9
その日の夕方、海老名の班は再び飲み屋で捜査会議を始めた。ただし今日は別の飲み屋で。
昨日とは別の場所だが、大手チェーン店だけあって、早速周りは酔客の馬鹿騒ぎで賑わっている。あまりにも周りがうるさすぎて、自分たちの声まで聞こえないほど。
刑事たちは、昼間に聞き込んできた結果を報告し始めた。まずは、鈴木彩が性転換する前の名前・田島拳志郎の両親に聞き込みをしてきた、東田萌愛の報告。
大方の話の内容は以前、本庁の刑事が聞き込んだものとほぼ同じ。特に相違点・矛盾点はなし。ただ東田によると田島の両親は、死亡した鈴木彩が自分たちの息子である拳志郎と同一人物だとはとても思えない、と言っていたとか。
「いくら美容整形の技術が進んでも、ここまで顔を別人に変えられるものだろうか?なんて話してました」と東田は酒も飲まずに話す。イースター島のモアイ像が表情も変えずに口だけ動かすと、こんな感じになるのだろうか。「本当に自分の息子の拳志郎なんだろうか?とも言ってましたね。やはり同一人物であることに疑問を持ってるようです」
「やっぱり俺の予想通りだったな」海老名がビールを飲みながら言う。「田島は元々両親とは仲が悪かったと言う話だけど、モアイ、そのことは聞いてみたんだろうな?」
「田島の父親は、財務省の主計局長を務めてたことがあるそうで、息子にも中央省庁の官僚になることを希望してました。母親の家系も代々官僚です。ところが田島は教師になりたかったみたいで、進路問題で昔から両親とは折り合いが悪かったそうです」
「なるほど、いずれにしても鈴木彩が田島に成り済ましてたという可能性は大いにあるな。鈴木彩って本当は何者なんだろう? 昔勤めてたゲイバー辺りを回って調べてみる必要があるかもしれない。そこは俺に任せろ。これ以上鈴木彩のことに踏み込んだら、確実に防犯ベルが鳴る。あいつは只者じゃないと見た。本庁が捜査を止めたのも、そこら辺に原因がありそうだ」
次に容疑者についての聞き込み結果の報告。三橋がウラジーミル・チストフとラモーナ・ストーンに直接聞き込みをしてみたが、
「私もあの2人はシロだと思いました」三橋が経を読むように言った。そのうちギャーテーギャーテーなんて言い出しそうな口調で。「チストフは、鈴木彩と喧嘩したことは別に恨んでないそうです。またあの店で酒を飲みたかった、と話してました」
「チストフと鈴木彩とは、あの店の店員と常連客以外にどういう関係だったんだ?」と海老名。
「それ以上の関係はない、とのことです。彩夫妻の自宅にも行ったことがないそうで。彩は英語が話せる外国人とは交流が深かったけど、自分は英語が話せないから、それほど付き合いも深くなかった、とも話してました」
「ミハイル・タルコフスキーについては何と言ってた?」
「タルコフスキーは間違いなくロシア人じゃないと断言してました。ロシア語は話せるけど、ネイティブのロシア人であるチストフからすれば、あれはネイティブのロシア語じゃないとか。タルコフスキーは、いつも英語を話す外国人と交際してたそうです。交友関係もその方面に限られてたみたいですね」
ミハイル・オレゴヴィッチ・タルコフスキー(42歳)。自称ロシア人。ニューハーフ。身長は170センチほどと、白人男にしては小柄。天国が見える教会の牧師。鈴木夫妻とも交友が深いらしい。ロシアに住んでいたころは嫌なことばかりで思い出したくもない、と言い訳して、過去の経歴にも不明点が多数。10年前に来日する前から既にニューハーフだったとか。とにかく謎の多い人物で、初めは白人の容疑者の第一候補とみなされていたが、事件が起きたと思われる時刻に関してはアリバイがある。教会の事務所内で聖書を読んでいた、と言う同僚の証言を得られた。その同僚というのが、少年に対する性的いたずらで訴えられたことがある白幡茂男ではあるが。
「他にあの教会の関係者についてはどうだ? 特に白幡とか許明とか」と海老名。
「白幡も許明も熱心でいい人だ、と言う話です。それ以外の容疑者については、よく知らないとか」と三橋。
「和戸尊についても?」
「全く知らないそうです」
