最終話
結局、僕は警察に連行されることはなく、ただ少し話を聞かれただけだった。
「僕は伊佐奈栞さんのお見舞いに来たんです。でも、なかなか勇気が出なくって、栞さんにも、ご家族にも、面会を求めることができずにいたんです。どうしても病室に入れずその周囲をうろついていました。そしたら飛鳥さんが『お見舞いですか』って声をかけてくれて」
田辺飛鳥と伊佐奈細波は、病室が近く境遇が似ていることもあって自然に顔なじみになり、たまにお互いの姉の病室を訪ね、話をすることがあったという。
「聞いてみたら、伊佐奈さんたちご家族が来られるのはだいたい五時をまわってかららしいんです。二時間以上あったんでもう帰ろうかなと思いました。もちろんご家族には会えなくても栞さんには面会できるはずなんですけど、意識の無い被害者に僕一人で会うのはなんか躊躇われて。でも、ここで帰ったら、たぶんもう一度来る勇気は持てないだろうなってことも、なんとなくわかってました。で、会えなかった代わりというか、ちょっとそのままでは気持ち的に帰りがたくて、僕は飛鳥さんに簡単に事情を説明して、彼女から栞さんの容態やご家族の様子を教えてもらいました。飛鳥さんは気を回してくれて、僕を彼女のお姉さん――真由美さんの病室に連れて行ってくれました。ちょっと……ショックでした。あんなにたくさんの機材に囲まれて、いろんな管が体に繋げられて……。たぶん、直接栞さんの病室に行っていたら、もっとショックを受けてたと思います。気分が悪くなった僕はすぐに病室を出て、近くの公園で休みました。心配した飛鳥さんもついてきてくれました。僕は申し訳ないことをしたと思って、最後、帰り際、もう一度真由美さんに会わせてもらいに行きました。意識がないのはわかってるんですけど、ちゃんとご挨拶をしてから帰りたいと思ったんです」
僕たちはそこで伊佐奈栞の最期に遭遇した。細波さん――いやほんとは飛鳥さんなんだっけ、ま、どっちでもいいや――と打ち合わせ、そういうことにしておいた。そして僕はそれ以上この件に関わることなく、拍子抜けするほどあっさりと解放された。ここから先問われるのは病院の危機管理責任とかであって、少年犯罪の出番はないらしい。
なんで捕まえてくれないんだろう。
捕まえてくれれば、そこで終わりにできるのに。
*
「本物の伊佐奈細波は、とてもいい子なのよ」
顔を俯け、ぽつりぽつりと彼女は語った。
「私と同い年で、私と同じに遷延性意識障害になったお姉さんを抱えていて。でも私とは比べ物にならないくらい、人間として正しい子。『生きていてくれるだけでいい』とか、『いつか目を覚ましてくれると信じてます』とか、強がりや建前でなくそういうことを口に出せる子なのよ。私は、知り合ってからの四カ月、ずっと彼女を見ていたわ。『この子はいつ諦めるんだろう』って。いつ、『死んだら、連絡ください』に変わるんだろうって、そう思いながら見ていたの」
長い髪を指先でいじりながら話す彼女の声を、僕は黙って聞いていた。
「『うちのお姉ちゃんはもう二年だけど、栞さんはまだこうなってから四カ月しか経ってないからだ』って、そう思おうとしたわ。でも、わかる。あの子は私とは違うの。もしこれから先も今と同じ状態が続いていったとしても、あの子は絶対に、私みたいにはならない。あの子を見ていて、思い知らされたわ。うちと違って経済的にも苦しいはずなのに。あの子は私みたいに諦めたりしない。お姉さんを恨んだりしない。出口を求めてあがいて、叶えられないからといって全てを憎むようになったりしない」
そこでふいに、僕のことに話が及んだ。
「あの子は、あなたのことも話していたわ。その時、あの子はこう言ってたわ。『加害者の家族がどんなふうに扱われているか、噂で聞いたことがある。学校でもイジメに遭っているらしい。その子とは直接会ったことはないけど、可哀そうに』って。――『可哀そうに』って。それを聞いていて、私は、なんでだかわからないけど、すごく腹が立って、何もかも滅茶苦茶にしてやりたいって思ったの。あの子と別れて一人になった後、自分が情けなくて涙がぼろぼろ零れたわ。その日は一晩中、ネットであなたたちに関する書き込みを追ったわ。あなたたちの個人情報はネットに溢れてた。中傷の書き込みもすごかった。細波ちゃんたち被害者側には同情の声が多く寄せられていたけれど、でも、それだけでもなかったわ。匿名の掲示板に、いっぱい書き込みがあったの。『植物人間になるくらいなら死んだ方がまし。楽に逝かせてあげてください』とか、『植物人間って光合成するの?』とか、『生きてるだけで莫大な医療費を使う社会の寄生虫。さっさと殺してやるのが家族の務め』とか、『ニートよりたちが悪い』とか、『植物人間なんて死んだも同然。無理やり生かし続ける家族を刑務所にいれるべき』とか。じゃあ……もしそれで本当に私たちが家族を殺したら、あの人たちは今度はどんな言葉を書き込むの? もしお母さんがお姉ちゃんと心中してたら、あの人たちはなんて言うつもり? なんで、何の関係もない人たちが、私たちのこと決めつけるのよっ」
