1.3 佐倉由紀の憂鬱②
二月十四日、バレンタインデーの日だった。
オレンジ色の夕日が桜美丘の街を、そして佐倉家のリビングを照らす頃。由紀は自分の心臓が止まるような事態に直面していた。
その原因の一つ、それは自分を床に押し倒し、眼前にまで顔を近づけてきた優香里である。
「……………………ゆ、か」
由紀は余りの事に硬直しきってていた。例えどれだけ長い付き合いで親しい間柄であっても異性である以上、何も感じないわけはなく、ましてそれが多くの人間が憧れる程の美貌を誇る彼女なのだ。鼻先が触れそうになり、まつ毛の本数が数えられるほど近く、互いの唇が触れるまで数センチもない。
もしも他者がその場にいて、後ろから二人を見たならば、熱烈な抱擁とキスをしていると誤認されかねない状態だったのだ。
だというのに、
「…………」
由紀を押し倒している当人、優香里の方はその状態に微塵もたじろいでいない。どころか、何処か楽しんでいるような、何かを期待しているような、そんな不思議な感情を微笑みに乗せ、眼下で顔を赤くし縮こまる由紀を薄目で見下ろしていた。
窓から射す夕日の陽光が淡く優香里の姿を、顔を照らす。普段の勇ましく凛とした『姉』の姿はそこには無く、久しく感じていなかった美しく色香を漂わせる『女性』としての泉優香里。
そのような状況、そんな彼女の顔に思わず見とれてしまったのもあって、由紀はもう一つの、致命的な存在に気づくのに遅れてしまったのだった。
自身と優香里の身体の合間から見える、玄関から伸びるリビングのドア。半開きになったところから醸し出される確かな殺気。
「…………ぁ」
その恐ろしいほど冷たく暗い雰囲気を持った視線の主。それが由紀の心臓を数瞬は確実に止めて、それどころか寿命を十年は縮ませたであろう原因のもう一つ。
「――――――――――――」
部屋を照らしていた筈の夕日の暖かな橙色。それすらどす黒く塗りつぶすようなオーラを発している、と錯覚させる程の、神城結実の姿だった。
その日の、そこから先の事はあまり覚えていない。だがそれが三者の間に深い溝を落とした。
結実の様子は基本的に何も変わらない。タイミングが会えば今朝のように由紀と共に登校し、他愛もない話で笑い、一緒に居てくれる。
――バレンタインのあの日、何がどうして優香里とああなっていたのか、何をしていたのか。何故、何故。
何も聞いてこないのだ。由紀に感情的に問い詰める事も無ければ、何んとなしに聞き出そうともしてしない。
それどころか、由紀があの日について言及、釈明しようとすると、
「あ、今日クラスの用事あったんだった。じゃね、由紀ちゃん」
「そうだ、部活の掃除当番忘れちゃってた、いけない」
「あっ、今日始まるアニメの録画してなかった、帰らないと!」
などと、あからさまにそれを避けて、由紀の前から身を隠してしまう始末だった。酷い時には丸一日由紀の前に姿を現さない事もあった。
結実はふんわりした雰囲気に反して勘が非常に鋭い。由紀が「今日こそは」と内心で身構えただけで、まるでそれを予期したかのような挙動を取るのだ。
もう一人の当事者たる優香里も様子がおかしい。表向きは普段通りであっても、あの日から極力結実と顔を合わせず、それどころか同じ空間に居合わせないように振る舞っている節がある。生徒会室で集う事も減った、生徒会長なのに。
今朝のように、互いの都合柄避けようが無い状況に陥ると、結実と優香里、どうしようもなく空気が重くなり雰囲気が死ぬ。傍から見た赤の他人が「ずぅぅぅん」という黒い文字が見えそうな程に。
それに対し由紀はどうしようもない。原因が自分にあると分かっていても、どうすれば良いのか分からない。ただ慌てふためくか、先のように逃げ出すばかり。
