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昼過ぎ、池袋北署刑事課捜査1係は、ミハイル・タルコフスキーとジェニファー・マッキントッシュ、そして桜田剛の3人を、重要参考人として任意同行を求めに行った。
桜田とマッキントッシュは素直に応じたものの、タルコフスキーは……
タルコフスキーの部屋に本人はいなかった。同じ建物内にある「天国が見える教会」日本支部の事務所にも……マッキントッシュの話では、鈴木彩が死亡してから5日後、大阪支部へ出張に出かけたまま、東京には戻って来ていないとか。大阪支部に問い合わせたところ、タルコフスキーは確かに大阪支部に滞在していたが、3日前に東京へ戻ったはず、とのこと。
早速、ミハイル・タルコフスキーの捜索を本庁に要請した。
ジェニファー・マッキントッシュは署での事情聴取に対し、自分は嘘を吐いたわけではないし、タルコフスキーに成り済ましていたわけでもない、自分は初めから天国が見える教会の主席牧師ジェニファー・マッキントッシュとして、警察に話をしていただけだ、と流暢な日本語で話した。当初、マッキントッシュに対して聞き込みを行なったのは、本庁の刑事のみ。池袋北署の刑事たちは当然、マッキントッシュにもタルコフスキーにも会ってはいなかった。ということは……
事情聴取に当たった新田は、本庁の刑事たちが残していった例の教会に関する捜査資料を入念に読み直した。
「この資料、間違いなく改ざんされてるわね……」
結局、証拠不十分のまま、ジェニファー・マッキントッシュは解放された。
一方の桜田剛は事情聴取に対して、鈴木彩殺害を正直に認めた。
元々彩が男だったころに、恋人関係だったこともある桜田。その関係が終わった後も、桜田は彩に未練があった。できればまたやり直したい。ところがその間に彩は変わってしまった。女に性転換し、女から男に性転換した鈴木純と結婚。もう以前の彩ではなくなってしまった。それが許せなかった……と言う動機。
あの日の朝9時ごろ、桜田は1人で鈴木夫妻の自宅を訪れたと言う。鈴木夫妻の自宅を訪れるのは久しぶりとのこと。
夫の純は隣室でぐっすりと眠っていたが、彩は起きていた。
「何だか眠れなくて……」彩は言った。「久しぶりにヘロインやるのもいいな。ストック切れちゃったし」
「そうだろうと思って持ってきたよ、ヘロイン」と桜田。
早速2人だけでヘロインの回し打ちが始まる。桜田は注射器にヘロインの粉末を入れ、ペットボトルに入った水を加えようとした。
その時、隣の部屋の引き戸が少し開き、純が寝ぼけ眼のまま顔をのぞかせた。
「何だ、あんたか、久しぶりじゃねぇか」純が眠そうに言う。「また彩にヘロイン打たせる気じゃないだろうな?」
「その通り」桜田は、ヘロインの粉末と水が入った注射器を上下に振りながら言う。
「どう? 純君も一緒にやらない?」彩が陽気に声をかけた。
「やめとく。俺は眠いんだ。また寝る。くれぐれもやり過ぎるなよ。あと、でかい声とか物音とか立てないで、静かにやってくれ。じゃ、お休み」と言って、純は引き戸を閉めた。
まずは桜田が自分の左腕に注射する。桜田が酩酊状態になっているのを見て、彩も早速、ペットボトルのそばにあるもう1つの白い粉末が入った小袋を開け、粉末と水を注射器に入れて、自分の腕に注射を始めた。
すると突然、彩が敷いてあった布団の上に倒れた。目を大きく見開きながら、気絶している。
彩が注射した粉末は、実はペントバルビタール。和戸尊が言っていた通り、日本では医薬用の薬剤としては事実上使用禁止になったものだ。もっともヨーロッパで安楽死が合法化されている一部の国では、今でも安楽死用の薬として使用されているし、この薬剤を用いて死刑を実行している国もある。その致死量は人にもよるが、最低1グラム以上。小袋1包分。誰が担当したのかわからない司法解剖の検案書に、間違いはなかったのである。問題は自ら服用して自殺したか、他人によって無理矢理体内に注入されて殺害されたかの違いではあるが。桜田が言うには、白幡茂男から手に入れたと言う。桜田と白幡とは肉体関係もあるとか。
この時を待っていた。桜田は、実はヘロインを注射したのではなく、ただの砂糖水を注射して酩酊状態になった振りをしていたのだ。まず彩の脈を取った。まだ脈がある。そこでハンドバッグからもう1包、ペントバルビタールの小袋を取り出し、彩の左腕に注射。2回目の注射でようやく脈が止まった。心臓も止まっているのを確かめてから、大きく瞼を開いたままの眼球をえぐり取り始める。
桜田も町谷賢一の葬儀に参列したことがある。だから天国が見える教会の教義については知っていた。別に神を信じていたわけではないが、もし彩の眼球に生前最後の光景が焼き付いたままであるなら、それは桜田の姿。美容整形でさらに大きくした、彩の瞳孔が開いた目を見ていると、あの教義は本当なのかもしれないと思った。自分を恨みながら死んでいったかもしれないその目は、桜田にとっても見るに堪えない。
