1.10 桜の少女
「……ごめん、優香里姉ぇ。今日は、一人にして欲しいの」
「…………っ。でも、由紀」
「ごめん。……お願い」
放課後になり、由紀は一人で家に帰る。放心状態でそのまま幾許かの時間を過ごしたが、何時しかフラフラと家を出て、気づけば『神城神社』の寂れた境内の前に立っていた。
――何で僕、此処に来てるんだろう?
今自分が一番避けたいのは、結実の事を考える事の筈だった。あの子を想起させる場所や人、モノに触れないようにする事。学校にもそう思ったから行ったのに。優香里の気遣いだってそう思ったから拒絶したのに。
「……ふ。ふ」
自身の余りにあべこべな有様に、由紀は思わず自嘲気味に笑った。その声は当然誰かに聞かれる事も無く、朽ちた神社に響き渡って山の中へと消えていく。
由紀はゆっくりと、神社奥の広場に歩を進める。導かれるように、フラフラと。
――違う、違うな。
何故自分が此処に訪れているか、本当は分かっていた。
――だって約束したから。
思考がフワフワとして定まらないのに歩みは止めない。心と体が乖離していた。
――結実が、此処で待っているって、言ってくれたから。
行かなくちゃ。その約束が果たされる事が絶対に無いとしても。傍から見たら現実逃避であったとしても。今の由紀にはそうする他無かった。
虚ろな瞳はそのまま木々の間を抜け、やがて約束の場所へ辿り着く。
そこには舞い散る桜色の花びらを纏い、満開に乱れ咲く大桜の姿が在った。
「――あぁ」
神城神社の御神木、『神城の大桜』。由紀が此処で結実と出会い、その存在を知った時にはとうに神籬としての役目は終わり、だけれど由紀にとっては結実との縁を目に見える形で指し示し続けてくれた、この世界で最も大切なモノ。
それは今、周りの景色と溶け込む形でこれ以上無い美しい姿をとっていた。深いネイビーブルーの夜空には億千の星々と白い光を放つ満月。四方を囲う木々が生み出す漆黒のベールの中で月光がスポットライトのように巨木の姿を、花びらの一枚一枚を闇夜へ照らし出す。ぼうっと浮かび上がり桜色となった光を辺りへ乱反射させて輝く姿は、まさにこの世のものとは思えぬ程幻想的で美しいものであった。
そしてその姿は忘れもしない。忘れた事なんて一瞬だって無い。
「……何も、ここまで。こんな、今更こんな綺麗に」
思わず由紀は、物言わぬ大木に向かって絞り出す様に言葉を投げかけ、額を押し付け項垂れる。身勝手な言い分なのは分かっている。だけど本当に、由紀にとって今更だった。
――君を一番愛した人は、もう居ないのに。
大桜の下に腰掛け、膝を曲げ由紀はうずくまる。それはあの時と全く同じ状況。いや、頭上から壮麗な桜色の雪が降り注ぐ様はあの日彼が一番求めた理想の姿だ。
――もう、何の意味も無いのに。
ひらひらと舞い落ちる花びらが由紀の頭に降り積もる。それを払うことも無く、じっと虚空を見つめていた。十分。三十分。一時間。ずっと独りきりの空間で。
ふいに、感情が溢れた。
「なんで」
どうして。
「来てくれないの、結実」
死んでしまったの。
「約束したのに」
君が僕に伝えたかったこと。
「僕、待っているんだよ」
僕が君に伝えたかったこと。その全てが、この桜の下で終わってしまった。
「これじゃ、僕。此処でずっと、立ち止まり続けるしか無いじゃない……!」
