ep13.一番になんてなりたくない!
静けさに集中を阻害されるというのは、彼にとってまったく新しい体験だった。
頭に入ってこないテキストから顔を上げて、ウィリアム・ハートフィールドはテレビのリモコンに手を伸ばした。
しかしそうして室内から沈黙が払われても、そこにある広大な虚無までは消えてくれなかった。
ため息をついて、ウィリアムはつけたばかりのテレビを消した。
ビアンカがいなくなってから三度目の夜を迎えて、しかしウィリアムは、まだ少しも彼女の不在に適応できずにいる。
『今日からゴブリン寮に入るバルボアっす! よろしくな、寮長!』
大荷物を携えた彼女がそう挨拶した夜が、遠い太古に感じられた。
それ以前に自分がどうやって一人で生活していたのか、もう思い出せなかった。
静寂に心を乱されて、ビアンカの個人スペースがあった場所を何度も振り返って。
そしてその都度、一切合切が過去形になってしまった空白を目の当たりにした。
「……まったく、やわっちい紳士だな、僕は」
ため息交じりにそう呟いて、無理矢理に苦笑しようとする。
昼間、友人たちは一致団結して彼の孤独を癒やそうと、あるいは紛らわせようとしてくれる。
ウィリアムはそういうみんなの気持ちに気付いていたし、みんなの友情に感謝もしていた。しかし、それでも彼の中の欠落が埋め合わされることはなかった。
『同族と群れたがるのはあたしらゴブリンの習性だろうが?』
あの言葉は本当だったのだと、ウィリアムはいまこそそれを噛みしめている。
なぜなら、彼を慰めようとしてくれる友人の輪には吸血鬼がいて、ドラゴニュートがいて、エルフと二人のホビットがいたが、ゴブリンはいなかったからだ。
彼女に会いたい、とゴブリンの少年は思った。
それ以外、なにも思わなかった。
「ウィル! 開けて!」
ゴブリン寮の扉が叩かれたのは、その時だった。
「……ヘミングウェイ? ど、どうぞ! 鍵は開いてるから、入ってくれたまえ!」
そう返事をしたと同時に、吸血鬼と猫が室内に転がり込んできた。
「ヘミングウェイ、どうしたんだい? こんな時間にそんなに慌て……」
「ウィル! お、お願い! 一緒に来て!」
ウィリアムの言葉を遮り、乱れきった息を整える暇さえ惜しんでココが叫んだ。
「来てって、いったいどこに……?」
ココは自分が目撃した内容を証言した。
学生大食堂で教頭とディミトリが密談を交わしていたこと。そこに、呼び出されたビアンカがやってきたこと。実在したVIPルーム。
そして、暖炉の隠し扉に消えていったディミトリとビアンカ。
「お願いウィル! ビッキーを迎えに行って! 彼女はきっとあなたを待ってる!」
状況のあらましを早口で一気にまくし立てたあとで、ココがもう一度訴えた。
しかし、ウィリアムは。
「……すまないが、僕の出る幕ではないと思う」
ココが、絶句してウィリアムを凝視した。
ビアンカの名前を聞いた瞬間、ほとんど飛び上がりそうになった。ウィリアムにとってそれは、歴代大統領の全部を合わせたよりもなお重要な名前だった。
しかし、その世界一素敵な名前の持ち主は、彼の元を去ってしまったのだ。
「だって、ただの会食じゃないか。教頭先生がセッティングした特別なディナー。学園のPR活動の為にも、教頭は彼女とディミトリに親睦を深めて欲しいんだろうね。そこに元エスコート係がのこのこ乗り込む理由なんて、なんにもない」
部外者の出る幕じゃないんだ。自分に言い聞かせるようにウィリアムは言った。
「ねぇヘミングウェイ。きっと君は、落ち込んでいる僕を見かねてこんな提案をしてくれたんだろう? やれやれ、自分では普通に振る舞えているつもりだったんだが、やはり君やみんなにはお見通しだったんだな」
「ち、ちがっ……!」
「心配掛けてすまなかった、そしてありがとう、親愛なる友よ」
ウィリアムは笑顔で感謝と謝罪を述べた。
無理をしているのが明白な笑顔で。
「とにかく、もう大丈夫だ。嘘じゃない、本当に吹っ切れたんだ。だから週明けからはまた教室でよろしく頼む。それから、できるならば僕よりもビアンカを気に掛けて……いや、忘れてくれ。僕はもう、そんなことを言える立場には――」
「バッカじゃないの!」
ウィリアムの声を遮って、ココが鋭く叫んだ。
ココは怒っていた。
物わかりのいいことを言ってすべてを諦めてしまおうとしているウィリアムに本気で怒りながら、『全部ぶちまけてやりたい』と彼女は思っていた。
ビアンカがどんな気持ちでディミトリのところに行ったのか、彼女がなにを守ろうとしているのか、この分からず屋に事情の全部を包み隠さず教えてやりたいと。
その誘惑に、しかしココは必死で抗った。
親友の捨て身の献身を暴露してしまいたい誘惑をすんでのところで堪えて、代わりに、吸血鬼の少女はゴブリンの少年に言った。
「……わたしは、あなたたちと友達になれて嬉しかった。あなたたちと友達になれて、あなたたちがわたしを好きになってくれて、人生で一番に嬉しかった」
「……ヘミングウェイ?」
「だけどわたしは、あなたたちどっちの一番にもなりたくない!」
ココは泣いていた。
泣きながら、彼女は訴えた。
「わたしはあなたたちが好き! 相手の足りないところを補い合う凸凹コンビのあなたたちが好き! 最低限の言葉で通じ合えちゃうあなたたちが好き! 見ていてやきもきしちゃうあなたたちが、吸血鬼にはまぶしすぎるあなたたちが好き!
お互いがお互いを一番に大切に思ってる、そんなゴブリン寮の二人が、わたしは大好き!」
だから、と彼女は続ける。
「……だから、一番同士のあなたたちが、一番同士のままで引き離されちゃうなんて、わたしには耐えられない……」
「……」
「……お願いよウィル。ビッキーを信じて、信じて彼女を迎えに行って」
ビッキーとあなたの、ゴブリン寮の絆を信じて。
最後にそう言って泣き崩れたココを見ながら、ウィリアムの脳裏には、ビアンカの声と姿がよみがえっている。
彼女との毎日が、数ヶ月分の八万六千四百秒が。
『エルフの学校も、割と捨てたもんじゃないな。少なくとも三票分はさ』
『来年もよろしくな……あたしの飼育員さん』
『あたしの手綱を離すなよ? でなきゃビーストに戻っちゃうぞ?』
『早く帰りたいな。あたしらのゴブリンの巣穴にさ』
「――紳士百箇条より、第四十条」
「……ウィル?」
「『紳士は友達の忠告を無駄にしない』。……それも、自分たちの為に本気で怒って本気で泣いてくれるような『最高な二番手』の言葉なら、なおさらだ」
涙に濡れたココの顔が、パァっと輝いた。
「君への感謝は百の言葉を尽くしても足りないが、それは彼女を連れ帰ってからにしよう。
ココ、すまないが案内を頼めるかい?」
もちろん! 吸血鬼は声を弾ませて言った。




