1.16 佐倉家の食卓
一足早く佐倉家に入った由紀は各部屋の明かりをつけ、リビングから声をかける。
「どうぞ! 上がってください、ユイさん」
ほんの少しの間をおいて、「お邪魔します」の小さな呟きと共にユイが音も無くリビングまで進み出てきた。仏頂面はそのまま、しかし僅かに戸惑うように部屋の周りを見回すユイに、由紀は両手を出しながら笑顔を向ける。
「すぐにご飯の支度するんで、自由にくつろいでいてくださいね」
「……了解した」
素直にコクンと頷き、ユイは自身を覆う真っ黒なコートと上着を脱いで由紀に手渡す。由紀はそれらを壁際の洋服掛けに掛けた後にキッチンに向かい、パタパタと忙しなく動きながら早速調理を始めた。
カツカツ。コトコト。リズムよく野菜を切る音や味噌汁の具を煮込む音がリビングに響き渡る中、ユイはただ黙って待ち続けた。時折立ち上がったかと思えば、カレンダーをパラパラとめくったり、部屋に置かれた雑貨に興味を示したり、何気なくテレビのリモコンを手に取り幾つかの番組を回し見などしていた。かと思えばキッチンに立つ由紀の方をじっと見つめる事もある。上着を脱ぎ露わになった白シャツと黒ネクタイを多少着崩し、ソファにちょこんと腰掛ける姿は、不思議な愛嬌があった。
由紀はいそいそと主菜のソースの味付けに専念する。それに並行して揚げ物の準備をする最中、今更ながら肝心な事に気づきハッとする。
――いけない、ユイさんの好み。
つい自然といつもの感じで作っていたが、真っ先に聞くべき重要事項だった。
「あの、ユイさんすみません! 今更ですけど、ユイさんの好きな食べ物って――」
「……要らない」
電源を切り真っ暗になったテレビ画面を見据えながらユイは言う。
「……私に敬称は要らない。敬語も使わないで」
「え、でも」
「私はそんな高尚な存在ではない。お願い」
「……わかった。えっと。――ユイ」
不思議な圧を感じた由紀は、少しぎこちなく彼女を呼んだ。
「はい。……なあに」
「う、うん。……ユイ、食べたいものとかある? あと、苦手なものとかあったら教えて欲しくて。苦いのとか辛いのとか、合わなかったら今からでも作り直して――」
「無い。大丈夫」
「ほ、本当?」
不安げな由紀にユイは、その宝石みたいな二つの瞳に彼を映し、臆面も無く言う。
「あなたが私に作ってくれる料理なら何でも食べる。全部食べる。幾らでも待つから、あなたが作りたいもの作ってくれたら良い。楽しみにする」
「――わ、わかった! 気合入れて用意するから待っててね!」
顔を真っ赤にして慌ただしく料理に勤しむ由紀を、ユイは神妙な顔で眺めていた。
数十分後。礼儀正しい姿勢で食卓につくユイの前に、もうもうと湯気を立たせた夕食の盆が置かれた。献立は主菜の揚げ物にトマトと玉ねぎのサラダ。付け合わせにほうれん草のおひたしもある。そして大根と人参の味噌汁に大盛りの白米。平凡ながら由紀にとって手慣れた、自信のある家庭料理のメニューの一つだ。興味深げに見るユイに笑う。
「それはゆで卵をみじん切りにしてまとめたのを、豚バラ肉で包んで揚げたものだよ。トンカツソースと絡めて食べると美味しいの。オススメだよ?」
「なるほど」
ユイはこくんと頷き、おもむろに両手を合わせる。
「――いただきます」
小さな声でそう呟いた彼女は箸を持ち、静かに食事をとり始めた。最初に口にしたのは由紀に勧められた豚肉の揚げ物。次にサラダ、ご飯。おひたしにも少し手を付けた後、味噌汁を音も立てずにすすり、ごくんと小さく喉を鳴らした。そしてそんな様子をずっと心配そうに見つめる由紀の方に目を向け言う。
「……とても美味しい。どれも。凄く」
「本当!?……良かったぁ!」
不安の表情から一転、パァっと花が咲くように笑顔を浮かべた由紀にユイは無表情を僅かに綻ばせ、再び料理に目を向け、箸を粛々と動かす。
「……こんなに美味しいご飯は久しぶりに食べる。十万年ぶりくらいね」
「じゅ、十万って」
「本当よ」
そんな大げさな、と由紀はそこで思わず吹き出してしまった。神妙な顔のまま突拍子も無い表現をする彼女はとてもシュールだった。
食器が僅かに立てる音と、壁掛け時計の秒針の規則正しい音。それらだけが響く静かなリビングの中で黙々と食事を口に運ぶユイを、由紀はただ黙って見つめ続けた。
とても綺麗な箸使いだ、と由紀は思った。左手の箸の動きは静かで淀み無く、踊るように由紀の料理をその小さな口に次々と送っている。そして何より、分かりやすくがっつく訳でもニコニコ笑みをこぼす訳でも無いのに、先の言葉通り「美味しい」と思ってくれているのが伝わるような食事の仕方だった。
嬉しさ半分、戸惑い半分で思わず見とれていると、不意にユイの言葉が沈黙を破る。
「……あなたは食べないの?」
「へっ?……あぁ、僕は――」
忘れていたわけではないが、先程までの騒動や見た光景、今の状況からとても食事が喉を通らないと思い、由紀はユイの分の食事しか用意してなかった。
「お腹、空いてないならお風呂に入ると良い。色々あって疲れているでしょう?」
「お風呂……ですか」
「汗を流して、気分を入れ替えるには一番それが良い」
それに、とユイは箸を止めてぼそりと呟く。
「……じっと見られていると食事がし辛い。折角美味しいのに」
「――ぇあ!? すみません、僕ったら!」
自身の無礼に思わず飛び上がった由紀は、「だから敬語は要らない」と言葉を続ける彼女を背後に慌てて風呂場に向かった。




