第6話:戦略的撤退という名の逃走
(でもな、カエル野郎! 俺もあの頃の、ただ震えてるだけのプルプル野郎とは違うんだよ!)
俺は自分を鼓舞するように心の中で叫び、影から影へと弾丸のように飛び移った。シャドウスライムの素早さは伊達じゃない。特大の酸弾が俺の残像を追いかけ、次々と地面をクレーターに変えていく。
(ヒャッハー! 当たらなければどうということはないぜ! 見てるかアリア! これが俺の実力よ!)
《調子に乗ってる場合じゃないでしょ! あんたの攻撃、全然効いてないじゃない!》
アリアの冷静なツッコミに、俺は内心「ですよねー!」と思考で返した。
そうなのだ。俺の攻撃は、ことごとく通用していなかった。
木の影から飛び出し、渾身の力で振るった鉤爪は、大王酸弾蛙のぬめった皮膚にカキンッ!と甲高い音を立てて弾かれた。
手応えゼロ。
(嘘だろおい! 俺の自慢の鉤爪が爪切りレベルの威力だと!?)
ならばと、背中の触手を鞭のようにしならせて叩きつけるも、ペチッという情けない音が響くだけ。
さらに、接近戦を挑もうとすれば、巨大な口からミサイルのように伸びてくる、粘液まみれの長い舌が俺を薙ぎ払おうとする。掠めただけで、身体の一部が痺れるような衝撃を受けた。
(くそっ、防御も高けりゃ攻撃範囲も広いとか、クソゲーのボスかよ!)
酸弾の雨を避けながら、俺は必死に活路を探す。奴の弱点はどこだ? 目か? 口の中か?
だが、あの巨体だ。弱点であろうと、生半可な攻撃では致命傷にはなるまい。
それでも、やるしかない。俺はスライム時代の自分を、もう一度殺すのだ!
俺は覚悟を決め、酸弾の発射直後のわずかな硬直を狙った。
(喰らいやがれ! 俺の全力全開、シャドウ・クロー・ストライク!)
ありったけの力とスピードを乗せた一撃。黒い閃光と化した俺の爪が、大王酸弾蛙の首筋に深々と――突き刺さることはなく、ズズズッ…と嫌な音を立てて数センチほど食い込んだだけだった。
致命傷には程遠い。
そして、俺は見てしまった。
俺の渾身の一撃を受けた大王酸弾蛙の、巨大な目に浮かんだ感情を。
それは「痛み」や「怒り」ではなかった。
明らかに、「嘲笑」の色だった。
――グチャリ。
次の瞬間、俺の身体は凄まじい衝撃と共に吹き飛ばされていた。蛙の舌の一撃だ。反応できなかった。
空中で体勢を立て直しながらステータスを確認する。
【HPが25減少しました。残りHP:25/50】
一撃で、HPが半分もっていかれた。全身が砕け散ったかのような激痛が走る。
まずい。死ぬ。
(……逃げるか?)
脳裏に、その選択肢が浮かぶ。
冗談じゃない。ここで逃げたら、何のために進化したんだ。
だが、心の奥底で、臆病だった頃の俺が叫んでいる。
(死んだら終わりだぞ! 生きてさえいれば、また強くなれる! プライドなんて、喰えるのか!?)
そうだ。死んだら元も子もない。
会社員だった頃を思い出せ。理不尽な上司に頭を下げ、プライドをゴミ箱に捨てて、それでも生き抜いてきたじゃないか。生き残ることが、何よりも優先されるべき勝利なのだ。
《……撤退しな! 無駄死には一番つまんない終わり方だよ!》
アリアの声が、俺の決断を後押しした。
俺は大王酸弾蛙を睨みつけ、ありったけの虚勢を心の中で張った。
(覚えてろよ、カエル野郎! 今日はちょっとコンディションが悪かっただけだ! 次に会う時が貴様の命日だと思っておけ!)
社畜根性と反骨精神がないまぜになった捨て台詞を念じ、俺はスキル『影潜み』と『擬態』をフル活用して、湿地帯の深い霧の中へと姿をくらました。
これは俺の必殺、戦略的撤退だ! 断じて逃げてるわけじゃないからな!…多分!
背後で轟く蛙の不満げな咆哮を聞かないふりをして、俺はただひたすらに逃げ続けた。
いつものねぐらに戻った俺は、その場にへたり込んだ。
ボロボロになった身体が『自己修復』によってゆっくりと再生していく。
(……くそっ……! 負けた……完敗だ……!)
悔しさが込み上げてくる。それと同時に、生き延びたことへの強烈な安堵が、俺の全身を弛緩させた。
(うるせえ……。で、どうすりゃいいんだよ。あのカエル、どう考えてもステータスが異常だろ。チートか? 運営に報告しろよ)
《運営(私たち)に言われてもねぇ。あれがこのエリアの『格』ってやつだよ。あんたも敗因は分かってるでしょ?》
分かっている。痛いほどに。
純粋な攻撃力不足、防御手段の欠如、有効打の不在。
つまり、今の俺のまま、ただ力をつけただけじゃ、絶対に勝てない。
OK、一旦村に戻って装備を整えるフェーズだな!
《その通り。今のあんたに必要なのは、全体的な底上げだけじゃない。あのカエルを倒すための、もっと尖った『何か』だよ》
尖った、何か。
次の狩りは、目的を持ってやらなきゃダメってことか。
漠然と強さを求めるのではなく、「大王酸弾蛙を倒す」という明確な目標のために、必要なスキルや能力を持つ魔物を狩り、その力を『捕食吸収』で奪い取る。
それこそが、今の俺がすべきことだ。
俺はゆっくりと立ち上がった。身体の傷は、ほぼ癒えている。だが、心の中の闘志は、敗北の悔しさを燃料にして、以前よりも激しく燃え上がっていた。
(よし、決めた! まずは、俺のこの爪を最強の矛に鍛え上げる!)
目標は、『貫通力』の強化。
(アリア! この森で、一番カッチカチの魔物はどこにいる! そいつを喰って、俺の爪の新しい砥石にしてやるぜ!)
俺の威勢のいい宣言に、アリアは呆れたように、しかし楽しそうに応えた。
《はいはい。データによれば、湿地帯の北にある岩場地帯に、面白い魔物がいるよ。『鉄甲蟲』っていう、全身が金属質の甲殻で覆われた虫だけど……今のあんたの爪じゃ、傷一つ付けられないかもね?》
(望むところだ!)俺は心の中で不敵に笑った。(傷がつかないなら、溶かしてでも喰ってやる。見てろよ、大王ガエル! 次に会う時まで、首を洗って待ってな!)
俺は新たな獲物を求め、岩場地帯へと向かって駆け出した。
戦略的撤退は、決して敗北ではない。より大きな勝利を得るための、必要不可欠なプロセスなのだ。
……と、自分に言い聞かせながら。