表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
僕が彼女を殺した理由  作者: 駅員
2/4

第二話

 バスに揺られている間に、いつの間にか雪は降り止んでいた。

 病院の横には小さな公園があった。伊佐奈細波は、その公園のブランコに座って体を揺らしながら、


「あなたはこれから私の言うことに従うのよ。あなたには、その義務がある」


 黙って突っ立っていた僕を見下ろすように見上げて言った。


「はあ……」


 雪に閉ざされていたあの世界に、うっかり脳をこぼしてきてしまったのだろうか。思考は不明瞭なままだった。


「『はあ』じゃなくて、『はい』と返事なさい」

「『はい』」

「…………」

「…………」

「あなたは言葉というものを忘れてしまったの?」

「さあ……」


 少し考えてから付け足した。


「どうなんだろう」

「そう。忘れてしまったのね。ならそのまま忘れていなさい。言葉を使わず物を考え原始の感情に身を任せなさい。あなたの代わりに私が考えてあげるから。私があなたを決めてあげるから。あなたはただ私に従うだけでいいのよ」


 それは案外魅力的な提案なのかもしれない。


「別に……いいよ」


 僕は何をすべきかわからないし、何をすべきでないかもわからなかったから。

 目の前の少女が全てを決めてくれるというのなら、それでもかまわない。


「本当にいいの?」

「どうでもいい」

「ずいぶん投げやりなのね」


 僕の答え方が気にくわなかったのか、顔を歪めて彼女は言った。


「そんなことを軽々しく口に出すものではないわ。自分の支配権を私に委ねるということなのよ?」

「じゃあ重々しく口に出せばよかったの?」 

「実際重いわよ」


 伊佐奈細波はひたりと僕に冷たい視線をあてて言った。


「人の命が関わることなのだから」


 ギイ、とブランコを鳴らしながら立ち上がり、「いらっしゃい」と僕の前に立って言った。


 裏口のようなところから病院の建物に入る。霧の中を歩いているような足取りで廊下を進んでいくと、角を一つ曲がったところに病室があった。中に入る。部屋そのものが病に罹ったような場所だ、と思った。医療用の機材に囲まれて、白いベッドの上で、無機物と有機物が融合していた。――体からチューブを幾本も伸ばし、機械に繋がれたその人は目を閉じベッドに横たわっていた。


「これで、生きてるの?」


 後から思えば、礼を失するどころでない失言だった。だけどその僕をとがめるでなく、彼女は僕にひたと視線をあてて、「どっちだと思う?」と問うただけだった。

 「さあ」と答える僕を伊佐奈細波が見つめるので、その答えに「わからない」と付け加えた。


「私にもわからないのよ。機械に生かされているだけの人間を、はたして生きていると断言できるのかしら?」


 こういった重度の昏睡状態を、遷延性意識障害と言うのだったか。示談代行をしてくれている保険会社の人が、確かそんな言葉を口にしていた。『もし被害者の身内に会うようなことがあったら、彼らの気を害さないよう、決して「植物人間」という表現は使わないように』、とも注意されていた。


 伊佐奈細波は小さく首を振って、自分で問いかけの先を続けた。


「でも、死んでいるとは言えないのは確かよ。だって、このチューブを外せば殺人になるのですもの。死んでいる人は殺せないでしょう? 医学的には生きていて、法律の上でも生きているのよ。でも、精神的には――」

「死んでるの?」

「――精神的にも、生きているのよっ」


 顔を歪ませ、伊佐奈細波は逆切れのように甲高い声で叫んだ。涙が彼女の両の目に溜まりを造り、見る間に決壊していった。

 ああ、駄目だな。結局気分を害させてしまってる。

 ぼんやりとそんなことを考える僕の前で、涙を水芸のように溢れさせながら、伊佐奈細波は両手の拳を握った。


「お姉ちゃんには、意識があるの」


 お姉ちゃん――やはりこれが、伊佐奈栞なのか。そう断言された後でも、まだ、実感がわかないでいる。新聞に載っていた写真でしか、僕は彼女の顔を知らなかったから。

 犬を抱きかかえるようにして笑顔を浮かべていた写真の中の彼女は生気に溢れていて、目の前に横たわるこの静かなものとはあまりにもかけ離れていた。別の人間に思えるというよりは、別の存在に思えていた。


「じゃあ、僕たちのこの会話も聞こえてるの?」

「いいえ。聴覚は働いていないから、私たちが何を言おうが伝わらないわ」


 嗚咽を交えながら、途切れ途切れに彼女は語った。


「ただ、医者が言うには、皮膚に強い刺激を与えた時にわずかに脳波が反応したらしいの。でも、自分の意思では指一本動かすことはできないのよ。目も見えないし、口もきけない。もし動かしているように見えても、それはただの反射にすぎないの」


