1.11 異変の始まり
一体、どれくらいそうしていたのだろうか。由紀は見知らぬ少女に縋り、駄々をこねる赤子の様にひたすら咽び泣いた。結実の名前を叫び散らす様に何度も呼んだ。返ってこない返事の代わりに、甘い香りを伴った温かな抱擁が優しく包み込んでくれた。その熱に当てられて更に涙が溢れ出る。止まらない。何度も何度もそれを繰り返す由紀を、桜の少女は一言も発しないまま、黙ってただただ全て受け入れていた。
やがて泣き声が小さくなり、すすり泣く声だけが僅かに残る頃、少女はゆっくりと由紀の背に回していた腕を離し、真っ赤に泣き腫らした由紀の前に向き直る。
「……もう、大丈夫? 泣き残していない?」
「……はい。あ、の。……っ、ごめんなさい。僕」
「いい、問題無い。泣けと言ったのは私だから」
「……は、い」
ひとしきり泣きつくした由紀の顔は、普段の少女のような愛らしさが台無しになる程酷い有様だった。流した涙は結実が居なくなってからずっと我慢していた分だけ、全て。漏れ出る声は泣き過ぎてかすれていた。
頭上の桜を一瞥し、一瞬目を閉じ、それから由紀を見据える。
「もう、あなたは進める筈。彼女の事を本当に想っているなら、前を向いて生きなさい」
「……う……ん」
「まだ無理?」
「……ごめんなさい」
「……いえ。ちゃんと立ち直れるなら、ゆっくりでいい」
小さく息をついた後、少女は由紀の身体に目を落とす。改めてじっと見つめられると何だか恥ずかしい。こんな綺麗な――。
ふと、今更ながら大事な事に由紀は気付く。
「……あの、すみません」
「何?」
「今更なんですけど。良かったら貴方の名前、聞いても良いですか……? あ! えっと、僕は由紀。佐倉由紀って言います」
少女は、そこで口をつぐんだ。由紀をじっと見つめる無表情は、心なしか先程まで感じなかった雰囲気を帯び始める。決して快いモノではない、由紀の胸をザワザワさせるモノ。
「あなたが知る必要は無い。私の事はここで忘れたほうが良いから」
「……え」
思わぬ回答にたじろぐ由紀に向き直り、静かに左手をコートの中に滑らせる。
「何故なら、私はあなたが偶然みた夢幻に過ぎず――」
懐に収められていた、白銀に光る大きな何かを由紀に向ける。
由紀の額に突き付けられたものが、
「――――――――?」
「私は」
少女の手に握られた大きなリボルバー銃の引き金が引かれた瞬間、
「この世界に居るべきでない、亡霊よ」
雷鳴のような銃声音と共に消えゆく意識の中で、由紀の耳には自分を救ってくれた人の、桜の少女の静かな言葉が延々と響き渡っていた。
三月十九日、午前十時過ぎ。水曜日。
由紀は、佐倉家の自室のベッドの上で目を覚ました。
「――僕は、あれ……?」
不思議な心地だった。身体に痛みは無いが軽い倦怠感を感じる。それなのに、頭の中はここ数日で一番明瞭ですっきりしていた。
――僕、何時の間に寝て。
眠った際の記憶が無い。かろうじて覚えてるのは『神城の大桜』で一人塞ぎ込んでいた事。しかし、その前後が思い出せない。
「僕……僕。何、してたんだっけ」
ベッドの上で思案していると、ドアが静かに開き制服姿の優香里が入ってくる。暗い表情だった彼女は由紀を見るなり間髪入れず物凄い剣幕で由紀に飛びかかってきた。
「――――てぃぁじゃぁ!」
「あぅ」
ごつん、と鈍い音を立てて優香里は由紀の額に頭突きをかました。勢いをつけていた割にはそこまで痛くない、妙に相手を気遣った制裁だった。
覆いかぶさった優香里は動かないし何も言わなかったが、その心境は明白だった。
「……ごめんなさい、優香里姉ぇ。心配かけちゃって」
「本当だぞ。全く……」
そこで感極まったのか、優香里は由紀を強く抱きしめた。
「……本当に、何も無くて良かった。明人のヤツが連絡寄越してきた時、私てっきりお前が、その……一番やっちゃいけない、早まった事考えてるんじゃないかって」
軽く鼻をすする音がする。優香里がこんな短い期間に何度も泣くのは本当に珍しい。思えばまともに涙を流すのを見るのだって小学生時代以来だろうか。
