表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/18

14

 翌日。捜査中止命令から4日後。極秘捜査はなかなか進まない。進んだかと思いきや壁にぶち当たる。傷も段々と深くなってきた。やはり所轄の刑事だけで捜査は無理なのか? 池袋北署を偵察しに来る本庁の刑事たちも、日増しに多くなっていく。上野を筆頭に、海老名たちの周りを監視している。

 海老名の気分も日増しに落ち込んで行く。屋上の喫煙所で煙草を吸いに行ったら、戸塚警部がいたので簡単な捜査状況について話をした。戸塚も署長に呼び出されて、明らかに捜査1係が本庁や署長の命令を無視して極秘捜査をしている、その証拠もつかんでいる、何としてでもやめさせろ、と言われたとか。

 「もう俺も、とぼけ通しきれなくなってきたよ」戸塚は憂鬱そうに煙草の煙を吐き出しながら言った。「時間がない。エビ、何とかそろそろホシを挙げてくれ。だいたい毎晩やってる『捜査会議』の飲み代、俺が個人的に負担してるんだからさ。もうこれ以上、俺の老後を縮めないでくれないかな?」

 インターネットの世界でも、相変わらず事件の結末に不満を訴える声はやまない。いずれ時と共に消えて行くのだろうが、海老名から見れば、早く真実を見出してくれ、忘却の彼方に沈んでしまうのが怖い、と訴えかけているように思える。

 さらには海老名個人の日常生活でも、憂鬱な変化が起こっていた。

 愛猫の「うり坊」が家出をしたのだ。捜査中止命令を受けた日の夜、うり坊を少しいじめたら、翌朝にはうり坊はいなくなっていた。それ以来、海老名の自宅には戻っていない。猫が人間の眼球をえぐり出して食べる。それは大きな誤解なのか。それとも事実であって、その事実が発覚した以上、もう主人の下にはいられない、と思ったのか。うり坊は忽然こつぜんと姿を消してしまった。元妻の下に引き取られている小学生の息子を除けば、海老名にとって唯一の生き甲斐ともいえる愛猫の家出は、大きな精神的痛手である。うり坊、もう戻って来ないのかな……


 上からの圧力も強まってきた。容疑者の数も絞られてきた。事件の解決を急ぎたい。と言うことで、この日から捜査方法を少し変更することにした。聞き込みや調査を担当するのは海老名、新田、大森、三橋の4人に絞り、署外での捜査会議もこの4人だけで行なう。他の刑事たちは、容疑者たちの張り込みと尾行に回す……容疑者はミハイル・タルコフスキー、ジェニファー・マッキントッシュ、桜田剛、白幡茂男、鈴木純の5人。この5人の住処を張り込み、外出した場合は尾行する。もっともタルコフスキー、マッキントッシュ、白幡の3人は「天国が見える教会」の本部と同じ建物内に住んでいるので、張り込む場所は3カ所。それを交替で行なうという方針。

 夕方の捜査会議までに海老名、新田、大森、三橋の4人は全力を尽くして聞き込みや調査を続け、海老名の指示通り、また昨日とは別の居酒屋に集合した。

 「本当にこんな所で秘密の話し合いをして、大丈夫なの?」新田は不安を隠さずにいた。

 今日の新田の仕事は、白幡茂男(54歳)に関する調査。かつて白幡や和戸尊わどたけるが勤務していた精神病院や、その元同僚の医師、看護師たちの聞き込みに回っていた。結果は前日に和戸が話していたことと、ほぼ一致していたとのこと。和戸の言葉に嘘はなかった。

 「ついでに和戸尊のことについても色々聞いてみたけど、怪しい話は全然出て来なかった。少なくともあの和戸、私たちに罠をかけようとしてるわけじゃないと思う。いくら丸出の親友だからって、あの人は純粋に善良な医者だと思うな」と新田は感想を述べた。

 大森は、今までミハイル・タルコフスキーだと思われていた、ジェニファー・マッキントッシュの身辺調査をしていた。

 ジェニファー・マッキントッシュ(56歳)。スコットランド出身のイギリス人。「天国が見える教会」日本支部の代表責任者にして主席牧師。大学時代は日本文学を専攻し、紫式部や清少納言など、平安時代の女流文学を研究しながら、急進的なウーマンリブの政治団体に所属していたとか。例の教会に入信したのも、男の牧師ばかりのキリスト教会が多い中で、昔から積極的に女性の牧師を育成していたから、と言うことらしい。ただし元レズビアンであることを堂々とカミングアウトしている。「元」ではなく、現在もレズビアンバーに通っていると言う証言もあるとか。鈴木夫妻の「ジギー・スターダスト」の常連客。さらには、沼影太郎のコカインの顧客リストに名前を連ねている。

