第三話「書庫へ」
「鍵はね、あの司書さんが管理してるんだって」
内緒話をするような押し殺した声で、少女がささやいた。少年たちは、身を乗り出すようにして耳をそばだてる。
窓を通して、下校する生徒たちの話し声が聞こえてきた。
日当たりはやや悪かったが、三人が腰掛けた窓際の机には、晩春の午後に相応しい量の光が差し込んでいた。そのやわらかく控えめな光は、窓を背にしたかなでの髪の毛を優しく撫で、北欧の女性のような白みがかった金色に染め上げていった。かなでは再び天使の後光を得た。拓斗と優一は金縛りに遭ったかのように声をなくしてしまった。
「だから!」
夢見心地にするのもかなでなら、そこから一気に奈落の底へと突き落とすのもかなでだった。あのまま一生身動きが取れなかったほうが、まだましだったかもしれない。
「あたしがなんとか司書さんを引き止めておくから、その隙に中に入るの。ね!」
「でもその前に、司書をカウンターからこっちに引っ張り出してこないといけないよ」
奈落の底から先に生還したのは優一だった。
「っつうか、鍵は? 司書が肌身離さず持ってたらどうするよ?」
カンダタの糸は二本垂らされていたようだ。
優一には先を越されたが、拓斗も絶望の淵から這い上がってきた。
その生還を歓迎する素振りすら見せず、かなでは頬を膨らませた。
「それは! 君たちふたりが……」
ハッとして口をつぐんだかなでは、恐る恐る貸出カウンターに視線を投げた。
その懸念は杞憂に終わった。司書は拓斗たちが自分の時間を邪魔にしに来たわけではないと判断したのだろう、そそくさと文庫本の栞を取り払ってページをめくっていた。
安堵したかなでが視線を元に戻すと、拓斗と優一の砕けた表情が飛び込んできた。
ある意味、確信的な犯行だった。
かなでは十六歳になったばかりとはいえ、年齢に見合わない小学生のような幼さが残っていた。自分が言ったことに対して返答に困るような反論をされると、たちまちのうちにへそを曲げる。「あたしの主張は絶対正しい」「あたしに頭ごなしの態度をとるのは許さない」など、言い分はいろいろとあるだろうが、このときのかなでの表情は何と言っても魅力的に映った。
カッと見開かれた茶色の瞳。キュッと真横に閉じられた桜色の唇。プクッと膨れた桃色の頬。その中でも、目がうるうるしてきて泣き出しそうになる様子は最強だった。それを見たいがために毎回示し合わせるのは、当の本人がその意図にまったく気づいていないからでもあった。
「とにかく! 司書さんをカウンターから引き離す方法と、鍵がどこにあっても手に入れる方法をこれから考えるの!」
「でも、もし司書が足を怪我してて動けなかったらどうする?」
「っつうか、鍵じゃなくてカードで開けるのかもよ?」
さすがに今度は声を張り上げることはしなかったが、かなでがとった反応はまさにしてやったりのものであり、拓斗と優一の願望を大いに満たした。目のうるうるが激しくなればなるほど、星のようにキラキラ反射する涙の輝きもまた激しくなっていく。ガッツポーズこそ出さなかったが、このいたいけない少女のためであれば、喜び勇んで虎穴に飛び込んでやろうという思いを新たにするのであった。
書庫の鍵は、貸出カウンターの上にあった。
意外に細身で単純な構造をしていたその鍵は、読みかけのままうつ伏せの状態で置かれていた文庫本の陰に隠れていた。あまりにもあっけなかったので、初めは司書の家の鍵か何かだろうと疑った。だが、優一の手に握られたそれは、書庫の鍵穴にぴったりと収まった。
大銀行の金庫のような重厚さをたたえた書庫は、貸出カウンターと直接つながっている職員控え室の奥のほうにある。貧弱な内装の職員控え室にあって、その中世ヨーロッパのゴシック様式の建築を思い起こさせる堂々たる体躯は、まったくもって不釣り合いだった。
ゆっくりと感触を確かめるように鍵を回している優一の背後で、拓斗は貸出カウンター越しにかなでのいるほうに目をやった。
