ep15.ゴブリンパンチ
「……ウィル?」
信じられない思いで、ビアンカは相棒の名前を口にした。
「……ビアンカ」
目と目が合った数秒後、相棒がもう一度彼女の名前を呼んだ。
呟くように発せられた呼び声には、感情という感情が目一杯、はち切れそうなほど込められていた。
ウィリアムに少し遅れて、ココも室内に駆け込んできた。
同じようにビアンカの名前を呼ぼうとしたココは、見つめ合う二人の様子に気付いて、慌てて口を閉ざした。
「……ウィル」
相棒が込めたのと同じだけの想いを込めて、ビアンカも再び彼の名前を呼んだ。
嬉しかった。気を抜いたら即泣き出してしまいそうなほどに嬉しかった。
だから、ビアンカは言った。
「このバカ! なにしにノコノコ来やがったんだよ!」
本気の怒りを声に漲らせて、シンデレラは紳士を罵った。
あたしがどんな想いであんたから離れたと思ってるんだ。
どんなに勇気が必要だったか、どんなに覚悟が必要だったか。
どんなに辛くて、どんなに悲しかったか。
教室であんたに話しかけない為に、授業中にあんたのほうを見ないようにする為に、いまだってあたしがどんなに努力してるのか。
あんた、わかってるのか。
そういう気持ちに、さっきようやく踏ん切りがついたってのに。
それを、さっそく台無しにしやがって。
「なにをしにって、そんなの決まってる」
ビアンカの激昂を受け止めたウィリアムは、むしろ静かに言った。
「僕は君の気持ちを聞きに来たんだ」
「おいウィリアム君! なんなんだこれは!」
状況の発する空気に飲まれていたディミトリが、そこでようやく抗議した。
「いきなり現れて、いったいどういうつもり――!」
「すまないが、ディミトリ」
ウィリアムは毅然として答えた。
「いま非常に大切な話しをしている。だから、部外者は少し黙っていてくれたまえ」
「……ぶ、部外者?」
最大当事者である自分を部外者と言い切った言葉に、御曹司が再び絶句する。
そんなディミトリには構わず、紳士はただシンデレラにのみ視線を注いで、続けた。
「ビアンカ、もう一度だけ君の気持ちを聞かせて欲しい。それでも君の答えが変わらないようなら、僕はもう二度と同じ質問をしない。約束する」
だから、君の本当の心を聞かせて欲しい。
「今回のこと、君は本当に納得しているのか? 君はこれでいいのかい?」
「納得なんて、そんなの……!」
ビアンカが声を荒げた。言葉に詰まりながら彼女は続けた。
「だって、だって……しょうがないじゃんかよ!」
「そうか」
「こうするしかなかったんだよ! 選択の余地なんて、なかったんだ!」
「そうか」
「だってあたしには、あんたが、あんたが……!」
「そうか」
一つ言葉を重ねるごとにビアンカの声が激しさを増す。
反面、ウィリアムは冷静そのもの、少しも顔色を変えずにビアンカの言葉を受け止める。
彼が冷静さを崩したのは、再びディミトリが口を挟んだ時だった。
「貴様……! ゴブリンの分際で、よくもふざけた真似を……!」
「うるさい! すっこんでろ!」
冷静さも紳士的な態度もかなぐり捨てて、ウィリアムは鋭く怒鳴った。
「そっちこそ、エルフの分際でゴブリンの恋路に首を突っ込むな!」
ディミトリが、ウィリアムの気迫に圧倒されて黙り込む。
ビアンカが、真っ赤になって眼をぐるぐるさせる。
ココが、大きく大きくガッツポーズをする。
そんなみんなの反応は少しも意に介さず、ウィリアムはもう一度ビアンカに向き直った。
「事情があるのはわかった。だけど僕はそれを聞かないし、君もまたそれを気にしなくていい。
そんなものどうでもいい、僕が問題にしているのは最初から一つだけだ。
ビアンカ、これでいいのかい? お願いだ、君の気持ちを僕に聞かせてくれ」
「いいわけない! 納得なんてしてない!」
「……いいわけないよ……帰りたい……あたし、帰りたい……」
