第三話
看護師の巡回が終わるのを待ってから再度病室を訪れ、
「ここにいて、大丈夫なの?」
僕は伊佐奈栞を見下ろしながら、隣に立つ細波さんに訊いた。
「最後まで見届けるわ。それが私の役目だから」
「別に細波さんを労わったけじゃなくて、土壇場になって邪魔されたくないから言ってるんだけど」
「邪魔なんかしないわ」
「どうだか」
人間は、たぶんそんなに強くない。目の前で家族の命がなくなっていくのを、取り乱さずに最後まで眺めていられるか?
「そもそも、自分で手にかけることができないから、僕に頼んだんだろう?」
「邪魔なんかしない。約束するわ。だからお願い、私もいさせて」
「そんなに言うなら」
諦めて伊佐奈栞に目を戻す。改めて見ると、彼女達姉妹はよく似ていた。血の繋がりを実感させられる。
「ごめんね、お姉ちゃん。私達は、今からお姉ちゃんを殺します」
彼女は腰をかがめて姉に口を寄せ、そう囁いた。それから、
「ね、真。見てちょうだい。お姉ちゃんの爪、もうこんなに伸びているのよ。四日前に切ってあげたばかりなのに」
指を絡めるようにして姉の手を持って、くすりと笑った。
「体はせいいっぱい生きようとしてるのよね」
彼女はその後も、姉の手を両掌に包んだままでいた。そのうち、細波さんが言っていたとおり、伊佐奈栞の喉からごろごろという音が聞こえて来た。
「もういい?」
僕は細波さんの手を外させ、体を軽く押しやった。
「それじゃあ、さよなら」
折り畳んだタオルを、口と鼻を覆うようにして伊佐奈栞の顔に被せる。被せるだけで、強く押さえつけたりはしなかった。
僕の隣で細波さんは、虚ろに姉を見下ろしていた。何かにとり憑かれた人のように、彼女の両目は異様に大きく見開かれていた。
病室の静かさゆえに、細波さんの荒れた呼吸の音が耳につく。そして十数秒後、
「い……や……」
低くくぐもった声が、細波さんの口から洩れた。それを聞くと同時、僕は動いていた。
「やっぱり、嫌ぁっ」
背中から手を回す。
「嫌よっ、やめてっ、やだっ。嫌だぁっ」
右手で細波さんの口を覆い、左手で腕を二本とも押さえ付ける。その後も叫び暴れようとする彼女を、僕は渾身の力で腕の中に留め続けた。
病室に備え付けの洗面台で右手についた唾液と血を洗い流した。細波さんの唾液と、僕の血だ。噛まれた傷跡には絆創膏でも貼っておきたかったけど、あいにく見当たらなかった。見とがめられない事を祈ろう。
手がきれいになったので、さっき使ったタオルを洗っておく。
「細波さん。大丈夫になったらナースコールを頼むよ?」
振り返って、椅子に腰かけ青白い顔で俯く細波さんに声をかける。聞こえてるのだろうか、と心配になる。思っていたより時間がかかるかもしれない。
僕は手持無沙汰に部屋を見渡してみた。
ベッドの上、機械に囲まれた伊佐奈栞の命は、すでにない。
目を細めて見てみるけれど、それがさっきまでとどう違うのか、その境目が、僕にはよくわからなかった。
細波さんの脇に立ち、少し屈んで、ベッド下の洗濯かごにさっきのタオルを入れた。
僕の動きに押されるように細波さんがゆらりと壁際に手を伸ばし、ベッドに備え付けのボタンを押した。
『どうしました?』
壁に設置されたスピーカーから声が降って来た。
「すみません」
細波さんは上向いて、ボタンを押したまま言った。
「田辺飛鳥ですが、お姉ちゃんの様子がおかしいんです」
『わかりました、すぐ行きます』
たなべあすか?
