8:Amor vincit omnia et nos cedamus amori.
(くそっ……なんて顔をしているんだ、私は)
リフルが逃げ込んだのは荷物を置いていた衣装部屋。そこで鏡に映る自分は今にも泣き出しそうな顔。
不意打ちだった。急にあんな事を、アスカの口から聞くとは思わなかった。
彼の怒りはもっともだ。それでも……あれは彼らしくない。
アスカはよく自分を諫めてくれる。それでも、自分をいつも守ってくれて……この心に踏み込みはするけれど、斬り込みはしない。そういう優しさがあった。だからいつも安心して彼の傍にいられた。
それでも今の彼は、違う。斬り込むことを愉しむようなあの眼。ぞくっと肌に走った寒気があった。よく知っている人物が全く違う人になってしまったような……それはあれと同じ。
(アルジーヌ様……)
お嬢様。彼女の豹変によく似ている。
(アスカも……危ないところまで、来ているのか?)
邪眼に、やられてしまっている。彼女と、同じ。
気が強く多少我が儘だったお嬢様。それでも人を思いやれる優しい少女だったはず。最初からあの日まで、奴隷の自分を人として見てくれた唯一の人。
彼女が彼女の父を……旦那様を殺害するその時まで、彼女は自分を人として想ってくれていた。それが崩れ落ちた。信じていたモノを打ち砕かれたお嬢様は、狂気に染まった。踏み外した。邪眼の淵へと。そこからは……瑠璃椿を道具とし、それを奪われることを頑なに拒んだ。
あの頃は、それでも良いと思った。必要とされている。道具としてでも、自分は彼女が好きだった。彼女もそう思ってくれている。それなら、あの日……あの場所で…………全てが終わっても構わなかった。一緒に眠れればよかった。
だから忘れようとした。一緒に眠ろうとした。死ねないのなら、せめて……思い出さないように。同じ場所で瑠璃椿というものを眠らせようとした。
そして心を眠らせて、感情という物を殺して、道具に落ちた。人殺しの道具としてトーラに拾われた。そこからは幾ら人を殺しても何も感じなかった。罪悪感など無かった。それを教えてくれたのはフォースとラハイア。
それでもそこに至るまでの道程。心という物を取り戻してくれたのはアスカだった。それがなければ罪悪感の生じるための心という器も得られなかったのだ。
だからアスカに出会って取り戻したもの、呼び起こされたものはあまりに多い。
(私は……重ねているのか?)
代用品として。彼女にしてやれなかったこと。それをアスカに尽くそうとしようと思う気持ちがあるのだろうか。
「違う……違うっ、そんなことは……そんなことは……」
二人は似ても居ない。
声も、手の大きさも。背の高さも……視線の高さも。髪の色も、眼の色も。
そして何より、二人が自分にくれた言葉。それは全然違う。そこに感じる好意も別のもの。
(本当に、そうかしら?)
不意に聞こえた声に振り返る。誰もいない。あるのは鏡一枚。ああ、それは幻聴だ。鏡に映った自分の姿。鏡の中の自分はそれを責めてくる。だから鏡は嫌いなんだ。
そこに失った片割れを求めるように見つめたこともあったが、何時からか……それは恨み言しか返さなくなった。
死んだ妹姫。死産の彼女。彼女が居ないからこそ、自分は片割れ殺し。だから父にも望まれず、処刑された。もしも自分が女だったら、処刑などされなかった。こんな、毒の身体になることもなかった。父もきっと自分を愛してくれただろう。
たった一つ。自分では選びようもない事象。それが仕組まれている。そうしてこんな所まで転がり落ちてきた。
それでも彼女は自分を責めるだろうか?生きている癖に。生まれることが出来た癖に。私は苦しい。生まれることも出来なかった。生まれながらに死んでいた。いい気味よと、彼女は笑っているのだろうか。
(ねぇ、兄様。生まれるべきは貴方じゃなくて、望まれるべきは私だったとは思わない?)
