第一話
黒いダウンジャケットの肩にパウダーのような雪がうっすらと積もっては、いつの間にか消えていく。そんな中立ちつくしている僕の体は芯から凍えているはずなのだが、頭のどこかが麻痺してしまっているのか、冷たさと熱さの境がよくわからなくなっていた。
『人殺し』『出ていけ』
端的に表わされた要求が、直接間接を問わず壁やら戸やらガラスやらに書きなぐられている。スプレーの赤や油性マジックの黒や貼り紙の白が彩る玄関の戸を、僕は鍵を手に持ったまま開けられないでいた。
二か月と少し前、僕の両親は車で人を撥ねた。
あの日、両親は上司主催の祝賀会に呼ばれた帰りで、二人とも酒を呑んでいた。父に比べれば酒量が少なかったという理由で、この夜車を運転していたのは母の方だった。
信号の無い横断歩道で、母は道路を渡っていた女性を撥ねた。酒気帯び運転の発覚を怖れた父は、助手席から母に「放っておけっ。行けっ、早くっ」と怒鳴り、そして母はその声に従ったそうだ。
女性が発見され病院に搬送された時には、すでに絶望的な時間が流れた後だった。奇跡的に命だけは助かったが、助かったのは命だけだった。
警察は、ほどなく僕の家にやって来た。それ以来ずっと、今と同じ日々が続いている。
僕が祖父と二人だけで暮らすようになって、まだ四カ月なのか、もう四カ月なのか。境目が、よくわからない。
「入らないの? ここがあなたの家なのでしょう?」
知らない声に背後から話しかけられ、僕はゆっくりと振り返った。
「風邪をひきたいの? それとも破壊され凌辱されつくしたマイホームを眺めまわすのが趣味なの? そんな嫌な趣味はさっさと捨ててしまいなさい」
サンタのような赤いダッフルコートを着た女の子が、そこには立っていた。たぶん中二くらい。少なくとも、高一の僕より年上には見えなかった。
黒い編上げのブーツに、白い手袋。――『同じ色彩だ』、と思った。赤に黒に白。僕たちを責め立て追い詰める色。
「あんた、誰」
「私を知らないの?」
彼女は一瞬目を瞠り、それから、挑むように僕を睨みつけて、言った。
「伊佐奈細波。あなたの両親に殺された伊佐奈栞の妹よ」
「ああ――、あんたが」
納得する。その視線の意味も。
僕は葬儀への出席を許されなかったから、その名は耳で聞いただけだったのだ。
ただ、彼女の言葉は、正確に言えば少し違った。伊佐奈栞は回復の見込みのない植物人間状態であって、死んだわけではない。だから殺したわけではない。――そう言おうかとも思ったが、やめた。その行為には何の意味もないこともまたわかっていたから。
「何の用ですか」
僕は平坦な声で言った。抑揚のついた声の出し方はもう忘れてしまっていた。
彼女は何のために来たのだろう。謝罪を要求に来たのだろうか。それとも恨み事を言いに来たのだろうか。赤と黒と白を身に纏う彼女は、確かに貼り紙の主たちより何百倍もその色にふさわしいだろう。僕の両親が車で伊佐奈栞を撥ねた後、その場から逃走したりしなければ、もしかしたら彼女は助かっていたのかもしれないのだから。
「帰る家の無いあなたを迎えに来たのよ、家なき子さん」
目の前の少女は、僕の想像のいずれでもなく、意味のわからないことを口にした。
「僕の家は――」
僕の家はここだと、そう反論しかけた僕の声は喉の奥で途切れた。
僕の家は――ここなのか?
自分の名字を目で探してみたが、表札はいつの間にかはがされ割られていた。
諦めて目を戻すと、少女は郵便受けに突っ込まれていた葉書を勝手に抜き出していた。そして無造作に一瞥した後、それを地面に捨てた。
『オマエガ死ネ、コノヒト殺シ』
そこに書かれているのは、いつもと同じ内容だった。台所の机の上にも、これと同じような差出人不明の葉書が山のように積んである。
「入ることすら躊躇う家を自分の家と呼べるなら、一人でここに居続けなさい。そうでないのなら、私と共にいらっしゃい」
彼女の芝居がかった物言いを奇妙だと思うべきなのかもしれないし、その発言の唐突さや不可解さやらに何らかの感情を抱くべきなのかもしれない。だけど雪が降っていたから――。雪が途切れることなく降っていたから、全ては白く霞んで、思考は霞みの向こうだった。
「ついてらっしゃい」
ポケットに両手を入れてその場でくるりと踵を返し、彼女はさっさと歩いていった。
僕は手に握ったままだった鍵を玄関の鍵穴に挿そうとして、でもかじかんだ手は銀色の小さな鍵を取り落してしまった。僕の手はあまりに不器用になっていて、だから代わりに足を動かすしかなかった。僕は彼女の背中を目指して歩き、そのままバスに吸い込まれ、排出された先は四つ隣の町の病院だった。