第五話「擾乱の予兆」
かなでの頬がこれまで以上に膨れている。
向き合って座っている拓斗も優一も、このときばかりは肩をすぼめて縮こまるしかなかった。
閲覧席の机のあちこちに積み上げられた数十冊の本が、それぞれ長い影を落としている。医学、哲学、旅行、動物、文学など、そのジャンルは多岐にわたっており、どれひとつとして似通ったものはなかった。
「司書さんがいい人だったからよかったものの!」
本を投げつけんばかりの勢いだった。
声は押し殺していたものの、かなでの顔には少女が怒ったときに見せるすべての要素が現れていた。見開かれた瞳、真横に閉じられた唇、膨れた頬……。それらが、背後の窓から降り注ぐ、やや深みのある色を帯びはじめた光によって縁取られている。
一般に、好意を寄せる少女がこうしたそぶりを見せたら、少年はそれに服従しないといけない。下手に逆上して自我を押し通すと、その時点で少女は少年を見限り、わが身を守ってくれそうな第三者を探しはじめる。だからこの場合、少年がしなければいけないことは、ただひたすら少女に謝ることだけである。
だが拓斗と優一の目にはかなでのそうした表情が、猛烈な加速度と一直線の方向性を持った、恋慕の記号として映った。こうした条件がそろってしまえば、決壊したダムから奔流がほとばしるように、顔が緩んでくるのを止められなくなってしまう。マゾヒズムなどという卑猥さの入り混じらない、高校生らしい正直な感情だった。
かなではそんな心情を知る由もない。
「わかってるの? 君たちふたりがのろのろしてるから、司書さんだけじゃなくてあたしも迷惑したんだよ。テスト範囲だからってごまかして何とか協力してもらったけど、だんだん変な人を見る目であたしを見てくるし、すっごく気まずかったんだから!」
かなでは、近くにあった本をバシッと叩いた。
「あたし、片付けは手伝わないからね!」
さすがの拓斗と優一もそれには凄みを感じ、反射的に背筋をピンと伸ばした。
かなでは一度頭に血を上らせると、それが収まるまでほかの話題は一切聞き入れない。思いどおりにならなくて泣き出した子供が、親の説得を聞き分けないのと同じことだった。一体誰のためにこういう状況になったのかを忘れていたのも、そういう理由からだった。
それでも反論しなかったのは、わがままな妹を寛大に見守る兄としての役割を任じていたからであり、また、光と無駄なく融合している姿に感動して口を開けなかったからでもあった。
「ごめんな……片付けは俺たちがやるからさ」
「かなではここに座って、どっちが先に片付け終わるか見ていてくれればいいから」
とりあえず謝っておかないと、本題に入れない。
普段は意見の合うことが滅多にない拓斗と優一だが、かなでの前では暗黙のうちに波長を合わせることができる。ここはしばらく共同作戦を継続しようと示し合わせた。
「ここにある本を全部探してもらうのに、かなでは一冊一冊のキーワードを考え出したたわけだよね? それだけで目的のものをズバリ伝えるって、普通できないよ。かなでの発想力ってやっぱりすごいよ!」
「そうそう。俺なんか本を探してもらうにも、紙でできた四角いものってくらいしか言えないもんな」
いい調子だ。かなでの見開かれた瞳は穏やかさを取り戻し、真横に閉じられた唇は丸みを帯び、膨れた頬は元の曲線を描きはじめた。こうなれば、もうこっちのものだ。
「だから僕らに詳しく教えてほしいんだ。どこからその発想が出て来たのかをね」
「俺もかなでを見習って、芸術家になろうと思うんだ!」
女性の歓心を得るにはまず徹底的に褒める。この原則がわかりやすいほど単純に通用した。
「もちろん、ただでとは言わないよ」
「いつものファミレスでいつものあれ、ご馳走しますよ! お嬢さん!」
いつしかかなでの表情は、生後間もない子ネコが動いている虫と対峙したときのような、好奇心と緊張感が入り混じったものになっていた。
