第3話:進化への渇望
酸弾蛙だったものが、俺の身体の中で完全に溶けて消えた。
勝利の余韻と、全身を駆け巡る新たな力。俺はしばらくその場に広がり、先程までの死闘を反芻していた。
内側から溶かされるあの灼熱の痛み。一歩間違えれば、俺がこの沼地の泥になっていた。
その事実が、遅れてやってきた恐怖として全身を駆け巡り、俺はぶるりと震えた。
《おー、やったじゃん! スキルまでゲットとか、超ラッキー!『酸分泌』かー、いいねいいね! これで攻撃手段が増えたわけだ》
アリアの能天気な声が、俺の恐怖を少しだけ和らげてくれる。
そうだ。俺は勝ったんだ。そして、強くなったんだ。
(酸分泌……。あの蛙みたいに、酸を飛ばせるのか? 必殺技の名前考えなきゃな。『俺汁ブシャー』とかどうよ?)
《いやいや、きみはまだスライムなんだから、そんな器用な真似は無理。せいぜい身体の表面から酸を滲ませるのが関の山だよ。ていうか、その技名は却下。ダサすぎ》
ですよねー。
俺は試しに、スキル『酸分泌』を意識してみた。身体の表面の一部が、じゅわっと微かに泡立つ。
近くにあった枯れ葉にその部分を押し付けると、葉はゆっくりと溶け、小さな穴が空いた。
威力はまだ低いが、紛れもなく俺自身の「牙」だ。
これなら、もっと効率よく狩りができる。もっと早く、力を上げられる。
進化。
その目標が、俺の中で現実味を帯びて燃え上がった。
この醜く、不自由な身体から抜け出したい。手足が欲しい。イケメンになりたい。
その日を境に、俺の狩りは変わった。
これまでは恐怖に怯え、生きるために仕方なく行っていた捕食。それが、明確な「力上げ」という目的を持った作業へと変質した。
俺は酸弾蛙のテリトリーに留まり、奴らを積極的に狩り始めた。
一体、また一体と屠っていくうちに、戦闘は洗練されていった。
蛙の酸弾を木の幹や岩を盾にしてやり過ごし、インターバルの隙を突いて背後から組み付く。そして、全力で『酸分泌』を発動させ、内外から同時に相手を溶かす。
このコンボを確立してからは、HPを危険域まで減らすこともなくなった。
力をつけるたび、俺は「俺、強くなりすぎてね?」という全能感に包まれた。
もはや酸弾蛙では、物足りなくなってきた頃。
もっと強い相手を。もっと力を。焦りが、俺の判断を鈍らせていたのかもしれない。
ふと、森の奥から甘い香りが漂ってきた。蜜のような、それでいてどこか肉の焼けるような、抗いがたい香り。
(お、レアアイテムの香り……! これは行くしかないっしょ!)
俺は、その香りに誘われるように、ぬるり、ぬるりと身体を進めた。
《ちょ、そっちはヤバい奴の縄張りだよ! アリアさんのナビを無視するなー!》
アリアの警告を聞かず、俺は香りの発生源である巨大な樹の洞にたどり着いた。
洞の中には、拳ほどの大きさの、淡い光を放つ花が咲いている。
《うわ、ちょっ、ストップストップ! それ以上近づいちゃダメだって! トラップだよ!》
アリアの切羽詰まった声が響く。だが、遅かった。
俺が「お宝ゲットだぜ!」と花に見惚れていた、その一瞬。
頭上から、音もなく黒い影が降ってきた。
鋭い何かが、俺の身体の一部を抉り取っていく。激痛!
これまでの戦闘とは比べ物にならない、肉を引き裂かれるような痛みだ!
【HPが10減少しました。残りHP:12/22】
一撃で、HPが半分近く持っていかれた! ポーション! ポーションどこ!?
俺TUEEEからのYOU DIEDコンボ早すぎ!