ビアンカは泣いていた。
小さな子供のように泣きじゃくりながら、彼女は繰り返し訴えた。
「……帰りたい、帰りたいよぉ」
「……うん、知ってた。だから迎えに来たんだ」
ウィリアムは優しい声で相棒に言った。
「それじゃあ、帰ろう。僕らのゴブリンの巣穴に――」
「ウィル! 危ない!」
その時、ウィリアムの声を遮って、ココが悲鳴をあげた。
蹴り飛ばされたウィリアムが絨毯の上に転がったのは、その一秒後のことだった。
※
自分がディミトリに蹴られたのだとウィリアムが気付いたのは、さらにもう一度蹴られたあとで首根っこを捕まれてから、ようやくだった。
「この野郎! このゴブリン野郎!」
馬乗りになってウィリアムの首を揺さぶりながら、ディミトリは絶叫する。
「下等なゴブリン風情が、この私をコケにしやがってぇぇえぇ!」
「ウィル!」
助けに入ろうとするココを、ウィリアムは「来るな!」と制止する。
「来るなココ! 危ないから下がっていたまえ!」
それに、とウィリアムは続ける。
「……それに、ディミトリには恥をかかせる形になってしまったわけだからね。殴られるくらいのことは覚悟していたとも」
この余裕とも取れる態度が、御曹司の怒りの火に油を注いだ。
一度、二度、三度、そして四度……馬乗り体勢から顔への殴打が降り注ぐ。
「前から貴様のことは気に入らなかったんだ、ウィリアム・ハートフィールド! エルフのエルフによるエルフの為の学校たるプラードを、下等なゴブリンが我が物顔で歩いているのが! しかもそのゴブリンが、こともあろうにクラスメイトだと! ふざけるな! 貴様は、いや貴様らは! 存在それ自体が私への侮辱だ!」
「……」
「……なんだその哀れむような眼は! ゴブリンが私を見下すな!」
再び制服の首元を持って揺さぶられる。
ココが悲鳴をあげている。
「おい、悔しいだろ! 悔しかったらほら、殴り返せよ! ほら、ほら!」
「……」
「はは、できないよなぁ! 暴力沙汰は、タブーだもんなぁ! 殴ったらもう『名誉紳士』に、なれないもんなぁ! ……つくづくおめでたいなウィリアム君! 君のようなみじめなゴブリンが『名誉紳士』なんて、最初からなれるわけないんだよ!」
「――やっぱりお前は、なんにもわかってねえ」
繰り返されていた暴力が、ピタッと止まった。
ディミトリに反論したのは、ウィリアムではなかった。
「最低野郎なお前には一生わかんねえだろうから、あたしがレクチャーしてやるよ」
ビアンカ・バルボアが、嘲笑う口調でディミトリ・レノックスに言った。
「いいか、ウィルがお前を殴らないのはな、監視カメラが見張ってるからじゃない。卑怯者のお前が仲良しの教頭に言いつけるかもって心配してるからでもない。答えはこの上なくシンプル、『ウィリアム・ハートフィールドが紳士だから』だ」
つまんねえ称号なんかあってもなくても関係ねえんだよ、とビアンカ。
「ようレノックス、認めてやるよ。お前はナンバーワンにケツの穴だって。けど結局そこ止まりだ。
お前は一生、紳士にはなれやしない」
そう言い切って、ビアンカは勝利宣言するかのように口角を吊り上げた。
「……」
ディミトリが、ウィリアムを解放して立ち上がった。
エルフの御曹司は表情を白紙にして不良娘を見つめる。
そして、ややあってから、呪文の詠唱をはじめる。
「……ディミトリ! ダメだ! やめてくれ!」
それが炎の魔法の呪文であることに、やはりウィリアムだけが気付く。
しかしそのターゲットが誰であるかは、この場の全員が承知している。
「……ディミトリ……!」
最後にもう一度だけ級友の名前を呼んだウィリアム・ハートフィールドは。
直後、一秒にも満たない逡巡の後で、バネ仕掛けのように飛び起きて。
飛び起きた勢いそのままに、ディミトリ・レノックスに殴りかかった。