次にラモーナ・ストーンのことについて。
「鈴木彩とは、向こうが性転換する前から知り合いだそうで、女に性転換する際のアドバイスとかもよくしてたそうです。恋人関係は全くなかったとか」三橋が続ける。
「そういえば、ストーンは日本に来る前から女になってたんだっけ?」と海老名。
「らしいです。鈴木夫妻は2人とも英語が流暢だから、特に気に入ってましてね。よく自宅へ遊びに行ってたことも認めてます。あの夫妻の飼ってた猫の名付け親にもなってたほどで……あの、眼球をえぐり出したと言われてる猫のことです。『ゾウイ』と言う名だとか。デヴィッド・ボウイの息子の名前だそうです」
「ダンカン・ジョーンズのことね。親の七光りで映画監督になったらしいよ。よく知らないけど……それはともかく、他の奴らのことについては何か言ってたか? 例えばタルコフスキーのこと……」
「タルコフスキーについては、あまりいいことを言ってませんでしたね。何考えてるんだかよくわからない奴、と言うことで。ロシア人にしては英語が流暢すぎるし、完全なネイティブだと言ってました。あまり親しくないので、詳しいことはよくわからないそうです。仲間内では『トム少佐』というあだ名で呼ばれていたとか。英語ではMajor Tomと言うそうです。どうもデヴィッド・ボウイの曲に出て来る人物らしいですね」
「またデヴィッド・ボウイか。ジギー・スターダストだの、ラモーナ・A・ストーンだの、ゾウイだの、メイジャー・トムだのって……同性愛者にはデヴィッド・ボウイのファンが多いみたいだな。確かにデヴィッド・ボウイってバイセクシャルであることを公言してたけど、あれ、本当なのかどうか……当時のグラム・ロックのブームに乗って、嘘言ってただけじゃないの? グラム・ロックって女装したりして、中性的なイメージで売り出してたけどさ。それを本気にした同性愛者も多いんだろ。で、なぜメイジャー・トムって言うんだ?」
「理由は知らないと言ってましたが、ニューハーフになる前からそう呼ばれてたそうです。ストーンが憶測で言うには、ミハイル・オレゴヴィッチ・タルコフスキー(Mikhail Olegovich Tarkovsky)のイニシャルはローマ字でM・O・T。逆にすればT・O・Mになるから、ということらしいですね」
「なるほど。ストーンは、タルコフスキーと鈴木夫妻との関係については何か話してたか?」
「タルコフスキーが、あの夫妻の自宅によく出入りしてたことは知ってました。具体的な関係については、よく知らないそうですが」
「他の容疑者については何か言ってたか?」
「腹話術師の桜田剛とは英語も話せるんで、わりと親しかったそうです。よく腹話術なんかも教えてもらってたりして。口数は少ないけど、友達としてはいい奴だとか。それ以上の関係はないそうです」
「和戸尊についてはどうだ?」
「あの店の常連客で医者だということは知ってましたが、英語はほとんど話せないし、よく知らないとか」
次に土屋陽太からの報告。土屋は主に「ジギー・スターダスト」の店員や常連客を中心に、聞き込みを担当していた。
この土屋という男が、またなかなか強烈な奴で、捜査能力は高いのだがコミュニケーションに少々難がある。異様なほどの早口なのだ。
「桜田は腹話術師ですからよくみんなの前で腹話術をやってたりしてわりと評判がよかったですねただ彼は違法な薬物に手を染めてるんじゃないかともっぱらの噂です彼がコカインをこっそり誰かに手渡してたのを見たことがあると証言してる者もいますあとそれから……」と土屋は句読点もなしに、相手の頭の中で言葉を咀嚼させる余裕すら与えず、ひたすら機関銃のように早口で話し続ける。
「おい、おい、土屋」と海老名は、土屋を話の途中で制止した。「毎回同じこと繰り返し言うけどさ、もっとゆっくり話せないのかよ?」
「大変、失礼、いたし、ました。どうも、この癖は、直そうと、しても、なかなか、治ら、なくて。自分でも、何とか、しなくちゃ、とは、思って、いるん、ですけど。どうにも、うまく、いかなくて……」と土屋は、今度は異常なほどゆっくりと話す。