「いつものあれ……?」
かなでが首をかしげた。
確信的な含み笑いを抑えることができないまま、拓斗と優一は同時に口を開いた。
「スイートカラメルパフェ!」
これが決まり手となった。
「やったぁ!」
警戒心が氷解した子ネコは、まったく無防備な心で虫とじゃれ合いはじめた。高邁で崇高な思想をもって民衆を無知にするのが宗教なのに対して、他意のない天真爛漫なその姿は民衆に気づきの光をあたえるものであった。
そのとき拓斗と優一は、かなでは光に照らされていたのではなく、かなで自らが光を放っていたことに気づいた。結局窓から差し込んでいたものは、触媒を得て初めて輝きを発する、きっかけとしての物質に過ぎなかった。その触媒こそが、かなでだったのだ。勝手に染められてできたと思っていた髪の毛や頬の色は、かなでがもともと持っていた色だった。
気づきの光に触発された頭の中で、たったひとりの少女が自然界の法則を司りはじめた。
「ねぇ、いつ行くの? いまから? それともテスト終わってから?」
万物の創造主となったかなでが、その決定権を民衆に委ねた瞬間だった。
いまを置いてチャンスはない。天上人がすべてを受け入れる構えを見せたこのときこそ、ご所望の詩集を献上して取り立ててもらう千載一遇の好機だった。
「かなで、持ってきたよ」「これだろ? お目当てのやつ」
拓斗と優一が、制服の中に手を突っ込んだのはほぼ同時だった。
それぞれが探し出した詩集を胸元に捧げ持ち、かなでに見せつけた。
「きゃぁ!」
頭のてっぺんから噴き出たような高周波音が、三人のいる閲覧席を中心に室内へと一気に広がった。両手を胸元で合わせ、目を爛々と輝かせているかなでをよそに、拓斗と優一は肩をすくみ上がらせながら貸出カウンターのほうを垣間見た。
気づかれたか?
その視線の先にいる司書は、書庫の蔵書を把握している存在だった。その彼女に、書庫から勝手に持ち出したことがばれたら面倒事は免れない。即停学になるとは考えられないが、三日後に控えた中間テストに集中して臨めなくなることだけは想像に難くない。
だがそれも取り越し苦労に終わった。司書は両手で文庫本を握りしめ、そこに目を落としたままの状態で固まっていたのだ。再開した読書に夢中で、かなでの金切り声はどうやら聞こえていなかったようだ。いや、聞こえていたかもしれないが、単に高校生の悪ノリだと割り切って黙殺したのかもしれなかった。
いずれにせよ好都合だ。この分なら、文庫本と鍵の位置が微妙にずれていたことにも気づいていないだろう。
「ねぇ、見せてよぉ!」
あやうく、全神経を貸出カウンターの向こうに持っていかれるところだった。
かなでに物欲し顔で両手を差し出されたら、何も渡さないわけにはいかなかった。
そして、強盗がするようにひったくられても、何も文句は言えなかった。
「そう! これこれ! このウサギがね……え?」
二冊受け取ったうちの一冊を凝視したまま、かなでの動きが止まった。それに伴って、かなでの体が光の媒体としての機能を失いだし、それにつけ込んだ暗い影によって浸食されていく。
拓斗に向けられたその瞳には、これまでにはなかった陰鬱さがはっきりと現れていた。
そうさせた張本人である拓斗の頭上から、巨大な千枚通しのようなつららが降ってきて、全身を刺し貫いていく。
自分のせいで少女を幻滅させてしまった。
そんなとき少年が皆おしなべてそうするように、拓斗もまた、疑念をかき消そうと両手を大げさに振り回し、回らない舌で自己弁護を弄しはじめた。
「あ、あぁ。それ、お、俺も、そのイラストは、おか、おかしいなとは思ったんだけどさ。ロラ、ロラルド……ドナルド・ウェストの詩集に、ま、間違いはないだろ。だから、そ、そういうのも、あり、ありなんだろってさ……」
