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 海老名が道場から戻ってくると、海老名宛に電話があったことを藤沢係長が告げた。相手は、あの丸出為夫まるいでためおの親友・和戸尊わどたける。折り返し海老名の方から和戸の携帯電話に連絡する、と伝えておいたとか。

 何の用事だろう?と海老名が嫌々ながら和戸に電話をかけると、和戸は海老名と2人だけで話をしたい、今日は休診日だから、こちらから署に出向く、と言う。海老名はいくつか条件を出した。まず海老名の方から和戸の自宅に出向く。その際、もう1人信頼できる刑事を同行させる。さらにくれぐれも丸出には内緒で。しかも奴を自宅には連れて来るな……最後の条件は問題なく突破できそうに思えた。というのも丸出は今日も署へ遊びに来て、友達の立川課長と談笑にふけっているからだ。

 海老名は新田を連れてこっそりと署を出て、和戸の自宅に向かった。和戸の自宅は西池袋にある高級マンション。猥雑で汚らしい繁華街にあるクリニックからは、徒歩10分ほど。あの繁華街からほど近いにもかかわらず、和戸の自宅一帯はわりと清潔で、治安のいい高級住宅街である。

 「あらー、エビちゃんさん、お待ちしてましたよ」玄関の扉を開けるなり、和戸尊の妻・聡子は笑顔で応えた。白衣を着ていない聡子は上下ジャージ姿で、これから外へジョギングしに行くと言い出しそうな恰好である。

 「エビちゃん、待ってたわよ」和戸尊も三船敏郎のような顔立ちのまま、野太い声で相変わらずオネエ言葉を話す。海老名はもう慣れたから平気だったものの、今度は初対面の新田が目を丸くして驚いている。尊も上下スウェットスーツ姿で、その体格からしてもオリンピック選手のコーチのよう。

 「ねえ、ママ、刑事さんたちだけで話をしたいから、ママはちょっと席を外してくれる?」尊が妻の聡子に言う。

 「何だよ、父ちゃん、俺は話を聞いちゃいけないのかよ?」聡子がぶっきらぼうな男言葉で言った。その美貌と美声からは信じられないような言葉遣い。

 「うん、ママには関係のないこと。ごめんね、隠し事をする気はないんだけど、あたしの勘違いかもしれないことだし、ちょっと医師の守秘義務ってやつ」

 「また守秘義務かよ。都合が悪くなると、いつもその手を使うよな? そうやって俺に隠れてニューハーフと浮気でもしてるんだろ?」

 「だから誤解だってば。あたしが愛してるのはママ1人だけ。これ本当よ。あたしが嘘ついたことある? だからお願い。刑事さんたちとの話は聞かないでね」

 「わかったよ……じゃあ俺、買い物に行ってくる」

 いったいこの夫婦、どっちが男でどっちが女なのだか。この2人も鈴木夫妻のように性転換してるんじゃないのか? 2人とも、とてもそのようには見えないが。あるいはホモとレズの偽装結婚、3人の子供はみんな養子とか……海老名は、この世の常識が全く信用できなくなった。すっかりこの世の関節が外れてしまっている。しかも病院で診察する必要がないことらしい。

 聡子が外出すると、尊は1人掛けのソファに座って話を始める。その向こう側には3人掛けのソファに海老名と新田が。

 和戸夫妻の部屋は子供が3人いるせいか、5LDKもの広さ。清掃も行き届いていて、家具にも全て医者の自宅らしい高級感がある。犯罪に結びつきそうな要素はほこりひとかけらもない。

 「ところで鈴木彩ちゃんの事件、自殺だったって本当?」和戸尊が話し出す。

 「ええ、司法解剖の結果では、そういうことになってます」と海老名が冷静に言った。「強い睡眠薬と思われるペントバルビタールが体内から検出されました」

 「ペントバルビタールって、あたしが処方した睡眠薬じゃないわね。もう日本では睡眠薬としては使用が事実上禁止になった、毒性の高い薬だから……ということは彩ちゃんが死んだ原因、あたしのせいじゃないのね?」

 「おそらくそれはないと思います。ご安心ください」

 「ああよかった。もしあたしが処方した睡眠薬だったらどうしよう、と思ってたの。でも眼球が猫にえぐり取られて食べられたんですって? それはありえないわ」

 「確かにインターネットなどでもそのような議論は続いてますが、本庁の鑑識課による結果ですので、我々としてもその結果を受け入れざるを得ません。いずれにしても今回の事件は捜査を終了しました」

