1.8 桜花の丘にて
――夢で起きた。
「……え?」
それは見知らぬ筈なのに覚えがある場所。はっきりした意識の中で由紀はただ佇んでいた。足をつける大地は何処までも続く新緑の平原。頭上に広がるのは遥か果てまで続く、雲一つ無い澄み切った紺碧の空。そして由紀の視線の先に立つのは、
桜色の花びらを舞い踊らせ満開に咲き誇る、一本の巨大な大桜。
――『神城の大桜』。
「……違う」
似てるけれど、違う。幹の形、枝の形、シルエットや佇まい、巨大な神木が纏う独特な雰囲気までも、そっくりなのに、決定的に違うもの。
「なんで、この子……満開に?」
それは由紀が結実との待ち合わせの間に想いを馳せた、『神城の大桜』の最上の姿。鼻腔をくすぐるは、この上なく甘く高貴な芳香。
匂いに刺激され、ようやっと由紀は我に返る。そして混乱して辺りを見渡す。
「ここ……なん、えぇ。ど、どこ……??」
どこまでも広がる雄大な草原。桜の花びらを舞い踊らせる暖かな風。そして見上げるは、何よりも深く澄んだ蒼空と、そこに浮かぶ真っ白な雲。
由紀は訳が分からなかった。――此処は何処で、自分は何故ここに?
必死に整理して考える。目を覚ますまで、自分は結実を待っていたのだ。場所は神城神社の奥、『神城の大桜』の前。時刻は真夜中、結実の誕生日まであと数十分も無い頃。
なのに、この景色。こんな場所桜美丘市に無ければ由紀の思い出にある景色でも無い。なんだったら、何処か別の国のようにすら見える。
なのに、何なのだろうか、このどうしようも無い既視感は。
唸って、考えて、そして思い出した。
「――あの、夢の場所だ」
今朝に見た不思議な光景。不思議だったけど、掴みどころが無くて、そのまま忙しさの中に消えていった、一抹の夢。
どうしてすぐに思い至らなかったんだろう。先程まで寒空の中に居て、気がついたら知らない場所。こんなのどう考えたって夢を見てる真っ最中ではないか。
誰に見られるわけでも無く、由紀は一人顔を赤くする。夢の中で一人勝手に慌てふためいて、何をしているんだろう。
恥ずかしさを紛らわせるように深呼吸をして、由紀は辺りを見回し、歩き出す。
夢だということは分かったけれど、新たな疑問が浮かぶ。
リアルすぎるのだ。目に映る光景も、肌を撫でる風の感触も、この大きな桜の香りも。
すぐに夢だと気づかない自分を諫めた由紀だったが、自覚してもなお、現実との見分けがつかない程全てが明瞭だ。
「……こういうの、明晰夢……って言うんだっけ?」
博識な同級生から聞き知った言葉。自分が今夢を見てると自覚した上で、こんなにもはっきりと意識を保って歩いたり見回したり、考えたりできるなんて、由紀には初めての経験だった。
「――なんか、不思議な感じ。……だけど」
――これ、どうやって目覚めるの?
