1.23 ユイという人
――夢を見た。
無限の大地に、恒久の青空。
そして、その境にたった一つの大桜。
倒れた筈のそれは、最初の夢と同じように美しく佇み、咲き誇っていた。
――これ、は。
恐ろしい記憶が蘇る。何故、アレを忘れていたのだろう。
だが、今回はそれだけだった。何故ならこれを夢だと自覚した途端に。
――あぁ、良かった。
それに呼応するように再び景色が白け、全てが無に帰り始めたのだ。
まどろむ意識に身をゆだね、現実での目覚めに備えて目を閉じる。
その刹那。
由紀の耳元に囁かれた声があった。
『――――あきらめない』
「――――?」
「……大丈夫?」
そこは由紀の部屋。まだ街が暗闇に包まれた午前三時過ぎ。眠りから唐突に覚醒した由紀の瞳いっぱいに映るのは、ユイのじっとりと無表情な顔だった。
「な、え。な、なんで」
「見張り。夜中に襲ってこないとも限らないから」
「そ……そっ、か。ありが、とう?」
ベッドに横たわる由紀に覆いかぶさるようにして覗き込んでいたユイは、のそりとベッド横に降りて、真っ赤な顔の由紀に聞く。
「そんなことよりも、うなされていたから」
「だ、大丈夫。ちょっと……夢、見てただけだと思う」
「夢……」
考え込むように俯くユイに、由紀は寝間着の乱れを整えながら尋ねる。
「ユイ、その……ずっと見守ってくれたの? 皆寝てからずっと?」
「そうよ」
「……ありがたいけど、駄目だよ。明日も早いんだし、休まないと」
「問題無い。私は寝なくても平気だから」
――そんな事言ったって。
ユイは変わらず監視を続けるつもりらしく、じぃっと由紀を見つめている。
何とも言えない気まずい沈黙が続く中、それを破ったのはユイだった。
――――クゥゥゥ。
「……………………」「……………………」
「あの、良かったら何か夜食でも?」
「いや……」
ほんの少し赤らんだ顔を誤魔化すようにユイは咳払いをし、そして溜息をついた。
「……じゃあ、少しだけ」
皆寝静まっている中、由紀は静かに慌ただしく動き回っていた。それぞれの部屋で寝息を立てる優香里と明人を起こさないように、ユイが待つ自室にそろりそろりと戻る。
「お酒なんて、あったのね」
「うん、お母さんが好きだったの。林檎の蜂蜜酒。甘みが強くて飲みやすい、それで味わい深くて程よく酔える……だったかな?」
そう答えながら由紀はボトルを開け、グラスに黄金色の酒を注いでいく。お酌のやり方は喫茶『すみぞめ』の手伝いをする手前、手慣れたものだった。
「……そんな大事なもの、頂いていいの?」
「あはは、多分大丈夫だよ。お母さん人にお酒奢るの好きだったらしいし。在子さん、お母さんの友達によれば小さい僕にまで飲ませようとしたとか、何とか」
クスクスと笑いながら由紀はグラスと軽食をユイに差し出した。チーズにベーコンを巻き付け焼き、香辛料をふりかけたつまみ。これも在子仕込みのメニューだ。
由紀が見守る中、ユイはグラスに口をつけ、静かに酒を飲む。ゆっくりと味わうように飲み干した後、小さく溜息をついて頷いた。
「……美味しい?」
「――えぇ、とても美味しい。身体に沁みる」
月夜の淡い光だけが部屋を照らす中、二人の静かなやり取りは、由紀が小さく欠伸をするまで続いた。
「……ありがとう。後は自分でするから、あなたは横になりなさい。明日早いのだし」
「そ、そう?」
少し恥ずかしそうに由紀はベッドに寝転び、蜂蜜酒を注ぐユイを見る。
同年代の中でも特に幼いとされる由紀にとって、大人っぽい仕草や雰囲気にはずっと憧れがあった。当然自身がまだ飲むことが出来ない酒を嗜む姿もその一つ。
目の前のユイは、見た目の若さは由紀達とそう変わらない。高校生や大学生くらい。結実の寝間着を着てもらっている今は尚更同年代の少女だった。しかし、青白い月光に照らされる中、艶めかしい表情で酒のグラスを傾ける姿は、そのまま絵に出来てしまいそうな程、大人の色気のある美しさを湛えていた。
失礼だと思いつつも、由紀が布団の中で見惚れていると、ユイはグラスをテーブルに置いてのそりと立ち上がる。壁際の本棚、勉強机に積まれた漫画や小説を手に取り、興味深そうにパラパラとページをめくった。
「色んな本、あるのね。好きなの?」
「え? ……あぁ、えっと。その辺りの本、全部貸してもらったんだ。その、結実に」
机に積まれていたのは『アナタとワタシ。』の漫画版シリーズ。少し前に結実に借りたものだ。その他、本棚に収まっているものを実際の所殆ど結実に借りたり、プレゼントにもらったりしたものばかりだった。
