急暴なる休れ、と。
この事なのか。宋江は叫んだ。
「これは罠だ。退け、退くんだ」
その言葉と同時に、一発の号砲が鳴った。城壁の上に一斉に松明が出現し、辺りを照らし出した。そして祝家荘の兵たちは弓を構え、宋江らを狙っていた。
退却、と宋江はまた叫んだ。そこへ無数の矢が襲いかかる。
「手前ら、汚ぇ真似しやがって」
李逵が前に出て二丁の斧を振り回し、矢を落としてゆく。しかし斧をすり抜けた矢が、李逵の眼前に迫った。
次の瞬間、李逵の視界が銀色に覆われた。きいん、という音と共にその矢が弾かれた。
「退くぞ、李逵」
楊雄が素早く刀で矢を遮ったのだ。
「すまねぇ」
二人は矢を落としながら、徐々に後ずさってゆく。周りでは手下の悲鳴が聞こえる。
花栄も応戦するが、この数では勝負にならない。
「くそっ、きりが無い」
「李逵、楊雄二人ともここは退却だ」
来た道を戻ろうとする宋江だったが、それはできなかった。後陣の李俊が叫んだ。
「だめだ、伏兵がいる」
宋江は兵たちを八方に散らし、道を探させた。何とか広い道を探りあて、一行はそこを進んだ。兵をまとめ暗い道を急いでいると、またも号砲の音が聞こえた。
すると周りの木々がざわざわと揺れ出し、どよめきが上がった。
すでに伏兵に取り囲まれていたのだ。
「ひるむな。伏兵など恐れるに足りぬ」
黄信の言葉に、梁山泊の兵たちが応えた。自分たちは林冲や秦明そして黄信という一流の軍人に鍛えられたのだ。慣れぬ敵の地とはいえ、伏兵ごときに負けるはずもない。
暗闇の中で剣戟の音と怒号が飛び交う。黄信が喪門剣を振るうたび、祝家荘の兵が地に倒れ伏す。
「いいぞ、林冲どのと秦明どのとの訓練を思い出せ」
わああ、と歓声を上げ黄信隊が斬り込んでゆく。
「待て、黄信。深追いするんじゃない」
花栄が制止するが、今度は先頭を進んでいた兵たちが騒ぎだした。
「どうした」
「道が曲がりくねっていて、どう進んでも元来た道に出てしまいます」
また別の隊から報告が上がる。
「他の道は行き止まりで、逆茂木や足がらみの鉄蒺藜などでふさがれております」
まさに進退きわまったか。
そこへ左の隊がざわつき出し、穆弘が駆けてきた。手にした刀や体は返り血で染まっていた。
「どうしました、穆弘」
宋江の問いに無言のままの穆弘の馬にもう一人乗っていた。ひらりと馬から降り、宋江の前で拱手する、それは石秀だった。
「おお、捕まったのでは無かったのだな」
「遅くなって申し訳ありません。捕まったのは楊林です、私は何とか出る事ができました」
「今はとにかくここから脱出しなければなりません。導いてください、石秀」
はい、と石秀が立ち上がった。鐘離老人の教え通りに白楊のある角を曲がってゆく。こんな仕掛けだったとは。徐々に、外へと向かってゆくのが宋江にも分かった。
だが目の前から、またも伏兵が現れた。石秀が二人を斬り、残りは穆弘の刀の露と消えた。李逵が斧を振るいながら吼えた。
「蟻んこみたいにうじゃうじゃ出て来やがる」
確かに、道には迷わなくなったが、どうもこちらの動きが読まれているようだ。
あれを、と兵の一人が上方を指し示した。木の陰でちらちらと赤い灯りが揺れている。どうやら提灯のようだった。
隊を動かした時、その提灯が揺れた。あの提灯の動きでこちらの動きを伏兵に知らせていたのだ。
「お任せを」
そう言うや花栄が矢をつがえ、放った。少しの間をおき、提灯の明かりが消えた。
「すごい」
思わず石秀は唸っていた。この闇の中、彼方の提灯を狙って、ただのひと矢で射落としたのだ。これが神箭将軍と呼ばれる花栄の腕か。
伏兵が乱れた。後は石秀に従い、ここを切り抜けるだけだった。宋江の元にさらに朗報が届いた。
林冲率いる第二隊が到着し、前方の伏兵を斬り倒しているというのだ。
「もうすぐだ、気を引き締めるのだ」
一同を鼓舞し、宋江が馬を駆る。
やがて村を抜け、林冲たちと合流した。戴宗が駆け寄って来る。
「へへ、おいらが付いてたんだぜ」
と自慢げに李逵が鼻の下を擦った。
兵をまとめ、確認をする。少なくない被害だった。
宋江は歯嚙みした。捕らえられた者を救い出そうと、逸ってしまった。今回は負けといってよいだろう。すべて己の責任だ。
さらに、である。
帰還した兵たちの中に、黄信の姿が無かった。