1.9 喪失
三月十八日、午前七時半。火曜日の朝。
定時で鳴るようにセットされた目覚まし時計のアラームが起床を促す。本日何度目の呼び起こしだろうか。ベッドに横たわる由紀の手はフラフラと力無く虚空を彷徨い、時計の頂点を捉えて無機質な電子音を停止させた。
――起きて、準備しなきゃ。
ベッドに投げ出されていた身体を重そうに起こし、薄ぼんやりした表情を窓の方へ向ける。黒い瞳に映る景色は快晴。幾筋かの巻雲が棚引く空の色は深く美しい青色で、まだ少し白けた地平線の向こうから昇る太陽の光は桜美丘の街を、人々が住む家を、そして由紀を暖かく包み込み、数日前までの寒気を消し飛ばすような春の訪れを伝えていた。
――着替えて、学校に行かなくちゃ。
寝間着を脱ぎ、たどたどしい動きで制服に着替える由紀の部屋は散らかっていた。リビングも台所も同様に衣類や食器、生活用品が無造作に散乱している。常に整理整頓を心掛ける由紀において普通なら絶対ありえない家の有様だった。
「……帰ったら、流石に今日こそ片づけなくっちゃ。だらしないや」
小さく笑ってそう呟く由紀の声には何の感情も無い。大きくて綺麗な黒い瞳は虚ろで、深い闇に沈み切っていた。
上手く頭が回らない。今日しなければならない事、明日しなければならない事、これから先の事。一つ一つ考えていかなくちゃいけないのに、思考は指の隙間から零れ落ちる水のように湧いては唯々消えていく。
――ずっと悪い夢、見てるみたいだ。
今日目覚めた際もそう思った。一昨々日からずっとそう。身も心もふわふわとして辺りを漂っている感じがしてしょうがない。自分は何処か別の世界に来てしまった気すらするのだ。
そんな由紀のぼうっとした考えは、毎朝の習慣でつけていたテレビのニュース報道の声によって吹き飛ばされ、彼を現実の世界へ引き戻す。
『――続報です。三月十五日深夜未明、舞之宮市南区の市営公園で県立舞之宮高校に通う神城結実さん(十六)が遺体となって発見された事件で、衣服に付着していた指紋が今月中に起きた三件の事件現場から検出されたものと一致した事が警察の調べにより判明しました。また被害者はこれまでの事件同様、頸部を刃渡り二十センチ以上の刃物で切り裂かれていた他、胸部に刃渡り不明の刃物による殺傷痕が残っており、警察は――』
「――やめ、て」
思わずテレビに向かって掠れた声で呟き、乱暴な動きで電源を切った。
――嘘、なんだよ。
事実なのだ。
――何かの冗談。そうに決まっている。
起こってしまった事なのだ。
あの日からもう三日経った。一つの事実を理解しようとする自分と、それを受け止めるのを拒絶する自分、二つの心が由紀の小さな身体の中でずっと争っているような状態だった。しかしやがて由紀も認めざるを得ないのだ。
――『結実ちゃんが何時までもお前の近くに、当然みたいに居るだなんて思うなよ』
不意に明人の言葉が由紀の脳裏に浮かぶ。言葉の意味は理解していても、何処かで自分は軽んじていたのだ。何の根拠も無くとも当たり前に在って、これから先も続くであろう彼女が居る世界を。神城結実という女の子が傍に居てくれる幸せな日常を。
消えてしまったのだ、あの日に。冷たい死を以て。何時だって自分の傍に居てくれて、温かくて優しく笑い、自分の、佐倉由紀の人生を眩い光で照らしてくれた存在が。
『ありがとう、由紀。私、必ず行くから。……待っていて』
最後のあの日、夕日に照らされた結実の姿がフラッシュバックした。
「――ぅ、あ」
神城結実は、由紀の『幸せ』は永遠に喪われてしまった。
結実を待っていたあの日。三月十五日、彼女の誕生日。そこから今日までの丸三日間は由紀にとって最悪の意味で劇的に目まぐるしく、今思い返しても断片的な部分しか覚えていなかった。神城神社で待つこと数時間、「遅いなぁ、結実」と心配していた矢先に複数人から鬼の様に電話がかかってきた。学校の先生、警察、そして優香里と明人。
最初に電話をくれた先生の声は由紀に落ち着く事を促しながら泣きそうに震えていた。