試しに自分の頬に手をやる。由紀の桃色の艶やかな肌は触るとふにふにと非常に柔らかく伸びるので、結実や優香里に大層気に入られ事あるごとに触られ、撫でられ、揉まれ、つねられたものだった。
由紀はその頬を自分自身の指で挟み、ぐいぃと横に伸ばしてみた。涙が滲む程に引き伸ばしてみるも、ただ痛いだけで何も変化は無かった。
「……ど、どうしよう、これ。今僕って居眠りしちゃってるんだよね?」
時間の感覚は分からないが、これが夢なら現実の自分は約束の時間を前にして眠りこけている事になる。元々由紀の眠りは深い。一度眠れば決まった時間まで強く揺り起こそうとも中々起きる事はなく、それは結実も知るところであった。
――大事な話があるっていうのに、僕ったら。
こうしてる間にも結実は隣で自分が起きるのを、気を遣ってひたすら待っているのかも。結実の困り顔が思い浮かび、由紀は必死に起きようと顔を叩いたりしてみる。
それでも変化は、無い。
由紀が途方に暮れていると、それは唐突に聞こえた。
『――――――――やっと』
「…………え?」
何かの声だった。声色も分からない、心に響く声。
『――――――――――わたしから』
再び聞こえた。あの桜の向こう側の方からだ。
妙な感じだった。「やっと、わたしから」? 音としての言葉ではないが、ひたすらに文字列として由紀の頭の中に浮かぶような。
不思議に感じつつも、由紀は声の方へと歩み寄る。その最中、ぼんやりと思い出した。
「この声の感じ、夢の最後でも……」
今朝の夢が終わる時に聞こえたもの。その時は意識もおぼろげで、その声を発する主を見る事も叶わなかったけれど。
『――――――――――あなた』
聞こえる! ずっとはっきりと。
「あの、そこに居るんですか!?」
思わず声を上げながら桜の丘を越える。
そして、由紀は見た。
「――――――――――」
白い少女が、居た。
白い、というのは比喩表現ではない。本当に真っ白なのだ。顔も、肌も、腰まで届く髪も、恐らく着ているらしいワンピースも。全てが真っ白な人型。まるで白い紙から等身大のシルエットを切り出してそこに立たせているかのような、異様な出で立ち。
思わず息を呑みそれを凝視していた由紀は、ある事に気づく。少女の首元から、サラサラと光の粒子のようなものが零れ落ちていた。それは風に舞う桜の花びらと空中で合流し、辺りを桜色の淡い光で照らしている。夢の世界において輪をかけて幻想的な光景だった。
『――――あなた』
「!」
これまでで一段とはっきり、大きく聞こえた。やはり声の主は彼女だ。
「……僕を、呼んでいたんですか?」
『――あなた』
返答ではない、ただ「あなた」。しかし由紀には分かった。単調に頭に響く単語に強い感情が込められている。心の奥底から絞り出し、訴えかけるような。
そして由紀は白き少女をしかと目に捉え、思い至った。自分でも今更と呆れてしまうくらいに当然で、自身を求めてくれるだろう存在の事を。
「…………君、もしかして、ゆ――――――」
『わたしのもの』
――ズドン!
「――え?」
由紀が思わず彼女に駆け寄った事が、結果的に彼を救っていた。振り返ると、つい一瞬前まで由紀が居た場所には、白く大きな手のような塊が、地面を握り抉っていた。その腕は空中から伸びていて、桜の花びらと光の粒子に紛れて薄く長く、ぐるりと周りを囲うようにして、白い少女の背中へと繋がっているようだった。
『わたしの』
少女の音無き声に呼応するように、彼女の背から次々に白い手が生まれ、うねうねと蠢き始める。辺りを覆い尽くす様に広がるそれらを携えた彼女は、まるで無数の翼を持つ天使のようにも見えた。
およそ人ではない、不思議で、何処か神聖で、そして悍ましい、「ナニカ」。
「……なん、なに、コレ」
由紀は目の前の光景に只々戸惑い、呆然としていた。
『わたしのよ』
それに応えるように少女は自らの両手をゆっくりと由紀の方に掲げた。それに従うように、背中の手達もゆっくりと由紀の方へ。
そして、少女はゆっくりと歩を進め、由紀に近づいてくる。
「…………あぁ、あ」
由紀は、身動きが出来なかった。金縛りにあったように、次第に次第に近づく少女と手を見つめる事しかできない。
首筋に当たる部分から零れる粒子を纏いながら、少女は歩く。やがて手を互いに伸ばせば届くほどの距離に近づいた少女は、凍り付いたように固まる由紀に、しかと顔を向けた。
目も鼻も無い口だけの、のっぺらぼうの少女は、
『――おいで』
赤い口をニィっと広げ、笑った。
「――――っ!! あぁああああああああああ!!!!」
それを見て電撃が走ったように由紀は桜がある方へ逃げ出した。
何も分からない。アレは何なのか、この夢は何なのか、何が起きているのか。
分からない。分からないけれど、由紀には直感で分かった。
――逃げなきゃ!
怖い。分からない。怖い。誰。何。
半狂乱になりながら由紀は必死で走った。あの桜まですぐだ。あそこまで走って丘を越えれば、もしかしたら助かるかもしれない。何の根拠も無いし自分が何故そんな風に考えたのかも分からない。
しかし今の由紀に走って逃げる以外の事は考えられなかった。あの巨大で美しく、自身の親しみ深い「あの子」に似た桜まで逃げれば。
――ズドン!
