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 「エビちゃん、エビちゃん!」

 昼過ぎ。昼食から戻って来た新田が、自分の席にも座らず、真っ先に海老名のすぐ隣にある大森の回転椅子に腰掛け、海老名に近寄って来た。大森は聞き込みに出かけて留守。

 「エビちゃん、すごい情報を手に入れちゃった」新田が興奮しながら話す。「あの事件の容疑者の中に、薬物に手を染めてるかもしれない人物がいる、ってさっき話したじゃん。組対から有力な情報を得られないかな?って思ってたら、何と向こうからすごい情報を持って来たの……これ!」

 と言って、新田は自分のハンドバッグを開けて、三つ折りにした紙束を海老名に差し出した。どうも何かの報告書らしい。

 「私がご飯食べに店に行こうとしたら、後ろから声をかけられたの。振り向いたら、その人、薬銃の二宮にのみやって人。知ってる? ほら、何となく気の弱そうな感じだけど、柔道は滅茶苦茶強いって言われてる、あの人」

 「二宮……名前と顔は知ってる。話したことはないけど」

 「その人がこの報告書くれたの。『刑事課の捜査1係の人ですよね?』って私に言うから、『そうですけど、何か?』って聞いたら、『あの事件、他殺じゃなかったことになってるんですよね? どうも私、納得がいかなくて……もう遅いかもしれないけど、もしお役に立つのであれば、参考までに目を通してみてください』とか言って……」

 薬物銃器対策係が、ニューハーフの沼影太郎ぬまかげたろう(48歳)をコカインの所持及び密売容疑で逮捕したのが、4日前。鈴木彩の事件に関する捜査が、事実上の打ち切りとなった前日のことである。家宅捜索の結果、押収された物の中から、コカインを売り渡した顧客に関する簡単な手書きのリストが見つかった。そのコカインを密売した顧客の中に含まれていたのは……鈴木純・彩夫妻、桜田剛、ミハイル・タルコフスキー……海老名たちが目を付けている人物たちの名前が、報告書にズラリと並んでいたのだ。リストにないのは、許明と白幡茂男と和戸尊ぐらい。

 「すげぇな、もしこれが事実なら使えるぞ」海老名は報告書を読みながら言った。「ただ……本当に事実なのかどうか。この客たちの家宅捜索までしたのかどうか。そもそもあの二宮って奴、信用できるのかどうか……罠かもしれない」

 「そうかな? 私が見た感じ、信用できそうな人だと思ったけどな。だって鈴木彩が死亡した結果に納得してないわけでしょ? 当の私たち自身がそれを強く感じてるのに、他の部署でも同じことを考えてる人がいるってことじゃん」

 「別に他の部署だけじゃないよ。ネットで検索してみな。素人の一般人でも同じことを考えてる奴なんて、ウジャウジャいるから」

 あれから3日たち、鈴木彩の事件に関する報道は、巨大な台嵐のように荒れ狂っていたのが嘘のように、微風すらなく静まり返ってしまった。さんざんあおり立てていたテレビや新聞などの大手マスメディアも、彩の捜査結果が公表されると、突然何事もなかったかのように事件報道は消滅。例の事件に言及する声は、大手マスコミからは完全に姿を消した。報道規制が入ったのだろう。

 だがインターネットの世界だけは別だった。大手検索サイトにも圧力がかかったらしく、事件の結果に関する感想は、上位にはなかなかヒットしない。そこで検索ワードを色々と変えてみると、海老名たちが考えているのと同じ意見が、出て来るわ出て来るわ……

 「猫が人間の目玉を取り出して食べた? ありえないよ!」

 「絶対にあれは他殺だよ!」

 「警察の目は節穴か? あ、そうか、猫に食べられたんだっけ? それなら警察に目玉なんてあるわけないか」

 とにかく色々な不満の声が飛び出してくる。どんなに上からマスコミを押さえ付けようとも、市井しせいの人間の声まで封じることはできないようだ。

 「上の人間だって馬鹿じゃない。むしろ俺たちより、ずっと頭がいいはずだ」海老名が言う。「どんなに口を押さえても、汗が出るような小さな穴からでも都合の悪い意見が出て来ることは、わかってるはず。現に上野みたいに、上の奴らは俺たちのやってることに感づいてるわけだからな。だからむしろそれを逆手にとって、俺たちに罠を仕掛けようとする魂胆かもしれない」

 「あの二宮って人、そんな風には見えないんだけどな」と新田。

 「見た目だけで人は判断できないよ。それも大久保課長の子分だからな。あの課長自体が、俺たちの捜査を妨害する力を持ってる組織とつながってる可能性が高いし。とりあえず、まずは二宮って奴と話をしてみないと」


