第5話:女神様のお告げ
(なあアリア、この森で一番強い奴はどこにいる? サクッと倒して食っちまおうぜ!)
復讐を終えた高揚感のまま、俺は意気揚々と脳内ナビゲーターに思考を送った。
シャドウスライムに進化した俺の力は、もはやこの森に敵なし! と言っても過言ではあるまい。いや、過言かもしれないが、今はそんな気分なのだ。
《はいはい、調子に乗らない。さっきまで巨大コウモリ一匹にビビって半泣きだったの、誰だっけ?》
アリアのツッコミが、思考にクリティカルヒットする。
うっ……。確かにその通りだが、それは進化前の話だ。今の俺は違う。黒曜石のボディに真紅の単眼、背中から伸びるクールな触手。どう見ても強キャラの風格である。
(あれは戦略的撤退の練習だ! 今の俺なら、あのコウモリなんて鉤爪の一振りで……って、もうやった後だったわ)
《まったくもう……。まあ、確かにきみ、肉体だけじゃなくて精神もだいぶ変わったよね。前はあんなにビクビクしてたのに、今はすっかり戦闘狂じゃん》
戦闘狂、か。否定はしない。いや、できない。
あのボアウルフを一方的に屠った時、影喰い蝙蝠を蹂躙した時、俺の心の奥底で何かが歓喜の声を上げたのは事実だ。
スライムだった頃の、ただ怯えるしかなかった無力な自分。あの記憶が、俺を「強さ」へと駆り立てる。
二度と、あんな惨めな思いはしたくない。だから、もっと強く。誰にも脅かされない、絶対的な捕食者になるんだ。
そんな俺の渇望を、表面的な軽口でコーティングする。それが、今の俺の処世術だった。
(で、どうなんだよ、森のボスキャラは? さっさと案内してくれよ、女神様)
《……いるには、いるよ。この『嘆きの森』には、あんたが今まで戦ってきた相手が子供に見えるような、とんでもない魔物がうじゃうじゃいるんだから。特に森の最深部にいる『主』なんて、正真正銘の規格外。今のあんたが挑んでも、瞬殺されて魂ごと喰われてゲームオーバー。リトライ不可。それでおしまい》
アリアの声は、いつもの軽さが消え、本気の警告を帯びていた。その温度差に、俺は少しだけ気圧される。
(しゅ、瞬殺……? マジで? このイケメンスライム(俺)が? え、コンティニュー不可のクソゲー!? 鬼畜仕様すぎ!)
《マジのマジ。というか、私もその『主』の正確なデータは持ってないんだよね》
(は? 女神様なのに知らないことあんのかよ! ポンコツか!)
《ポンコツ言うな! 私の知識は万能じゃないの! 私たちがアクセスできる情報っていうのは、基本的にこの世界『ヴェルム』に記録されてきた“歴史”や“観測記録”、あとは過去に転生してきた『迷い人』たちのデータがベースになってるわけ。言ってみれば、超高性能な検索エンジンみたいなもんよ》
アリアは少しムキになったように説明を続けた。
《だから、誰も足を踏み入れたことのない秘境とか、神話の時代から眠ってるようなヤベー奴とか、そもそも観測記録が少なすぎる存在については、情報が断片的だったり、最悪『不明』って表示されるの! この森の主は、まさにそのケース。強すぎて誰も近づけないから、まともなデータがない。『規格外』って警告アラートが出てることしか分からない。そんな相手に、成り立てのあんたが勝てると思う?》
規格外……。その言葉の響きは、俺の万能感をいともたやすく打ち砕いた。
なるほど、この世界は俺が思っているよりもずっと広く、そして深いらしい。俺が今いる場所は、広大な世界の、ほんの入り口に過ぎないのかもしれない。
(……分かったよ。さすがに『規格外』は後回しにしてやる。じゃあ、もっと手頃な中ボスはいないのか? 俺のこのクールな爪の錆にしてくれるような、いい感じの奴がさ)
《ふん、 分かればよろしい。……それなら、いるよ。あんたにとっても因縁の相手の、親玉がね》
アリアの声に、再び楽しそうな響きが戻る。
(因縁の相手の親玉……?)
