第一話「光の少女」
中間テストが始まる三日前の放課後のことだった。
部活動を含めたあらゆる課外活動が全面的に停止となるこの日、二年C組の教室からは帰りのホームルーム終了と同時に、生徒たちがクモの子を散らすように飛び出していった。その中にあって、ワゴンにむなしく転がるタイムセールの売れ残りのごとく置き去りにされた三つの人影が、窓際の一画に固まっている。急速に過疎化する教室において、その一画を人口密度ナンバーワンにさせたかったから残っていたのだろうか。否。教室が空っぽになってから話すと言い張った少女に対して、少年ふたりはそれに従うしかなかったからだ。
その三人に気を遣ったのか、担任の教師が去って十分としないうちに、教室の中はもぬけの殻となった。男子は学生服、女子はセーラー服というスタンダードな制服に身を包んだ生徒の群れは、神隠しに遭ったかのようにドアの向こう側へと消えていった。
「図書室の書庫?」
「そう、図書委員をしてる子から聞いたんだ! ずっと昔の寄贈リストを整理してたら載ってたらしいの。一般書架にはなかったから、きっと書庫にあるだろうって」
「ドナルド・ウェスト? そいつの詩集なんて、普通に本屋で売ってんじゃねぇの」
「あたしが欲しいのは、二十世紀初めにイギリスで出版された初版本! 表紙がすごく可愛いの! ウサギが寄り添って本を読んでるイラストで、ずっと前から見てみたかったんだぁ!」
「ネットオークションとかさ、ほかにいろいろと手段はあるはずだよ」
「何十万って値がつくのよ。あたしに落札できるわけないじゃん」
「その図書委員に取ってきてもらえばいいだろ」
「無理だから頼んでるんじゃない!」
「けど、ちょっとやばいんじゃないか」
「やばくないって!」
「書庫には特別な許可がないと入れないし、それに……」
「特別な理由だったらあるじゃん! 本はね、読みたいと思ってる人に読まれるのがいちばん幸せなのよ。人助けならぬ、本助けって言うのかな。これって立派な理由じゃない?」
「あのな、かなで……」
「ちょっと見たらすぐ返すから!」
「いや、そういう問題じゃ……」
「大丈夫、拓斗と優一ならできるって!」
かなでと呼ばれた少女は、得意げな笑みを振りまきつつ、腰掛けていた机からピョンと床に跳ね降りた。
背にした窓から入り込んでくる五月の日差しが、十六歳の少女の輪郭を縁取るように浮かび上がらせた。髪の毛の茶色、頬の桃色、制服から伸び出た手の乳白色など、かなでが持っているあらゆる色素が、光によって薄められていく。全身が水で溶かれた絵の具のような透明さを帯びはじめた。
光は教室という舞台の演出家となり、かなでをプリマドンナに仕立てていった。その姿は、どんなに卓抜な画才を持った芸術家でも、完璧に描写できるものではなかったであろう。ふたりの少年は、舞台袖からの傍観者を決め込んだかのように立ちすくんでいるよりほかなかった。
「ねぇ、聞いてるの?」
透明に近くなった茶色の長髪を揺らしながら、かなでがふたりの少年に一歩詰め寄った。
思わず体をのけ反らせたのは、その迫力に押されたからではなかった。
「あ、あぁ……そ、そうだよな、かなでがそう言うなら大丈夫だよな!」
うわずった声で応じたのは拓斗だ。にきびが多く残る肌や丸っこい頬、ひたすらジェルで固め立ち上げた短髪からは、大人になる意識すら芽生えていない精神的な未熟さが感じられる。
「そうだな。特別な理由さえあれば……」
やや自重気味に押し殺した言葉を発したのは優一。拓斗とは対照的に、ガラス面の細いメガネに被せられた一重まぶたの射抜くような瞳、よく整えられたサラサラの髪の毛からは、自分自身のポジションに対する自覚が窺い知れた。
「じゃ、決まりだね! 行こ!」
拓斗と優一の前に立ったかなでは、上目づかいにそう呼びかけた。その大きな栗色の瞳でさえも光のペイントにさらされていた。
かなでは平均的な高二女子の身長と比べてやや低い。そのため、百七十センチ前後の少年の前ではどうしてもこうした体勢になる。拓斗も優一も、このときのかなでがたまらなく愛しかった。このまま光とともに、その瞳に吸い込まれてもいいと思った。
「ほら、早く!」
なかなか動かない拓斗と優一に業を煮やしたのか、かなでは両腕を広げてふたりの肩を押し包むようにして歩を促した。
ビスケットに似た甘い体臭が鼻をくすぐった。
まだ異性を知らない少年たちにとって、化粧や香水に手を染めていない少女の生の香りはどんなフェロモンよりも刺激的に脳髄をえぐる。それは、午後の日差しに溶け込まれそうになっていたかなでの実体において、唯一感じられた精一杯の自己主張でもあった。
「オッケー、行くぞ!」
「では、歩きながら対策を練るとするか」
「やったぁ! レッツゴー!」
背中を押される格好となりつつも、拓斗と優一は、かなでが次第に光の支配から解放されていくさまを目にしていた。
圧倒的な光の吹き溜まりだった窓際から遠ざかっただけなので当然のことではあったが、それでもかなでの体が本来の色を取り戻していく姿は感動的に思えた。何気ない光景ではあったが、思いを寄せる少女の些細な変化にはらはらしない少年はいない。それは若すぎる感性からというより、まだ自らの感情を制御する術を知らない苛立ちからでもあった。