細波さんはそこで一度、言葉を切った。彼女の食いしばった歯の間から、低い嗚咽が漏れる。
「……最初からあなたを騙そうとしていたわけではないの……。衝動的にあなたの家に行ってはみたけれど、私はそこに何をしに行ったのか自分でもわかっていなかったの。あなたの顔を見るまで、細波ちゃんのふりをしてやろうなんてちっとも考えてなかった、本当よ。ただ、胸の中に大声でワーッと叫び出したいような衝動だけがあって、その衝動をもてあましてて。私は、初めて会った、私とは何の関係もないあなた相手に、伊佐奈細波を名乗って、八つ当たりをしていたの。自分自身には『これはただのごっこ遊び』なんだって言い訳をして、だって私、本気でお姉ちゃんを殺そうだなんて、あなたは私の悪ふざけに付き合ってくれてるだけなんだって、」
「うん、もういいよ、だいたいわかった」
僕は手で細波さんを遮って言った。
「理由とか、もういいから」
彼女の語る真相も、彼女の心の中のことも、どこまで嘘でどこまで本当なのかも、僕にはどうでもよかった。僕はとても疲れていたので、あまりごちゃごちゃ考えたくなかったのだ。
彼女が姉を殺してくれと願ったので、僕は殺した。ただそれだけだ。命じられ、何も考えずにそれに従うことが、僕には心地よかった。
「そんなこと、もういいからさ、そろそろ帰らない? 僕とあんたがあんまりいつまでも仲良しこよしでここに残ってても変だしさ。そろそろ家族の人とか来るでしょ?」
「でも……」
「もちろん約束は守ってもらうよ? あんたが僕に言ったことのほとんどはでたらめだったんだろうけど、それでも僕はちゃんと果たしたんだから」
「約束……? あ……、お金のこと、とか? それは、必ず払うから」
「お金はいいよ。今の僕が大金持ってても、出どころの説明に困るしさ」
「え、でも」
「誰にも何も言わないし、お金もいらない。ただし、その代わり」
もしかしたら、そこから先は今日の中で一番馬鹿馬鹿しいやりとりだったかもしれない。
「その代わり、いつか僕を迎えに来てよ。ほとぼりが冷めた頃にでいいからさ。それで、僕に居場所を作って。僕が何も考えずに生きていられる場所を作って。なんかすっごい疲れちゃってさ」
僕は細波さんの胸の中にぽふっと頭を預けた。
「考えることをやめたいんだ。僕の代わりに、あんたが決めてよ」
細波さんはすぐには答えなかった。僕は黙って彼女の胸がわずかに上下するのを感じていた。
「わかったわ、約束する」
ややあって耳から注がれた声に、体がふうっと軽くなるのを感じた。
縁側の陽だまりの中に寝そべっているような、そんな温もりが僕を包む。後五分だけでいいから、このままでいたい。
「ありがとう。うん、じゃ、さよなら」
だけど僕はその誘惑を振り切って身を起こし、微笑んで彼女に手を振った。彼女の気が変わって約束を取り下げられるといけないから。
病院の建物を出て、家に向かう。
たぶん僕にとって何より怖いのは、昨日と同じ生活がこれから先も続いていくこと。
終わりの見えないこのぼんやりした闇の中で、一人目覚め続けること。
バスを降りて少し歩くと、今までと何も変わりを見せない家が、僕を迎える。祖父はまだ、出かけたまま帰っていないだろうか。常時雨戸が閉められたままなので、外からはわからない。
僕はポケットから鍵を取り出し、今度はなんのためらいもなく玄関の扉を開いた。開いた拍子に、セロハンテープで張り付けられていた紙屑が扉から剥がれ落ちた。敷石の上、溶けた雪が紙に書かれたマジックの文字を滲ませる。
『ヒトゴロシ』
「うん」
誰もいないのだけど、僕はそう呟いていた。
「そうだよ。だから何?」
自分の言葉が妙におかしくて、くすくすと笑った。笑いながら、家に入った。
「ただいま」
ただいま。