そんな由紀の、藁にも縋るような願いは、背後から伸びてきた無数の巨大な手によって文字通り粉砕された。由紀が向かった先の桜は少女の手によってその幹を大地ごと貫かれ、耳障りに軋む音と共にゆっくりと倒れる。
「――ぁあ、あああ…………!」
それを絶望の表情で見つめる由紀に、桜の崩落による衝撃波が襲う。吹き飛んだ枝の一本が由紀の頬を掠め、細い傷となって血を滴らせた。
――痛い。
傷は大したことない。だけどそれ以上に、自分が感じた痛みに恐怖した。
夢の筈なのに、全部自身の無意識の妄想の筈なのに、現実のようなこの痛み。
「覚めて。……お願い、もう、嫌」
最早由紀はうずくまり、ひたすらそう願うしか無かった。痛みと恐怖、絶望が由紀の小さな体に覆い被さっていた。
『――――今度こそ』
由紀の恐怖の根源は無情にも、再び由紀の前に立っていた。脂汗と共に歯がカチカチと鳴り、恐ろしさの余り涙が滲む。
由紀の周りに白い手が集まる。今度こそ逃がさないつもりなのだろう。
観念したように由紀は目の前の少女を見つめる。由紀の黒い瞳と少女の形の無い瞳が重なる。
『――あぁ、やっと』
少女の声が響く。単調なように聞こえるその声は何処か歓喜に満ち、幸せに震えるような、不思議な色があった。
しかし、既に精神が極限状態にあった由紀は、心の自己防衛が働いているのか呆然自失となり、意識が途切れかけていた。
――僕、どうなっちゃうの、僕。
このまま気を失えば夢から覚める事ができるのだろうか。それとも――。
「………………結実」
白い少女の両手が由紀の身体を包もうと触れる、
その瞬間だった。
「――――――――っ!!!」
少女の身体が由紀から離れていた。
「……え」
由紀の両腕には、未だに少女の両手が。両方とも二の腕の先からすっぱりと両断され、由紀の方に置いたまま吹き飛ばされていたのだった。
『――――あああああああああああああああああああああああああああああああああ』
世界を引き裂くような、甲高い絶叫と共に白い少女はのた打ち回った。同時に由紀の身体にくっついたままの手は力を喪ったように砕け、光の粒子となって辺りに舞い散る。
「……何、が」
その場にへたり込む由紀は気づく。いつの間にか辺りの景色がピントを外したようにぼやけ始めている事に気づく。今朝に見た夢と同じ、この世界の終わりを示す合図だ。
そして、由紀はもう一つの事に気づいた。
――誰かが、居る。
首筋と両の腕から大量の光の粒子を撒き散らす白い少女。怒りと慟哭を現す様に巨大な手を崩れゆく空に広げるその異形の彼女から、由紀を守るように佇む、黒い人影。
後ろ姿なので顔は見えない。しかし、ほっそりとしなやかな四肢に長い髪からどうやら女性らしかった。
「――あの」
次第に朧げになる視界の中、由紀はどうにか意識を保ちながら呼び掛けるも、返事はない。そのままその黒い人影は、崩れる世界が更に歪む程の勢いで、白い少女の眼前へ躍り出た。
長く美しい桜色の髪をたなびかせて。
『――――――なんで』
白い少女の声が響く。さっきと違い、怒りに滾り、あるいは悲壮に満ちた色の叫び。いつの間にか再生させた両の腕を掲げ、背中の巨大な手を桜髪の少女に向けて振り下ろす。
彼女はそれを舞い踊るように躱し、手から何やら光の弾のようなものを無数に打ち出し、少女の手を粉砕していく。
『――――――――どうして』
砕かれた手達は瞬時に再生されるも、それを上回る速度で消し飛ばされていく。やがて白い少女の背中に手は収束し、巨大な六対の翼となって少女は飛び上がった。
桜髪の少女は、逃がさない、という風に地面を蹴り上げ飛翔する。今度は白い少女の翼から放たれる光弾を次々と躱し、前へ、前へ。少女の眼前へ。
『――――――――――なんでなんでなんでなんでなんで』