底抜けの明るさがめっきりなくなったかなでと、急にしどろもどろになった拓斗。
この不可解な状況の中、優一だけがひとり取り残されていた。
「ちょっと貸してごらん」
かなでは、優一から差し出された手に問題の詩集を預けた。自らの意志で渡したというより、なすすべもなく言われるがままといった感じだった。先ほど見せた強引さは完全になりを潜めていた。
受け取った優一の眉根が、見る見るうちに険しくなっていく。
「これは……おい、拓斗。お前、かなでの言ったことちゃんと聞いていたんだよな?」
「き、聞いてたさ。ウサギのイラストが……」
「それはわかっているよ。かなでは、ウサギが寄り添っているイラストだと言ったんだぞ」
「まぁ、よく見ると違うけどさ、ま、幻の逸品かもしれないと思って……」
「そうだとしても、かなでにこんな気味の悪いものを見せたいと本気で思ったのか?」
今度は優一が感情を大きく変化させる番だった。ウサギがウサギを火炙りにしている様子が描かれた表紙をバンバン叩きながら、拓斗に追及の眼差しを送っていた。
「……お前が持ってきたこの本が、本当の初版本なのか?」
「それは知らないよ……ただ、ロナ、ドナルド・ウェストの詩集で、ウサギのイラ、イラストがあったから……」
「それだけか?」
「それだけって……?」
「僕が言っているのは、かなでがなぜこの詩集を手に入れたがったかを思い出してみろってことだよ! かなではこの詩集の初版本自体を欲しがったか? 違うだろ、イラストが気に入ったからであって、初版本かどうかは問題ではない!」
「……」
「どうせ、手ぶらで帰るくらいならとでも思ったんだろ? 鬼の首を取った気分だったろうが、その短絡的な考え方こそがかなでを悲しませてしまったんだぞ!」
「いや……俺はただ……」
「世界的に貴重な本が、こんなちっぽけな町の高校に二冊もあるなんておかしいと思ったよ」
「ちょっと待ってくれ! 確かに変なイラストだとは思ったけど、俺はかなでを悲しませようだなんてこれっぽっちも考えていなかった!」
「じゃあ、なんで僕に見せてくれなかったんだよ! 変だって気づいていたならわざわざ持ってこないで、僕が見つけたほうを一緒に見つけたってことにできたはずじゃないか!」
「それは……」
優一の言い分はもっともだった。
拓斗としても、それに敢えて反論することはナンセンスであると理解できたが、自分なりに譲れない意地があった。肝心なことに対しては口をつぐむその姿に、普段は冷静沈着な優一が激高するもの無理もない話ではあったが。
いがみ合いは永遠に続くのかと思われたそのときだった。
「もういいよ……ふたりとも」
鼻水混じりの消え入りそうな声が、巨大な鉄槌となって脳髄を直撃した。
かなでが涙を流しているのを見たのは、これが初めてだった。
拓斗と優一が口論を始めて間もないころには、もう泣き出していたのだろう。目や鼻の周りはすでに真っ赤で、色白の肌の中にあって痛々しいほどの鮮明さを示していた。その中にあって、色を持たない涙の粒が、その球体に赤や白を映し出しながら流れていった。
臓物がえぐられるような感覚がした。かなでの内側から出てきた胸の痛みは、涙から空気、そして光を伝ってふたりのもとへと届き、三人は同じ痛みを供給することになった。
「ごめんね、全部あたしが悪いの……あんなわがまま言っちゃったから。でも、拓斗も優一も一生懸命探してくれて、あたし、すごくうれしい。だからもう、けんかはしないで……」
かなでは何も悪くない。そう思えたからこそ、あの恐ろしい書庫に中にも入って行けた。
「違うよ……謝らなきゃならないのは俺のほうだよ。俺はただ、かなでに喜んでもらいたかった、それだけだったんだ……」
「僕もつい熱くなっちゃって……ごめん、かなで」
