1.1 佐倉由紀の日常
三月十三日、午前五時半。チリリリと目覚まし時計のアラームが響く。平日の朝としてはいつも通りの起床であるが、予想以上に冷え込む今日日においてどうしても気怠さが拭いきれない目覚めだった。時期は春、例年なら芽吹き始めた桜に彩られた街は早朝であろうと暖かで活気に溢れたものだが、例年より遅い冬明けの影響で空気も人も、世界はまだ冷たく静まり返っていた。
「…………んぅ」
アラームを止め、軽く伸びをしながら洗面所へ向かう。歯を磨き顔も洗っててきぱきと制服に着替える。洗濯機を回し、台所に向かう前にテレビをつける。
いつも通りの朝。
『――続報です。一昨日の三月十一日舞之宮市東区三丁目にある住宅で一家四人が殺害された事件で、警察によりますと被害者の状態から、今月九日の同市西区にて発生した女性二人が殺害された事件と同一犯である可能性が高く、また単独犯ではなく複数人の犯行とみて捜査を――』
連日全国的に世間を騒がせている怖いニュース。しかもこの『舞之宮市』というのはすぐ隣の大きな市。今から通学する高校もある身近な場所だ。近所でも学校内でも、近頃はこれに関する話題が絶えない。皆あれこれ想像し推察し、場合によっては自分の妄想が生み出した恐怖に慄き悲鳴を上げる。その不安というのは大小程度の差はあれどきっと皆そうだった。臆病って思われるかもしれないけど、自分もそう。
しかし不思議なものだ。こんな痛ましく恐ろしい事件も、テレビや新聞、ネットを介してはどうしてもただの情報、自分とは直接関係の無い他人事に感じてしまう。どこか遠い世界の出来事に思えてしまうのだ。
そして、そういった報道が出る度に皆思うのだろう。「どうかこんな災厄が自分や、自分の大切な人々に降りかかりませんように」という漠然たる願いと、「きっと今回も大丈夫。自分には関係無い話、すぐ終わる。それよりも自分の日常内の問題の方が重要だ」というような、能天気で自分本位な希望的観測を。
これは正直とても良くない、と思う。対岸の火事である事を良い事に何処か他人の人生を蔑ろにしている感じがするし、何より他所の不幸をつかまえて自分の幸せを当然のものとして再定義しているような気がして、狡いと思ってしまうのだ。
だがそう思っていても、自分の人生と名前も知らない人の人生を対等に置ける人なんて存在しない。だから皆無意識ながら思ってしまうのだ。そして恥ずかしながら、自分も少なからず思ってしまっていた。
朝食もそこそこに済ませ、学校へ持っていく弁当を作る。数は三つ。一つは自分、もう二つは頼まれて作るものだ。内容は簡単な焼き物と夕飯の残り物を白飯と共に詰め込んだ簡素で平凡なもの。時間さえあれば毎朝腕によりをかけて一つ一つおかずを拵えたいものだったが、そうもいかなかった。何より、シンプルの方が家庭的で美味しい、大好き、などと二人は口を揃えて大層喜んでくれた。
「……今日は、皆で一緒に食べられたら良いんだけどなぁ」
多分、無理だろうな。溜息交じりにそう呟きながら洗濯物を干していく。僅かな眠気と小さな憂鬱が包み込む心持ちに反して、本日は寒いながらも快晴だった。
庭先の水やりを終えた後、身支度を整え玄関へと向かう。ドアを開ける際に振り返り、彼以外誰も居なくなる家に一言、
「いってきます、お母さん」
それが彼、佐倉由紀の、普段通りの日常の始まりであった。
「――あ、おはよー。ゆーちゃん」
自宅から歩いて十分少々、駅まであと半分というところで背後からのんびりした声で呼ばれた。由紀は振り返り、その声のイメージ通りの柔和で穏やかな印象を持つ少女に微笑んだ。
「おはよう、結実。良かった、今日はお寝坊しなくて」
結実、と呼ばれた少女はそのまませっせと走り由紀に追いつき、隣を並び歩く。息を切らし、頬を紅潮させた彼女の顔を見て笑顔から一転、由紀はほんの少し咎めるような表情で、上目遣いに結実を見据える。
「……結実、昨日また夜更かししたんでしょう? 寝てないんだ」
「ぇ、え、何で分かったの……?」
「目に隈。瞼もとろとろって凄く眠そうだもん。それに髪もボサボサ……あぁもう、後ろにおっきな寝癖が」
「あ、ちょ、いいってもう……」
