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極秘で聞き込み捜査は再開された。あくまでも鈴木夫妻の部屋に入った空き巣の捜査をしている、という口実の下で。同僚たちが外での聞き込みを再開。
その間、海老名は自分の席のパソコンで色々と調べ物をしながら、和戸尊という精神科医のことを考えていた。あいつは絶対に怪しい。何と言っても丸出の友達なのだから。
鈴木夫妻の自宅を家宅捜索した際、とある医院の診察券を発見した。「わどメンタルクリニック」。どこかで聞いたことがある名前だな、と海老名はすぐ感づいた。それもそのはず。丸出が探偵事務所兼住居としている、あの医院だったからである。
事件後すぐにあのクリニックへ行った時のことは、よく覚えている。海老名にとっては2度目の訪問。2度目にあのクリニックへ行った時の海老名の精神状態は、およそ普通とは言えなかった。このままあの精神科医の診察を受けていたら、ただでさえ乱れていた精神状態が、銃弾が飛び交う戦場さながらになっていたことだろう。
和戸尊への聞き込みは、本庁の大門匠という若い刑事と2人で行われた。大門とは、かつて別の事件で海老名と一緒に聞き込みをしたことがある。若いくせにエリート意識が高く、少しでも怪しいと思った人物には、たとえ相手が自分よりも年上であろうと、すぐに上から目線で喧嘩腰になるという、生意気な奴。一度その面をひっぱたいて、礼儀作法を身体で身に着けさせてやりたい。「年長者には丁寧な言葉遣いを」と爪で1文字ずつ皮膚に引っ掻きながら、刺青のように刻み込んでやろうか?と海老名は思っていた。
場所は和戸の自宅を希望したが、和戸本人が朝から自分のクリニックで色々と仕事があって忙しいと言うので、結局は丸出が住んでいる例の「わどメンタルクリニック」へと行かざるを得なかった。
海老名と大門がクリニックの扉を開けると、入口近くの受付では早速、例の白衣を着た40代ぐらいの美女が待ち構えていた。
「エビちゃんさんですね?」開口一番、例の女性が海老名にそう言った。「丸出先生からお話を伺ってます。刑事さんだったんですってね。今日はうちの主人に用事があるとか」
「主人?」海老名が少し面喰いながら聞いた。
「ええ、ここの医師の和戸尊のことですよね? 私の夫なんです」
なーんだ、この女、結婚してるのか。海老名は少しがっかりした。白衣の女は受付を離れて、上部に大きく「1」と記された部屋の扉をノックする。
「おい父ちゃん、刑事さんたち来たぞ」
美声の割には、男のようにぶっきらぼうな口調。扉の向こうから野太い男の声がする。何を言っているのかは聞き取れない。女は海老名たちの方を振り返り、
「さ、どうぞお入りください」
診察室の中には初めて入ったが、薄緑色を基調とした清潔で落ち着いた雰囲気は待合室と変わらず、精神科の医院としては普通だった。そこの回転椅子に座っていたのは、身長180センチ以上はある大男。肩幅も広く筋肉質。白衣を着ていなかったら、どこの暴力団の組長かと思えるほどの、威圧感を与える男だった。年齢は51歳と聞いている。彫の深い顔立ちに濃い髭面。穏やかだが、その内側に剃刀のような鋭さを秘めた強い目力。この男臭さを一面に漂わせる男を一目見て海老名が思ったのは、三船敏郎のことだった。確かに三船敏郎に顔が似ている。これでちょんまげでも付けたら「赤ひげ」そのまま。精神的な悩みを抱える患者がこの男を一目見たら、その威圧感だけで5メートルは吹き飛ばされそう。
「さ、どうぞそこへお座りください」と腹の底から響く野太い声でそう言いながら、和戸尊は2人がけのソファを手で指し示した。
2人の刑事が緊張感を手土産にソファに腰を下ろすと、和戸は回転椅子を2人の方へ回して、明らかに海老名を鋭い目力で凝視しながら、
「あなたがエビちゃんね。為夫ちゃんから聞いてるわよ」和戸は野太い声でそう言った。「ボサボサの髪に、ちょっとだらしのない服装。近眼。もう為夫ちゃんの言葉どおりだわ。あたし、すぐにわかっちゃった」
海老名は開いた口がふさがらなかった。三船敏郎のような見た目に野太い声。その男臭さから発するオネエ言葉。精神科の医者というより、むしろ患者の方では?