「――! いや! 大丈夫だよ優香里姉ぇ! それだけは絶対しないから!」
由紀は慌てて振りほどき、優香里の心配を必死に否定する。
「……自分を粗末にするの絶対駄目だから。お母さんとも一番に約束したもの」
ベッドに座る由紀に寄りかかるようにしていた優香里は赤い顔を拭い、そこで漸く安心したようにニッと笑い、由紀の顔を覗き込む。
「……良かった。ちったぁ顔色良くなってる」
ほっと息をついた優香里は一転、思い出したように怪訝そうな顔を向ける。
「……にしても、こんな物騒な時にあんな寂れた神社に一人きりだなんて。お前な、ド田舎の私有地でも危ないんだぞ? 幾ら思い出の場所だからって」
「……あぁ、うん。僕、昨日神城神社に居たん、だよね」
「覚えてないのか?」
「ん……記憶飛んでて。何時から何時まで居たのかもあんまり。寝ぼけてるのかな」
何か大事な部分が抜け落ちている気がする。難しい顔をして記憶を辿る由紀を背に、優香里は食事の準備をしながらポツポツと呟く。
「本当は、私はあそこに行っちゃいけねえんだ。結実が死ぬほど怒るだろうし。『私と由紀の思い出に踏み込まないでよ!』つって。でも、あそこしか思いつかなくて、案の定」
「ごめんなさい……。僕重くなかった?」
「ちっとも。というかむしろ逆だ、軽すぎ。何だったらお前、男の癖に私よりよっぽど軽くて何かムカつく。たんと食え、もっと育て! 今度鍛え直してやる!」
元気にがなり立てる優香里を見て、漸く由紀は微笑んだ。
随分起床が遅くなった事と優香里の勧めもあって、今日は学校を休むことになった。
「……………………」
しかし、優香里が帰った後も、由紀は何か釈然としなかった。
昨日の夜の出来事がすっぽりと抜けている。まるでぼんやりとフィルターをかけられたような。それに、自分でも不思議な程に胸の辺りのつっかえが無くなっていた。昨日までずっとドス黒い煙のようなものが渦巻いていたのに。
――僕、おかしくなっちゃったのかな。
何となく、だが居ても経っても居られず、優香里に対し悪い事だと思いながら、宛ても無く外へ繰り出した。
桜美丘駅から舞之宮駅、そしてそこからバスの中で揺られること十数分、由紀は南区の一画にある大きな市営公園を訪れていた。周りには主にマンションや小さな商店、貸しビル等に囲まれており、日がある内は兎も角、真夜中になればそうそう人気も無くなるような閑静な場所だった。グラウンドは広く向こうの方では近くの中学校に通う子供たちが野球をしていた。
由紀はその反対側、遊具やベンチが固まるエリアの中心に建つ照明灯の前に立っていた。ポールの下には既に色とりどりの花束やお供えが置いてある。
そこが、神城結実が最期に居た場所。
「……………………」
あの日、結実が此処で終わった、という実感は無い。当然だった。実際に倒れていたところを見た訳じゃない。警察関係の人から聞き、また報道で見知っただけ。
これが全部悪い冗談か何かで、桜美丘市に帰れば結実がこれまで通り太陽みたいな笑顔を向けて待っているんじゃ、そんな気すらしてくる。
しかし、やはり結実は死んだのだ。それは棺の中で眠る彼女を認識した時点で嫌でも頭が納得していた。由紀にとって恐ろしく寒気のする事だったが、それが本当だった。
――やっぱり変だ、今の僕。
路地をゆっくり歩きながら、由紀は思う。
――何で僕、こんなに落ち着いているんだろう。
昨日までの数日、必死に現実から目を背け続けて沸き上がる感情を押し殺していた。身体の内側が冷え切って、死にながら生きている心地だった。
それが今はどうだろう。わざわざ自ら傷を抉る事を、結実の死を直視させるような場所に訪れてなお、その心は凪のように穏やかだった。悲しい気持ちは勿論今もある。結実の顔を思い出すだけで涙が出そうになる程に。でも昨日までのそれとは明確に違う。まるで古傷が痛むような、乗り越え過ぎ去った思い出の様に鈍いものとなっている。
何故、何故、何故。疑問は尽きない。それどころか、ここに来て更に謎が増えてしまった。思えば由紀の心境の変化よりも真っ先に考えるべき事。
――何で結実はあの日、こんな場所に?
