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かくして、他殺でも人為的な死体損壊でもないことが判明し、捜査は終了。池袋北署に設けられた捜査本部も解散を宣言した。
捜査本部長でもある池袋北署の河北昇二署長が、「事件」の結果を報告して捜査会議の解散を告げると、部下の刑事たちの間で一斉に怒号が飛び交ったのは言うまでもない。彩は自殺? 目玉をほじくり出したのは猫? ありえない!
「ガイシャの瞼の中には、両方とも止血止めと思われる脱脂綿が入ってたんですよ!」新田が甲高い声で絶叫する。「仮に猫が眼球をえぐり出したとしても、脱脂綿まで入れるわけがないじゃありませんか! 明らかに、これは人為的になされたものです!」
「そうですよ! それに掛け布団には、ガイシャのものと思われる血痕も付着してたでしょう!」今度は大森がそう怒鳴り散らす。「それも見えないように裏返されて、血の付いた場所がガイシャの足の辺りになるように、掛け直されてた! 目以外に外傷は全くなかったじゃないですか! それなのに頭は枕の上に乗っかってて、掛け布団は首から足まできちんと掛かってて、普通に眠ってるように見えた! 猫がこんなにきちんと布団を掛け直すはずがないでしょう!」
「みなさん、静粛に! 静粛に!」河北署長も、みんなに負けじと大声で叫んだ。「とにかく、そのような結果が判明したんです! 冷静になってください! よって本日でもって捜査は終了! 解散します!」
刑事たちの怒号はやまない。まるで署長の言葉が油であるかのように、その一言一言を注ぐたびに、部下の怒りは燃え上がっていくばかり。
海老名も怒りに満ちあふれた表情で席を立つと、署長の座っている席に向かって歩き出した。そして署長の前まで来ると、署長の耳元で他の誰にも聞こえないようにささやく。
「署長、犯人は鈴谷沙織の亡霊ですか?」
「な、何を言ってんだ、そんなわけがないだろ!」署長が驚きと狼狽とがない交ぜになった表情で反論した。「とにかくこれは、僕1人ではどうすることもできないんです。本庁の方針でもあるんですから」
署長が海老名の言葉に狼狽するのも無理はない。これは署長と海老名しか知らないことなのだから。もっとも、なぜか丸出為夫も知っていることではあるが……鈴谷沙織とは、署長が別の女性と結婚する前に交際していた女性である。だが前々回の事件で非業の死を遂げてしまった。別に署長が殺害したわけではないが。
「署長個人の方針だか本庁の方針だか知らないですけどね」海老名が声の調子を上げて言う。「これが自殺だって言うんなら、他殺はみんな自殺、警察は不要、ってことになりませんか? だいたい世間に対して、どう顔向けできるんです? 猫が目玉をほじくり出したとか、子供でもだまされないような馬鹿なことを、誰が考えたのか知らないけど、もう少し説得力のある嘘を吐けないんですかね?」
「海老名さん、署長から離れてください! 会議は終了ですよ!」本庁の刑事の1人が、そう叫んだ。
その刑事の名は上野大志。警視庁捜査1課の主任刑事。30代前半にして階級は警部補。早稲田大学法学部卒業のキャリア警官……だがそれ以上に、海老名にとっては強烈な印象がある。この上野、一番最初に丸出為夫を池袋北署に連れてきた人物なのだから。今でも上野が丸出を紹介した時の言葉が、海老名の頭に焼き付いている。数々の難事件を解決してきた経験と実績のある、非常に詳しい専門家。嘘ばかり。今回の捜査結果みたいだ。
「とにかくこれは、司法解剖と鑑識の両方の結果を総合的に判断して出した結論です。確かに我々本庁としても色々ありまして、池袋北署に報告するのが少々遅れたのかもしれません。その点はお詫び申し上げます。ご不満な点があるのは重々承知してますが、いずれにせよ、このような結果になりましたので、どうかみなさん、ご理解ください!」上野は大声を出して、そう言った。
「おい、上野、報告が遅れたのか何だか知らんが、『ご理解ください』で簡単に理解できるほど、俺たちは利巧じゃないぞ!」海老名がそう怒鳴った。「まったく、俺ら所轄を馬鹿にしやがって。だいたい、あの性転換夫婦が飼ってた猫の鑑識結果も、今になって一緒に持ってきやがってさ。ふざけんのもいい加減にしろよ! いったいどっちが馬鹿だ?」
「ですからその点に関しては、色々ありまして……」
「色々って何だ? クロかシロの2色があれば充分だ! 赤も青もいらん! それより今回の事件で誰かが圧力をかけてきただろう? だからこんなに長々と待たされて、変な結果報告が出て来たんじゃないのか? 圧力をかけてきたのは誰だ!」
「エビ! もういい! 黙れ!」刑事課長代理の戸塚明が大声で一喝した。はげ上がった頭がいつになく輝いているだけでなく、夕陽のように真っ赤になっている。「もうこれ以上、何を言ったって返ってくる答えは同じだぞ! とにかくここは一旦お開きだ! 文句があるんなら、後でゆっくり聞いてやる!」
「こんなことありえないですよ! 僕らが今までやってきたことは、いったい何だったんですか!」
会議終了後、自分の席に戻ってきた大森が思いっきり不満をぶちまけた。捜査1係の刑事たちも、みんな自分の席で悔しそうに思い思いの不満を口にしている。まるで学級崩壊した教室のような子供じみた騒々しさ。