拓斗と優一は無意識のうちに頭を深々と下げていた。これは泣かせてしまったことに対する懺悔というより、かなでの目から生まれ出る輝きに対する感動といったほうが正しかった。
かなでは鼻水をジュルジュルすすりながら、指の腹で目の周りの涙を拭き取った。
「うん……いいんだよ、ふたりが謝らなくたって。やっぱり優一はいつも正確だね。ドンピシャだよ。拓斗もありがとう。ちょっと怖いけど、ずっと見てたらなんか可愛く見えてきたよ」
そして、照れるようにいたずらっぽく笑った。
目をうるうるさせる例の表情は、確かに拓斗と優一を大いに魅了した。だが、それ以上の歓喜がこれまでの伝統を一気に粉砕してしまった。真っ赤になった目を指でごまかしつつ、控えめに白い歯をこぼして微笑むその姿は、かなでがこのときまで隠し持っていた最終兵器だったのかもしれない。
光の届かない荒廃した世界の片隅で、枯渇した大地を割って咲いた一輪の小さな花。かなでが見せた健気な笑顔は、そう形容されるに相応しいものだった。
言葉にならない愛情の確信とは、こうした刹那的な所作から生まれるのだろう。
取り返しのつかないことをしてしまったと後悔する拓斗も、取り乱してしまったことを恥じ入る優一も、絶対にこの愛情を実現させるのだという決意の念を同様に抱いた。
そのかなでは、二冊の詩集の表紙を代わる代わる眺めている。
やはりお目当ては表紙のイラストであって、中身の本文ではなかった。英語が読めないからだとする揶揄はさておき、少女らしいその意図をかなえてあげられたことは拓斗と優一の心を大いに満たし、危険を冒してでも書庫に忍び込んでよかったと思わせるものだった。
こうした実感を新たにすると、これまで以上にかなでが愛しくなった。
「なぁ、かなで。俺が持ってきたやつ、シュールでいかしてるだろ?」
「調子に乗るなよ。かなではお前に気を遣っただけなんだからな!」
「シュールだけど……いかしてはないなぁ」
「でもさ、かなでも知らないってことは、実はそれ、世界にひとつしかないレアものかもしれないぜ。オークションに出したら、とんでもない値段がつくんじゃないか?」
「そんなぁ、借り物なんだから勝手に売り飛ばすなんてできないよ」
「いい加減にしろよ。かなではお前みたくカネに汚くはないんだよ!」
「ほらほら、そこのふたり、けんかしない!」
明るく振る舞うことこそが、気まずい雰囲気を一掃するという意識が働いたのだろう。かなでは拓斗と優一が矛を収めはじめたことを瞬時に見抜き、その仲立ちになることを買って出た。
「じゃあ、両方ともレアものってことで、せっかくだからいまここで世界ナンバーワンを決定させちゃおうかなぁ! 負けたほうを持ってきた人が、あたしにチョコレートパフェをおごるんだからね!」
こうなったら、どんなことでも従う。拓斗と優一は、かなでの一挙手一投足をアカデミー賞の結果発表を待つ心持ちで見つめた。
「やっぱりこっちのほうが可愛いかなぁ」
可愛いイラストの詩集を全体的に眺めてから、次に拓斗の持ってきた詩集を手に取った。
「うぅん……これはなぁ……」
発表を待つ者にはネタバレになろうとも、かなでは苦笑いを隠しきれなかった。それでも持ち直して表紙から目を離し、小口に爪をかけてページをめくりはじめたそのとき。
かなでの前髪がふわりと吹き上がった。
「え? 何?」
かなでの手にあったその詩集が、意志を持つもののように自ら跳ね飛んだ。
背の部分から閲覧机の上に着地したそれは、ページの真ん中あたりで両開きになると、その面から突風が吹きだした。かなでの髪の毛を後方に吹き流し、机の上にあったもう一冊の詩集をも吹き飛ばしていく。
風向きが変わったのか、髪の毛が前方に向かってなびきはじめると、かなでの上半身が何者かに引っ張られるかのように前のめりになった。そして、踵が浮き上がると同時に、そのまま詩集の中に吸い込まれてしまった。
あっという間の出来事だった。