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結局その日の夜は、やけ酒の飲み会もなく、それぞれがそれぞれの怒りを胸に抱えたまま、帰宅に着いた。海老名も今夜は自宅に戻って、1人でやけ酒。線香花火ほどの小さな怒りや不満なら、誰かとやけ酒を飲んで憂さを晴らせば、一晩で燃えかすすらなくなるだろう。だが今回は、その怒りがあまりにも大きすぎる。消防署員ですら消火活動をできないほどの、大きな怒りなのだから。一晩で治まることは絶対にあるまい。藤沢係長も間違った判断をしたものである。どちらにしても、長く尾を引き続けるような大きな怒りを少しでも鎮めるには、やけ酒を飲むにも1人だけに限る。
自宅に戻ると、海老名は早速日本酒の一升瓶をらっぱ飲みし始めた。明日の二日酔いは凄まじいことになるだろう。溶鉱炉から出て来たばかりの熱い怒りが、さらに重量を増して身体全体にのしかかるはず。明日は有休でも取ろうか? いや、自分1人だけが精神的な無人島に流されようとも、極秘で捜査を続けてやる。あれが殺人じゃなくて、いったい何だと言うのか?
傍らでは飼い猫の「うり坊」が週刊誌を読んでいる……ように見える。B5判の中綴じ百ページ以上の週刊誌。海老名が数日前に買ってきたものだ。
この猫は人間の言葉が理解できるのではないか? 海老名は以前から何となく、そのようなことを考えてきた。海老名が直接語りかける話し言葉だけではない。週刊誌を読んでいるように見えるこの猫の様子を見ると、人間にしか理解できないはずの文字まで読めるのではないか? そのうち人間の言葉まで話し始めるかも。
うり坊は見開き2ページ分を読み終えると、前脚を使って器用にページをめくり、身体全体で週刊誌を押さえつけてから、記事の続きを読む……ように顔を雑誌に近づける。その記事は、前日まで海老名たちが熱心に捜査してご破算になった、例の事件に関すること。あれだけ世間を騒がせるような内容である。それが巻頭特集として、大々的かつ煽情的に掲載されているのは言うまでもない。もっとも、昼間の捜査会議で公表された事件の「結果」については、まだ掲載されていないが。
何だか猫という生き物が信じられなくなってきた。猫は魔物、と昔からよく言われる。その愛らしい顔の裏側には、人間の力では到底及ばないような超能力を持っているのかもしれない。人間の言葉が理解できたり、文字を読むことができたり……人間の目玉をえぐり出すことができるというのも、案外と簡単にできるのかも。
「なあ、うり坊」
と海老名が酔いながら話しかけると、うり坊は週刊誌から顔を上げて、無邪気に海老名を見つめた。海老名は両手の親指と人差し指で、両目の瞼を思いっきり大きく開けながら、
「俺の目玉、食ってみたいか?」
と言った。うり坊は一瞬だけ驚いたような表情を見せたが、すぐ無表情に戻って海老名をじっと見つめている。海老名はさらに、
「どうだ、俺の目玉、うまそうだろ。食ってみたいだろ。黙ってても無駄だぞ。今おまえが読んでる週刊誌、どんな内容かは理解したよな? ガイシャは目玉をほじくり出されてた。しかもここには書かれてないけど、最新の情報によれば、目玉をほじくり出したのは猫だったんだってさ。しかもその猫、その目玉を食っちまったんだぞ。どうだ? おまえも人間の目玉を食ってみたいだろ? うまそうだと思ってるんだろ?」
うり坊は全身の毛を逆立てて怯え始めた。少なくとも日頃から猫を観察している海老名には、それがよくわかる。
「怯え出したな? 要するに俺の言ってることが図星だからだろ? さあ、本当のことを言え。この目玉が食いたいと。黙ってても無駄だ。おまえは人間の言葉がわかる。文字が読める。だから本当は人間の言葉がしゃべれるんだろ? ほら、言ってみろ、目玉が食べたいと……白を切る気か? なら意地でも食わせてやる」
と言いながら、海老名は指で両目の瞼を大きく開いた状態のまま、うり坊に自分の顔を近づけた。うり坊は怯えたまま部屋の片隅へと逃げて行く。
「ごめん、冗談だよ」海老名は瞼から指を離して、乾いた眼をしばたたきながら言った。「おまえがそんなことするはずないよな。猫が人間の目玉を食べるなんて、絶対ありえないよ。もう変なこと言わないから、こっち戻って来い。マタタビでも食うか?」
うり坊はまだ部屋の片隅で、海老名を見ながら怯えたままだった。