結実は恥ずかしそうに髪を手で覆う。幼馴染とはいえ、道端で同い年の異性の子に容姿の乱れをあれこれ見られて直してもらうのは少し気恥ずかしい。
「駄目、女の子なんだからちゃんとしておかないと。えっと、駅の水飲みって今使えたっけ?」
「あぁ、もういいから! ほら、電車来ちゃうし。急ごう由紀ちゃん!」
尚も世話を焼こうとする由紀を急かす由紀を急かす様に、手を引っ張って駅の改札口を抜ける。『桜美丘駅』はそう大きくない典型的な田舎の駅であるが、通学・通勤ラッシュとなる今の時間は流石に大勢の人間でごった返していた。二人ははぐれないようにしっかり手を繋いだまま、電車に乗り込み入口近くの座席に着く。一息ついたと同時に電車の発車メロディがけたたましく鳴り響き、ドアが閉まり窓の景色が流れ始めた。
由紀達が住む『桜美丘市』は山地よりの平野に位置する、一年を通して穏やかな気候の街だ。発展具合で言えば少なくとも都会ではない、田舎である。商店や公共施設が集まる桜美丘駅前はまだ賑わっている方で、そこに連なって形成された住宅街は隣の舞之宮市で働き生活する人々のベッドタウンとして機能している為、皆が出払っている平日の昼などは特に閑散とした静けさを保っている。そんな家々を抜けてしまえば後に広がるのは、豊かな山々と森林、河川とその間の平地を埋める田畑と僅かな民家ばかり。きっと現代を生きる若者にとっては少々退屈な場所だろう。
由紀は、それでもこの街が好きだ。生まれ故郷だから、大好きな人達と住む街だから、自身の性分と合っていると思うから。理由は沢山あるが、一番の理由はもうすぐ訪れる春の季節における街の美しさだった。
市の名が示す通り、桜美丘市は全国でも有名な桜の名所として知られる。街中に植えられた桜は三月中旬から四月にかけて一斉に開花し、市全体を淡く美麗な桜色の花びらで覆いつくす。普段なら閑静な住宅街の道路までもが桜の絨毯と姿を変え、取り分け駅周辺の街路や線路沿いの桜並木は圧巻の美しさを誇り、市内外から大勢の家族やカップルが訪れ賑わう。市も自分達の最大のアピールポイントとして、今月末ごろに開催される『桜花祭』の準備に精を出していた。後は肝心の桜、その開化の時を待つばかり、であるのだが。
「今年は皆、なかなか咲かないねぇ」
電車の窓に映り、代わる代わる流れていく景色を横目に結実がポツリと呟く。
「今年は特に冬明けが遅いみたい。ニュースで言ってたの、ここ十年で一番の冷え込みなんだって。桜が咲くのも4月になっちゃうかもね……」
「むー……せめてお祭りまでに間に合うといいな。今年もゆーちゃんと一緒にお花見、したいもん」
結実はそう言って少しはにかんだ後、再び窓に目をやった。ふんわりとしたセミロングの髪と同じ栗色の潤んだ瞳は悩まし気に憂いを帯びて、とても可愛らしい。ずっと見慣れている筈の由紀も思わずドキッとしてしまう。そしてそんな綺麗な顔だからこそ、その目元にうっすら浮かんだ隈に改めて目が行く。
「ところでさ、何でまた夜更かしなんかしたのさ?」
「うん? んー、と。……最近少し寝つきが悪いこと多くて、そんでね、えー」
「……また、アニメ見てたんだ? 昨日一昨日と同じように」
由紀は呆れた様子で目を細めた。結実はウゥンと唸った後、誤魔化す様に笑う。
「し、仕方ないの。寝られない以上はさ、時間を有効活用しなきゃって。『リヴァンダル・サーガ』はあと2話で最終回だし、『アナタとワタシ。』は来月には実写映画あるから復習しておきたかったんだもん」
「……そ、そっか。佳境、なんだね?」
「そうなの! 特にリヴァサガはねぇ、ずっと関係が仄めかされてた黒幕とヒロ……えぇ、あネタバレ駄目だ最悪だ極刑だ。んぅ、つまりね、私達視聴者の予想を裏切る展開でさー! 一体にどうなる事やら……そんで実写化!?で危ぶまれたアナワタもさ、――」
結実はほわほわと大人しそうな外見に反して、アニメや漫画、ゲームといったものに対する造詣が人並み以上に深い。はっきり言えばオタク気質の少女であった。ジャンルも幅広く、一般的に知られたタイトルもあれば大方男性向けであったりニッチな層しか手を伸ばさないようなものまで様々。
