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もう怖いものは何もない。翌日、海老名は決心した。
いよいよ今日こそ本丸に踏み込んでやる。そしてホシを挙げてやる。今まで俺たちは臆病過ぎたんだ。本庁やその裏に隠れている大きな闇の力に恐れをなして。だがそんなものは、もうどうでもいい。とにかく急がなくちゃ。後は運さえ俺の肩に止まってくれれば……
昨日の夜の帰り道で、上野ともう1人の暴漢に襲われた事実を藤沢係長に報告すると、係長も海老名の意見に同意した。
海老名は鈴木純が宿泊している、池袋駅近くのウイークリーマンションへ出かけた。純はあれから自宅を引き払い、このマンションに仮住まいしているのだ。
マンションの入口近くには、海老名がよく知っている軽自動車が停まっている。実は海老名が所有している自家用車。酒気帯び運転で免許証を取り上げられて以来、運転はしていない。だが自分の愛車を使用しないのももったいないので、純のいるこのマンションを張り込むために使わせているのだ。極秘捜査だからパトカーを使うわけにはいかないし、覆面パトカーの台数にも限りがある。少しだけだけど、久々に身体を動かせてよかったな。海老名は微笑みながら思った。
その海老名の愛車の中では、高木友之助が運転席に座りながら、スマートフォンを操作していた。海老名がフロントガラスを軽く叩くと、高木は慌ててスマホをポケットにしまい、窓を開けた。
「ブー、ちゃんと仕事してるか? スマホに夢中になってんじゃねぇよ」
「仕事してますよ。俺だって刑事ですから」
「おい、車の中が何だかイカ臭いぞ」海老名が眉根をしかめながら、軽く手を振って言う。「おまえ、まさか俺の愛車の中で、スマホでエロサイト見ながら、マスかいてたんじゃないだろうな?」
「そんなことしてませんって。仕事中ですよ、エビさん。気のせいですよ」
「本当か? 俺の愛車なんだからな。少しでも変なことに使ったら、ボコボコにぶん殴るぞ……それよりどうだ? 鈴木純はここにちゃんといるか?」
「問題なしです。先程1時間ぐらい前に外出して、近くのコンビニで買い物してから、またここに戻ってきました」
「わかった。これから純の部屋へ聞き込みに行く。おまえも付いて来い」
海老名と高木は鈴木純の部屋に入った。あれから純はすっかりやつれ果て、顔からも生気が感じられなかった。ウイークリーマンションといっても部屋は狭く、ホテルのシングルルームにコンロがある程度でしかない。家財道具の大部分はここへ来る前に処分したか、トランクルームに預けてあると言う。
「もう何だか生きてる心地がしませんよ」純はつぶやくような小声で話す。「これからどうやって生きていったらいいか、わかんなくって。彩はもういないし、友達もいないし、おまけに俺の顔が日本中に広まっちゃったんですからね。前を向いて歩けやしない」
「奥さんの彩さんは自殺。眼球は猫にえぐり出されて食べられた。この結果に納得してますか?」海老名が質問する。
「警察がそう言うんなら、納得するしかないでしょ」
「正直な気持ちを聞かせてくれませんか? 大丈夫ですよ。ここは我々2人だけしか知らないことにしておいて、上には報告しません。あの結果について、どう思います?」
「納得するわけがないじゃないですか。確かに彩は自殺したがってましたけど、あんな自殺の仕方はない。それにゾウイ……俺たちの猫が目玉をほじくって食べたなんて、人を馬鹿にしてるとしか言いようがないですよ」
「と言うことは、奥さんは誰かに殺された、と今でも思ってるんですね?」
「俺が殺したって言いたいんですか?」
「そんなことは言ってません。あなたが潔白であることは我々も信じます。ただ……奥さんを殺した人物に心当たりがあるでしょう?」
「いや、ないです」
「そうですか。ところで鈴木さん、沼影太郎って人物をご存じですか?」
「はい……そいつがどうかしたんですか?」
「コカインを密売してたことで逮捕されました。そいつ、顧客リストみたいのを持ってましてね。そのリストの中に、あなたと彩さんの名前もあったんですよ。あなた、コカインやってますね?」
「や……やってませんよ。そんなこと」
「なるほど、じゃあ、そこにあるセーフティボックスの中を調べさせてもらいます」
海老名は、部屋の机の上に置かれている小型の貸金庫を見ながら言った。その隣、机の上の何もない表面には、白い粉が点々と輝くように散らばっている。明らかに部屋の埃ではない。ちょうどその位置に椅子もある。
「ロック解除の番号は?」海老名が言った。
「ちょ、ちょっと、やめてください、困ります」純は狼狽しながら言う。「俺を別件で逮捕するつもりで来たんですか? それで最終的には、俺が彩を殺したなんて自白を強要するつもりなんでしょう?」
「そのつもりはありません。我々が知りたいのは、あくまでも奥さんを殺害したのは誰かということだけです。奥さんを殺害した人物について正直に話してくれれば、コカインの件に関しては目をつむります。心当たりのある人物はいるんですね?」
「いないこともないんですが……」
「それは誰です?」
「言えません」
「なぜです?」