そう叫んだ声は辺りに虚しく響き渡り、消えていく。由紀はそのまま顔を膝にうずめ、現実から目を背ける様に瞼を固く閉ざす。
「……結実」
呼ぶ。
「結実、結実」
愛しい人の名を、ひたすら呼ぶ。
「結実、結実、結実、結実」
呼び続けた。
「……会いたいよぉ、結実」
声は虚しく響くばかり。応える者は、当然居ない。
何故なら、ここに来れるのは自分の他には一人しかいないのだから。
その人はもう、二度とここを訪れないのだから。
目は閉じたまま、もう一度その時の記憶を辿る。あの日、今と同じようにして咲き誇る『この子』に導かれるようにして辿り着いた僕は、母が絶対気に入るだろう景色を、桜を二人で一緒に見れたら、なんて考えながら独りで泣いていたんだ。
――その時に、君が現れてくれたんだよ。
忘れもしない、可愛らしく愛おしい姿。あの時先に言葉を発したのは、彼女の方だったっけ。最初の言葉は、そう――、
「――綺麗ね、桜」
静寂の世界に、見知らぬ、玲瓏な声が響き渡った。
「――――え」
突然の事に、由紀は伏せたまま目を見開く。
初めは幻聴かと思った。静かな夜だ。草を踏み山の道を歩けばすぐに人の気配は感じ取れる筈なのに、それも無かった。
しかし確かに聞こえた。美しくも何処か無機質で無感情な、聞き知らぬ女の声。
由紀はゆっくりと顔を上げ、黒い瞳を恐る恐る前方に向けた。
桜のように美しい少女がそこに立っていた。
桜のように、と由紀が思ったのは彼女の、幻かと思う程の美しさを例えたからであるが、その特徴的な容姿から桜の花そのものを想起したからでもあった。
満天の星空から齎される光を浴びて輝くのは淡い桜色の髪。ウェーブがかったミディアムヘアの髪の毛が微かに吹く風に揺られ煌めいている。その下で光るのは鮮やかな血のように紅い瞳。それと対照的に肌は一切の穢れなき雪のように白い。遠目でも分かる綺麗な顔の輪郭も相まって、最早一つの芸術だと感じる程魅惑的で美しい顔立ちだった。
そんな彼女が身にまとうのは漆黒の衣。全身を覆う厚いトレンチ風のロングコート。その合間から見えるのは何処かの学校の制服とも、喪服にも見えるブレザーとプリーツスカート。膝までしっかり覆ったニーハイソックスと、その下の厳めしいロングブーツ。その全てが闇夜に溶け込みそうな程黒く、月明かりがもう少し弱ければ造り物のような顔だけ残して殆ど幽霊のような風貌に見えていたかもしれない。
少女は先の言葉を発した後、黙って由紀を、彼の背後の巨木をじっと見つめ続けていた。その半開きのじっとりとした瞳からは何の感情も読み取れない。動きも無い。まるで人形のようだった。しかしそのように佇んでいるだけなのに、その姿は背後の大桜にも勝る幻想的な美を讃えていた。
由紀は由紀で彼女を前に、何一つ言葉を発することが出来ず惚けていた。無防備な状態の中での唐突な出来事に呆気にとられたのが一つ、非現実と思える程に彼女が美しかった事が一つ。
ただただ、彼女の宝石のような瞳を見つめ返していた。
「……………………」
互いに視線を合わせてどれくらい経ったろうか。次第に由紀の顔が熱を帯び始め、頬がじんわりと赤らんでいく。さっきまで冷え切っていた心に様々な思考と疑念が浮かび始め、それらが絡み合って由紀の心を静かなパニックに陥らせる。
――凄く、綺麗。
――何で、此処に?
――何時から居たの? ……さっきの、聞かれた?
