(6)
その日の晩、フィーヌは久しぶりにホークと向き合って話をした。
「ええーっ!」
宿屋の一室に、大きな声が響く。
「シェリーって、馬の名前なのですか?」
フィーヌは思ってもみなかった事実に驚いた。ずっと、女性の名前だと思っていたのに。
「ああ。シェリーは長年俺が相棒にしていた牝馬だ。ここ一年くらいは繁殖と妊娠で、今は別の牡馬に乗っているが」
「そんな──」
フィーヌは呆然とする。
「言ってなかったか?」
「聞いてないかと……」
(え? じゃあ、わたくしって二年間も馬を愛人だと思っていたってこと?)
おかしいと思うタイミングは何度もあった。
愛人がいるのにもかかわらずホークは毎晩フィーヌを抱き寄せて寝ていたし、日中どこかで逢瀬を重ねているようにも見えなかった。だから、一体いつ会っているのかといつも不思議だったのだ。
けれど、完全にシェリーを人間の女性だと思い込んでいたフィーヌはふたりが別れたという確証も持てず、今日までホークを疑ったままでいた。
「じゃあ、厨房のシェリーさんは?」
「厨房のシェリー? 誰だ?」
「え? アンナが時々シェリーさんが厨房にいるって──」
「ああ」
ホークはようやく何かに気付いたかのように、ポンと手を打つ。
「厨房で時々手伝いをしている、料理長の娘のことか? まだ十歳過ぎじゃないか?」
「十歳過ぎ……」
まさか厨房にいるシェリーがそんな幼い子供だったなんて、全く知らなかった。
どうりで使用人名簿に名前がなかったわけだ。それに、そんなに小さな子供ならアンナが『皆の人気者で、とっても可愛い』と褒めていたのも頷ける。
「まさか、そんな誤解をされていたとは。俺はそんなに、誠意に欠けた男だと思われていたのか?」
ホークは傷ついたような、なんとも言えない顔をして項垂れる。
その表情を見て、フィーヌはとても申し訳ない気持ちになった。
「ごめんなさい。すっかり勘違いしていて……その、確かめることができなくて──」
一言、シェリーという女性とはどういう関係なのか確認していればこんなばかげた誤解はすぐに解けたはずだ。
それなのに、フィーヌはこの二年間一度もシェリーについてホークに直接尋ねることができなかった。
「迷惑をかけて、ごめんなさい」
「ああ。きみがいなくなって、既に長距離馬車で移動したあとだと知ったときは、本当に肝が冷えた」
「……本当にごめんなさい」
この件に関しては、完全にフィーヌに非があると思った。
ホークによると、フィーヌがいなくなったあと、彼は屋敷の周りはもちろんのこと、長距離馬車の行き先の全てに部下を派遣して探し回っていたようだ。
それらしき女性の目撃情報を得ればそのひとつひとつを訪問して、フィーヌがいないか聞き込みを行っていたらしい。
とんでもない迷惑をかけたことは確かで、フィーヌはしゅんとして俯く。
「閣下に直接言われるのが怖かったんです。俺が愛しているのはシェリーだけで、お前は仮初の妻だって。わたくしからそうあるようお願いしたのに、おかしいですね」
フィーヌは自嘲気味に笑う。
ホークに対して仮面夫婦であることを要求したのはフィーヌのほうだ。そのほうが、いつか彼と離縁して自由に暮らすことになった際にいいと思ったから。
けれど、実際に屋敷を飛び出して手に入れた自由な暮らしは、どこか大切なものが抜け落ちたかのような虚無感が常に付きまとっていた。ふとした拍子に思い浮かべるのはホーク、そして、よくしてくれた屋敷の使用人達の笑顔だった。
「もう二度と、俺から逃げないでくれ」
「はい」
フィーヌは頷く。
二度とこんな過ちは繰り返さないし、これからはホークを信じて何か誤解を生むようなことを見聞きした際はきっちり本人に確認しようと思った。
ホークはふっと微笑むと、ポケットから小さな小箱を取り出した。
「フィーヌが出て行ったあの日、夜に話があると言ったのを覚えているか?」
「はい」
「実は、これを渡そうと思っていた」
ぱかっと開けられた小箱の中を見て、フィーヌは息を呑む。
そこには、眩い光を放つダイヤモンドのネックレスが入っていた。ホークはそれを摘まみ、フィーヌの首に付ける。
「フィーヌ。俺達の結婚は決して恋愛結婚ではなかった。出会いもいいものではなかったし、求婚も急だった。それに、結婚式すらしなかった。だから、もう一度やり直させてほしい。生涯をかけて幸せにすると誓う。俺と結婚してほしい」
真摯な眼差しでまっすぐに見つめられ、息が止まるかと思った。
「……本当にわたくしでいいのですか? こんなに迷惑をおかけしたのに」
「俺が愛しているのはフィーヌだけだと言っただろう?」
ジーンとしたものが込み上げて、涙で視界が滲む。
「フィーヌ、返事は?」
ホークが困ったように、問いかける。
「わたくしでよければ、喜んで」
「きみ以外、考えられない」
ホークの凛々しい表情が崩れ、まるで少年のように嬉しそうに笑う。
どちらからともなくキスを交わし、それは徐々に深いものに変わった。
「閣下……」
「フィーヌ。名前で呼んでくれ」
「ホーク様」
フィーヌが呼びかけると、ホークは少年のように、嬉しそうに笑う。
そんな一面にも、胸がきゅんとした。
「フィーヌ。きみとひとつになりたい」
ホークはぎゅっとフィーヌを抱きしめる。
「わたくしもです」
恥じらいながらも応えると、くるんと体勢が変わってベッドに押し倒される。
二年間もさんざん慣らされた体は、容易にホークを受け入れた。痛みはなく、感じるのは快感と温かさと、幸福感だけだ。
「ずっとこうしたかった」
ホークがフィーヌの汗ばんだ頬に触れる。フィーヌは彼を見上げて、ふわっと微笑んだ。
「ホーク様。わたくし今、とっても幸せです」
ホークが優しく微笑み、唇が重ねられた。