「ああ今度はゆっくり過ぎて、まどろっこしい。極端すぎるんだよ、おまえは」
土屋の報告を要約すると、桜田剛には薬物所持の疑惑があること。鈴木夫妻や他の容疑者に関しては、特に目新しい情報はなかった。
「で、和戸尊のことについては?」と海老名。
「和戸については常連客の間でも評判が良かったですよ特に悪い噂はありませんでした僕が思うに……」土屋は、知らない間に自分が早口になっていたことに気づいて、また急に口調を変えた。「僕が、思うに、和戸は、シロだと、思いました」
「そんなことはない。和戸は絶対に怪しい。明日はそこのところを、もう少し詳しく聞き込んでくれ」
「エビさん、和戸については異常にこだわりますよね?」高木がつまみの刺身を食べながら話す。和戸尊周辺の集中的な聞き込みについては、彼が担当していたのだ。
「あいつは絶対に怪しい。だって丸出の友達だぜ。ブー、何か有力な情報は出たか?」
「それが全くないんですよ。他の医師や患者を回っても、あの和戸尊、ちょっと変わってるけど、いい医者だって評判高かったですからね。強いて言えば、睡眠薬の量を増やせとか、何か違法な薬物をくれ、って言ったら断られた、って馬鹿らしい悪口ぐらいで」
「そんなことはないはずだ。もっとちゃんとよく調べろ。必ず何か出て来る」
「でもな……エビさん、あのオネエ言葉の医者にこだわり過ぎじゃないかって思うんですよ。確かにあの丸出の友達ってだけで充分怪しいですし、俺も丸出嫌いですけど、個人的な感情抜きにして、冷静に考えながら言ってるんですか?」
「何だとブー、俺の方が間違ってるって言いたいのか?」海老名の口調に棘が生えて来た。酒のせいで、その棘も研ぎ澄まされている。
「まあまあ海老名さん、あまり高木君を責めないでください」と三橋が間に割って入りながら言った。「私も高木君の意見には賛成ですね。もちろん和戸も怪しいですが、ここは一度和戸のことは置いといて、他の容疑者のことについても、もっと考察してみるべきだと思います」
本庁出身の三橋に説得されると、さすがの海老名も、反論する気力がビールと一緒に胃の中へと流れてしまった。確かに俺は、和戸尊について感情的になってるのかもしれない。それは認める。だけど……海老名は段々と自分に自信を失い始めていた。
「わかったよ……それにしても面白くねぇな。ちょっと俺、便所行ってきていいか? このクサクサした気分をチンポコから押し流さないと、先に進めそうにねぇや」そう言って海老名は席を立った。
その時、海老名の目に1人の客が映った。海老名たちの席のすぐ近く、カウンター席で1人黙々と酒を飲んでいる客が。青紫色のジャンパーにジーンズ、野球帽。一目見たところ30代で、職業不詳。今日は休日で、ふらっと居酒屋に入って飲みたくなった、といった感じの風貌。
この男、どこかで見たことがある。
海老名がトイレに行って用便を済ませている間に、その男が誰かがわかってきた。間違いない。うまく変装してるけど、俺の目に狂いはない。自信を失いかけていた海老名の勘が、急に切れ味を取り戻しつつある。
トイレから出て自分の席へ戻る前に、海老名は例の客の肩を軽く叩いた。
「上野さん!」
海老名が大声で話しかけると、例の客は席に座りながら弾かれたようにびっくりして、海老名を横目で見た。
「やっぱりそうだ。警視庁捜査1課の上野大志刑事でしょ?」
「え……ち、違いますよ。人違いじゃないんですか?」例の客がうろたえながら言う。
「またまた……変装してても俺にはわかりますよ、上野さん。俺ですよ、タカハシ組のオニガワラゴンゾウですよ。あの時のことは、どうもお世話になりました。大丈夫ですよ。あれ以来、うちの組も変な薬なんか扱ってませんから」
「あ、あのう……何を言ってるんだか、俺にはさっぱり……」
「そんな、とぼけてないで……どうです? こんな所で1人寂しく飲んでないで、俺たちの席で飲みませんか? みんなでパーっと行きましょうよ」
「い、いや、結構です。俺、用事を思い出したんで失礼します」
そう言って例の客は伝票を持って、急いでレジへと向かって行った。