 海老名は薬物銃器対策係のある場所まで行き、自分の席でパソコンのキーを叩き続けている二宮浩明(ひろあき)に近づき、小声で言った。

 「二宮さんだよね? 柔道強いって聞いたんだけど、ちょっと教えてくれないかな?」


 署内の道場では多くの警官たちが柔道や剣道の稽古に励んでいて、大きな掛け声や竹刀の音などで騒々しいほど。その騒々しさにも熱意がこもっていて、その熱意だけで道場内の温度を大きく上げていた。海老名と二宮は別に柔道着に着替えたわけでもなく、お互いスーツ姿のまま道場内に入って来て、他の警官たちの稽古ぶりを眺めている。

 「ここならうるさいから、俺たちが何を話しても聞こえないな」

 道場の片隅に移動しながら、海老名は二宮に話しかける。

 「二宮さん、さっきうちの新田って女の刑事に、これ渡したんだって?」そう言いながら海老名は、上着の内ポケットから例の報告書を取り出した。「読ませてもらったよ。確かに鈴木彩の件が自殺じゃなくて他殺なら、すごく役に立つんだけどさ……二宮さん、鈴木彩の捜査の結果に納得してないの?」

 「もちろんですよ。猫が眼球をえぐり出して食べたとか、ありえませんからね」聞き取れないほど小さな声ではあるが、二宮は海老名の目を見据えて話す。「それに睡眠薬を過剰摂取して自殺したとか……その報告書にもある通り、鈴木彩にはコカインを常用していた可能性があります。違法な薬物の常用者が、ある日突然睡眠薬を飲んで自殺するとか、普通はありえません。ああいうやからは薬物の効果について案外と詳しいですから、自殺するにしても、薬以外の別の方法を取るのが常識です。もし死因が薬物であるとしても、それは自ら飲むのではなく、飲まされたとしか考えられませんよ」

 「なるほど……で、この顧客たちの家宅捜索はやったの?」

 「それが……やろうにもできなかったんですよ。コカインの入手先はわかったから、後は入手先だけに踏み込めばいいって。もっとも入手先も知らぬ存ぜぬの1点張りで、家宅捜索をしても物的証拠は今のところ出て来ませんけどね」

 「なぜ顧客の家宅捜索を出来なかったのかな?」

 「あまり大きな声じゃ言えないんですけど、うちの課長が止めたみたいなんですよ。理由はよくわかりませんが、鈴木彩の名前がある。もう自殺したから、この件で家宅捜索をする必要はない、とか。それで全顧客の家宅捜索もオジャンになって……」

 鈴木夫妻の家宅捜索は海老名たちによって既に行われていたが、コカインを始め、違法な薬物は見つからなかった。ただ鈴木彩は左腕にいくつもの注射痕があることから、違法な薬物に手を染めている可能性がある、ということだけはわかっている。

 「そうか、あの噂の大久保課長が判断しそうなことだな」と海老名は剣道の稽古を見ながら言った。「で、その大久保課長が直々に君を止めたの?」

 「いや、あくまでも、うちの係長の命令でして……」二宮がうつむきながら言う。「うちの係長も、課長の前ではペコペコしてばかりですから。報告書自体を書き直せなんて命令してきましたよ。実は今、海老名さんが持ってるその報告書、ボツになったやつなんです。顧客リストはなかったことにする。顧客の名前も記すなって言われて……ひょっとして、このリストの中に犯人の名前があるのでしょうか?」

 「犯人って言ってもな……鈴木彩は自殺して、殺人事件じゃなくなっちゃったし。こっちとしても、もう終わったことだから。あの件に関しては頭の中から、きれいさっぱり忘れようとしてたとこなんだよ」

 「え? じゃあもう極秘で捜査を続けてるわけでもないんですね? 刑事課の1係の人たち、鈴木彩の捜査結果に納得がいかない、って署長たちにすごく怒ってたって聞きましたよ。もう怒ってないんですか?」

 「いや、今でも怒ってるよ。今でも納得がいかない。でも上からの命令だからな。こればかりは何ともしようがないんだ。組織の中で生きる人間の悲しい宿命でさ。もうここ数日、毎日が泣き寝入り。枕は涙でビチョビチョ。いつになったら、この泉のようにこんこんと湧き続ける涙が止まるんだろうね?」

 「そうなんですか……じゃあ、私がやったことは無駄だったんですね?」二宮は力なく肩を落としながら言った。塩を振りかけたら、そのまま溶けて消えてしまいそうなほど。「それならその報告書、返してもらえないでしょうか? 私がシュレッダーで処理します」

 海老名は二宮に報告書をあっさりと手渡した。既にコピー済みだから、返しても問題なし。

 「悪いね。せっかくではあるけど。でもとにかくありがとう。君の好意には感謝するよ。世の中嫌なことだらけだけど、いずれ君の宝石のような正義感が報われる時が必ず来るさ」


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