すりガラスの衝立に遮られてはっきりとは見えなかったが、一般書架の手前でかなでが司書と何か言葉を交わしている。本当に泣き出しそうになったかなでをなだめるのには難渋したが、いまはきちんと作戦どおりに働いてくれている。本を一緒に探してほしいという口実で司書を連れ出してくれたおかげで、書庫への第一関門を突破できたわけだ。まだミッションは始まったばかりだったが、拓斗はかなでを誇らしく思う気持ちを抑えることができなかった。
「おい、早く来いよ」
氷水を浴びせられた思いだった。声のしたほうからは、開錠を終えた優一が、鍵をポケットの中に入れながら冷ややかな視線を送っていた。俺が開けてやったんだから、おまえが先に入れとでも言いたげな顔だった。
「わかってるって」
拓斗は、かなでと司書が一般書架の林の中に消えたのを見届けてから書庫に向き直った。改めて間近で見ると、いまにも押し潰されそうな強い威圧感を感じた。だが行くしかない。かなでに認めてもらうためにも、隣にいる優一にポイントを稼がせるわけにはいかない。悪霊でも何でも、俺が全部引き受ける。そう腹をくくった拓斗は、業務用冷蔵庫のようなごつい取っ手を握ってこちら側に引っ張った。
すっと音もなく開いた扉は、その枠とのあいだに細く黒いラインを描いた。
同時に、古書特有の手垢のにおいと、ドライアイスのような冷気がさっと流れてきた。
「うわ!」「やべぇ!」
拓斗は思わず取っ手から手を離した。悪霊が人間の動きを察知して、扉の前で待ち構えていたのだと思ったのだ。いきなり襲撃を受けるとは考えてもいなかった。拓斗と優一はむなしく、いや普通の高校生らしく反射的に逃げる体勢をとった。
だが、扉の向こう側からは何も飛び出してこなかった。あったのは暗闇ばかりだった。
ふうっ。安堵する気持ちが心の底から沸き上がり、それが息となって口から漏れた。
「開けるぞ」
拓斗が取っ手を握り直して扉を全開にすると、職員控え室の窓から光が書庫の中に差し込んで内部を照らした。全容をつかむには十分な光の量ではなかったが、それでも書庫を構成する備品類のシルエットを浮き上がらせてくれた。広さは教室の半分くらい。人ひとりがやっと通れる程度の間隔で、十数基の書架が設置されている。
圧巻だったのは、書架すべてにぎっしりと詰め込まれた本の状態。装丁がほつれていたり、背表紙のタイトルが消えかかっていたり、テープで何重にも補強されたりしているものばかり。また、紐綴じで製本された年代物の本も平然と並べられていた。どの本も一様に、歴史を感じさせる黒や深緑などの地味なハードカバーばかりで、目的のものを絞り込んで見つけるには困難が伴うだろうと容易に見て取れた。
ひととおり内部の様子を把握した後、拓斗は勘を働かせて扉付近の内壁をまさぐった。指先にスイッチの感触を得、そのまま押した。
ワンテンポ置いて、蛍光灯は面倒くさそうに点った。
「よし、入るぞ」
拓斗はそのままスイッチを押し、優一を背後に従わせる格好で中に入った。
ヤニに汚れたヘビースモーカーの歯のような、濁った黄色い明かりが照らし出したのは、悪霊の巣窟のイメージとはかけ離れた光景だった。床はよく磨かれ、空気中には埃ひとつ飛んでいない。整然と配置された書架の群れは、倉庫型のスーパーマーケットを想起させた。ほかにあるものといえば、検索用と思われる古いコンピュータと換気扇くらいで、殺風景ながらもある種の秩序が感じられるものだった。
「おい、閉めとけよ。バレたら面倒なことになるぞ」
本当は扉に何かでつっかいをしておいて開いた状態にしておきたかったのだが、拓斗は優一に諭されるままにした。
音が消えた。
かすかに蛍光灯が発するジーッという音だけで、密閉された書庫の内部において拓斗と優一の聴覚何らの反応も示さなかった。別世界に迷い込んでしまったのだろうか。耳の奥がキーンと鳴るのを感じながら、スペースシャトルのエアロックから無重力空間にさまよい出た宇宙飛行士のような感覚が全身を包み込んだ。
拓斗は、ふうっと大きく長い深呼吸した。