次にかけてきた警察は事務的で冷静な口調だったが沈痛な思いが声に表れていた。
頭が真っ白になり混乱する由紀に追い討ちをかけたのが優香里からの電話だった。地方方言混じりの早口な声は怒り狂うように、泣き叫ぶようにして激しく荒れていて、部分的にしか内容を聞き取れなかったが、それで呆然としていた由紀を漸く我に返らせた。
優香里と入れ替わるようにしてかかってきた明人の電話を受けつつ、由紀は震える足を無理矢理動かし神城山を飛び出した。時刻は深夜二時過ぎ。既に電車は動いていない。麓に停めていた自転車を拾うことも忘れて、そこから最も近い明人の家に由紀は猛然と駆け出した。明人の父親に車を出してもらって舞之宮市へ向かった。
そこから先はもうちゃんと覚えていない。警察署に行って事情聴取を受けた。恐らく結実の遺品から由紀達との関係を知ったのだろう。優香里は先に着いていて、俯いた姿勢のまま身体を震わせていた。結実のクラスの担任を始め、学校の先生も幾人か立ち会っていた。皆、今にも死んでしまいそうな程暗い顔をしていた。
――なに。なにが、起こってるの。
由紀は。恐らくこの世界で一番取り乱す筈であろう少年は。
――僕、僕は。どうすれば?
空漠とした思考の中で唯々、答えの無い自問自答を繰り返していた。
それは、由紀が最も望まない形で結実の顔を再び見るまで、終わることは無かった。
結実の葬儀は昨日、十七日の午前中に執り行われた。
場所は桜美丘駅から西、由紀と結実が以前通っていた小学校に程近い場所にある葬儀場。二人が小学生だった時に何度か見知らぬ人々が参列している様子を見かけたことがある、その程度の思い出しかない印象の場所だった。
憔悴しきっていたのは彼女だけではなかった。その時葬式場に居た者全てがそうだった。結実と同じクラスの子達に、声楽部のメンバー達。小中学校で仲が良かった友達も幾人か参列していた。そしてその全てが悲しみに暮れ、唯々涙を流していた。
由紀は、優香里がその凛とした花の様に美しい顔をあんなにグチャグチャにして、子供みたいに泣き喚く姿を見た事が無かった。
由紀は、明人が普段のしっかりとして頼りがいのある雰囲気を完全に失って、自身の家族と共にさめざめと泣く弱弱しい姿を見たことが無かった。
皆が皆、掛ける声が見つからぬ程に痛々しい有様で、一人の人間の死を悼んでいた。
由紀は、泣かなかった。
由紀だけは、涙を流していなかった。
やがて、感情の無いロボットのように由紀は献花の列に並び、その時を迎える。
重苦しい葬式場の中にあって、厳かながらも唯一華やかな場所。溢れんばかりの花々に装飾された祭壇の中央に安置された棺。
結実は、其処に居た。
誕生日のあの日から、ずっと脳裏で追い求め続けた由紀の想い人が横たわっていた。
由紀は虚ろな表情で彼女を覗き見る。棺の中の結実の顔は、彼が良く知る見慣れた彼女そのものであった。ふわふわで柔らかな栗色の髪に、ほんのり赤みがかった可愛らしい頬。目を閉じた姿はただ眠っているだけにも見えて。耳を傾ければ寝息が聞こえてきそうだ。
――結実。
だが、その目が開く事はもう二度とない。
――起きて、結実。
その愛らしい唇から言葉が発せられる事は永遠に無い。
――――――――。
その日の由紀の記憶は、そこまでであった。
そして、現在。葬式を終えた次の日。
由紀は、学校に登校していた。ずっと思考が宙ぶらりんになっている様だった。他に為す術がない以上、なるべく普段通りの日常を演じるしかなかった。
それが現実逃避だとしても、由紀はそんな思考に縋るしかなかった。
良く晴れた春の白い空。独り歩く通学路で見た桜美丘市の桜並木も、教室の窓から見える舞之宮高校の敷地内に植えられた桜の花も徐々に芽吹き始め、この調子ならば一時は延期が危ぶまれた『桜花祭』も例年通り催されるだろう。
『――今年も一緒にお花見、したいもんね』
そう言って笑う結実の横顔が脳裏に焼き付いて離れなかった。