さらに海老名の口が大きく開いたまま、顎が外れそうなことが起きた。一度閉めたはずの診察室の扉がまた開いたのだ。
入って来たのは、あの丸出為夫。
「あ、為夫ちゃん、エビちゃん来たわよ」と和戸が言うと、
「見ればわかるって、ワトソン君」と丸出は言った。いつも通りのトレンチコートにベレー帽、パイプ煙草……「やあエビちゃん。私の家へようこそ」
「あ、丸出先生、ご無沙汰しております」大門が深々と頭を下げながら言った。
「お、おい、おっさん。あ、あんた、今ここにいていいのかよ?」海老名が混乱した頭の中から、やっと言葉を見つけて言い出した。「あんた、2係(知能犯捜査係)で振り込め詐欺の捜査を応援するために、署へ行ってるんじゃなかったのか? どうしてここにいるんだ?」
「そりゃエビちゃんが、ここに来ると聞きましたからね」丸出が悪びれずに言う。「あの例の元男が殺された事件のことでしょ? そっちの方が重要ですからな。振り込め詐欺なんて、あんな面白くもない事件の推理はキャンセルしました」
「面白くもないって……警察の捜査に面白いも面白くないもねぇよ。2係から頼まれてるんなら、ちゃんと約束守れ」
だが海老名も丸出に、これ以上強いことは言えない。振り込め詐欺の件は、はっきり言ってどうでもいいことであるから。ここに来たら丸出と顔を合わせる可能性がある。奴の顔を見ただけで例の事件の捜査に急ブレーキがかかって、解決が遅くなるのは目に見えている。それを避けるためにも、2係とは既に口裏を合わせていた。とある振り込め詐欺の捜査が難航しているのは事実ではあるが、特に急いでいるわけでもない。丸出が来たら適当にあしらってくれ、と。その目論見は丸出の予想以上の気まぐれのせいで、見事に的が外れた。的が外れただけではなく、自分の頭にブーメランのように刺さってくるなんて……
「とにかく、おっさんに用はない。俺たちは、この和戸先生に話があるんだ。邪魔だから、ここから出てってくれないか?」
と海老名は丸出に言ったが、次に帰って来た丸出の言葉は半分予想通りだった。
「なあワトソン君、酒飲みながら車運転しちゃいかんよな?」
「当たり前でしょ、そんなことしたら危ないじゃん」と和戸も言った。「でも為夫ちゃん、どうしていきなりそんなこと話し始めるの?」
「いや、それはエビちゃんに聞いてみて」
ということで、トレンチコートを着た疫病神同席の下で、和戸尊に対する聞き込みが始まった。その大部分は大門との間で交わされ、海老名はほとんど発言できず。精神科の診察室へ入った途端、言葉も正気も失ってしまうなんて……俺は患者じゃないから。診察を受けに来たわけじゃないから。海老名は正気を保つだけで精一杯だった。
まずは和戸尊と鈴木夫妻、特に彩との関係について。鈴木彩は2度ほど、このクリニックへ診察しに来たことがある。1ヶ月ほど前、よく眠れないので睡眠薬を処方してほしいと。1日1回、寝る前に1錠ずつ服用の睡眠薬を7日分。1週間後にまた診察の予約を入れて、その日の診察は終了した。次の診察の時、ちゃんと1日1回寝る前に1錠ずつ処方通りに服用したが、相変わらずよく眠れない、もう少し1日当たりに服用する薬の量を増やしてくれないか、と相談されたと言う。
「あの薬、結構よく効くのよ。あの薬でもよく眠れないなんて、絶対に嘘ね。明らかに何かでひどく悩んでたみたい。どんな悩みなの?って聞いたら、最近旦那さん……前は女性だったってことは、もちろん知ってたわよ。その旦那さんとうまくいってない、みたいなことを言ってたわ。じゃあ、次の診察の時はその旦那さんも一緒に連れて来て、ってことでまた1週間後に予約入れて、睡眠薬も量を増やさないで前と同じ7錠と、ちょっとした精神安定剤を処方したら、それ以来ここ来なくなっちゃった。ちょっと心配になって3日ぐらいしてから、あの夫婦の店に行ってみたのね。そしたらあの子、『おかげ様ですっかりよくなりました、予約すっぽかしてごめんなさい』って笑顔で言ってたけど、あれ、絶対に嘘だと思った。ここに来た時より、さらにやつれた顔してたもん。だから余計に心配になって、アポなしでもいいから、明日にでもうちに寄ってみてって言ったんだけど、結局顔も見せないで、あんなことに……」