 「色々と聞き込んでみたところ、薬物使用の噂は事実のようです」大森が説明する。

 「俺たちから見たらマッキントッシュとタルコフスキーは同じような顔に見えるけど、何か区別のつく特徴とかあるのかな?」海老名がビールの入ったグラス片手に質問する。

 「見慣れれば、全然違う顔をしてるそうです。大きな違いといえば、まず髪の色が違うとか。マッキントッシュは茶髪というか赤毛ですが、タルコフスキーは金髪で、しかも明らかに染めてるそうです。それから背丈も違うみたいですね。タルコフスキーは170センチ程度ですが、マッキントッシュは女性ですけど180センチもあるそうです」

 「そっか。おまえから見れば、手を伸ばしても届かない別世界の話だな」

 「ほっといてください。背丈の話は、あまり好きじゃないんですから」身長約160センチと小柄の大森が、ふてくされながら言った。

 「ま、それはともかく、180もある大女なら、目撃証言とは合わないな。桜田も白幡も170センチ前後で、一緒にいた白人とほぼ同じ背丈だという話だから。やっぱり白人の方はタルコフスキーで決まりだな。ただマッキントッシュもあの教会の一番偉い奴だって言うんなら、ますます近寄りがたい。殺人の実行犯でなくても、俺らの捜査を邪魔するほど大きな力を持ってるとみた。まだ除外するわけにはいかんな」

 次に三橋の報告。三橋は容疑者から外れた許明の自宅を訪れ、直接本人に聞き込みをしてきた。聞き込んでも問題はないだろう、と言う藤沢係長の判断の下に。

 「自宅の中を色々と見させてもらいましたけど、1人暮らしなのに3LDKの広い部屋に住んでました。そのうち2つの部屋は漢方薬などを閉まっておく倉庫だそうで、中を見させてもらってもいいですか?って聞いたら、『見せるほどのものじゃありませんよ』と断られましたが。恐らく、あの中で大麻を栽培してるものと思われます」

 「マッキントッシュについては何て言ってた?」と海老名。

 「親切で、いい白人さんだと言ってました。まるで女神様だと」

 「で、タルコフスキーについては?」

 「タルコフスキーについてもいい人だ、と言ってましたね。同じロシア人同士より英語の話せる者と、よく英語で会話することが多かったとも言ってました。ただ1つ気になることを言ってまして……最近タルコフスキーの姿を見かけてないそうです」

 「いつ頃から?」

 「鈴木彩が殺害されてから、だそうです」

 「確かにそれは気になるな。何となく胸騒ぎがする。今まで俺たちがタルコフスキーだと思ってたのが別人のマッキントッシュだったり、タルコフスキーに聞き込みを行なったのは本庁の奴らだけだったり……あのタルコフスキー、ひょっとしたら今頃もう日本にいないかも」

 その場にいた一同が固唾かたずを飲んだ。

 「それって、もう遅いってこと?」新田が心配そうに言う。

 「それはまだわからない」と海老名。「もしタルコフスキーをすぐには逮捕できない、指名手配するしかないとしても、まずは最低限、日本人の方のホシを挙げることが優先だ。桜田か白幡かは、まだわからない。鈴木純も関わってるかもしれないけど、とりあえずそれを最優先にしよう」

 最後に海老名による聞き込みと調査報告。

 海老名も、署の自分の席で椅子にふんぞり返りながら、偉そうに同僚の刑事たちと連絡を取り合っているわけではない。海老名には海老名なりの情報源がある。昔の同僚や警察学校時代の同期生など、その中でも特に信頼できそうな者を選んで、事件に関する情報を集めていたのだ。時には聞き込みにも出かける。今日は新宿2丁目の、とあるゲイバーの経営者を聞き込んできた。昔、鈴木彩が勤めていたゲイバー。

 「そのゲイバーの経営者に田島拳志郎の写真を見せたら、鈴木彩とは全然違う、いくら美容整形しても、あのような顔になるはずがないって言ってた。そこで彩の当時の写真を見せてもらったよ。整形は何度か繰り返してたみたいだが、死ぬ前の顔とだいぶ似てた。同一人物とみて間違いない。つまり、鈴木彩と田島拳志郎は全くの別人という可能性が濃厚になってきた。桜田剛も、このゲイバーの常連客だったらしい。どうもこの腹話術師も裏では別の顔を持っていそうだな。ヤクをやってるというだけでなく」