さっきからずっと息苦しく感じていたが、それは窓がないからだいうことに気がついた。前三方を無機質な鉛色の壁、そして重厚な扉に退路を塞がれた状況というのは、視覚的にも精神的にも強烈な圧迫感を押しつけてくる。その上、自然光がまったく入ってこない。こうした環境というのは、人間の理性を減退させ、首筋を掻きむしりたくなる衝動に駆り立たせる。
悪霊などに構ってなどいられない。これは一刻も早く用事を済ませて外に出ないと。
「優一。かなでに頼まれた本、早いとこ見つけちまおうぜ。俺、頭おかしくなりそうだよ」
拓斗は、結果的に功を譲ることになってもよいと観念したのか、優一を急き立てた。
「焦るなよ。これだけの量だから、どこに何があるのか見極めないと。まずはそれからだ」
悪霊恐るるに足らずとの確信を抱いたのか、優一は取り乱した様子もなく冷静だった。
「考えなしに片っ端からってのは、サハラ砂漠の真ん中で自販機を探すようなものだ」
優一は拓斗を顧みることはせずに、林立する書架の中へと悠然と歩を進めていった。
偉そうにと軽く舌打ちしながら、拓斗がその後を追う。
砂漠に自販機があったらすぐにわかると考えるのが拓斗である一方、砂漠に自販機があるはずがないと考えるのが優一である。目で見た情報を直感的かつストレートに、何のフィルターも被せずにキャッチするのが拓斗。それに対して、優一は物事の前提から推察を加えていって結論を導き出すという思考回路を持っていた。
「詩集だろ? すぐ見つけてやるよ、そんなの」
拓斗にしてみれば、書架自体が自販機だった。問題なのは、歴史書や文学書、語学書など、その自販機ひとつひとつが取り扱っているジャンルがあまりにも多すぎるということ。だからつぶさに見ていくしかない。そう思うや否や行動に移した拓斗は、体の変調など意に介さず、先を行く優一を追い越して書架の林の中へ飛び込んでいった。
「ここにはそう長くいられないんだからな。かなでのことも考えろよ」
優一は、もうこの買い物レースに勝ったような言い方をした。いや、相手が拓斗という時点ですでに勝算ありといったニュアンスだった。
完全に見下された格好だったが、拓斗はドナルド・ウェストの詩集探しにただただ夢中だった。優一からの助言など耳にも入らないといった勢いで、書架の棚に連なっている図書一冊一冊に指を走らせながら目を凝らしていた。時折動きが止まるのは、背表紙のタイトルがかすれて読みづらくなっているからであった。
「おい、優一、表紙にウサギのイラストだったよな?」
返事はしなかった。書架の全体が見える位置で目だけ動かしていた優一には、そんなことは取るに足らない情報だった。砂漠全体を俯瞰すれば、自販機の有無はすぐにわかる。
それからしばらく、書庫に本来の無音が戻った。
時折、床と上靴のゴム面が摩擦して起きるキュッという音が響くだけだった。たとえ騒音の苦情を申し立てる音源があったとしても、とばっちりを受けるのは例の蛍光灯くらいしかないという状態になった。
拓斗も優一も、書庫に同化したかのようだった。このまま電気が消されて元の暗闇が支配しても住人として十分にやっていけるようにも見えた。その集中力の源は、民族特有の職人気質というより、単にメスを獲得するための動物的本能といったほうが正しいかもしれない。
もう悪霊のことなどとっくに忘れていた。
臆病者が作り上げた論理、無用の恐怖というものは、心の持ち方次第でいかようにも克服できる。作業をこなしつつ、この真理を無意識のうちに悟りつつあった。
書庫の二カ所で、上靴のキュッという摩擦音が響いた。
「あった」
ほぼ同時につぶやいたそのとき。蛍光灯の明かりが消えた。
書庫は、黒いインクをたっぷりと吸い込んだ絵筆に塗りつぶされたように、一瞬で真っ暗になった。完全な暗闇だった。扉の隙間からは一条の光すら入り込んでこなかった。
「なんだ!」「何が起きた!」
そう叫んだのは、相手の無事を確かめ合うのではなく、胸を突き破らんばかりに飛び跳ねた心臓の音を隠すためだったかもしれない。
悪霊の仕業か?