 それなのに、意識だけはあるのか。そんな状態で、意識だけがあるのか。

 伊佐奈細波は「もう行きましょう」と僕の袖を引いて、病室を出た。


 無言で元来た道を戻る。さっきの公園に帰り着き、彼女がブランコに腰掛けるのを待ってから、僕は訊いた。


「この先回復する見込みは?」


 彼女は鎖に身をもたせるように左肩をあてて、俯き加減に答えた。


「あるわよ。奇跡でも起きれば、例えば十二年後に回復するかもしれないわね」


 十二年――、その数字に、また代行人の言葉を思い出す。

 請求される損害賠償の中には『将来の介護費用』という項目があって、それは平均寿命における余命で計算されるそうだ。ただし、植物状態の患者は一般的に余命年数が短いので、うまくすれば健常人より短い年数で算出させることができる、と彼は言っていた。そしてその時に例に挙げたケースでの余命年数が、十二年だった。


 僕は彼女のつむじを見つめながら相槌し、そして言った。


「じゃあ、奇跡を信じて待つしかないね」

「待てないわ」


 僕の言葉に食らいつくように、彼女が言った。


「私は、私達は、もう、無理。もうこれ以上、無理。お父さんも、お母さんも、もうぼろぼろなの。毎日、毎日、削られて、擦り切れていくのよ」


 首を横に振り、唇の端を引き結んで、彼女は続けた。


「だから、お願い、殺して」

「いいよ」


 間をおかず答えてから、ふと気付いて付け足した。


「あんたを殺すの? それともあの人を殺すの?」


 彼女は信じられないというふうに僕の顎のあたりを見上げた。


「……あなたね、私は冗談で言ったわけじゃないのよ?」

「うん、そうだろうね」


 僕も別に冗談で答えたわけではない。


「ああ、それとも、ひょっとして、僕の両親を殺せということだった?」


 ならそれは、無理だ。二人ともまだ家に帰って来ていない。家に帰れるのは当分先の事だろう。


「いいえ、私のお姉ちゃんの、ことよ……」

「そう、わかった」

「……本気で請け負うと言うの? まだ私はあなた相手に、なんの交渉もしていないのよ?」

「交渉? それはいくら払うかとか、どうやって殺すのかとか、僕が警察に捕まった場合のこととか、そういう条件をまだ決めていないということ?」


 戸惑いを宿らせた睫毛が上下する。彼女は幾度も瞬きをしながら、僕の口を見つめていた。


「……ええ、まあ。そういうことを、よ」

「じゃあ、適当に決めてよ。お金のことも、殺害方法も、僕の身の振り方も」

「あ、あなたは――っ、あなたには私のお願いを聞く義務なんてこれっぽっちもないのよっ? お姉ちゃんをあんなにしたのはあなたじゃないわっ。あなたの親ではあってもあなた自身ではないのよっ? 間違えないでよっ」

「じゃあ、なんで僕に頼んだの?」

「…………」

「僕には従う義務があるって、あんた自身がそう思っているからだろう?」

「……そうよ」


 彼女は下唇を噛みしめながら答えた。


「家族であれば――。家族の罪は共に背負う義務があるわ」


 そして目を固くつぶって、頭を振って、それから言った。


「…………できるだけ、事故に、見せかけましょう。方法、は――」


 唇を一度舌で湿し、後は一息に言った。


「方法は――、痰が喉に詰まって窒息死したようにみせかけましょう。普段でも痰の吸引は一、二時間おきにしなくてはいけないのだけど、特に今、お姉ちゃんは気管支に少し炎症を起こしていていつもより痰の量が多いのよ。だから、溜まったら、濡らしたタオルか何かで口と鼻を塞いで、窒息させるの。痰が溜まってくるとごろごろ音が聞こえるから、タイミングはだいたいわかるわ。……タオルは、病室に何枚もあるから、それを使えばいいわ。水道は病室に備え付けのがあるし。私も、たまにそれでお姉ちゃんの体を拭いてあげているの」

「ふうん」

「――いい? あなたはお姉ちゃんと私達――つまり被害者とその家族に謝罪するため、ここを訪れたのよ。まず家族に面会を求め、それからお姉ちゃんの病室にお見舞いに行ったの。お母さんは体調を崩しているから、あなたの対応は私がしたのよ」


 一つ一つ、自分自身に確認していくように小さく頷きながら彼女は説明を続けた。


「私とあなたは連れ立って病室に向かったわ。それから外の公園に行き、二人で少しお話をしたの。ここまでは全て実際にあったこととほとんど流れが変わらないから、これでいいでしょう。それからあなたは帰る前にもう一度お姉ちゃんに挨拶をしに行くのよ。そこで私達は、お姉ちゃんの異常に気付くの。私とあなたはずっと行動を共にしていたから、お互いの無実を証言できるわ」


 今ならまだ、戻れるのかな。

 聞かなかったことにして、この子の語ることはただの悪趣味な冗談だったのだということにして、この場から立ち去ることもできるだろうか。


「あなたと私は今日初めて会った。それは事実。あなたが今日初めてここを訪れたことも事実。私とあなたが共謀してお姉ちゃんを殺すなんて、考えにくいわ」


 そうだ。もし両親を僕の人生から切り捨てるなら、僕にはまだ、その選択が許されているんだ。


 これもまた代行人に聞いたことなのだが、相続権を放棄することで、僕には賠償金の返済義務はなくなるそうだ。だから、地元での進学を諦め、どこか遠くに――誰も僕のことなど知らない場所に行くのなら、僕はこれ以上世間に追い詰められることもなくなる。