それが、佐倉由紀、神城結実、泉優香里を取り巻く、『不幸せ』な状況だった。
「……そんで、そのままもう一ヵ月。朝の睨めっこみたいな事続けてるんだ、二人とも」
「……見てたなら声かけてよ。明人」
「えー、無理無理。俺の手に負えんよ、あの空気は。にしても今回は特に長いなぁ」
生徒会室にて、由紀に明人、と呼ばれた長身の男子生徒は白飯を頬張り、少し呆れたように苦笑した。対して由紀はどんよりとした空気で、溜息をつきながら箸を動かす。
夏目明人は現在高校の生徒会副会長を務めている生徒で、由紀にとって一番の親友だ。結実や優香里に対しても親しい仲であり、時折発生する由紀達のトラブルにおいて、いつもなら仲介役として合間を取り持つ苦労人だった。
明人は元々この辺りの出身ではない。由紀が中学2年生の時に関東の都会から引っ越してきて、同じクラスだった事もあってそこから由紀と親しくなった。
由紀は自分にとって一番近しい間柄の同性である彼に友人として深く信頼するとともに、「かっこいい男の子」として密かに憧れを抱いていた。背が高くて、女の子受けもする端正な顔立ち。勉強は少し苦手な所もあるけれど、スポーツは見た目通り万能も万能で、同じ剣道部の優香里からも認められるほどであった。
何より、初対面から由紀の事を「そういう目」で見ず、一人の男性の友人として扱い、傍に居てくれたことが由紀にとって頼もしく、嬉しかった。
だから今回の件でも、とりあえず明人は自分の側に立って事態を収める支えになってくれると由紀は半ば期待していた、のだが。
「……まぁ、卒業式も無事終わったし、あと二週間も我慢すりゃ春休みだし俺は別に良いんだけどさ。もーいい加減に何とかしてくれないと流石に気まずいぞ?」
「分かってる。分かってるんだけど。優香里姉ぇの方は兎も角、いっつも大人しい結実まで、何か今回は妙に意固地、というか。取り付く島もなくて」
「……んー。結実ちゃんが大人しい、ねぇ。まぁ、普段はそう被ってるけど」
「被ってるけど?」
「何かあったら分かりやすく怖い、今みたいにな。……オーラ出てる」
明人はそこで思い出したかのように苦い顔をする。
「そうだよ昨日なんか、新聞部の連中に絡まれたぞ、俺。一番身近に居て聞きやすいからってさ。今回関係無いからシラネエっつっても聞かないし」
「うぇ……そっか。それはその、ごめんなさい」
想像以上の長い此度の「冷戦状態」に一番参っているのは由紀自身だった。舞之宮高校は地方では随一の進学校で、通う生徒も品行方正で大人しい子が大半を占める。しかし一方で十代半ばから後半という最も多感な年頃である以上、学校で広まる噂やゴシップ、取り分け色恋沙汰に関する話題には誰もが大小少なからず心惹かれ、ついつい興味本位に良くない気配を漂わせてしまうのだろう。
そしてそもそもの話、当事者達全員……取り分け由紀は元より目立つのだ。
「まぁどの道、由紀の恋愛事情なんて全校生徒は勿論、先生達すら気にしてるところだろうから。……お前、男なのに学校の誰よりも滅茶苦茶可愛いもん」
若干語尾に苦笑を含んだ、からかうような声だった。
「……怒るよ」
ふくれて睨んで見せる由紀の容姿は、高校一年生の男子としては余りにも可愛らしく清純な少女そのものであった。ショートカットの跳ねた黒髪は艶やかで、大きくキラキラと輝く黒色の瞳はじっと見ていると吸い込まれそうな程美しい。血色の良い健康的な肌はサラサラで見るからに触り心地が良さそうで、異性は言わずもがな同性である男子達にも何か、情熱的な感情を抱かせるような不思議な存在。
『由紀君はね、まごうごとなき男の娘なのだ!』
とは、小学校時代からの同級生の談。