ちなみに和戸は、鈴木夫妻が経営する「ジギー・スターダスト」の常連客でもあった。
「ここのフィッシュ・アンド・チップス、すごくおいしいの。旦那さんが作ってるみたいなんだけど、これがビールと相性が合って、すごくいけるのよ」
「天国が見える教会」との関係について。和戸は別に信者ではないが、町谷賢一の葬儀には参列したことがある。町谷は和戸の患者でもあった。
「あの人を診察して、あ、これは鬱病だな、しかも相当進んでるなって思ったわ。もうあたしみたいな町医者じゃ手に負えないぐらい進んでたと思う。だからちゃんとした病院へ行くよう勧めて、紹介状まで書いたのね。でも結局、紹介した病院には行かなかったみたい。噂で私に見捨てられた、みたいなこと言ってたなんて聞いたから、罪悪感持っちゃって」
だが和戸は、自らが同性愛者であることは否定した。
「ここのクリニック、場所柄もあって、ニューハーフの患者さんとかもよく来るの。だから自然とこんなしゃべり方が感染っちゃったみたい。あたし、こんなしゃべり方でもちゃんと奥さんがいて子供も3人いるのよ。ここの受付に女性がいるでしょ? あの人があたしの奥さん」
「そ、ワトソン君、あのママさんに3人の子供の種付けちゃってね」と丸出が口を挟んだ。
「嫌だわ、為夫ちゃん、種付けただなんて……はしたない」と和戸は顔を赤くして言った。
事件当日のアリバイについて。事件が起きたと思われる時間帯には、和戸尊はすでに起床していて、自宅で朝食をとったり読書をしたりしていたと言う。これは受付の「ママさん」こと、妻の和戸聡子に後ほど行なった聞き込みとも一致している。
「なるほど、先生の事情についてはよくわかりました」大門は総括するように言った。要するに、もうこれ以上聞くことはない、ということで。「海老名さんは何か和戸先生に質問がありますか?」
聞き込みの間に、海老名の頭の中を吹き荒れていた嵐も収まってきたようだ。海老名は事件とは直接関係ないが、裏写りするほど重要な疑問を口にした。
「和戸先生、丸出のおっさんとは、どういう関係なんです?」
ここから和戸尊と丸出為夫による、2人の関係についての長い説明が始まった。この話だけで軽く1時間は超えたぐらい。2人の長く饒舌な説明の中身は、とにかくややこしくて回りくどくて難解で、海老名がうんざりしてしまうほど。メモに取ることも途中でやめ、話し終わったころには何を話していたのか、ほとんど記憶に残っていないぐらいだった。錬金術がどうだの、交霊術がどうのこうのだの、そんな言葉が辛うじて記憶にある程度。
簡単にまとめてしまえば、丸出為夫と和戸尊は、とにかくお互い大親友。以上、ただそれだけ。
もう少し付け加えると、シャーロック・ホームズの生まれ変わりを自称する丸出は、読み方によっては「ワトソン」とも呼べる和戸尊を、その名前で気に入っている。ワトソンと言えばシャーロック・ホームズの親友であり、医者でもあり、作者のコナン・ドイルの分身だから。和戸尊も丸出を、よくわからないが気に入っている。以上。
何だか煙に巻かれて、時間を無駄にしただけのように海老名は思えた。
「和戸尊は間違いなくシロですね」わどメンタルクリニックを出てから、海老名と同行した大門はそう言った。
いや、和戸尊は絶対に怪しい。海老名はそう思った。仮に直接鈴木彩の殺害に手を染めていないとしても、何か重要な手掛かりを握っているはずだ。何と言っても丸出為夫の親友なのだから。あの時ですらそう思っていたのに、ましてや本庁からの事実上の捜査中止命令。何とかして、あいつを丸出と一緒に逮捕できないものか。海老名の頭の半分は、その考えで占領されている状態である。