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事件が起きたのは、その翌日のこと。池袋1丁目のとあるマンションの1室で、ある人物の遺体が発見された。
その人物は、和式の寝室に敷かれた布団の中で死んでいた。一見すると、普通に布団の中で眠っている状態。何かの薬物を服用した結果、死に至ったと思われる。後は司法解剖の結果を待つだけ。目は瞼が閉じられていた。眠るように死んでいるのなら当たり前のことではあるが、それが問題である。
その人物の眼球は、えぐり取られていたのだ。
その日の昼過ぎ、別の寝室で寝ていた同居人が、その人物の変わり果てた姿に気づき、110番通報。その死亡原因よりも死体に対する損壊状況から見て、警察は殺人事件として捜査を始めた。
眼球をえぐり出される。この猟奇的といえる死に方も世間を驚かせたものだが、それ以上に話題となったのは、今回の事件の被害者と同居人の性別。
被害者の名は鈴木彩(38歳)。性別は女……ということになっている。少なくとも変更された身体と戸籍は。だがこの鈴木彩、生まれつきの身体は男だった。
同居人の名は鈴木純(35歳)。彩と正式に籍を入れている「夫」である。役所からも「夫」と認められているわけであるから、当然、身体は男。だが生まれつきの身体は女だった。
女に性転換した元男と、男に性転換した元女の夫婦を襲った悲劇! しかも元男で女になった妻は、目玉を取り出された状態で殺されていた!
話題はたちまち日本全国を駆け回り、味気のないニュースに飽きていた一般大衆に刺激的な味を提供し、半ば麻痺していた舌が火傷してしまうほど、大きく口を開かせた。マスメディアも連休明けでだらけていた身体をむち打ちながら、この話題の提供に余念がない。
池袋北署には連日報道陣が詰めかけ、出入り口にも群がっている。署員は自分の仕事場にも、まともに出入りできない状態。
「あーあ、署に出入りするたびに、憂鬱になってしまいますよ」海老名の同僚の刑事・大森大輔がそうぼやいた。
「ま、事件が事件だからな。しかもガイシャと夫……だか妻だかよくわからんが」海老名もうんざりした表情で言う。
「そうですね。今回の事件で必ず飛び出してくる言葉が、『事実は小説より奇なり』ですから」
「これで小説家なんて、みんな廃業だな。特にミステリー専門の作家なんて、これからバタバタ首を吊るぞ。あるいは、自分がいつも考えてたネタで事件を起こして死ぬとか」
「仕事増えそうですね。池袋に作家なんて住んでないといいんですけど」
「その前に、この俺らがある作家が書いてる小説の登場人物じゃない、とすればの話だけどな。実は俺たち、架空の人物だったりして」
「んなわけないじゃないですか。少なくとも僕は僕自身である、と強く感じてるのに」
「お、なかなか哲学的なこと言うね。そういう話なら、暇なら何時間でも付き合ってやるぞ。ところで鈴木純……あの夫だか妻だかよくわかんない奴。自白したかな?」
警察は被害者の「夫」であり、遺体の第一発見者である鈴木純を、重要参考人として署に連れて来ていた。これが殺人事件であれば……どうあがいても殺人事件としか言いようがないが、この「夫」が「妻」を殺害した可能性が最も高い、とにらんだからである。
「どうして俺があいつを殺さなくちゃならないんですか? だいたい目玉をほじくり出すとか……俺がそんなこと、思いつくわけないでしょ!」
鈴木純は甲高い声でそう怒鳴り散らした。男の身体になったとはいえ、昔は女。やっと声変わりの始まった男子中学生のような声。身長も150と数センチほど。大森より少々低いぐらい。
「よかったな、大森。これで優越感に浸れる相手ができたぞ」と海老名が笑う。
「ほっといてください。向こうは元女ですよ」大森が不機嫌になって言う。
それでも純は男になったおかげで、男らしさにはこだわっている様子。坊主頭に薄い無精ひげ。服装も男物で固めている。目鼻立ちの整った、なかなかの「イケメン」であるが、美容整形はしていない。名前も昔のまま。
インターネット上では早速、純の高校時代の卒業アルバムの写真が出回っていた。当然そのころは、まだ女。無精ひげさえなければ、今とほとんど同じ顔をした短髪の美少女。