鏡が語りかける。此方の心を曝くように、そんな幻影の姿を借りて。お前が死ねば良かったんだと彼女は言った。
(だってそうでしょ?お父様も生まれたのが私なら何も思い悩むことはなく、狂うこともなかった!そうすればアスカの両親だって殺されずに済んだのよ?……そうすれば彼が兄様を、いいえ私を怨むことなどなかった!)
今とは違う関係になれていたと彼女は言う。
憎まれることなく、穏やかに笑い合える。邪眼もない。だから普通に接することが出来た。お互いに。それこそ本当に友人になれていたかもしれないと。
でも今はそうじゃない。お前達はそんな関係ではない。
復讐者とその仇。そこに邪眼の好意が働いて、主従関係なんて歪なものに繋ぎ止めているだけだ。
(忘れたっていうの?貴方は人殺しなのよ兄様!死んでいた貴方のために、どれだけの血が流れたと思うの?アスカがセネトレアまで逃げるまで、盾となって死んだ人間が!幾らいると思うの!?ねぇ兄様っ!)
「や、止めてくれっ!」
(そうやってまた逃げるの?いつも兄様はそう!さっきもそう!)
思わず叫んでしまった。その言葉にも容赦なく妹は斬りかかる。
(貴方はアスカに怨まれているのよ。憎まれているのよ!兄様が父様をまだ心のどこかで憎んでいるのと同じようにねっ!!)
また踏み込まれた。その傷口が鋭い痛みに泣き出した。
否定できない。自分はそうある心を否定できない。それなら彼も同じ事。
リフルはそれを否定できない。
「違う、私は後悔なんかしていない!私は毒を得たからこそ……奴隷になったからこそ、多くを知り、多くを学んだ!唯王位を得ただけの私は、父様と同じだ!いつか狂って、民を虐げるような傲慢な王になっていた!」
そんな傲慢なのもになるくらいなら、今の方がずっといい。奪うより、奪われる者でありたい。王とは奪うものではない。与え守る者。そうではないのか?いや、そうであるべきだ。それこそが王の姿。
地位も身分も民もなくとも、心だけは王としての誇りを抱いていたい。例えこの手が、この身が汚れていても。
(それの何が悪いの?だって王だもの!王はそれが許される!傲慢であることこそ誇り!王とはそういう職業!そういう生き物なのよ?)
そう思うのに、片割れはそんな心をも嘲笑う。
(兄様はお嬢様の時みたいに死なせてしまうのが怖いだけよ。それを恋とまで認めた感情の相手を無くしてしまうのが嫌なのよ!そうなったとき、それを抱え込んだ兄様の心も壊れてしまうから!だから誰も好きにならないようにしているんでしょう?)
(リアやトーラに。感謝する時。或いは彼女たちの傍にいるとき。貴方はそれを友情だと言っているけれど、それは本当にそう?大事に思っているんでしょう?もっと多くを望む欲だって貴方の中にはあるのだわ!)
「ち、違う!」
(へぇ。それなら兄様は女の子がお嫌い?それじゃああの聖十字の子とか?お気に入りよね、ラハイアって言ったかしら?それともあの懐いてくる可愛いフォース?それともあの執着心と独占欲の塊のいかれ騎士のアスカ?)
「な、何故そうなるっ!?」
(ああ、洛叉もいたわね。昨日迫られたとき満更でもなかったんでしょ?だって、兄様は淫乱だもの)
幻覚だ。幻聴だ。そう言い聞かせるのに声は消えない。自分が浮かべたこともないような笑みでそれは笑っている。
(女の子相手じゃ毒もあるし何にも出来ないからねぇ……欲を沈めてくれる相手なら誰でも良いんじゃないの?腐れ標的の豚共相手にしてても本当は襲われたがってるんでしょ?全部終わった後に殺したいとか思ってるんでしょ?口では嫌々言いながら、植え付けられた火は消せないものね。嗚呼、情けないわね兄様!殿方の癖に、鞘にでもなるおつもりなの?嗚呼、ロングソードでもダガーでもレイピアでもエストックでもグラディウスでも構わないっ!誰か私を貫いてっ!そんな事ばかり考えているんじゃなくて?豚は貴方ねお兄様!いえ、兄様なんかと比べられるなんて豚が可哀想だわ。豚に失礼かしらね?)