忘れていた恐怖が鎌首をもたげてきた。書庫に入る資格のない人間が領域を侵したことに怒っているのだろうか。まったく視界の利かない暗闇に囲まれた中、外界から完全に見捨てられたという無力感をどうすることもできなかった。
悪霊の餌食になるのかと覚悟を決め込んだ瞬間、蛍光灯に明かりが戻った。
蛍光灯は、入ってきたときと同じく、テンポをずらしながら面倒くさそうに点った。
九死に一生を得たとばかり、血の気の引いた顔を向き合わせた。
「何だったんだよ、いまの?」
「知るか。勝手に消えたんだろ。スイッチはあそこにしかないんだから」
「じゃ、誰かがわざと消したって言うのかよ?」
「馬鹿なこと言うな。蛍光灯が古かっただけだろ。余計なこと考えるな」
悪霊という名こそ出さなかったが、ふたりともその存在を認めはじめていた。
蛍光灯が消えた原因は本当に古かったからなのかは不明だが、少なくともこれによって理性が正常ではなくなってきたのは確かだった。
「でも、あったんだろ? 偶然だな。僕も見つけた。寄贈者はふたりいたのか?」
優一は、A5サイズの白い本を拓斗に見せつけた。表紙には、擬人化された二匹のウサギが寄り添って本を読んでいるイラストが描かれている。タイトルや著者の名前が英語で印字されており、『FIRST EDITION』の文字も読み取れた。
「そうだった」
拓斗は優一に声をかけられるまで、自分が何のためにこの書庫に来ていたのかをすっかり忘れていた。すべての思考が悪霊に取って代わられつつあったからだ。俺はかなでが求めていた詩集を見つけたんだった。そう思い直し、探し当てた本の背をつまみ出して手に取った。
まさかその棚にあるとは思わなかった。共に列をなしていたのは、魔女狩りや吸血鬼などにオカルト系の本ばかりだったからだ。なぜ一緒にされていたのかは不明だが、ドナルド・ウェストの詩集には間違いなかった。
「あれ? これ……」
その本は、先ほど見た優一が持っていた本とまったく変わらないものだった。色、サイズ、装丁、どれをとっても同じだった。ただ、拓斗が眉をひそめたのが肝心のイラストだった。優一のほうはウサギが寄り添って本を読んでいるものだったが、拓斗のほうでは一匹のウサギがもう一匹を火炙りにしているのであった。
そんなはずはない。かなでは表紙のイラストが可愛いから欲しいと言っていた。普通に考えて、一般的な女子高生が可愛いと思うのはこんな殺伐としたものではなくて、のんびりとして愛嬌のあるもののほうだ。
何かがおかしい……。
頭の中に疑念が巻き起こると、突然、入ってきたときと同じような息苦しさと、首筋を掻きむしたくなる衝動に駆り立てられた。拓斗は本を棚に戻そうとした。
「おい、なにやってんだよ。取ったんだろ。出るから早く来い」
優一は拓斗の変調には気づいていないようで、書架に背を向けて扉のほうに歩いていった。
「あ、あぁ。いま行く」
拓斗は棚に向かって伸ばしかけた腕を止め、手にした本を無言で見つめた。
これは、かなでが求めていたものではない。このまま戻すべきだが、そうすると手ぶらで帰ることになる。優一に一歩も二歩も先に行かれてしまうのだ。お使いのできない男と烙印を押されるよりは、たとえ見当違いのものであっても見せてあげたほうがまだましだろう。喜ぶとは思えないが驚いてはくれるはずだ。女の子に最も効果的なのはサプライズ。どんなかたちであれ、女の子の気持ちをいちばん揺さぶった男こそが勝者になれるのだ。
そう考えた拓斗に選択肢はひとつしかなかった。邪念を振り払うように勢いよく本を引き離すと、そのまま脇の下に抱え込んだ。