「なぜと言われても……彩を殺すのを見たわけじゃないし……」
「あなたが直接殺害現場を見たわけじゃないにしても、心当たりのある人物なら言えるでしょう?」
「でも……それを言ったら、この国は滅ぼされてしまう。みんな殺されてしまう……」
「ほう、この国を滅ぼすほどの強い力を持った人物ですか。どうしてその人物が、それほど強い力を持ってることなんて、ご存じなんです?」
「だって……彩がそう言ってたから……」
「そうですか。そういえば彩さんって元経産省の官僚でしたっけ。官僚だったころの彩さんについて、他に知ってることは?」
「よく知りません。あいつ、結構謎だらけで、未だに俺にもよく知らないことがたくさんあるんですよ。自分は実はスパイなんだ、って言ってたことがあるけど、あれ、冗談だと思ってました。あいつとあいつもスパイで、いつかあの2人に殺されるかもしれない。もしあの2人に殺されても警察には絶対に内緒よ、って言ってました……何言ってんだ?と思ってたけど、今から思うと本当のことだったんだ」
「その2人とは? 口にしても大丈夫ですよ。いくらこの国を滅ぼすほどの強い力を持っていても、そいつらのやったことは単なる殺人です。それで逮捕した程度のことで、この国が滅びることはありません。2人の名前は?」
「勘弁してください」
「じゃあ、こちらから名前を言いましょうか。1人は白人でミハイル・タルコフスキー。通称メイジャー・トム。その通りですね?」
純は目を大きく見開いて震え出した。
「やっぱりそうか」海老名がつぶやく。「それでもう1人、日本人の方は?」
「ぬ、沼影です」
「ん? 本当に? どうせ沼影はもう逮捕されてるから、奥さんを殺害した罪をなすりつけようとしてません? でもそうなると、沼影がコカインを売りさばいた客をみんな逮捕しないといけなくなる。そして鈴木さん、せっかくここまで来たんだから、あなたをコカイン所持で現行犯逮捕しないことには、うちの係長に怒られちゃうんですけどね」
「ほ、本当です。沼影に間違いはないです。あいつ、よくメイジャー・トムと一緒にうちへ来てたし……」
「それは奥さんが殺害される前の話でしょう。沼影とタルコフスキーがよく、あなた方夫妻の部屋を訪れていたことは、複数の目撃証言があります。沼影はタルコフスキーと同じような体格の肥満体。長い金髪に丸顔。背丈もほぼ同じ。アイルランドに留学の経験があるから、英語は得意でしょう。ただそれと薬物に関する容疑以外では、特にこちらの興味がある話は聞いてませんね。ましてや日本を滅ぼすほど強い力を持った組織との付き合いといえば……暴力団ぐらいかな? 暴力団も日本を蝕むガン細胞みたいなもんですから。沼影のことはともかく、あの日、奥さんが殺害された日、あなた方夫婦の部屋に来てたのは、タルコフスキーと、それから沼影以外の日本人です。目撃証言もあります。金髪の短い髪に細長い顔。体格はやせ型。女だか男だかよくわからないような人物。明らかに沼影太郎ではない。どうですか? 心当たりがありますか?」
純は沈黙している。
「なぜ話せないんです?」海老名は言った。「ひょっとしてあなた、あの日、タルコフスキーともう1人の日本人と3人で一緒になって、奥さんを殺害したんじゃないでしょうね?」
「してませんよ、そんなこと!」純が大声でわめく。「俺がなぜ、あいつを殺さなくちゃならないんですか? 殺したのは間違いなく、あの2人だけです!」
「なぜその2人が殺したのをご存じなんです? 直接あなたが殺しに関与してなくても、殺すところは見たんですね?」
「殺すところも見てません! ただ、あの2人がうちに来てたのを見ただけです!」
「そうですか。あなた、その2人が部屋に来てた時、ずっと眠ってて何も気づかなかった、と署に来て言ってましたよね? ま、今さらそんな証言はどうでもいいです。ずっと眠ってたのも嘘じゃないでしょう。でもその間に少なくとも一度は目を覚ましてる。そして例の2人が部屋にいたのも目撃してる。そうですね?」
「……はい」
「それは何時ごろ?」
「……9時過ぎかな? でも眠かったので、すぐにまた寝ました」
「で、その時に、例の2人が部屋に来てたのを見たわけですね?」
「そうです」
「わかりました。今の話を信じましょう。それで、あの日、あなた方の部屋に来てたのはタルコフスキーと、あともう1人は誰なんです?」
「だから沼影……」
「おい、ブー、そのセーフティボックス開けてみてくれ」
「わかりましたわかりました! 沼影じゃありません!」純が慌てふためきながら言った。「お願いですから、あれには触らないでください。確かにあの日、部屋に来てたのは沼影じゃありませんでした。彩がいつか殺されると言ってた、あいつでした」
「で、その『あいつ』とは?」と海老名。「名前を言いたくないのなら、こちらから言いましょう。実を言うと、そのもう1人の日本人が誰なのかわからなくて、こっちも困ってるんですよ。少なくとも2名の名前が挙がってます。この2名のうちの、どちらかと思われますが……1人は桜田剛。もう1人は白幡茂男。この2人のどちらです?」
「白幡?」純が眉根をひそめながら言った。「そんな名前、聞いたことがないんですけど……」