《そう。この森の南に広がる湿地帯。そこに、この辺りの蛙たちの頂点に立つ、『大王酸弾蛙』がいる。データベースによると、普通の酸弾蛙が束になっても敵わない、正真正銘のエリアボスだよ。どう? 腕試しにはちょうどいいんじゃない?》
大王酸弾蛙。
俺がスライム時代に死闘を繰り広げ、そして『酸』のスキルを得るきっかけとなった、あの蛙の王様か。
それは確かに、俺の成長を確かめるにはうってつけの相手だ。それに、何より名前がいい。「グレート」だなんて、特撮ヒーローの映画版に出てくる敵みたいで、実にそそられるじゃないか。
(よーし、決めた! 次のターゲットはグレートなカエル野郎だ! どっちが真のグレートか、教えてやろうじゃないの!)
俺はアリアのナビゲートを頼りに、森の南へと向かった。
シャドウスライムの身体は、驚くほど快適だった。ぬるぬると地面を這っていた頃とは違い、しなやかな四肢で木々の間を音もなく駆け抜ける。時折遭遇する魔物も、もはや俺の敵ではなかった。
木のフリをして近づき、背後から鉤爪で一閃。影に潜んでやり過ごし、通り過ぎた獲物の足元から触手を伸ばして絡めとる。戦闘は狩りとなり、狩りはゲームとなった。
やがて、湿った土と淀んだ水の匂いが強くなってきた。木々の背は低くなり、足元はぬかるんでくる。
視界の先には、濃い霧に包まれた広大な湿地帯が広がっていた。
(うわ、雰囲気あるな……。RPGなら間違いなくボスエリアだろ、ここ)
俺はスキル『擬態』で体表を湿った岩のような質感に変え、慎重に足を進める。
軽口とは裏腹に、俺の全身の感覚は最大限に研ぎ澄まされていた。ほんの少し前まで抱いていた万能感は、この異様な雰囲気の前に霧散し、代わりに心地よい緊張感が背筋を駆け上る。
その時、霧の向こうで、巨大な影が蠢いた。
ズズ……ン、と地が揺れる。
俺は思わず、近くの岩陰に身を隠した。赤い単眼が、霧の奥の影を凝視する。
(お、おいおい……なんだよ、あれ……)
霧が風でわずかに晴れ、その巨体が姿を現した。
それは、蛙だった。だが、俺が知っている酸弾蛙が子供に見えるほどの、圧倒的な巨体。
小型トラックほどの大きさはあるだろうか。ぬらぬらと光る深緑の皮膚には、溶岩のような禍々しい模様が浮かび上がっている。そして、巨大な二つの目は、ただの獣ではない、狡猾な知性の光を宿してギョロリと動いていた。
(……デカすぎんだろ! グレートなんてレベルじゃねえ! アルティメットだよ、あれは! これもう怪獣じゃん! ウルトラマン呼ばなきゃ!)
俺の脳内ツッコミも、本気で震えていた。本能が、魂が、けたたましく警鐘を鳴らしている。
逃げろ、と。あれは、お前が今、相対していい相手ではない、と。
大王酸弾蛙が、俺の存在に気づいた。その巨大な目が、俺が隠れている岩陰を正確に捉える。
――グォオオオオオッ!
それは蛙の鳴き声というより、地獄の底から響くような咆哮だった。湿地帯の空気がビリビリと震える。
そして、その巨大な喉が、ありえないほど大きく膨らんだ。
(やべえ、来る!)
ヒュゴォッ!という轟音と共に、人の頭ほどもある巨大な酸の塊が撃ち出された。
俺は咄嗟に影から飛び出し、シャドウスライムの素早さを最大限に発揮して横へ跳ぶ。
コンマ数秒後、俺がさっきまでいた場所――俺が擬態していた岩ごと――が、轟音と共に消滅した。ジュゴオオオオッというおぞましい音を立てながら、地面が広範囲にわたって抉られ、沸騰したように泡立っている。
(……マジかよ、あれは反則だろ……!)
悪態が、思考の中で渦巻く。だが、恐怖に染まっていた俺の心に、別の感情が燃え上がった。怒りだ。そして、挑戦心。
赤い単眼が、闘志の炎を宿して巨大な蛙を睨みつけた。
そうだ、怖い。とんでもなく怖い。
だが、だからこそ、いい。
ここでこいつを喰らえば、俺はもっと、もっと強くなれる!
(でもな、カエル野郎! 俺もあの頃の、ただ震えてるだけのプルプル野郎とは違うんだよ!)
俺は心の中で咆哮を返し、影から影へと弾丸のように飛び移った。特大の酸弾が、俺を追って次々と地面を穿つ。
だが、当たらなければどうということはない!
恐怖と興奮がないまぜになった、悪魔的な笑みが、顔のない俺の顔に浮かんでいた。さあ、第二ラウンドの始まりだ。