 「でもエビちゃん、捜査が終わった時、ものすごく怒ったんだって? 為夫ちゃんから聞いたわよ」

 「そうですか。まあ確かに始めは結果に不満でしたよ。丸出のおっさんにも当たり散らしました。もっともあいつも、あの時あんな所にいたのが悪いんですけどね。でも我々も組織の人間である以上、上からの命令には従わざるを得ません。残念ではありますが」

 「でも為夫ちゃんが言うには、エビちゃんが『こうなったら俺たちだけで、上にも極秘で捜査を続けてやる!』なんて言ってたらしいけど、それって本当?」

 「そんなことするわけないじゃないですか。捜査の結果がああと決まって、上からも捜査終了と命令されたら、もう捜査なんかできませんよ」

 「そうなの……それはちょっと残念ね。あたしみたいな部外者が言うのも無責任な話だけど」尊は肩を落として言った。「実はもし極秘で捜査続けてるんなら……いや、そうじゃなくても、このことを警察に話そうかどうか、少し迷ってたのよ。まだ彩ちゃんが殺されたかもしれないって時にエビちゃん、あたしのクリニックに来て色々と聞いたでしょ? 本当は、あの時に話しとけばよかったんだけど。彩ちゃん、眼球をえぐり出されてたのよね? それで天国が見える教会との関連性が疑われたのよね? 猫が眼球をえぐり出したのが本当なら、もう話しても無駄かもしれないけど、でもあいつをこのまま野放しにしておいたら、ちょっと嫌だなって奴があの教会にいるの」

 「ほう、その人は誰です?」

 「……白幡茂男っていうの。10年以上前に、あたしが勤めてた病院の同僚。あいつ、とんでもない悪党ってことで病院内では有名だったの。睡眠薬とか服用のし過ぎに注意しなくちゃいけない薬を、必要以上に処方することでは有名だったし、あいつの受け持った入院患者が何人も死んでるのよ。急に体調が悪化したとか言って。あれ、劇物を用いて安楽死させたんじゃないかって噂。それから偏見で言うわけじゃないけど、ゲイだったみたい。ゲイバーに入るのを見かけたって噂もあったし……あ、あたしはゲイじゃないわよ、こんなしゃべり方だけど。で、ある日、未成年の少年に性的いたずらをしたとかで両親に訴えられて、大騒ぎになって、それで『これ以上、この病院に迷惑をかけられない』とか言って辞めたんだけどね」

 「その白幡という人があの教会にいることを、なぜご存じなんです?」

 「あたし、町谷さんのお葬式に出席したことがあるって、前に話したことがあるでしょ? その時にあいつ見かけたの。あの教会の結構偉い人らしくて、生真面目に聖書なんか朗読してたけどね。間違いなかったわ。あいつ、白幡よ。向こうもあたしのことを覚えてたみたいで、あたしと目が合ったら急に目をそらして、あたしの方を見ないようにしてたし。ねえエビちゃん、彩ちゃんの事件を捜査してた時、あいつが容疑者として浮上したなんてことある?」

 「さあ、聞いたことないですな」と海老名は、とぼけて言った。「別の刑事が彼と話をしたこともあるかもしれませんが、私は名前も聞いたことありません。新田さん、白幡茂男って名前、聞いたことある?」

 「私もない。初耳」新田も、とぼけながら言った。

 「そうなの。じゃあ今回の件が殺人事件じゃなければ、あいつも犯人じゃないってことね」と尊。「でもあいつ、あの教会でまた何か悪さしてるんじゃないか、って気もするの。悪人正気って考えがキリスト教にあるのかどうかよく知らないけど、あいつの悪事は露見したことがないから問題なのよ。少年にいたずらをした件も、逮捕に至らなかったって聞いてるし。たとえキリスト教の洗礼を受けて心を入れ替えたとしても、ああいう奴はまた何か悪さをしてると思うの。だからお願い。あいつの周りをちょっと調べてみてくれない? 絶対に何か出て来ると思うから」