「鈴木彩は服毒自殺? それだけならまだしも、目玉は猫がえぐり出して食べたなんて……」と大森は続ける。
「本当、信じられないわよね」新田も言った。「だいたい、あの猫が本庁の刑事に保護されて、鑑識に回されて解剖されてたなんて、さっき初めて聞いたし。解剖してみたら胃の中に彩の眼球の一部が見つかったとか……だったら事件発生から、かなり早い時間に猫を捕まえたってこと? どうしてそれを、もっと早く私たちに報告しなかったのよ?」
「そうですよ! ありえないことばかりじゃないですか! そもそも解剖する前に、猫が目玉をえぐり出して食べた、なんて考えがどこから出て来たんです? あんな短い指した猫の手で、目玉をえぐり出せるわけないでしょ!」
「大森君、猫に手はないわよ。手のようなものは前脚。あくまでも脚だから」
「そんなことわかってますよ! あー本当に腹が立つ!」
そこへ海老名が自分の席に戻ってきた。怒りに満ちた顔つきは、他のみんなと変わらず。
「エビさん、猫が人間の目玉をほじくり出して食べたとか、そんなことありえないですよね?」大森が言った。
「今そのことで鑑識の大原君と話をしてきた」海老名は意外なほど落ち着いた口調で言った。その口調に鋭いナイフのような怒りを隠し持ってはいたが。「猫が人間の肉を食べないことはないらしい。基本的には虎やライオンの仲間だからね。特に死んでから数日たって、腐敗し始めた人間の肉を食べることも、ありうるってさ。ただその場合でも、まずは耳とか鼻とか人間の部位でも目立つ部分から、かじり始めるらしい。どっちみち、いきなり目玉をほじくり出して食べるということは、絶対にないって言ってた。いくら猫の前脚が人間の手のように器用に動かせるからといったって、人間の目玉をほじくり出せるほど器用なことは、絶対にないってさ」
「ですよね。鈴木彩は少なくとも夜中の1時まではまだ生きてたことは、純以外にも店員だって目撃してるんですから。純から通報があったのが昼の1時過ぎ。長くとも死後半日じゃ、猫が食べたいと思うほど遺体の腐敗は進んでないはずですよ」
「仮に目玉をえぐり出すにしても、目玉を爪で引っ搔いてバラバラにした状態にしないと、えぐり出せないって。しかもその場合は、瞼とか目の周辺に必ず引っ搔き傷ができるらしい。でもそんなものは1つもなかった。どうあがいても猫の仕業じゃない」
「ねぇ、エビちゃん。大原君は、あの夫婦の猫が本庁の刑事に保護されて、本庁の鑑識課で解剖されてたってことを知ってたの?」新田が聞く。
「大原君も全然知らなかったって。表情変えずに怒ってたよ」
「ふうん、あの大原君だって怒ることがあるんだ」
「そりゃ誰だって怒るさ。ちゃんと仕事をしてる警官なら。怒らないのは立川バ課長(立川進・刑事課長)だけ。あいつ、さっき廊下ですれ違った時、『エビ、署長に向かって何だ、あの態度は』って言うから、『うるせぇ、バ課長! 偉い奴のコバンザメになってないで、少しは自分1人だけでこの署の中を泳げないのか!』って言ってやったよ」
藤沢周一係長も渋面のまま、自分の席に戻ってきた。部下の刑事たちは相変わらず沸騰する鍋のように、怒りを口にして煮えたぎっている。係長はそんな様子を見て、開口一番、
「はい、みんな、注目!」
と大声を出した。
「みんなの不満は痛いほどよくわかる。でもこれは上の方で決まったことなんだ。俺たちが何を言ったって、どうすることもできない。我々も組織の人間である以上、命令には従わねばならん。とにかく我慢、忍耐だ。耐え難きを耐え、忍び難きを忍ばなくては、警察官は勤まらんぞ。その代わり、今夜はやけ酒だ。みんなでパーっと飲もうじゃないか!」
「とてもそんな気分にはなれませんね、フジさん」海老名が早速反論した。「どうせフジさん、酒癖悪いから酔っ払うと、誰かを捕まえてネチネチと何時間も説教を始めるでしょうに。こんな状態じゃ、飲み屋で必ず1人は暴れ出して警察沙汰ですよ。警官が警官に迷惑をかけて、どうするんですか?」
「そうですよ、こんな時に酒なんか飲んでられますか!」
係長から遠く離れた席で、高木友之助という、まだ20代の若い刑事が大声で言った。
「ブー、飲み屋で酒飲んで暴れるのは、まずお前だ」
海老名がそう言うと、所々で失笑が漏れ出した。
高木のあだ名はブー。豚というより闘牛かサイのようないかつい顔立ちで、体力と捜査能力はかなり高いものの、調子に乗りやすい、根っからの女好きで下ネタギャグが大好き、という欠点がある。
「フジさんも係長になってから変わりましたよね」海老名が相変わらず毒づき続ける。「昔のフジさんなら真っ先に頭に血が上って、署長に食ってかかってただろうに。そんなに中間管理職に安住してる我が身がかわいいですか?」
「何だとエビ! もう1ぺん言ってみろ!」とうとう藤沢係長にまで火の粉が飛び始めた。今にも海老名に殴りかからんばかり。
捜査1係の怒りの炎がなかなか鎮火しない中、水の替わりに新たなる燃料までが出現した。トレンチコートにベレー帽、パイプ煙草……空気の全く読めない丸出為夫までが、この火事場に現れたのだ。
「おや、みなさん、ずいぶんと賑やかですな。何かいいことでもあったんですか?」
その後、どんな修羅場が待っていたかは、もはや書くまでもないだろう。