絶叫が世界に響き渡る中、白い少女の翼十二枚、全て中空にて砕かれていく。錐もみになりながら拳を振るう、桜髪の少女の手によって。
白い少女が地面に叩きつけられた衝撃は由紀の方にまで及び、由紀の視界に火花が飛び散る。既に気を失いかけていたが、倒れかける体を無理に起こして、彼女達の方へ向かう。
桜髪の少女は白い少女の両腕を踏みつけるようにして立っており、手には淡く光る細長い何かを持っていた。それをゆっくりと、祈るように胸の前に掲げ、先を真下の白い少女へ。
『――――――――――――――――なんで、なのよ』
微かに響き渡った、白い少女の哀し気な最後の声。
それに応える言葉は、初めて聞く桜髪の少女の言葉だった。
「――――――――それが、約束だから」
夢の世界は、もう殆ど消えかけていた。
青く澄んだ空は灰色に白け、何処までも広がる新緑の草原は何時しか枯れ尽くしたようにセピア色がかっている。豪快に倒れた巨大な桜の木も、姿を消していた。
――やっと、目、覚めるんだ。
由紀は安堵したような、しかしどこかぽっかりと心に穴が開いたような、不思議な感覚の中に居た。恐怖や焦燥から解放されはしたが、何か――――。
「…………ごめんなさい」
「――っ」
不意に聞こえた少女の声。自身を助けてくれた、あの黒い人影の人だ。
いつの間にか由紀の目の前に居た彼女は、何事か呟いている。よく聞き取れない、と身を寄せると、ふいに由紀の身体が温かく柔らかいものに包まれた。ふわりと香るのは、甘く高貴で優しい、『あの子』の匂い。
――あれ?
「……巻き込んでしまってごめんなさい。怖い思いをさせてしまってごめんなさい。あなたの――奪って――なさい。――を守れなくてご――なさい」
一瞬耳元ではっきりと聞こえた言葉は、謝罪だった。それも次第に薄れていく。
――お礼を言わなきゃいけないのは、僕なのに。
何故謝っているのだろう。礼と疑問を伝えようにも既に口が動かない、感覚も無い。
ただ伝わってくるのは、彼女の言葉の響き。どうしようもない程の悲壮に暮れ、泣きだすのではないかと心配になるくらいに震えた謝罪の言葉。
「……だけど、もう大丈夫――――――」
いよいよ、由紀の意識は消える。その最後の瞬間に、彼女の朧げな顔に、光を見た。
「――――あなたの『幸せ』は、守るから」
佐倉由紀は、目を覚ました。
「――はぁ、はぁ………………はぁ」
呼吸が、上手くできない。動悸も極めて激しい、張り裂けそうな程だ。過呼吸のようになっているようだった。必死に深呼吸を繰り返し、どうにか落ち着きを取り戻そうとした。
「……夢、見てたんだよね」
ゆっくりと息を吸い、吐く事一分。どうにか平静を取り戻した由紀は、辺りをこわごわと見つめる。
場所は神城神社の奥、『神城の大桜』の元で変わりなかった。自分が意識を失う前と同じ、何の変哲もない。
はっと携帯電話の時刻を確認する。液晶の画面に表示されたのは、「午後十一時五十五分」だった。
信じられなかった。自分が眠ってから三十分と経ってない。
ついでにカレンダーも確認する。……三月十四日、こちらも変わりない。
「…………………………」
本当に夢、だったのだ。何処も痛くないし、服も土で汚れたりして無い。
なのに、何故だろう。あのリアル。
「……結実、は?」
まだ来ていなかった。未だこの場所には、由紀ただ一人。
約束の日に日付が変わるまであと五分。彼女にしては遅めだが、遅刻と騒ぐほどでもない。きっと、今に神社の方から駆け寄ってくるに違いない。
なのに、何故だろう。この胸騒ぎは。
「――――結実」
何故か先程よりも冷たく、恐ろしく感じる空気を肌に感じながら、由紀は呟く。
「……結実、早く、来て」
三月十五日、午前零時。
結実が死んだ。