俺はパニックに陥りながら、必死にその場から離れようともがく。
影は素早く宙に舞い上がり、木の枝に逆さまにぶら下がった。それは、翼を広げれば1メートルはあろうかという巨大な蝙蝠だった。
《だから言ったのに! あれは「影喰い蝙蝠」! 影を喰うと本体にもダメージが入るチート野郎だよ! あんたのステータスじゃ絶対に勝てない! 逃げて!》
逃げろ、と言われても、身体が竦んで動かない。蝙蝠の赤い目が、俺を「次の餌」としてロックオンしている。
死ぬ。今度こそ、本当に死ぬ。さっきまでの万能感、どこ行った!?
影喰い蝙蝠が、再び翼を広げた。もうダメだ、人生(スライム生)オワタ。
その時だった。森のさらに奥から、地響きのような咆哮が轟いた。
ゴアアアアアッ!
空気が震え、木々がざわめく。
影喰い蝙蝠は、その咆哮にビビって動きを止め、忌々しげに洞の花を一瞥すると、羽音一つ立てずに闇の中へと消えていった。
(た、助かった……? 主人公補正、キターーー!)
《……はー、マジで運が良かったね。近くにいた、もっとヤバい奴の縄張りに侵入しちゃったみたい。蝙蝠もそれにビビって逃げたんだよ。どっちにしろ、ここに長居は無用! さっさと離れな!》
アリアに急かされ、俺は命からがらその場を後にした。もう香りに興味はない。
ただ、安全な場所へ。腐葉虫しかいない、あのチュートリアルエリアに帰りたい。
自分の巣穴に戻った俺は、しばらく動けなかった。慢心。油断。そして、圧倒的な力の差。
この森では、一瞬の判断ミスが死に直結する。
(……怖い。もう、あんな思いはしたくない)
だが、同時に、激しい怒りと屈辱が腹の底から湧き上がってくる。
あのクソコウモリ、なすすべもなく俺を蹂躙しやがって。許さん。
いつか、必ず焼き鳥にしてやるからな!
恐怖は、俺の進化への渇望を、さらに燃え上がらせる燃料となった。
それからの俺は、以前にも増して慎重になった。しかし、狩りの手は緩めなかった。
酸弾蛙を狩り、時には腐葉土の中に潜む大ミミズ「土喰い(アースイーター)」を溶かし、着実に力をつけていく。
そして、ついに最後の獲物を探していつもの沼地へと向かった。
すると、そこには信じられない光景が広がっていた。
三匹の酸弾蛙が、一箇所に集まって鳴いている。
(カエルが3匹! ドラクエかよ!)
一匹なら楽勝だが、三匹同時はヤバい。三方向から酸を吐かれたら避けきれない。
《うわー、面倒なのに出くわしたね。どうする? 一旦引く?》
それが賢明だろう。だが、俺は首を横に振った。(という念を送った)
進化はもう目の前だ。このチャンスを逃したくない。
それに、ここで三匹同時に相手にして勝てなければ、この先、この森で生き抜いていけるわけがない。作戦名は『ガンガンいこうぜ』だ!
俺は覚悟を決め、蛙たちを狭い岩場へと誘い込む。
追ってきた蛙たちは、一体ずつしか通れない。先頭の一匹が喉を膨らませる。
俺は身体を丸め、その表面に『酸分泌』の膜を張った。
ヒュッ! 酸弾が俺の身体に直撃する。
ジュウウウッ!
激痛が走るが、以前ほどのダメージではない!『酸耐性』と俺汁(酸)バリアが威力を減殺しているのだ。耐えられる!
俺は怯まずに前進し、隙だらけの蛙に真正面から覆いかぶさった! 後続の酸弾が背中に当たるが、構うものか!
まずは目の前の一匹!
死闘の末、俺は最後の三匹目を溶かしきった。全身ボロボロだったが、心はかつてないほどに満たされていた。そして。
《【進化の条件が満たされました。進化が可能です】》
脳内に、待ち望んだ声が響き渡る。
瞬間、俺の全身が眩い光に包まれた。身体が内側から再構築されていく!
(さあ、どんなイケメンになるんだ俺!? ワクワクが止まらねえぜ!)