本人の強いコンプレックスでもある150cmに満たない低身長や身体的成長の遅さも外見の魅力に拍車をかけている。大概の人は由紀に相対すれば彼を見下ろす形になり、また彼から上目遣いで見つめられる事になる。中性的どころではない女性的な愛らしい顔に、線の細い華奢な体躯。ピンク色のぷるんとした唇から発せられるのは未だ声変わりが来ていない、高めで愛嬌のある声。そんな魅惑的な様を、本人としては全く意図せずに振りまいているのだから、入学から1年、嫌でも校内で注目を集めることになった。
それに加えての、この騒動。他生徒からすればただの痴話喧嘩にしか見えなくとも、由紀本人にとっては泣きたくなるくらい深刻な問題であった。
「……少しはマシになったけど。結実、まだあんまり話したり会ったりしてくれないの。登校の時と、声楽部がお休みの時の下校。……後はお弁当箱の受け渡しの時くらい」
「優香里さんの方も似た感じ?」
「……うん。家にもあれ以来、来てない」
何時しか由紀は箸を置き、僅かに残った弁当を横にスライドさせ弱弱しく机に突っ伏していた。「食べないならもらっていいか?」と断りを入れる明人に軽い頷きで返事を返した。
「不思議だけど、喧嘩しても飯はお前にねだるんだな、二人とも」
「どっちも料理好きくないから。……それに、二人とも凄く喜んでくれるから」
ほんの少しだけ誇らしげに答えた後、由紀は再び元気を無くし、机に突っ伏す。1か月もずっとチクチクと刺すような空気の中心にあって、もう限界のようだった。
――仕方ないな。
こういった人と人の気持ちと関係のトラブル、取り分け恋愛絡みの話に無関係の者が余計な茶々を入れるべきではない。例え悪意なくとも、少女漫画の読むがごとく興味本位で覗き見る事すら下品なのだ。
明人はそういう気持ちで、今回は3人に任せて静観するつもりだった。だが同時に、目の前で本当に苦しんでいる親友を見捨て続けられる程、薄情でもなかった。
「由紀さ」
「……何?」
「――結実ちゃんの事、ちゃんと好きか?」
「へ!?」
虚ろな表情が一転、由紀の顔がさっきよりも赤く染まる。
「神城結実の事、愛してるかって聞いてんの。友達とか家族とかに向ける『好き』じゃなくて、あの子を一人の異性として見てるか?」
「な、え、あ、ななんでそんな事急に聞くのさ…」
しどろもどろになる由紀を、それでも明人は真面目な顔で捉え続けた。正直に言えば明人の方もこのような話を本気でするのは柄じゃないし、気恥ずかしくはあった。
「急じゃないよ、真面目な話でもある。……はっきり言って俺から見て今回一番悪いのは由紀、お前だよ」
「……僕?」
動揺が止まり、少しだけ怯えたような表情を明人に向ける。
「先に仕掛けた優香里さんも、まぁ同罪だけど。そっちだって元を正せばお前の煮え切らない態度と行動が悪い。……分かってるだろ、お前が本当の『姉』同然に慕ってるあの人だってな、女なんだぜ? それにさ、幾ら鈍くたって分かるだろ、お前も」
泉優香里。由紀が小学校の頃にとある事がきっかけで知り合って、そこから一つ年上の、まるで本当の『姉』として由紀を可愛がり、また天涯孤独の由紀を本当の家族、『弟』のように支えてくれた女性。
そんな彼女が、バレンタインの日に初めて明確に見せた、『姉』としてではない感情と、およそ『弟』を見る目ではない、熱を帯びた目線。
「…………………………」
由紀だって、既にそれは分かっていた。それでも。
「由紀さ、俺だって正直、今までのままが良いって気持ちはあるよ。お前が居て、隣には結実ちゃんが居て、優香里先輩がドンと立っててさ。今年なんか皆一緒の生徒会役員になれて。皆で仕事したり駄弁ったりして笑ったりしてさ。なんつーか、凄く『幸せ』って感じがするんだ。……そこに元々余所者の俺が入っていいのかって思う事もあったけどな」