不思議な雰囲気の異国の女性。こんな真夜中に山奥の、寂れた廃墟の更に奥に訪れるなんて、普通に考えてかなり珍しい、いやおかしい変わり者であることは間違いない。
しかしそれは彼女から見た由紀だって同様だ。まして一人ブツブツと独り言を呟き、ひたすらに女の子の名前を連呼してうずくまっている姿なんて。
――はずか、しい……。
居心地悪そうに目を伏せる由紀だったが、相変わらず彼女の方に動きは無い。何か返事を返す勇気も無く、そのまま気まずい空気が流れた。
長い沈黙の末、先に動いたのは少女の方だった。視線を由紀の頭上の桜に移し、ゆっくりと音も立てずに歩み寄る。戸惑う由紀を一瞥した後、懐から何か時計のようなものを取り出し、それをじっと見つめながら桜の幹にそっと左手を当てた。
「……そう、貴方がここの『霊子』を集めていたのね。どうりで辺りの霊子濃度が低い」
「え?」
二言目に意味不明な事を言われ変な声が出る。しかし彼女の視線は由紀に向いておらず大桜に向かって喋っているようだった。白魚のように美しく白い手のひらをぴったりと幹に添えたまま、目を閉じ祈るような姿で再び静止する。
「…………」
間近で見ると尚更思う。本当に綺麗な子だ。先程声を発した薄い薔薇色の唇は艶やかで色気があるのに、目を閉じ眠っているような姿は何処かあどけない印象も与える。大人の女性としての魅力と少女らしい可愛らしさを併せ持ったような子であった。先程まで恥ずかしさで赤くなっていた由紀の、その顔の紅潮の意味合いが変わっていく。
思わず見とれていると、不意に少女が目を開く。時計を懐にしまい、そのままちらりと由紀を見下ろし目線を合わせる。由紀の胸がドクンと高鳴った。
「……こんな時間にこんな場所で、あなたは何をしてるの?」
「――え、あ、あの」
しどろもどろな由紀を見つめる紅い瞳はひたすらに無感情。しかし、
「真夜中に、人気の無い山奥。あなたみたいな子が独りで居ていいような場所ではない。普通ではない人にでも遭ったりしたらどうするの」
「……ごめん、なさい」
掛けられる言葉は意外な程真っ当かつ、気遣いのものだった。
少女は小さく息をつき、振り返って桜の木に身を預ける。
「……まぁ、見に来たくなるのも分かる。この子、凄く綺麗」
「は、はぁ。……はい、とても綺麗、です。えと、昨日今日で満開になったばかりで」
「そう。……桜は沢山見てきたけど、ここまで見事に咲いているものはそうは無い」
「……そうですね。僕もこの子が大好きで、特別なんです」
少女はこくんと頷き、顎に手を当て品定めするように再び桜を見上げてみせる。
「ええ。私の見立てだと、今まで見てきた中で歴代一位……いや、二位? それくらいね。立地がもう少し。見晴らしのいい所だったら完璧……いや、あまり目立つところだったら人が集まってしまう。……ままならないわね。周りの草花をせめて整えて……うん」
「そ、そう、いうものですか? ……ふふ」
淡々とした無機質な声で妙に独特な品評を発する彼女に、由紀は何とも言えないギャップを感じてしまい思わず笑みが零れた。
一陣の暖かい春風が吹き周りの木々を、そして二人を包む桜の巨木が揺れる。舞い散る花びらはそれぞれ違った軌道で周囲に桜色の雨となって降り注ぐ。どこまでも美麗なその光景を少年と少女は静かに見つめていた。
自然と、由紀の口が開く。
「……この子も、この場所も、この景色も、小さい頃から全然変わらないでいてくれて、ずっと大好きで。僕の知り合いも、大好き……だったんです」
「……だった?」
思わず、口をつぐんで黙り込む由紀を少女はちらりと伺う。
「……もう、その子は来ないの?」
「……はい」
「…………」
「……えと。何日か前に、……突然、死んじゃって」
「――そう。……………………ごめんなさい」
「い、いえ……こちらこそ」
謝らなければならないのは自分だ。本当に何て馬鹿なのだろう。、此処に来て見知らぬ人にまで気遣いさせるなんて。
再び静寂。暫くの後、気まずい空気に彼女も思う所があったのか平坦な声で問う。
「その子は、あなたにとってどんな存在だったの?」
「……どんな存在、ですか」
「知り合いにも色々ある。ただの知己、敵、味方、利害関係の延長、同一グループの仲間、先輩後輩、友達、親友、家族、恋人……とか」
「そ、そうですね……。えっと、ただの知り合い、ではなかった、です。小学二年生からの幼馴染で、ずっと一緒に居て、友達……親友? 家族……?」
「……? 何それ。煮え切らないのね」
無機質な声にほんの少し怪訝な感情が乗る。
「ごめんなさい……えと、僕にとっては大事で、当たり前のように居てくれた家族みたいな子で。……自惚れじゃなかったら、多分その子も……同じ、気持ちで」