「結実、お話好きだったんだ。リアルな恋愛小説とかドラマが好きだったし、それと同じくらい魔法とかロボットが出てくるアニメも大好きだったの。……こっちの方はあんまり、普段は恥ずかしがって隠そうとしてたんだけどね。」
その様子を思い出し、由紀は思わず笑った。
「色んな世界に憧れてて、いつか皆であちこち旅してみたいねってよく言ってたの。『彼世』とカノヨビトの話なんか、きっと目を輝かせて聞きたがったかも」
「そう……」
ユイは暗がりの中、本を次々と取っては早いスピードで読んでいく。
「興味、あるの? 意外」
「え? ……いえ、そうね。嫌いじゃないわ」
ユイは図星をつかれたように珍しくたじろいだ。まさしく「異世界」から来た存在である筈のユイが創作に関心を持つ姿は、なんとなくシュールで不思議なものに感じた。
「……こういった娯楽物の発展、流通の程を知るのは、その『現世』の在り様を知るのに良い指標になるから。裁定と調停を司る者としても興味深い」
「そういう、ものなんだ……」
「何より」ユイはパタンと本を閉じる。
「創作の世界では、本当に人を死なせたり、殺したりする事が無いから」
「……………………」
人が死ぬ。普通の日常には縁遠く、今の由紀にとっては恐ろしい程身近なもの。
ユリス達の手にかかった人達。目の前で斃れたレベッカ。そして、結実。
再び気まずい雰囲気が流れる中、ユイが小さな声で言う。
「――あなたには、謝らなくてはならないてはならないわね」
「レベッカさんの事なら……謝らないで。むしろ僕から謝らなくちゃいけないくらいなんだから。それに、助けてくれてありがとうって」
「それは。……それもあるけれど」
ユイは相も変わらず無表情だったが、目が僅かに泳いでいるように見えた。何かを言い淀んでいるように。由紀の目の前で人を殺めたユイだったが、それは自身を助ける為だと由紀は当然理解していたし、それが彼女の友人だった手前、互いに触れ辛い話だった。
「そ、そういえばレベッカさんが言ってたさ、『アラヴォ』って何だったの?」
何となしに気になっていた事を聞いてみる。他にも沢山聞きたい事はあったが、ユイの表情から、由紀は当たり障り無さそうな話題で変える事にした。
「……カノヨビト達に古くからある存在確立契約の事。自分以外のカノヨビトと、互いに自身を定義させ合い繋ぐ事で存在を安定させるの」
ユイは説明しつつ、つまみの残りを口に入れ、手を合わせる。大分気に入ったようだ。
「それって、つまりパートナー……みたいなもの?」
「その認識であってる。互いの生死に直結する分、重要性は高いけど」
窓から射す蒼い月光に手のひらをかざし、ユイは静かに言う。
「カノヨビトは、あなた達のように自分を自然と保証してくれる世界が無い。姿形も意識も在り方も、全て自分で工面しなければ、途端に霧散してしまう」
実演するかのように、ユイの手のひらが透け始める。月の光は彼女の腕を、胴体を、身体全部を貫通し、最初からそこに誰も居ないかのように床を照らす。
「そ、そんな……」
「超常の力、そして自由の代償よ。力の弱いもの、カノヨビトに成りたての子はこれで消えてしまうことも多い。『アラヴォ』はそれに対する抵抗の一つよ」
由紀は驚くと同時に、切なさに近い感情を覚えた。これまでカノヨビトに対し感じていた強さ、自身次第で本当に何でも出来る万能感。
それは、ひとたび気を抜けば夢幻のように消えると言うのだ。
そのような儚い存在でありながら、自分の願いの為に奔走しているのだ。
自身を狙うユリスや、今目の前で自分を見守ってくれる少女も同じように。
――それは、とても寂しい事だ。
「ユイは……『アラヴォ』、居ないの?」
「居ない。居たことも無い。自身の事は自分だけで完結できる。カノヨビトに成り果ててから必要だと思った事も、欲しいと思った事も、一度もない」
そう断言するユイは、不思議と誇らしげにしているように見え、由紀は少し微笑んだ。数日の付き合いだったが、彼女の無表情にも種類がある事が分かってきた。
「ユイは、強いんだね。僕だったら、きっと寂しさだけで……」
「……強いも何も無い。私はただの機構。『現世』を守り、『彼世』の均衡を守る。
そう自身で定義し、ずっと旅を続けている。……だから、寂しさだって無い。独りで大丈夫」
再び襲う眠気に耐えかね由紀は目を閉じる。ユイはベッドに近づき布団をかけ直した。
――ユイ、君自身の願いは。
「……もう寝なさい。明日は、お願いね」
「うん…………おやすみ」
母親にあやされる子供のように、由紀は再度の眠りに落ちた。
――君は、どうして世界を、皆を、……僕を守ろうとしてくれるの?
本当に聞きたかった事は、終ぞ口に出せなかった。