*
伊佐奈栞が救急救命室に搬送された後、僕たちはそのすぐ近くにある待合室に移動した。
ソファーが二つずつ対面に並べられていて、僕たちは向かい合わせにそこに座っていた。
「僕を騙してた?」
「ええ」
彼女の本当の名は、田辺飛鳥だそうだ。
僕の知らない名。
「僕を利用してた?」
「ええ」
「そう」
立ち上がり、回り込んで彼女の後ろに立つと、彼女は前を向いたまま、体をこわばらせた。
「僕は誰を殺したんだろう」
言いながら後ろから手を伸ばし、彼女のポケットを探ってみる。彼女は体を縮めるだけで、とくに抵抗らしい抵抗は見せなかった。
あった。病室でもみ合っている時ちらりと覗いていた、白いもの。抜き出して見てみる。『伊佐奈栞』と書かれた白い札だった。裏返すと『プリムラ・マラコイデス』と書かれていた。
「なに? これ」
「公園の植え込みにさしてあった植物のネームプレートよ」
彼女はか細い声で答えた。
「裏側に私が栞さんの名前を書いたの」
「ふうん。何のために?」
「病室のネームプレートを掛け替えるために」
それをして何がどうなるのか、いまいちぴんとこなかった。少し考えればすぐわかるのかもしれないけど、それも何か面倒に思えた。思考に制限がかかっている。トタン板のようなものが僕の一メートルくらい先に立ちふさがっていて、そこから先に行けないような感じ。少し押したら板は倒れるかもしれないけど、あえてそうしようとは思えない。
「あなたが殺したのは、私のお姉ちゃんよ」
細波さんは、開き直ったように僕をまっすぐに見据えて言った。
「伊佐奈栞と同じ病院に入院しているというだけで、あなたにとって、なんの関係も無い人。お姉ちゃんは、テニスの合宿の途中で倒れて意識不明になって、もう二年以上、あの状態であそこにいたの。私はそのお姉ちゃんを、伊佐奈細波の名前を騙って、あなたに殺させた」
「お姉ちゃん?」
彼女の答えに、僕は喉の奥で軽く笑った。
「そっか。あんたのお姉ちゃんなんだ」
それから、立ち位置を変え、右手で拳を作り、彼女の顔の中心――鼻の辺りを殴った。
鼻がひしゃげるとか、鼻の骨が折れるとか、そんな結果をもたらすような強い力をこめてはいない。でも、彼女の押さえた小さな手の間から、血が伝っているのが見えた。
彼女はぼんやりと、流れる赤色を眺めていた。
赤い。生きている証。ベッドの上のあの人を殺した時だって、こんな色を見はしなかったのに。
殺した? ああそうか。僕は人を、殺したんだ。なんの意味もなく。
意味? 意味なんか、別に要らないじゃないか。僕はただ、人を殺しただけだ。
ただ、誰かを殺してみたかったから、誰かを殺しただけだったんだ。
『人殺し』『クズ』『死ね』『出て行け』
貼り紙で、スプレーで、いたずら電話で、蔭口で。あんたたちがあまりにもそう主張してくれるから。『両親だけでなくおまえも犯罪者だ』と、『人殺しの息子は人殺し』だと、どこの誰かも知らないやつらがそう決めつけてくれるから。なら本当に殺してやれと、そう思った。
彼女はただ、僕の胸の内に燻っていた苛立ちに、きっかけと目標を与えただけだったんだ。
「まさか本当に――……」
開けた口の中に赤色が流れ込んだのだろうか、そこで彼女は一瞬顔をしかめた。
「まさか本当に殺すなんて、思わなかったの。あんな理由で、あんなやりとりだけで人を殺せる人がいるなんて、思わないじゃない」
「だからあんたも本気じゃなかったんだって? 今さらそんなこと言うんだ」
「……」
僕はポケットからハンカチを取り出し、部屋の隅に設置されていた給水機でそれを濡らした。軽く絞ってから、彼女に近づき、鼻血を拭ってやる。そして、
「ずるいよ」
耳の近くで、そう囁いた。
目を見開いた彼女からまた距離を取り、僕はもう一度繰り返した。
「ずるいよ。あんただって、僕と同じだ」
この世には三種類の人間がいるのだと思う。理由があれば人を殺せる人間と、理由がなくても人を殺せる人間と、どんな理由があっても人を殺せない人間。
そして僕はたぶん、『理由がなくても人を殺せる人間』だった。