桜美丘市ですらない、待ち合わせの場所と正反対の遠い場所。本人の意思で来たとも考え辛かった。だとしたら、本当に何故。
夕日がビルの合間に沈んでいく中、由紀は歩きながらひたすら自問を繰り返す。
不意に風が吹き街路樹の葉が揺れる。その風が吹き終わった時、由紀の前に、
「――――――――佐倉様」
予想にもして無かった、見覚えのあるメイド姿の女性が現れた。
「ア、アリア、さん?」
間違いなく、あの日ホワイトデーの前日に会った人だった。結実への誕生日プレゼント選びに悩む由紀と優香里の前に現れ、紆余曲折あって素敵な品に巡り合わせてくれた恩人。
「……吃驚しました、こんな所で。どうしたんですか?」
「……………………」
「……あ、の」
彼女からの返事は、無い。何処かおかしかった。見た目に変化はない。白いエプロンドレスにシンプルなカチューシャ。改めて見てもこの辺りでは珍しい恰好。
違うのは纏う雰囲気と表情だった。あの時の控えめで大人しい、物腰柔らかな女性といったイメージは無く、あるのは暗くて辛い決意を持った一人の人間の悲壮的な姿だった。
「……アリアさん、今日は、どうして」
――どうして、そんな怖い顔をしてるんですか。
本音は直接聞けず、由紀は曖昧な問いを投げかける。それにアリアは反応した。
「……探し物を」
「探し物?」
「はい」
「前と同じ、ご主人の方への?」
「はい……。受け取りに参りました」
アリアはそう言い、由紀にゆっくりと歩み寄る。それと同時に夕日は完全に沈み切り、辺りが闇に包まれる。道路沿いに設置された街路灯が弱々しい光を放つ。アリアが纏うどこか殺伐とした雰囲気も相まって形容しがたい恐怖を覚えた由紀は、思わず後退る。
「……一体、何を?」
自然と出た疑問に答えるように、アリアは手のひらをこちらに指し伸ばす。
「……貴方をです。佐倉、由紀様」
「……え」
思わず目が点になり、変な声が出る。
「佐倉様。我が主が貴方を所望しているのです。……主人の望む世界を創る為に」
――何を。
「必要なのです……誰も悲しまない、誰も苦しまない世界を実現させる為に。この壮大で素晴らしい世界と、その世界の強大な『特異点』である、貴方が」
「…………何、を」
あの日のアリアさんじゃない、と由紀は思った。怖い。今すぐ逃げ出したい。
「佐倉様」そんな由紀の気持ちを読み、絡めとるかのようにアリアは言葉を放つ。
「……貴方も、喪ったのでしょう? 最愛の人を」
「――な。え?」
由紀の呼吸が止まる。心臓を鷲掴みにされたようだった。アリアは辛そうに目を細める。
「ごめんなさい……分かっていました。あの日お会いした時に、佐倉様にとって良からぬ事が起きる事。……負の因果律線が色濃く見えていましたので」
「何、何ですか?」
由紀の混乱をよそにアリアは逆に問いかける。
「……また、会いたいですか?」
「――――っ?」
「……もう一度、貴方の大切な人に会いたい。そう思うなら、私の主の下に――」
差し伸ばされた手を振り払い、恐怖心に従って由紀は走り逃げる。しかし、
「――――あー、もう! アリア、アンタはこういう時本当焦れったんだから!」
由紀の視界を覆う赤い閃光。それと知らない女性の声と共に、後頭部に走った衝撃によって由紀の意識はかき消されてしまった。