明人にも優香里にも向き合うように促された結実への気持ち。幾度と自分の中で改めてみても顔が熱くなるばかりで結局最後まで上手くまとめることが出来なかった。そして、
「……三日前がその子の誕生日で、彼女がこの桜の前で会って伝えたい事があるって。だからも僕もチャンスだって思って。……此処で会って、話をして。僕からも」
脳裏に結実の笑顔がよぎる。自然と、結局最後まで形にできなかった言葉が口から出る。
「――好きだよ、って伝えようと思ったんです」
「……………………そうだったの」
漸く自分の意志で辿り着いた本当の気持ち。伝えたかった相手は既に居ない。その答えを聞くこともできない。遥か遠い場所に行ってしまった。遅すぎたのだ。二人の絆の象徴であるこの大桜も、紡ぎ出せた愛の言葉も、全てが由紀にとってもう何の意味も無い。
「本当に、駄目なんです。僕。沢山の人に応援してもらって、支えてもらって、見守ってもらって。それでやっと、たった一つの言葉を彼女に伝えようって思うことができて」
――なのに、死んでしまった。
「……こんな事になるなら、もっと、もっともっと早く気持ち、伝えてれば良かったって。そんなことずっと後悔してるんです。全部無駄になってから。……馬鹿ですよね、本当に。心の中で、別に今じゃなくても良いんじゃないかって高を括ってたんです、僕。何時か自然とその子と自分が望む関係になっていって、たとえそうじゃなくてもずっと傍に居てくれるんだって。永遠に変わらないものなんて、一つだってある訳ないのに」
――本当に、どうしようもない馬鹿。
延々と出てくる、重苦しい自責の言葉。それすら誰かの胸を借りなくてはできない。自分がいよいよ嫌になる。由紀の心は暗闇に沈むばかりであった。
不意に、真横から微かに音がした。少女が立ち上がったらしい。そのまま彼女が動くのを由紀は俯いたまま空気で感じだ。
――呆れられちゃったかな。
無関係な相手であることを良い事に、自分は好き勝手に自身の後悔と懺悔を語って落ち込んで見せている。何て身勝手なのだろうか。軽蔑の目と共に敬遠されて当然だ。自分のような馬鹿者はこのままずっと意味の無い自己問答を繰り返すのがお似合いで、
「――真の想いは決して滅びない」
「――ぇ」
目を見開き、前を見る。
少女は由紀のすぐ前に居た。膝をついて、由紀より十センチ程背の高い身体をかがませて覗き込むような姿勢をとっている。服の間に見える太ももは美しく白く輝いて見える。静かにこちらに片手を伸ばして、ゆっくりとした動作で由紀の頭を撫でていた。
少女は宝石のように美しい紅き瞳を由紀にまっすぐ向ける。
「人が抱いた想いは、それがその人にとって本当にかけがえの無いものであるなら、例えその人が死んでも、誰かが死んでも、何が滅んでも、……世界が全部無くなっても、何があっても消えることは決して無い」
艶やかな唇から発せられる言葉はただ、厳かな詩のように朗々と響き渡る。
「そして人が誰かを大切に想う気持ちは最も強いもの。……それは決して滅びる事は無い。永遠に近く離れていても、億万年の時を経ても、何時までも輝いて在り続ける」
由紀を撫でていた手は下がり、するりと彼の頬に優しく触れる。彫刻のように美しく冷たそうな手のひらは、驚く程温かく心地良いものだった。
「だから、私が保証する」
少女の瞳に由紀の頭が映る。それは、心なしか潤んで歪んでいるように見えた。
「あなたが今、その子に抱いてあげている想いは、世界の何よりも尊く美しい」
由紀は、目を逸らす事が出来なかった。ただ、目の前の少女に魅入られていた。美しく無感情な相貌と、その彼女が発した言葉の重みに。
「……それに、あなたは馬鹿ではないわ。逆よ。ここまで自ら辿り着いて自分の想いをしっかりと、この子の前で形に出来ているじゃない」
そう言い、少女は立ち上がり由紀から半歩離れて上を見る。彼女の視線の先、由紀の頭上にあるのは壮麗な満開の大桜。
「桜は人の生涯を体現し、人の想いを集める花。どの世界だってそれは変わらない。今の様に美しく咲き誇り生きる創生の因果も、儚く散って無に帰る破滅の因果も、両方とも持ち合わせている。……この子は特に強くね。それは生死の境界すら超えて、人の想いをあるべき場所まで導き繋いでくれる」
例え、もう会うことも話す事も出来ないとしても。
少女は再び由紀の前でかがみ、静かに告げる。
「だから今、あなたが私とこの子に吐露してくれた大切な想いを無駄だなんて、馬鹿な事と見なさないで。あなたの想いはもう十分過ぎる程に、その子に伝わっている筈だから」
「――――――――っ」
再び一陣の風が吹く。それに伴って舞い踊る桜の花吹雪を背景に由紀の瞳に映る不思議な少女は、感動すら覚える程神々しく美しいと由紀は感じた。
唐突に、由紀の視界がぼやける。目頭が俄かに熱を帯び始めた。顔全体が熱い。
――駄目っ!