「そんなことないよ、明人が居てくれるから僕は!」
「まぁまぁ、それは今良くて」
思わず身を乗り出す由紀を制しながら明人は照れくさそうに笑った。自分の事はぞんざいなのに、他人の事だと冗談でも一生懸命な性格なのは、明人が由紀の中でも一番好きなところだった。
「……今みたいな毎日がずっと続けばいいって思うだろ。だけどそういう訳にも行かない。俺達だってもう高校生なんだぜ。もう1か月もすれば俺達2年生、優香里さんは3年、もう進学先の大学だって考えなくちゃいけなくなる」
だからだったのかもしれない、と明人は言いながら思った。だからあの人、多少強引なアプローチでも由紀を試して。それに結実の方だって。
「……分かってる、分かってるんだけど。でも、僕……こんな、いきなりで」
由紀の内心も透けるように見えていた。怖いのだ。皆仲良く家族みたいに笑っていた今の『幸せ』が、由紀自身が明確に『幸せ』のかたちを示す事で壊れる事が。
「……それにだ、由紀。結実ちゃんが何時までもお前の近くに、当然みたいに居るだなんて思うなよ。あの子だって色々考えて、色んな事想って生きてるんだ。当たり前なんかじゃない」
「……っ。それは」
言い淀む由紀に対して、明人は最後に追い打ちをかける。
「それとも由紀はいいのか? このまま何となく結実ちゃんと疎遠になって、いつのまにか……あの子に男が出来て、お前から離れても」
「それはっ!…………嫌、嫌だよ。僕は嫌!」
由紀だって明人の物言いが鎌をかけている事は分かっていた。それでも。
観念したように、赤い顔で由紀は呟く。
「――僕、結実の事、好きだよ。明人の言う通り……ちゃんと、好き、だと思う」
「……ん! そっか。それなら良し、だ」
イマイチしまらない言葉だが、ある意味由紀らしい、と明人は笑った。
「ほんじゃ、お気持ちも確認できたところで善は急げ、だ。ちゃんと告白できるように場を整えないとな? ……まずはもう一人の方を何とかせんと」
「……は!? え、告白って!!?」
呆然とする由紀に、「何言ってんだ」と言わんばかりに明人は首を傾げる。
「当たり前だろ。何で俺に呟いて満足してるんだ。本人に言わなきゃ意味ないだろ?」
「だけど、そんな突然に決めて! 急にそんなの無理……」
「急でもないだろ、仮にも『一度』は決めてた事だ。……それに、由紀だって忘れちゃいないだろうに。――ほれ」
明人はそう言い、部屋の入り口近くのカレンダーを指す。
「……それは、分かってるけど」
悩みの問題への解決策に対する新たな悩みが生まれ、一層頭を抱える由紀の頭に明人はポンポンと手をやり励ます。「ま、気楽に行こうぜ」と言わんばかりに。
昼休みが終わり、教室に戻ろうとする由紀に明人は言う。
「先にクラス行ってな。俺は優香里さんの所寄ってから行くから。……まずはそっちからな。授業終わったら、またここに来い。いいか?」
「……分かった」
「頑張れよ、由紀。そんであんまり臆病になるな。大丈夫だよ、自信を持って笑ってドンと構えてりゃ、もっともっと良い『幸せ』ってものに辿り着けるさ、お前なら」
「うん…………ありがとう、明人」
未だ赤らんだ顔ではにかむ由紀に、親友はニッと笑う。
「(それにしても、『もしも結実ちゃんに男が出来て、由紀から離れても……』か)」
由紀への激励の為に発した自分の言葉を思い返し、ハハ、と内心自嘲する。
――そんな事、死んでも起こりっこないわな。
神城結実の佐倉由紀への想いは、この世のどんな事よりも強い。明人はそう確信していた。