惜しいことをしたもんだな、なぜ男なんかになっちまったんだか。海老名は高校時代の純の顔写真を見ながら、ため息をついた。金玉ブラブラさせたって、いいことなんか何もないのにさ。
彩と純の鈴木「夫妻」は、池袋駅西口の繁華街でイギリス式のパブ「ジギー・スターダスト」を経営していた。事件当日、深夜1時に閉店後、店の片付けなどを済ませてから、2人は2時前には、徒歩10分ほどの距離にある自宅へと帰宅。別々の寝室で床に着いたのが、朝5時ごろ。それから正午に目覚まし時計が鳴るまで、「夫」の純は全く起きなかった、と言う。起きてから彩の寝室をのぞいてみると、彩はいつも通りに布団の中で眠っている……ように見えた。そのまま1時間ほどテレビを見たり、飼い猫の相手をしていたが、彩はなかなか起きて来ない。そこで純はもう1度「妻」の寝室に入ってみて、相手の顔を触ってみると、冷たくなっていた……
2人は2年ほど前に結婚。2人で店の経営を始めたのも、ほぼ同じ時期だった。結婚当初は2人とも仲が良く、2人で手をつないで歩いている姿を近所の住人によく目撃されている。だが1年ほど前から夫婦喧嘩が頻繁になり出し、真夜中に2人で言い争いをしている大声がよく聞こえてくるほど。「夫」の純が「妻」の彩に対して頻繁に暴力を振るうこともよくあったと言うことは、純も認めている。
「確かにあいつを殴ったり蹴ったりしたことは、よくありましたよ。でもあいつを殺そうと思ったことなんて、1度もありませんね。だいたいあいつ、ちょっとマゾの気があるんですよ。向こうの方からベルトでたたいてくれとか、首を絞めてくれとか、よく言われましたし。それで思わず俺もいい気になっちゃったのかな? とにかくちょっとぶった程度のことなら、あいつ、何も文句言いませんでしたからね」
ここ1カ月ほど前から、彩は純や周りの親しい人間に「もう死にたい」と自殺願望を口にし、元気がなかったという。理由は不明。「夫」の純にもわからないらしい。眠れないという理由で精神科にも通い出し、睡眠薬を処方してもらったことがある。
「俺が自殺の手助けをした、とでも言いたいんですか?」純は事情聴取に当たった刑事をにらみつけながら言った。「だったら、なぜあいつの目玉なんかほじくり出さなきゃならないんですか? 俺はむしろ、あいつの自殺を止めようとしてたんですよ。暴力を振るったのが原因なら、もうやらないからと言ったら、『んーん、そうじゃないの』って言うし……『じゃあ、何が原因なんだ?』と言っても、『色々あってね』……」
純が彩を殺害するための明確な証拠や動機は、なかなか見つからなかった。というわけで、純は一旦解放。
聞き込み捜査は続く。犯人はなかなか特定できない。そしてなぜか彩の司法解剖が遅れている。
解剖の結果は1週間近くたっても、なかなか通知されない。解剖の行われている大塚の監察医務院の話では、他にも解剖しなくてはならない死体がたくさんあり、まだしばらく時間がかかると言う話。その死体の損壊状況が異常で、殺人事件として捜査している以上、もう少し早くしてくれないかと督促しても、向こうは「出来るだけ急ぐ」と言うだけ。
「やる気があるのか、あいつら」と海老名もいら立ちを隠せない。「他にも解剖しなくちゃならない死体があるから、だ? そんなに向こうには死体が列を作って、予約を待ってるのか? 『あのう、ちょっと私の心臓が止まってるんで、解剖して診てくれませんかね?……あ、内臓じゃなくて、死因は頭の方じゃないかと……』とか、死体が法医学者とゆっくり茶でも飲みながら、会話してるわけじゃあるまいし」
異様なのは、それだけではなかった。事件から数日後、警視庁捜査1課の刑事たちに明らかな変化が見え始めたからだ。世間の邪悪な好奇心が大火事のように燃え上がっている中、なぜか本庁の刑事たちはやる気をなくし始めた様子。捜査にあたる刑事たちも日に日に減っていく。気づいてみると、やる気を燃料にエンジンをふかしているのは、ほとんど池袋北署の刑事だけ。これだけ世間の耳目を集めている大事件なのに、所轄の刑事だけではさすがに人手が足りない。それに池袋北署の刑事たちと本庁の刑事たちとで、捜査の方向に大きな食い違いが出て来て、全く歯車が嚙み合わなくなってきた。
司法解剖の結果が出たのは、事件発生から9日もたってからだった。その結果は……
鈴木彩は睡眠薬を多量に摂取して、服毒自殺。彩の眼球を両方ともえぐり取り出したのは、鈴木「夫婦」の飼い猫だった。