1.6 夢と約束
――夢を見た。
それは見知らぬ場所。薄ぼんやりとした意識の中で由紀はただ佇んでいた。足をつける大地は何処までも続く新緑の平原。頭上に広がるのは遥か果てまで続く、雲一つ無い澄み切った紺碧の空。そして由紀の視線の先に立つのは、
――桜色の花びらを舞い踊らせ満開に咲き誇る、一本の巨大な大桜。
息を吞む程に美しい光景だった。しかし由紀の記憶の何処にもこんな景色は無い。これ程までに広大で青々とした平原も、これ程までに深く蒼い空も、目の前にある桜も。
――夢、なんだ。
そう由紀が認識するや否や、周りの世界はぼやけ始める。空も大地も桜も全てが白く染まっていく。再び混濁する意識の中で、それは唐突に聞こえた。
『――――――――り、ついて』
何かの声だった。声色すら分からない、心に響く声。
『――――、――るために』
続く声も、上手く聞き取れない。既に視界も意識もほぼ消えかけている。
『わたし――、――――て』
最後の刹那の言葉、それだけは由紀の頭にはっきりと伝わった。
『――ここで、待ってる』
三月十四日、午前六時四五分。
再三に渡る目覚まし時計の呼びかけで由紀は漸くベッドから飛び起きた。盛大な寝坊だ。
「なぁ……? なんでなんで。あぁ!」
一人盛大に喚き、由紀は半狂乱で支度をする。朝食、弁当作りもそこそこに、跳ねて飛ぶように佐倉家の玄関を潜り走った。
「いってきまーーーーーす!」
昨晩見た夢の記憶は、すぐに霧散してしまった。
いつもとほんの少し違う朝。それは由紀だけではなかった。
「――っ! ゆーー、ちゃん!!!」
どうにか電車に間に合いそうだと息を整えながら歩く由紀の背後から、馴染み深い声がとんでもない圧をもって、それも全身を使った全力のハグを伴ってやってきた。
「――っ!? うわぁぁあぁぁ!!?」
神城結実の、普段では考えられない程の大声に吃驚した。力強く抱きしめられる感覚と頬擦りされた際の肌の感触と温かさ。鼻をくすぐる彼女の、ふんわりした栗色の髪が放つ甘く香しい匂いに心臓が激しく高鳴った。
「――っ、おーーはよっ!!」
「ゆ、ゆゆ、結実! お、ひゃよう!」
元気すぎる結実の挨拶に思わず由紀も素っ頓狂な言葉で返事をした。恐らく家からここまでずっと走ってきたのだろうか。愛らしく笑う彼女の頬は紅潮しきって、小さな口からは白い息が漏れていた。そこまでであれば、ただ機嫌が良く元気なだけだったのだが。
「――えええ、と。結実! 何か全身、ボロボロなんだけど……!?」
一呼吸おいた後、改めて結実を一瞥した由紀は愕然とした。ニコニコしている彼女の目元には昨日より濃い隈が出来ていた。顔色も悪い。セミロングの髪はボサボサであちこち寝癖が発生しており、それを由紀が貸したままにしていたマフラーを雑に巻く事で誤魔化している。制服も皴だらけのヨレヨレで、満身創痍を体現したような有様だった。
「――に、ひひー。げ、ゲームをね。ついやりすぎちゃったの。て、いうかゆーちゃんこそ凄く眠たそうな顔だよ? よく寝られなかったの? 大丈夫?」
「僕は別に。その……ちょっと寝坊しただけ」
「……僕の方は良いから。自分の事気にしてよ……もう」
結実は「ふへへ」と恥ずかしそうに笑いかけた後、ボーっとした眼差しを由紀に向ける。心配そうに顔色を窺ってくる彼を自身の瞳に映す事数秒。結実はフラフラとした足取りで近づき、何の前触れも無く由紀の小さな身体に寄りかかる様に抱きしめてきた。
「――っ! 結実!?」
「………………ぅー」
「……あ、の。体調あんまり悪いんだったら。今からでも休んだ方が」
「ん。少し立ち眩みしただけ。えへ、由紀ちゃんの身体今日も温かくて良い匂いする」
「――もう!」
顔を真っ赤にしながらも由紀はどこか安堵した。からかう元気はあるらしい。しかし妙に、何というか、様子がおかしい。関係ありそうな事といえば、
――昨日の後、結実になんて連絡したの? 優香里姉ぇ。
「……ちゃんと執り成してくれたんですか? 会長」
