駆流
終盤です
駆流は数週間ぶりにグラウンドに立った。走れない間、駆流は1度もグラウンドに足を踏み入れなかった。グラウンドに入ると、駆流は本能的に走り出す。それは自分が2度とはしれなくなることを示唆したからだ。
駆流は一回り細くなったような脚を動かして走り出す。感傷は湧かない。ここではただ走るだけだ。
無心に走る。それは今までの駆流にとって顔を洗うよりも簡単なことだった。右、左、右、左……。体の心地よさに身を任せる。
だが、今日誰かの顔が脳裏をチラついて困る。追い払おうとしてもしつこくまとわりつく。駄目だ、追い払おうとすることすら雑念だ。
よし、いったん休憩だ。急に走りすぎてまたけがをすると困る。
駆流は走るのをやめると慎重に路肩に座った。喉の奥にスポーツドリンクを流し込むと、一段と汗が噴き出す気がする。
ゔー……ゔー……
ちっと舌打ちしながら駆流は汗を拭い、電話をとった。以前の駆流なら走っている休憩中でも決して電話をとることはなかった。休憩も走るため、だ。
でも、今日は悪態をつきながらも駆流は電話をとった。あいつかもしれない。あと、何だか胸騒ぎがした。
……逢斗?
「煌葉が……。」
「……!?」
まだ鳴り止まない心臓が一段と激しさを増す。
「煌葉のお母さんから連絡があったんだ。煌葉が倒れて運ばれたって。かなりヤバいらしい。」
タオレテハコバレタ?
フルマラソンを完走したような音が心臓が聞こえる。
「ごめん、お前らがそういう関係じゃないのはわかってる。でも誰かに言ってしまわないとショックで潰されそうで……。」
言いかける逢斗を遮って尋ねる。
「どこの病院だ?」
「隣町の総合病院だ。」
ダッシュ……
気がつくと駆流はグラウンドを飛び出し突っ走っていた。日の落ちかけたいたずらに広い国道に駆流の長い影が孤独に揺れる。
隣町までは10キロくらいだ。駆流の脚なら大体30分くらいか。
普段駆流は走っているときに焦りは感じない。速く走りたいとも思わない。自分が心地よく体を動かせているとき、自然と速く走れているからだ。でも今は焦りが体をこわばらせる。1秒でも早く着きたい。足が空回りして痛めていた足をくじきそうになる。
逸る気持ちに足がついてきてくれなくて困る。体中から嫌な汗が噴き出す。汗は体を軽くなんてしてくれない。執拗に体にまとわりつく。
うなされたときに見る夢みたいだ。魔物が駆流を追いかけてくる。普段の駆流なら全然逃げられそうなのに、なぜか手足が動かないもどかしさ。駆流の一番嫌いな夢だ。
まだあと9キロ。
呼吸が乱れる。
吸って吸って、吐いて吐いて……。吸って吸って吸って、吐いて……。冬の冷たい空気が肺を刺す。横腹が引き攣る。
いつの間にか太陽はすっかり姿を消していた。夜の訪れとともに暗雲が空に立ち込め、星一つ見えない。まずい。雨に降られると困る。
どうしてこんなに必死こいて走ってんだろ俺。俺が行ったことで何にもかわりゃしないしさ。つい数ヶ月前まで他人だったし、今もビジネスパートナーっていうだけのやつのためにさぁ。俺なんて弱いし、大した人間じゃないし。煌葉だって自分の弱さを責めちゃいけないって言ってたじゃないか。
心の中の声がそれは違うと叫んだ。弱さは責めちゃいけないけど、弱さを言い訳にしていいわけじゃない。俺に誇りを持たなくては。初めて人のために何かをしたいと感じている俺に。
それに……。今までの駆流を変えてくれたのは間違いなく煌葉だ。あいつと出会って俺は変わった。あいつがいなければ俺はまだ意固地で、プライドだけが高いままだったろう。煌葉と出会って、俺は物事を深く考えることを知った。煌葉と出会って、俺は走れない期間乗り切った。煌葉と出会って、俺は人を大切にすることを知った。ただの目的を同じくした共同作業者だけどさ、俺にとってなくてはならない存在じゃんか。
それに……今俺が走ってるのは、あいつのためじゃねえ。俺が、一刻も早く、あいつに、会いたいからなんだ。
気が遠くなるような時間がたった後、駆流の目にまばゆいばかりの光が飛び込んできた。暗闇に目が慣れた駆流は一瞬目がくらみ、視界が途切れる。
隣町の市街地だ。総合病院はもうすぐだ。
手元のタイマーを見ると30分も経っていなかった。
まどろっこしいほどゆっくりと病院の自動ドアが開く。
スポーツウェア姿でダラダラ汗を垂らしている駆流を、待合室の患者や看護師が奇異の目で見る。そのような目を潜り抜け、駆流は受付へ急いだ。
「た……た……たか……」
受付の看護師が心配そうに眉根を寄せる。
「だ……だ……脱水症状ですか?」
駆流は大きく息を吸い込んで息を吐くように声を出した。
「高峰、煌葉さんの、ところに、見舞いに来たのですが……。」
煌葉はベッドに横になっていた。その目は閉じられている。
「彼女は、過重ストレスを抱えていたみたいだね。」
白衣の先生が憂を帯びた穏やかな声を出した。
過重……ストレス……。
「彼女はストイックすぎる。自分の限界を超えて自分を追い詰めてしまっていた。」
煌葉……。俺の知らない間にお前はそんなにも苦しんでたのか。俺は煌葉に数え切れないものをもらったのに、俺は煌葉に何もしてやれなかったんだ。いや、それどころかこんなにも近くにいて、煌葉が追い詰められていることに気がつきさえしていなかったじゃないか。
なんで、自分の限界が分かんねぇんだよ。自分に誇りを持てって言ってただろう?誇りを持つことは自分を痛めつけることじゃない。煌葉の馬鹿。どうして、自分で気が付かないんだ。こんなになるまで。
「君は高峰さんのことを大事に思ってるんだろう?」
先生の声が遠くに響き、駆流は現実に引き戻された。
「はい」
駆流は大きく頷いた。
「そうかい。それは良かった。でもね。」
そういって先生は駆流の瞳の奥を覗き込んだ。
「絶対に自分を責めちゃだめだよ。愛する人がストレスで倒れたりなんてしたら、自分を責めちゃう人は多いんだ。でも、高峰さんが倒れたのは絶対に君のせいなんかじゃないし、君が抱え込むことでもないんだからね。」
「分かり、ました。」
「そうかい。それは良かった。」
先生はもう一度頷く。
「そろそろ、高峰さんの家族と幼馴染だっていう坊ちゃんが戻ってくるんじゃないか?さっきどこかに行くって言ってたような気がするよ。」
逢斗のことか。
煌葉、大丈夫。きっと良くなる。
俺はお前がいなけりゃ駄目なんだ。早く良くなってくれないと俺の方が駄目になっちまう。
何もかもお前がいなけりゃできなかったんだ。俺の中の心の声を言葉にすることも、……人を愛することも。俺の半分、いや大半は煌葉でできてる。
愛すること……か。
今、煌葉が俺のことをどう思ってるのかは知らない。でも、俺は……。
愛してる。
煌葉がほんの気持ちだけ微笑んだように見えた。
次回最終回です