一応、そういった趣味は彼女の中にある「一般的な年頃の女子高生」像と少々遠いカテゴリであるという認識はあるのか、普段はあまり表に出す事はない。が、今のようにちょっとしたきっかけがあると弾けたようにしてニコニコとまくし立て始めるのだった。
それこそ、一番の幼馴染である由紀の前では、特に。
――最近、色々あったから。こんな話をするのも久しぶりな気がする。
そんな事をぼんやりと考えているとふいに、今度は結実の方がジットリとした目つきで、顔をずいっと由紀に近づけてきた。いつもは他人と顔を見て話さないくらいに奥手で大人しいのに、興奮したり熱中する事が絡むと途端に周りの目など気にせず、由紀に対し積極的になる。
「……由紀ちゃんこそ、ちゃんと予習しておかないと駄目だよ。映画、一緒に見に行くって約束したんだから。貸した書籍版の方、ちゃんと読み終わったの?」
「あぅ……それは」
「ほらー。もう……」
結実はちょっとわざとらしく顔を膨らませる。次は由紀が弁明する番だった。
「いや、だって……結実ってば本いっぱい貸してくれるけど、前の読み終わる前にどんどん勧めてくるから溜まっちゃっててどうしても……その、ごめん」
「あれでも結構、由紀ちゃんが好きそうなタイトルとか厳選してるんだよ? 文系なんだから読むの遅い訳でも無いだろーに。アニメだって」
結実はなお機嫌を損ねたように肩をすくめる。そこまで言わなくても、由紀も思わず、
「……僕だって結構忙しかったの! 生徒会の仕事だって明人より多いし、部活だって助っ人だってちょくちょく呼ばれるし、それに優香里姉ぇもしょっちゅう絡んできて――」
ムキになってそこまで言った直後、「しまった」と思った由紀だったがその時にはもう遅かった。先程まで表情豊かに由紀をからかっていた結実の表情はたちまち暗くなり、寂しそうに目を伏せてしまっていた。
「……そっか、そうだよね。由紀ちゃんだって忙しいのに……ごめん」
「いや、あの、違くて。その……」
取り繕おうとしても無駄だった。その『優香里姉ぇ』という存在は、今の結実にとって『地雷』なのだから。
二人の間に何とも言えない気まずい空気が漂う中、電車は突き進む。窓から見える景色が田舎の山々からひらけた平野に変わり、次第に家々やビルなどの人工物が増え始める。各々雑談や読書で時間を潰していた乗客達もそろそろかと下車の準備を始める。
「……と、とにかく。美容にも悪いし、無理にでも寝なきゃ。せめて六時間くらいは。今日だって寝坊しかけたんでしょう?」
無理やりにでも話題を逸らしてみる。登校前から憂鬱になどなりたくない。
「う、うん」
「……とりあえず、はい、コレ」
由紀は自身に巻いていたマフラーを解き、結実の酷い寝癖が誤魔化せるように髪の上から巻いてあげた。
「わわ、ありがとう。……わー、あったかい。いい匂いする」
「もう。学校に着いたら、ちゃんと寝癖直そうね?」
「はーい。……えへへ」
結実はマフラーに顔を埋めながら頬を赤らめ、いつもの柔和な表情に戻っていた。そうこうしている内に電車は速度を緩め、『舞之宮駅』のホームへと入っていった。
佐倉由紀と神城結実の関係は小学校に入る前から、現在に至るまで10年以上に及ぶ。互いにとって一番古く、近しい存在の幼馴染である。由紀は穏やかで大人しい性格であり、結実の方も基本的に静かで、取り分け由紀の前では微笑みを絶やすことはない。多少の言い争いはあれど喧嘩らしい喧嘩は数える程しかなかった。
しかし、人と人との付き合いの上で起きる争いは必ずしも加害・被害関係で二分できるほど簡単なものだけではない。どちらも被害者や加害者となる事も、或いはどちらともならない事もある。まして十代の学生という、子供と大人の間で最も多感であろう時期だ。単純に片付かない感情の交わりによって起こる問題は如何に賢い子達でも対処し難い。
由紀をこの一ヵ月に渡って悩ませている問題こそこれに該当する。幼馴染として、親友として、時に家族同然に接し合ってきた二人だが、新たに『男女の関係』として互いを意識し始めていた矢先、起こってしまった些細な、けれど二人にとって大きな出来事。
そのきっかけとなった人物は、二人が今まさに向かっている高校、その校門前にて、他のどの生徒よりも勇ましく、そして美しく輝かしく佇んでいた。