 「あの、そういうことなら……」

 と海老名が言いかけたところで、尊は間髪を入れずに野太い銅鑼どら声で話を続ける。

 「あとそれから、中国人の許明。あいつもかなり臭いわよ。やっぱり例の教会の信者で薬剤師の資格持ってるらしいけど、薬の卸売りもやってるの。それも明らかに日本の薬事法で認められてない、怪しい漢方薬ばかり。そういう薬を薬局とかで強引に押し売りしてるみたい。もちろん日本人相手にね。ついでにあの教会のパンフレットとかも配って、布教活動もしてるの。うちと取り引きしてる薬局も被害に遭ってるし、前に彩ちゃん夫妻が経営してたあの店でビール飲んでたら、あたしにも直接言い寄ってきたんだから。漢方薬買わないか? キリスト教に興味あるか?ってね。噂で聞いたんだけど、自宅で大麻育ててるって話よ。あの教会、怪しい奴ばかり。ねえ、エビちゃん、あの教会、つぶしてくれない?」

 「うーん、そんなこと言われてもな……うちの係は、何か暴力的な事件が起こらない限りは動けないことになってるし、別の係に相談した方がいいかもしれませんね。それにある特定の人物に関する身辺調査なら、あなたの大親友の名探偵・丸出為夫先生に頼めばいいことじゃないですか」

 「為夫ちゃんじゃ駄目なのよ……」尊が、ため息交じりに言った。「あの人、探偵としては、まるで駄目。マルデダメオ。推理に論理的な一貫性がないし、何か調べるにしても手抜きばっかり。顧客から『金返せ!』って何度も訴えられるぐらい。警察でも迷惑してるんですって? 捜査の邪魔をしたり、犯人と間違えられるような行動をしたり、とネガティブな噂ばかり。でも上層部には顔が利くからって、仕事の方は引っ張りだこらしいけどね。ところでエビちゃん、為夫ちゃんとは仲がいいと聞いてるんだけど……」

 「とんでもない、冗談じゃないっすよ!」海老名が怒りを爆発させながら言う。「こっちだって、えらく迷惑してるんですから。だいたい俺とあいつが仲がいいなんて、どこから聞いてきたんですか?」

 「いや、為夫ちゃん自身がそう言ってるんだけど……」

 「今度あいつに言ってやってください。池袋北署には二度と来るな、この海老名忠義の前に二度とそのバカ面を見せるな、って」

 「でも和戸さん、丸出のおじさんの悪口言ってるけど、どうしてあのおじさんの友達なんですか?」

 新田が初めて和戸尊に向かって質問した。

 「悪口? 別に悪口なんか言ってないわよ。ただ為夫ちゃんの欠点を言ってるだけ。確かに為夫ちゃんって欠点だらけの駄目な人だけど、あたしはそんな為夫ちゃんが大好き。だから大親友なの!」


 「それにしても噂では聞いてたけど、想像以上にすごい人ね、和戸尊って」

 署への帰り道。車を運転しながら新田は興奮して言った。

 「あんな不思議過ぎる人、初めて見た。ああいう人って他にもいるのかな?」

 「いるわけねぇだろ。あんなのが2人以上いたら、冗談抜きで世の中おしまいだ」助手席の海老名が言う。

 「でもあの人、白幡茂男や許明のことで貴重な証言をしてたじゃん。信用してもいいのかな?」

 「わからん。さっぱりわからん。ますます和戸尊のことが、わからなくなってきた。今の聞き込みで俺たちに罠をはめるとしたら……どんな罠かな?」

 「エビちゃん、私は和戸のこと信用できると思うな。さっきの二宮さんもそうだけど、2人とも本心で私たちに協力したいんだと思う。絶対に罠じゃない」

 「確かに二宮なら嘘はついてないだろうけど、和戸はどうかな? 丸出の友達だぜ。あいつの『欠点』は素直に認めてたけどさ。しかも精神科医だぜ。人間心理に関するプロだからな。俺らにもわからない罠を仕掛けてるんじゃないか、って気がしてならないんだよ」

 「人間心理に関するプロが、必ずしも演技のプロじゃないと思う。少なくとも演技はしてないと思うな。だって始めは向こうの方からうちの署に出向く、とか言ってたでしょ? 飛んで火に入る夏の虫じゃん。そこまでして私たちに罠をかけると思う?」

 やはり和戸尊はシロか。いや……海老名の心は、通り過ぎる車窓と反対の向きで葛藤していた。


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