 僕には中三の秋から一年以上付き合っている彼女がいたが、僕から別れを切り出せば、たぶん引き止めはしないだろう。あの事件があって、最初の頃は親身になってくれていた彼女も、時間が経つにつれ、少しずつ、メールの回数が減り、お互いのために空けておく時間が減り、僕との距離を取るようになっていったから。


 雪を肩に受けながら自分の家の前で立ち尽くしていたあの時、僕の頭には『彼女の家に行く』という選択肢は浮かばなかった。彼女の部屋の温かい空気は、もう僕からはずっと遠いところにあった。


 ああ、もう、とうに終わっていたんだな。今更のように、そのことに気付いた。


 これまで僕の許に彼女を留めていたのは彼女の中の小さな罪悪感で。僕から『別れよう』と告げたなら、彼女はたぶん『力になれなくてごめん』と答え、それから、心の中で安堵するのだろう。


 顔を上げると、薄く開けた目でここにはない何かを見つめるようにしていた伊佐奈細波と目が合った。


 もう、いいか。


 僕は遠くを見るように目を細め、少し笑った。


「……何を、笑っているの?」

「なんでもないよ。気にしないで」

「……本気にしていないの? 冗談なんかじゃないって、言っているでしょう」

「うん、わかってる」

「本当……?」

「うん」


 僕は彼女をまっすぐ見つめ、頷いた。


「…………」


 納得したのかどうかはわからないが、彼女は小さく息を呑んだ後、言った。


「これは、あなたと私だけの秘密よ。あなたのご両親にも、このことは黙っておいて」

「わかった。――あんたの親にも?」

「お父さんもお母さんも、何も知らないわ。私の一存で決めたことよ。……知られれば、決して許してもらえないでしょうね。……お金のことは、心配しないで。うちはそれほど裕福じゃないけど、手段を選ばなければ、私にだってお金を稼ぐことくらいできるんだから」


 唇の片端を嘲りの形に歪め、


「お金なんて、あるところには、腐るほどあるんだから」


 中学生の女の子が大金を稼ぐ手段、か。彼女が何を想定しているかなんとなくわかったけど、僕はあえて何も言わなかった。


「だから、あなたが望む金額を言ってちょうだい。何年かかっても、全て払ってみせるわ」

「僕にいくら払うかは、あんたが決めて」

「命じるのは私の口だけれど、実際に汚すのはあなたの手なのよ? だから、実行犯であるあなたが、いくら欲しいのかおっしゃい。あなた自身が『これだけもらえれば殺人という罪を犯しリスクを背負う価値がある』と思える、その額をおっしゃい。それがいくらであろうと、私は出し惜しみしないわ」

「僕は決めない。決めるのはあんただ」

「……だから、いくらでもいいと言っているでしょう」


 釣り針のように曲げられていた唇の形が崩れ、そこから押し殺し損ねた叫びが発射された。


「お姉ちゃんの死がいくらになるのかなんて、わからないのよっ。私にはわからないから、だからあなたが決めてちょうだいっ」


 家族の生死に値段などつけられないと彼女は言う。

 多ければ多いほど彼女の姉の命の価値は上がるのだろうか? 少なければ少ないほど、殺人に手を染めさせることに対する負い目を感じるようになるのだろうか? 


「僕の手は、ものを考えないから」


 この手が誰の首にかかろうと、関係ない。『殺人』という行為に見合う額も、僕は知らない。

 善悪も損得も、勘定するのは僕じゃない。僕はすでに委ねている。


「決めるのは、あんただ」


 彼女は野犬に追い詰められた小動物のような瞳で僕を見上げた。


 喘ぐように開かれた彼女の口が閉ざされ、こくんと喉が動いた。


「そうね」


 唇を紅い舌で湿してから、もう一度言った。


「そうね。『私に従え』と――そう言ったのは私だったわね。そう、私があなたに言ったことだったわ。あなたの手を動かすのは――私の頭なのね」


 自身に確認するように呟いて、伊佐奈細波は一つ頷いた。頷いて、そして、


「……×××」


 歪な微笑を浮かべながら、金額を口にした。それが高いのか安いのか、僕にはよくわからなかった。


「その額でお姉ちゃんを――伊佐奈栞を、殺しなさい、竹田真」


 歪められた唇の端を、伝い落ちる涙が濡らしていった。


「はい」


 そう応えてから、唐突に少しのおかしみが込み上げて来て、僕は微笑を伴いながら付け加えた。


「仰せのままに。お嬢さま」


 目を細めて微笑み、軽く左手を胸にあて、お辞儀までしてみせる。それは自棄めいた負の衝動というよりも、一種の昂揚感だった。愉悦に近い陶酔が生まれて、僕を満たしていた。

 後から思えば、僕が切り替わったのはこの瞬間だったのだろう。カタリと、体内に螺旋状に張り巡らされたドミノの、その最初の一片が倒れる音を聞いたような気がする。


 伊佐奈細波は――細波さんは、奇妙な生き物を前にしたかのように顔を歪め、そんな僕を見つめていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