(2)
「俺はシェリー以外、そばに置く気はない」
その声は、先ほど話したホークのものに聞こえた。
「……そうか。ホークは本当にシェリーを大切にしているよな」
「命の恩人だからな。当然だろう?」
「まあ、そうだな。夕食前に会いに行くのか?」
「そのつもりだ。俺の手から食べる姿が愛らしいんだ」
ホークと会話する男性の声には聞き覚えがないので、まだ紹介されていない人だ。
(シェリーって、女性の名前よね?)
シェリーはヴィットーレでは平民の女性によくある名前だ。ヴィットーレ語で『心地よい風』という意味を持っている。
(つまり、シェリーさんはホーク様の恋人ってこと?)
フィーヌは考える。そして導き出した結論はこれだ。
ホークにはシェリーという平民の恋人がおり、彼は彼女一筋である。だが、高位貴族である辺境伯と平民では身分が違いすぎるため、結婚することはできない。
しかし、辺境伯家の当主であるホークには結婚して嫡男を残す義務がある。
そこでホークはシェリーを愛しながらも、表向きの辺境伯夫人として子を成すための適当な人間を探していた。
ちょうどそこにバナージの一件が発生し、これ幸いとフィーヌに求婚したというわけだ。
「……上手くやっていけそうだと思ったのは、勘違いね」
そんなことは露知らず、ほいほいと嫁いできた自分に嫌気がさす。
貴族が愛人を持つのは珍しいことではないが、結婚当日、ましてや到着直後に知るのは心理的ダメージがあった。
どれくらい経ったのだろう。ソファーに座ったままぼんやりとしていると、コンコンと部屋をノックする音がした。
「はい」
返事をすると、カチャッとドアが開く。
「食事の準備が整ったようだ。行こう」
声をかけてきたのはホークだ。
フィーヌのすぐそばに近づいてきた彼から、ほんのりと石鹸の香りがする。
それだけで、情事を連想させるには十分だった。
「……申し訳ございません。疲れていて食欲がなく──」
フィーヌは言葉尻を濁す。
今愛人に会いに行ってきたばかりの男性と仲良く食事するほど、フィーヌは寛容ではない。
「たしかに顔色が悪いな。体調が悪いのか?」
ホークは眉根を寄せると、フィーヌの額に触れる。
「熱はないようだな」
「……少し休めば大丈夫です」
フィーヌはふいっとホークから顔を背ける。
「わかった。では、食事は部屋に運ばせよう。ゆっくり休め」
ホークはそれだけ言うと、ドアを閉めて立ち去ってゆく。
程なくして、メイド姿の若い女性がトレーに載せた食事を運んできてくれた。
フィーヌとそう変わらない年頃の、くりっとした目元が印象的な可愛らしい女性だ。
「奥様、ご挨拶が遅くなり申し訳ありません。本日より奥様付きとなりますアンナと申します」
「そう。これからよろしくね、アンナ」
フィーヌが挨拶を返すと、アンナは嬉しそうに顔を綻ばせる。
「旦那様がご結婚なさると聞いて、ずっと奥様がいらっしゃるのを楽しみにしていたんです。こんなに美しいお方だなんて──」
感激したように言われ、フィーヌは反応に困る。
きっと彼女は、ホークに恋人がいることを知らないのだろう。
「ねえ、アンナ。この屋敷にシェリーさんという方はいる?」
「え? シェリー? ああ、時折厨房におりますね。どうしてそんなことを?」
アンナは不思議そうにフィーヌを見返す。
「あ……えっと、この部屋に来る途中に屋敷の方が話しているのが聞こえたの。とても可愛い方だと──」
「たしかに可愛いですね」
アンナはシェリーのことを思い出したのか、朗らかに微笑む。
(じゃあ、その厨房にいるシェリーさんがホーク様の恋人なのね)
フィーヌは曖昧に微笑んでその場をやり過ごした。