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あれから海老名は歩いて帰宅の途に着いた。先程の池袋駅近くの居酒屋から池袋北署までは歩いて10分。署から自宅までも歩いて10分。合計20分。汗ばむほどに少し暑かった昼間とは対照的に、夜になると涼しくなり、5月のさわやかな風が脇を通り過ぎる。
気持ちのいい空気に包まれながらも、海老名は憂鬱な気分。鈴木彩の捜査のこと。丸出為夫のこと。うり坊のこと……うり坊は今夜も戻ってないのかな? そう思うと、何だか自宅に戻りたくない気分になってくる。
それだけではなかった。酒に酔っているのと近眼であるのとで少しぶれてはいるが、海老名の頭に先程から危険信号が点滅しているのだ。
誰かが俺の後を尾けている。
その判断に間違いはない。海老名の後を尾行しているのは、長髪に女性用の服装。女? いや、女にしては背が高く、肩が盛り上がっている。女装した男であることは間違いない。
女装した男といえば、先程の丸出もそうだった。出来損ないの失敗作ではあるが。だが丸出は海老名に誘われて刑事たちと酒を飲み、酔った勢いで秘密にしていた情報を酒の席に思いっきりさらけ出し、挙句の果てには泥酔して、今でも居酒屋の外で眠りこんでいるはず。奴が尾行してくるはずがない。仮に尾行して来ても、すぐにわかる。女装した男というより、宇宙船から放り出されて便器に頭から突っ込んだ汚物、と言った方がふさわしい姿だから。
自宅までは、あと歩いて数分ほど。池袋本町の静かで平和な住宅街。車1台がやっと通れるほどの細い道を歩いているせいか、他に人影がない。だが例の人物は何十メートルか離れて、相変わらず付いて来る。
もし俺を尾けてるとしたら……もうここまで来れば、俺がどこに住んでるかはわかってるはずだ。海老名は考えていた。それなのに、まだ尾けてるとすれば……これは血を見ることになりそうだぞ。おそらく前方にも、誰かがもう1人待ち構えてるはず。例えば、あの一軒家の門柱の陰に隠れてるとか……
予感は的中した。門柱の陰から、誰かが海老名に襲いかかってきたのだ。
海老名は素早く飛びのいた。相手は屈強そうな男。野球用の木製バットを振り回したが、見事に空振り。海老名は相手の顔面に回し蹴りを食らわせた。ついでにひるんだ相手の腹に思いっきり拳骨を1発。
そこへ今度は、後方から誰かが走って襲いかかって来る。先程の長髪の人物。海老名は道路に落ちた木製バットを拾い上げると、大きく斜めに飛び上がりながらバットで相手の背中を強打した。
長髪の人物が前のめりに倒れる。すぐに海老名はその人物を組み伏せ、長髪を引っ張った。予想通り長髪は外れて、短い髪が表れる。海老名は相手の短い髪を鷲づかみにした。
その間に、もう片方の暴漢は戦意をあっさりと失ったと見え、腹を押さえて、ふらふらと歩きながら、その場を去って行った。
海老名に組み伏せられ、髪の毛を鷲づかみにされた男の顔が、街灯の光に照らされた。女性用の化粧を施してはいるが、海老名もよく知っている顔……本庁の刑事・上野大志だった。
「やっぱりおまえか、上野」海老名が上野の身体を組み伏せたまま言った。「暴力はいけないね。おまえ、そんなに自分の秘密を知られるのが嫌なのか? 知ってるんだぞ、俺は。おまえが上からの命令で動いてるんじゃなくて、ただ自分の秘密を知られるのが嫌だから、俺たちを監視してることをな。おまえ、ゲイなんだって?」
「な、何のことだ?」上野が切羽詰まった表情で言う。