毛糸を編むかぎ針を使って、両目の眼球をえぐり取り出した。腹話術師なので人形を修理するために、いつもかぎ針と裁縫道具などを持ち歩いているのだ。彩は元々目が大きいので、意外と簡単にできたとか。両方の眼球を持参してきた半透明のポリ袋に入れ、帰りに近くのコンビニエンスストアの「燃えるゴミ」の中に捨てた。眼球のなくなった瞼からは血が止まらず出て来るので、両方の瞼に脱脂綿を入れる。敷き布団に彩を寝かせ、両腕両足も伸ばして落ち着いて眠っているように見せかけ、掛け布団を掛けた。掛け布団に、彩の目から流れ出た血液が付着しているのに気付く。布団を裏返し、血液の付着している側を足の方へ向きを変えて掛け直した。後片付けをして、隣の部屋の引き戸をこっそりと開ける。純は歯ぎしりをしながら、ぐっすりと眠っている状態。そして外へ出た。
「言ってることの半分だけは事実なんだろう。それはわかった」
事情聴取に当たった海老名は、桜田剛に向かって言った。
「少なくとも、あんたが鈴木彩の殺害、もしくは死体損壊のどちらかの罪を犯したことだけは正しいと思う。だがもう半分は嘘だ。本当のことを話してくれないか?」
「今話したことが本当のことです」桜田は無表情のまま答えた。「他に言い足すことはありません」
「もう1人いたはずだ。目撃証言もある。あの時、誰と一緒にあの部屋へ入った?」
「私1人だけです。全て私1人で彩を殺しました」
「ちゃんと目撃証言があるんだ。もう1人は白人。身長はあんたと同じぐらい。年齢は40代。長い金髪。丸顔。肥満体。そいつは誰なんだ?」
「知りません。全て私1人で殺りましたから……目撃証言があると言いましたね? それはたぶん腹話術人形のことだと思います。あの部屋を出入りする時、その人形を手にしてましたから、それを人間と見間違えたのでしょう」
確かに腹話術師である桜田の部屋を後で家宅捜索した時、複数の腹話術人形が発見されたが、その中にミハイル・タルコフスキーとよく似た顔をした人形もあった。それも顔だけ等身大のものが。
「腹話術人形に足はあっても、歩けないはずだ」海老名は言う。「だがその人形は、しっかりと2本足で歩いてた。最新技術の粋を集めた歩行ロボットよりも人間らしく、しっかりとな。その人形……いや、人間は誰なんだ? 話せば少しは罪が軽くなるぞ」
「罪が軽くなったところで、私が人を殺した事実に変わりはないと思いますが……」
「わかった。話したくないと言うのなら、こちらからもう1人の名前を言ってやる。そいつの名前はミハイル・タルコフスキー。通称メイジャー・トム。どうだ? 合ってるか?」
「……確かにメイジャー・トムのことは知ってます。でもあの時、あの人はいませんでした。私1人だけです。持ってきた人形は確かに、あの人に似てますが」桜田は全く表情も変えずに言った。
「白を切る気か? そんなこと言ったって、自分のためにはならんぞ。あの時、間違いなくタルコフスキーは一緒にいたな。そして2人一緒、もしくはどちらかが鈴木彩を殺害し、どちらかが眼球をえぐり出した。その通りだろ? 正直に本当のことを言ったらどうなんだ? なぜタルコフスキーをかばう? タルコフスキーをかばわないと、まずいことでもあるのか?」
「何のことを言ってるんだか……メイジャー・トムは本当にあの場にはいなかったんですよ。一緒に待ち合わせをしてたわけでもありません。」
尋問は延々と続く。だが桜田はタルコフスキーのことについては、全く口を割る気配がない。
とりあえず鈴木彩の殺害と死体損壊の罪を認めたことで、池袋北署は桜田剛に対する逮捕令状を裁判所に請求した。逮捕状はすんなりと出た。警察署での拘束時間は48時間。その48時間のうちに、何としてでも桜田の口からタルコフスキーのことを引き出さなくてはならない。
だが桜田はタルコフスキーの関与について、全く話そうとはしなかった。
「そもそも桜田さん、あんたはいったい何者だ? 慶応大学及びイギリスのケンブリッジ大学卒業。その後✕✕商事勤務を得て腹話術師。エリート街道をまっしぐらに進んできて、突然なぜ腹話術師に?」
「腹話術師は隠れ蓑じゃないのか? あんたの本当の正体は何だ? ある証言では、あんた、この国を滅ぼすほどの力を持ってるって話だぞ。すごいな。で、彩を殺したのは、彩がこの国を左右するほどの何かをしでかしたから。本当はそうじゃないのか?」
「彩が性転換して変わってしまった。その動機も嘘じゃないだろう。だがそれ以上の動機もあるはずだ。本当はどんな動機なんだ? 鈴木彩って本当は何者なんだ?」
「で、ミハイル・タルコフスキーとは、どんな関係? どこで知り合った?」
「ミハイル・オレゴヴィッチ・タルコフスキー。そもそも、あいつはいったい何者なんだ? 自称ロシア人……本当はどこの国籍の持ち主なんだ? 本名は何て言うんだ?」
「タルコフスキーは今、どこにいるのか知ってるだろ? まさか惑星ソラリスにいる、なんてことは言わせないぞ」
海老名の質問攻めは続く。だが桜田の口からタルコフスキーの関与や自らの正体、殺害の本当の動機について、有力な情報は全く引き出せなかった。海老名が手を変え品を変えても口を割らない。誘導尋問にも引っ掛からない。海老名は粘り続ける。桜田もひたすら粘り続けた。骨と皮だけしかない、あの痩せた身体のどこに、そのような体力があるのだろうか?
