(2)
ビシッと右腕を水平に上げて、現れた人物──ここダイナー公爵家の嫡男であるバナージは、フィーヌを指さす。
(男を連れ込んだ? いかがわしい行為ですって?)
その言葉、そのまま返してやりたいと思った。
バナージはフィーヌがホークを誘惑してこの部屋に連れ込み、ただならぬ関係になったと主張しているが、かく言うバナージが随分前から浮気していることに気付いてないとでも思っているのだろうか。
「お姉様! なんて馬鹿なことを!」
今にも泣きそうな顔で叫んだのは、ピンク髪に緑眼の小柄な女性だ。
彼女はフィーヌの妹であるレイナ・ショット。バナージの浮気相手であり、フィーヌに『ドレスの後ろが乱れている』とこの部屋に行くよう勧めた人物でもある。
「お姉様がわたくしを嫌って辛く当たっていたのはまだ許せました。けれど、バナージ様にまでこんな酷い仕打ちをするなんて──」
レイナは胸に手を当てて、涙を流しながらフィーヌに訴えかける。
「泣くなレイナ。レイナは優しいな。俺は、結婚する前にフィーヌがこんな悪女だと判明してむしろよかったと思っている。結婚したあとにどこの子かわからない子供を育てなければならなくなるところだった」
バナージはレイナを慰めるように肩を抱いた。
(町中で素人が披露する演劇だってもうちょっとマシだわ)
あまりにも酷い演出に、思わず失笑してしまう。
フィーヌと五歳年上のバナージが婚約したのは、彼女が六歳のときのことだ。以来、ダイナー公爵家に嫁ぐべく、厳しい淑女教育を受けていた。
この世界には、〝神恵〟と呼ばれる特別なスキルを持つ人が存在する。神恵は神からの贈り物だとされ、その力を持つ者は特別視される。フィーヌは五歳のときに「土の声が聴ける」という神恵を持つことが判明し、ダイナー公爵家からの打診で婚約が成立したものだった。
婚約した当初から、公爵令息であるバナージはなにかとフィーヌを下に見る態度をとることがあった。
それが決定的になったのは、三年前のこと。フィーヌの妹であるレイナが、非常に珍しい神恵である植物育成スキル『緑の手』の持ち主であることが判明したときからだ。
緑の手は農作物の成長を促し五穀豊穣をもたらすのでとても重宝される。レイナはたちまち周囲からちやほやされる存在になり、バナージもまた彼女と親しくするようになった。
バナージがフィーヌの神恵までもを小バカにするような発言をするようになったのはその頃からだった。
『土の声が聞ける? 本当かどうか、疑わしいものだ』
『これほど地味で役立たずな神恵も珍しいな』
『少しはレイナを見習ったらどうだ? 彼女のおかげで、この地はどれだけ恩恵を受けていることか』
これらはバナージから直接、フィーヌが言われた台詞だ。
(この方はわたくしの神恵でご自分がどれだけ恩恵を受けているのか、わかっていらっしゃるのかしら?)
わかっていないから、このようなことをやらかしたのだろう。
そのとき、部屋に凛とした声が響いた。
「先ほどから聞いていた、それは誤解だ。俺とフィーヌ嬢は極めて健全な距離をとって、そこに向かい合って座っていただけだ。お互い、指一本触れていない」
ホークはバナージの誤解を解こうと、今までの状況を丁寧に説明し始める。
その態度に、フィーヌは少なからず驚いた。
(無関係だと主張しろと伝えたのに)
なんとも馬鹿正直な対応だが、嫌な気はしなかった。
少なくとも、ホークはひとりだけ保身することなくフィーヌを庇おうとしているのだ。
すると、バナージは「ふんっ」と鼻で笑った。
「浮気現場に乗り込まれた人間は皆、誤解だと弁解する。貴殿の言うことを信じる者がいるとでも?」
「信じる者がいるかも何も、信じてもらうしかない」
「話にならないな」
バナージが吐き捨てるように言うと、ホークが身に纏う空気がぐっと冷えた。
「むしろ、婚約者がありながら他の令嬢にそのように寄り添う貴殿の態度に問題があるとは思わないのか?」
ホークの言葉遣いは丁寧だが、怒りを抑えているのがひしひしと伝わってきた。
しかし、バナージはさらにホークを逆なでするような態度を取る。
「生憎、フィーヌは寄り添う価値のないふしだらな女だとわかったんでね。ロサイダー卿、あなたはご自分の婚約者が自分以外の男とふたりで密室に籠ってこそこそと何かをしていても、何もないと全面的に信じるのか? 大した心の広さだ」
バナージは話にならないとでも言いたげに、両肘を曲げて手のひらを天井に向ける。
その態度で、フィーヌはピンときた。
(もしかして、わざと怒らせようとしている?)
バナージの態度はそうとしか思えなかった。
もしもホークが逆上して一発でもバナージを殴ろうものなら、婚約者を寝取った挙句に暴力を振るった最低の男として糾弾できるからだろう。公爵家からの抗議を受ければ、辺境伯であれどもダメージを受けるのは確実だ。
開け放たれたドアの向こう、廊下にはこの騒ぎに気付いた多くの貴族達が集まり始めていた。
「一体何の騒ぎなの?」
「ロサイダー卿とショット侯爵令嬢が密会していたようよ」
好き勝手にこそこそと話す声がフィーヌのところにまで聞こえてきた。
(いけない。早くふたりを引き離さないと)
ここまで広まれば、婚約破棄成立には十分な醜聞だ。
既に、フィーヌの目的は達した。これ以上、ここに留まる必要はない。