第二話「戦慄の図書室」
図書室の書庫は、「正倉院」という別称をつけられていた。数年単位でしかも限られた者だけに公開されるため、誰もがその中身を知らないブラックボックスであったからだ。
したがってそこに忍び込むことは、かつて秘密基地のメンバーだった拓斗と優一にとって、途方もなく冒険心を掻き立てるミッションであることに違いなかった。用途の差こそあれ、すべての空間が画一的な構造をなしている県立高校の中で、そこだけが唯一秘密基地のような秘匿性を帯びた場所だからだ。
さらに今年は、学校創立百周年の節目の年。
そのため、書庫には「正倉院」に加え、「百年の英知と歴史の謎が眠る空間」というキャッチコピーがつけられた。ただでさえミステリアスなのに、それが世界遺産に登録されたような重みが加わったのだ。こうなったら、アドベンチャー映画やRPGが好きな少年が聞きつけて黙っているはずがない。こっそり忍び込んで中の様子を探索してくるだけで英雄譚の主人公になれるのだから。
だが、拓斗と優一は及び腰にならざるを得なかった。書庫には戦慄の現実が横たわっているのだ。それに比べれば、もう一度自分たちだけの場所を発掘することや、冒険劇のヒーローになることなど完全に輝きを失ったも同然だった。
「どうかしたの?」
図書室の入口のドアが視界に入ってきたときのことだった。いつもと違う空気を感じ取ったのか、先頭を行くかなでが背後に首を回した。
「い、いや、なんでもないって」
「そ、そうだよ。どうやって忍び込もうか考えていたのさ」
女の勘は鋭い。拓斗と優一の心中は、まったくもっていつもと違っていた。
だが、それを悟られてしまったら、教室で栗色の瞳の天使と交わした約束が空手形に終わってしまう。あの後光に包まれたような神秘さは紛れもなくかなで本来の美しさであり、そうした少女をものにしたいなら大風呂敷を広げるだけの男であっては絶対にならない。
「ふぅん。ならいいんだけど」
気配を察知しただけで、気遣ったわけではなかったのだろう。かなでは歩を緩めることもなく、そのまま前に向き直ってすたすたと先を急いだ。
拓斗も優一も、声にならないため息をついたのは同時だった。
ふたりとも出身中学や部活、成績、得意科目、趣味、話題など、何ひとつとして共通したものはない。一年生のときから同じクラスなのだが、仲良くなった経緯も意気投合した理由もまったく覚えていなかった。いつの間にか行動を共にするようになっていたのだから。
そんな中、初めて一体感を発揮したのは、かなでがいたからだった。なんとなくクラスに溶け込めていなかったかなでを見初めるようになったのも同時なら、声を掛けたもの同時。こうして、「いつの間にか」かなでを輪に加えることに成功させた。
したがって、いまも以前も気に掛けるテーマは一緒だった。それは、どうやって互いを出し抜いてかなでの好意を勝ち取るかということだけだった。
それも、視線の斜め上に掲げられた「図書室」のプレートが次第に大きく見えてくるにつれて霧消していった。これから忍び込むことになる書庫には、人知をはるかに超えた現実が待ち構えているのだ。
拓斗と優一は申し合わせたかのように、これからすべきことへと意思を転換させていった。
かなでが図書室のドアを開けた。
入口からは短い回廊が通っていて、右手側の壁は掲示板になっている。そこには、図書委員の手によるお勧め図書を紹介するポスターなどが所狭しと貼られていた。
回廊を抜け、すぐ目の前に広がっているのが閲覧席。六人掛けの木製机が十数基並べられており、その奥に一般書架が配置されている。だが、閲覧席とのあいだを隔てているすりガラスの衝立のせいで、いまいる場所からそれを見ることはできない。
室内には、司書ひとりしかいなかった。
閲覧室に向かい合うかたちで設置されている貸出カウンターでぽつんと文庫本を読んでいた司書は、拓斗たち三人に意表をつかれたような顔を向けてきた。黒縁のメガネがよく似合うその表情からは、誰もいない静かな場所で読書を楽しむという理想的な時間を邪魔された苛立ちのようなものの読み取れた。
司書を不機嫌にさせたのも、わからない話ではない。テスト期間中で悠長に本を借りに来る生徒などいるはずもなかったし、自習するにしても設備と文献がはるかに整った市立図書館に流れるのが普通だったからだ。いわば、司書にとってこの一週間のあいだは有給の自由時間であると見なすことができたわけで、そこに現れた不意の来客は自らの聖域を穢す侵略者以外の何者でもなかった。
「とりあえず座ろう」
司書の心境など知るはずもなく、優一が拓斗とかなでを閲覧室へと誘った。これから実行する計画についての打ち合わせをするためであった。
拓斗はふと貸出カウンターの奥に目をやった。
しぶしぶ文庫本に栞を挟んでいる司書の向こう側に、分厚い金属製の扉が見えた。あれこそが書庫への口を覆っている蓋であった。いくらかなでのためとはいえ、これからあの中に忍び込むことを思うと、無意識のうちに身震いが起こった。邪念を振り切るように書庫の扉から目を逸らすと、優一とかなでの後を追った。
屈強な衛兵のごとく書庫の前に立ち塞がっている扉は、昨年新しく取り替えられたものだった。それまでも数十年に一度のペースで、付け替えが行われていたという事実も明らかになっている。なぜその必要があったのか。それを詳細に知っている生徒はいなかったが、目立たないところで、ある種の伝説なるものが存在していた。
「悪霊が棲みついている」というものだった。
もちろんこれは一般的な見解ではない。多くの生徒たちは、オカルト好きの妄想と想像力がなし得たわざとしてもともと関心を持たないか、耳にしたとしても黙殺していた。
だがその反面、繰り返される扉設置工事とその意図を明かさない学校関係者、中に入ったまま帰って来なかった生徒の噂、奥の方から叫び声が聞こえたという図書委員の証言など、伝説を封殺するにはしきれないほどの事実がいくつも上がっているのだ。これにより、昨年扉を付け替えたのは、学校創立百周年の節目の年である今年に何かが起こることを見越しての措置ではないかという憶測が生まれた。
憶測はいつしか確定情報となり、生徒たちをパニックに巻き込む。
学校側としては手遅れにならないうちにその芽を摘むべきであったが、何のアクションも起こさなかった。所詮噂は噂であるというスタンスをとっていたためだ。
実際のところ、拓斗たちの高校は県内でも指折りの進学校であるため、「悪霊が棲みついている」などという幼稚な噂を本気で信じている生徒はまずいなかった。それに、下手に収拾にかかると逆に感づかれてしまい、取り返しのつかない事態を招くという憂慮もあった。
拓斗と優一も、書庫に「悪霊が棲みついている」などという噂は、一部の扇情家によって華美な尾ひれをつけられたファンタジーだと割り切っていた。さらには、そうした世迷言を信じる輩を見下してもいた。
だが実際に忍び込む段になると、噂が得体の知れない塊となって頭の中に具現化してくる。あっという間に理性を侵食し、尿漏れしそうな頼りなさを伴って全身を支配しはじめる。悪霊の正体が判然としないがために、荒唐無稽な妄想がリアルに取って代わり、どんな博識の持ち主でも原始人並みの知能にリセットされてしまうのであった。
この場合、かなでを責めることはできない。
混じりけのない光の中で虜にさせられたあの無邪気さに背を向けることは、ここ数ヶ月のあいだに確信した自らの思いを全否定することになるからであった。