「とぼけなくてもいい。調べはちゃんとついてる。おまえ、新宿2丁目では有名な常連客らしいじゃないか。死んだ鈴木彩ともオカマ掘り合ってたんだって? あいつとの関係を知られたくないから、上からの命令をこれ幸いとばかりに、秘密を夜の闇に葬ろうとしてたわけだ。だが残念だったな。知りたくもなかったけど、俺はみんな知っちまった。『スケアリー・モンスターズ』。この店の名前知ってるな? 彩が働いてた店、おまえが頻繁に通い詰めてた店だよ。ここの彩の同僚、今の『ママ』から聞いたぞ。事実であることを認めるな?」
「そ、そんな証言に信憑性はない。俺をおとしめるための嘘に決まってる」
「まだ白を切る気か? なぜか知らんが、丸出為夫だって知ってることだぞ。酒に酔った勢いで、お前の秘密をぶちまけた」
「何? 丸出が? あれほど口外するな、と言ったのに」
「やっと認めたな。おまえ、丸出に自分がホモであることを知られて弱みを握られたからこそ、あいつを先生呼ばわりしてるんだろ? しかもあのバカを、うちの署に連れて来やがって。あれ以来、うちの署は災難続きだ。消防車を呼んでも災いの火の手が治まらん。みんなおまえのせいだ」
「ふん、そんなことはどうだっていい。それより鈴木彩のことは終わったはずなのに、まだ殺人事件として、俺たちにも内緒で捜査してるだろ? 上からの命令だぞ。今すぐやめるんだ」
「あっそ。おまえと鈴木彩とのことを、おたくの課長や係長にちくっちゃおうかな? ま、おまえが口にできないカミングアウトを、俺の口を借りて手助けしてやるよ」
「やめろ、それだけはやめてくれ」
「別にいいじゃん。今の時代、同性愛者であることをカミングアウトしたって、誰も驚かないし、受け入れられるだろうが」
「それは違うな。政治家や芸能人のような目立ちたがり屋なら、それでいいかもしれないが、俺らみたいな無名の一般人は違う。同性愛に対する偏見なんて、永久になくならないよ。俺の出世にも関わる。出世の妨げになるようなことは、出来る限り取り除かねば……」
「そっか。それはまたつらいことだな……ほら、起きろ。もう抵抗するな」
前方から人が歩いて来る。靴音からしてハイヒール。女かどうかは知らない。初めは力づくで抵抗を続けていた上野も、すっかり抵抗をやめた。もう暴れないだろう。そう判断して、海老名は上野を組み伏せるのをやめ、起き上がらせた。上野は長髪のかつらを拾い上げ、通行人が通り過ぎるまで相手に背を向けていた。
「さっさと家に帰れ」海老名がバットを片手に持ったまま言った。「もう付いて来るなよ。家に帰って、自分のケツの穴を見ながらマスでもかいてろ。お前の秘密のことは誰にも言わないでおいてやる。その代わり、俺たちのやってることにも目をつむれ。いいか? 誰が何と言おうが、俺たちは俺たちの好きなように仕事をさせてもらうぞ。誰にも邪魔はさせない。たとえ本庁だろうとな」
「勝手にしろ」上野は不機嫌な表情でそう言いながら、足早にその場を去って行った。
あれから何事もなく、無事に自宅へとたどり着いた。
ただいま。玄関の扉を閉めると、海老名は小さくつぶやいた。どうせ誰も聞いていないだろうが。だが部屋の奥から、ニャーと言う鳴き声が聞こえたような気がした。
うり坊? そう言いながら、海老名は部屋の電気を付けた。また猫の鳴き声。今度は空耳ではない。よく見ると、部屋の奥にうり坊の姿があるではないか!
「うり坊! どこ行ってたんだ? 心配したんだぞ。さ、こっち来い」
海老名はかがみこんで両腕を広げた。うり坊は恐る恐る海老名に向かって歩いて来る。
「ごめんな、うり坊。俺が悪かった。もうどこにも行かないでくれよ」
うり坊は海老名に抱き上げられて、腕の中でニャーニャー言い続けていた。