 ここで海老名はグラスに注いだビールを1口飲んでから、

 「それより問題は上野大志だ。あの本庁の刑事。ものすごい秘密がわかった。ものすごいって言っても、小さじ1杯分程度、味が少し変わる程度だけどさ。でもあの上野って奴……」

 上野に関する秘密が海老名の口から暴露されると、一同が意外そうな表情を浮かべた。

 「そういうことだったのか……」

 「あの上野が……」

 「だから私たちのことを絶えず気にしてたのね……」

 そこへ店の入口に、みんなが驚いて天地が引っ繰り返るほどの珍客が現れた。こいつは本当に人間なのか? 人間の形をしていたが、どうあがいても別の惑星からやって来た宇宙人にしか見えない。あるいは歩く粗大ゴミ……

 まず明らかに女装をしている。顔を化粧している。真っ白いパウダーをドウランのように濃く塗りたくり、ピンク色の口紅と真っ青なアイシャドウを幅広く塗っているその顔は、ピカソかミロの抽象画のよう。緑の蛍光色の長髪は明らかにかつら。原子爆弾を投下された後のキノコ雲のように、頭の上で髪の毛が盛り上がっている。トレンチコートの上から真っ赤なミニスカートを履いていた。しかもなぜか黒いブラジャーまでコートの上から着用している。靴で踏みつぶされたタラコのようなピンクの唇には、パイプ煙草……

 そのように女装したつもりでいる丸出為夫まるいでためおは、恥ずかしげもなく悠々と店内に入って来たかと思うと、海老名たちの席の近くにあるカウンター席に腰を下ろした。

 すぐ隣にいた客が驚いて、逃げるように席を移動する。店員たちはみな呆然として、その場に立ちすくむ。気づいた一部の客は、指を差しながら大爆笑。

 海老名は自分の目が信じられなかった。このウンコたれが! 今まで丸出のバカ過ぎる行為を嫌というほど見てきたつもりではあるが、ここまでバカなことをするとは……丸出のバカさ加減はどこまでも記録を更新し続け、限界の壁が前方に全く見えない。

 このまま無視するわけにもいかず、海老名は自分の席を立った。この前の上野のように、丸出が変装をしてまで海老名たちの話を盗み聞きしようとしていることは、明白だったからだ。どうせ海老名たちが店を出て別の場所に移動しても、付いて来るに決まっている。同じことならば、この場で給料10年分の恥をかくしかない。あの鮮やかな色とりどりの大便みたいな奴を相手に……

 「よ、丸出先生!」

 海老名は丸出の後ろから声をかけながら、丸出の長髪のかつらを取り上げた。かつらと同時に、間にかぶっていたベレー帽まで取れてしまう。つまりはベレー帽の上から、かつらをかぶっていたのだ。ベレー帽まで取れてしまったことで、丸出のはげ上がった後頭部が無数の視線にさらされた。

 あっ! 丸出の大声が店中に響きわたった。

 「それでも変装してるつもりなのか?」海老名はあきれ返りながら言った。はげた後頭部を押さえて隠そうとしている丸出の両手の上に、ベレー帽をかぶせながら。「あんたがバカだってことはよく知ってるけど、ここまでバカなことをして恥ずかしいと思わないのか? 変装し終わったら、少しは鏡で自分の姿をよく見てみろ。鏡まであんたに向かって『バーカ!』って叫ぶぞ」

 「そんな必要はございません」丸出はベレー帽をかぶり直しながら言った。「私は変装の名人ですぞ。シャーロック・ホームズの生まれ変わりですからな。鏡なんか見なくても、私がどれだけ別人に変装しきったか、すぐにわかります。でもさすがはエビちゃん。私の変装をよく見破りましたな」

 「そりゃあんたのことを知ってるからだよ。別に知りたくもないけどさ。できればあんたの存在自体が全て悪い夢であってくれたら、って何度考えたことかわかりゃしない。見ろよ、あんたの周りを。あんたのことを知らない客はみんな、あんたが変装してることを知らないだろうけど、そんなことに興味はねぇよ。あんたの存在自体が奇人変人を通り越して、失笑と嘲笑とで作り上げられた危険物質としか思っちゃいないって」

 「そこまで言いますか。そこまで言うなら、エビちゃんの酒気帯び運転のことを……」

 「俺は今日は車で来てないから、そんなことしないって……それよりおっさん、俺らと一緒に飲まない? どうせ俺らの話を盗み聞きするつもりで来たんだろ? ま、別に盗み聞きされるようなことは何も話してないけどな。せいぜい立川バ課長の悪口だけだ」

 「ということは、おごってくれるんですな?」

 「もちろん。さ、こっちへ来い。みんな、あんたを待ってるぞ。今夜はたらふく飲ませてやるからな!」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