「いや、ちゃんとも何も、普通に電話はしたけどさ」
その日の結実は、やはり全体的におかしかった。機嫌が良い、という言葉だけでは表せない程テンションが高く所謂『ハイ』になっているような状態だった。常にニコニコと笑って喋り騒ぎ、結実のクラスメイト達も若干引く程の浮かれようだったらしい。この昼休みに、およそ一ヵ月ぶりに生徒会役員全員が揃ったのも、結実が「皆でご飯食べたい! 由紀ちゃんのお弁当食べるの!」と、言って聞かなかったからだった。結実は由紀の弁当を「美味しい、美味しい」と心底幸せそうにかき込んだと思えば、唖然とする他三名に一方的に喋り倒し、取り分け隣に座る由紀に積極的なスキンシップを図ろうとする始末だった。真っ赤になって振りほどく由紀も困惑するしかない。早々に昼食を終えた今は一人賑やかに部屋の掃除を始めてしまった。
鼻歌まじりに本棚の整理を始める結実をよそに、三人はヒソヒソと話し合う。
「……優香里姉ぇ、本当に誤解解いただけ? 余計な事言ってない? まさか」
明人だけでなく由紀にまで詰められた優香里は、うぅんと唸って思い返す様に呟く。
「だから、んな野暮な事しないって。用件だけ話してとっと切ったよ。……そん時はボソボソ返事するだけであんなんじゃなかったんだけどなぁ」
「ずっとあの調子だから、真面目な話し辛くて……明日の事話さなきゃいけないのに」
「いや、それは早くしろよ。お前何やってんだ」
「……ホワイトデーのお返し。貰ったり返してたりしてたから。二人きりになれなくて」
由紀は恥ずかしそうに顔を赤らめる。呆れたように優香里と明人は溜息をつく。
「この節操なし……」
「今回くらい見送れよ、由紀。お前結実ちゃんの――」
「仕方ないんですよ、優香里先輩。ゆーちゃんモッテモテなんだから!」
ヒソヒソ話す三人にいつの間にか近づいていた結実が背後から由紀に抱きついてきた。飛び上がる由紀達の顔をクスクスと心底面白そうに笑いかけ、時計を指差す。
「もう、皆がコソコソしてる間にお昼終わっちゃうよ。お掃除できたし私、先行くから」
返事も待たずに慌ただしく結実は部屋を出た、と思えばくるりと向き直り由紀に言う。
「そうそう、ゆーちゃん! 今日部活休みだし一緒に帰ろ! 校門で待ってるから」
「え……う、うん! わかった」
早く何とかしろよ、と言わんばかりに他二名に小突かれる由紀をよそに、結実はどこまでも調子外れな溌溂ぶりで笑いながら駆け抜けていった。
授業が終わった放課後。オレンジ色の夕日が照らす桜美丘の住宅街、由紀と結実は帰宅の途についていた。相変わらず機嫌良く鼻歌交じりに歩を進める結実とは対照的に、由紀は内心焦っていた。まだ明日の結実の誕生日祝いの約束が出来ていない。
――早く、約束しないと。
いざ面と向かった時の恥ずかしさもあったが、何故かこれでもかという程テンションが高い今の結実に言ったところで真面目に取り合ってもらえない心配があった。しかし、
――言わなきゃ。告白するって決めたんだから。
意を決した由紀は「あの」と、隣を向く。だが、そこに結実は居なかった。
「――――――――由紀」
いつの間にか結実は立ち止まっていた。沈みかけて赤みが増した夕日が後光のように彼女を照らし、その表情は暗く由紀からは良く見えない。ほんの少し緊張を混ぜたような上ずった声が続きの言葉を紡ぐ。
「今日の夜、ね。零時に神城神社に……『あの子』の所に来てほしいの」
「……え」
『あの子』。
――『神城の大桜』。
「由紀と私以外誰も来ない、二人きりで。とっても大事な事、伝えたいんだ」
思いがけず、先に誘いの約束を受けてしまった事に由紀は一瞬たじろぐ。だが、
「……来て、くれる?」
不安そうに揺れる彼女に返す言葉は、当然決まっていた。
「――うん、絶対行く!」
真剣な眼差しで答える由紀に、結実は笑みを浮かべる。その顔はやはり夕日のせいで見えないままだったが、彼女の嬉しそうに弾む声色でその心情は十分伝わっていた。
「ありがとう、由紀。私、必ず行くから。……待っていて」