その間に他の刑事たちが、桜田の自宅とタルコフスキーの部屋に家宅捜索をしてみた。桜田の自宅にはヘロインにコカイン、鈴木彩殺害に使用したと思われるペントバルビタールなどの薬物。そして押し入れの中にダーツの的と矢が。その的には昔の彩の写真が張り付けてあり、顔には矢が刺さっている。一応、証拠は手に入れた。だがスマートフォンにはタルコフスキーとのEメールのやり取りはあったが、彩殺害を臭わすやり取りはない。
一方、タルコフスキーの部屋からは、鈴木彩殺害に関する決定的な証拠は見つからなかった。元々タルコフスキー自身が断捨離に近い生活をしていたせいもあって、私物自体が異様に少なかったとか。スマホも薬物も発見されなければ、自らの身元や正体、彩や桜田との関係を示す決定的な証拠も残さないまま、姿を消してしまった。
海老名も段々と焦り始めた。拘束時間は刻一刻と過ぎ去っていく。タルコフスキーの関与については、桜田の口から相変わらず一言も出て来ない。さらには本庁もやる気がない……
鈴木彩は自殺ではなく、やはり殺害されていた。少なくとも犯人を1名逮捕した。それなのに本庁は、何事もなかったかのように静観したまま。本庁の刑事たちも池袋北署に何名かは駆け付けたものの、その数も少なければ、捜査に関する熱意が全く感じられない。ミハイル・タルコフスキーの捜索をする気もないようである。タルコフスキーが鈴木彩殺害に関与した証拠が不十分だし、桜田もタルコフスキーの関与を認めていない以上、捜索はできない、と言い訳しながら。
さらには鈴木彩の新たな捜査結果に関して、マスコミ相手の記者会見すら行おうとしない。公には何の声明すら発表していないのだ。河北署長の説明によれば、今はまだその時期ではない、しかるべき時が来た時点で速やかに発表する、とのこと。
「どういうことですか? ひょっとして本庁は、この事件そのものを隠蔽する気じゃないでしょうね?」桜田に対する尋問の休憩時間中、海老名は不満を口にした。
「ひょっとすると……いや、そんなことがあってはならないが……」藤沢係長も戸惑いながら言う。「ま、本庁としても面目があるんだろう。一度自殺と断定して、再捜査の結果、やっぱり他殺だったなんてことを素直に認めたら、警察の威信にも関わる。言い訳する時間を読んでるんだろうな。どっちみち隠し切ることなどできんよ。いずれは必ず真実を公表する……そうあってほしいものだが」
「何だか嫌な予感がするんですけど……本当に本庁は真実を公表する気があるんでしょうかね? 桜田逮捕の発表もなし、記者会見もなし。まさかこのまま、この事件を極秘で通す気ですか? 極秘起訴に極秘裁判とか。そんなことが許されるはずがないでしょ。検察も裁判所もグルですか?」
「さすがにそれは絶対にありえない。どこかで必ず真実は公表されるはずだ。できれば、それは本庁にやってもらいたいことだが……それにしても桜田は、タルコフスキーの関与のことで口を割る気は全くないか。どうしたらいいものかな?」
「ですよね。相当しぶといです。俺たちの捜査が全て間違ってたんじゃないか、と思えてくるほどですよ。こっちの方が気が狂いそうだ」
そして48時間が経過した。
かくして桜田剛は、ミハイル・タルコフスキーの関与について一言も口を割らないまま、検察に送致されてしまった。後は、桜田が検察官の前でもし真実を話すとすれば、それを待つだけ。そしてタルコフスキーが、どこかで見つかるのを待つだけ。池袋北署の捜査はとりあえず終了した。
だが、いつになったら本庁は真実を公表するんだ? いつになったらタルコフスキーは見つかるんだ? そして検察は、ちゃんと仕事をしてくれるのだろうか?
海老名は1トン分の疲労に押しつぶされそうになりながら、自分の席で考えた。嫌な予感がする。姿も形もない、色も臭いもわからない、そんな嫌な予感が……