咄嗟に堪え、必死で抑える。そこから先は由紀にとって絶対あってはならないのだ。
「……何故、泣くのを我慢するの?」
当然、彼女には悟られていた。
「僕が泣くのだけは、駄目なんです」
「何故、あなたは駄目なの?」
「……皆、あの子の事を想って泣いて。……死んだ事を受け入れてて。これで、最後の僕が泣いてしまったら、もうあの子は。もう、もう」
目を伏せ、一人虚しく抵抗する由紀の前で、少女は少しの間祈るように目を閉じた。そして次に発した声は、由紀が今まで聞いた中で最も優しく響いていた。
「……本当に、優しくて強い子なのね、あなた」
そう告げた次の瞬間。
少女は由紀の小さな身体を包み込むように抱きしめていた。
突然の出来事に、由紀は目を見開いたまま完全に硬直していた。
永遠にも感じる時間、実際は数分にも満たない程。降りしきる桜吹雪の中、静止した二人はまるで絵画上の人物の様にそのまま抱き合っていた。
「――……、………………――?」
とても良い香りが、由紀の鼻腔を蕩かした。彼女の匂いだ。甘く芳醇で、高貴でありつつも優しく包み込まれるような、心地良い匂い。
――桜の、匂い。
そう思い至るや否や、次第に由紀の世界に時間が戻り始める。頭が冷静に動き始め、自身の状況を理解し始める。瞬間、由紀の顔は熟しきった林檎のように真っ赤になった。
「なぁ、――あ、んぁ!!?!?」
「……落ち着きなさい」
素っ頓狂な由紀の悲鳴にも臆さず、彼女は淡々と呟く。髪越しで感じる彼女の頬は見た目通り柔らかく、そして温かく心地良い。
「――泣きなさい」
「…………え?」
少女は静かに促す。
「今は思う存分、枯れ果てるまで、涙を流しなさい」
由紀の心臓がドクンと高鳴った。息が詰まる。対して服越しに聞こえる彼女の心臓の鼓動はトクントクンと淀み無いリズムで、由紀に言い知れぬ安心感を与えているようだった。
「涙は流す本人の為だけに流すものじゃない。自分の為に、誰かの為に、世界の為に流すものだから。それは世界を癒し、皆を癒し、あなたを癒して前を向かせる為に必要なもの」
「……ぁ、う。で、も」
「大丈夫」
少女は全て許して諭す。
「……此処には私しかいない。私だけが見てる。他への心配は全く要らない。だから、今は我慢しないで。あなたの為だけじゃない、彼女の為に泣いてあげて」
「……ぁ、あぁ」
母親が子をあやすように、彼女に抱きとめられていた由紀は。
「大丈夫、大丈夫」
神が人の子を導くように、少女から慈愛に満ち満ちた声を囁かれた少年は。
――結実。
「――ぁぁぁ、うぅあああ、うぁあああああああ、あああああああああああ!!!」
漸く全てに向き合い、本当の感情を世界に示した。