「だ、黙れっ!」
(傍にいるだけで?話をしているだけで満足!?嗤わせないで!ねぇ、兄様。どんなにお綺麗な顔で取り繕ったところで、貴方も所詮は人間なのよ。幼い貴方を襲った肉の欲に溺れた人間達と同じ生き物!それが貴方の正体よ。あぁ、気持ち悪い!汚らわしい!私と同じ顔で私の前に立たないでくださる?)
「違う………私は……人間は、……それだけの生き物じゃない!」
(そんなものは幻想よ)
そう告げた後声は高らかに笑い、そして何も聞こえなくなる。鏡に残されたのは酷く脅えたような自分の姿。口から吐き出す息が震えている。ガタガタと身体が震えているのが解る。
(そうだ、洛叉が昨日……)
言っていた。硝子が邪眼の力を和らげる。跳ね返すのが鏡なら……直視してはいけない。
術者自身が邪眼に掛からないということはない。効果は薄いが自分にも掛かる。だから鏡を見ると妙な気分になる。毒人間が自分の毒で死ぬことはない。だから触れても平気。死ぬことはない。それでもそれはまるで、彼女の言葉に屈するようだ。
それを認めるわけにはいかず、鏡に布をかぶせて封印。後は深呼吸。気を静め、妙な気持ちを振り払う。
邪眼はリフル自身の感情に左右される。怒りによって効果が増幅されることは解っている。
それでもさっき、自分は怒っていたわけではない。どちらかと言えば……そう、悲しかった。
(悲しみにも、影響を受けるのか……)
悲しいこと。それはこれまで数多くあったけれど、邪眼が自身に悪影響を与えるような暴走をしたのは初めてか。
「そうか、私は……悲しかったのか」
アスカを変えてしまったこと。彼を狂わせて、苦しめていること。
「私は私に……嘘を吐いていたんだな」
願いがないなんて、言うのは嘘だ。どうしようもならないことは、あった。
それこそ奇跡でも起きない限り、どうしようもないことがある。
邪眼の狂気から彼を救う方法はどこにもない。神にでも縋らなければないのだ。
(でも……その願いのために、アスカを殺さなければならないなんて………それじゃあ、何の意味もないじゃないか)
「アスカ……」
昔みたいに。二年前みたいに。あの頃の彼に会いたい。
ぶっきらぼうだけど優しくて……明るく笑っていた彼。
彼の傍で一緒に請負組織をして、人助けをして……そんな風に生きて行けたら、それはどんなに素晴らしい毎日だろう。
瑠璃椿という名前と過去にリフルが焦がれるのは、アスカが変わってしまったからだ。
彼の視野はもっと広かったはず。もっと多くの人を助けられる、そんな優しい人だった。それを自分一人だけしか見えないような人間に落としてしまったのは……
(それは、私じゃないか……)
どうすればいい?どうしたらいい?
どうすればあの頃の彼に戻ってくれる?戻せるんだ?
神ではそれを叶えられない。そのためにアスカを、トーラを殺す事なんて出来ない。
彼のためなら。彼を思うなら。出会ってはいけなかったのだ。
再開したことが間違いなのではない。そもそも、出会ったことが誤りだった。彼にとっての人生最大の汚点こそが、この私。そうに違いない。
それによって私が救われたのだとしても、救われるのだとしても……私は彼に出会ってはならなかった。救われることなく癒されることなくずっとあの絶望の底を藻掻き苦しみ死ぬまで生きる。そうやって生きていくべきだったのだ。それが人殺しの報い。
人を殺めた人間が、救われることなどあってはならないことだった。だから、これは救われてしまった私に対する報い。世界の復讐。
(………………酷い、顔だな)
鏡はもう何も言わない。幾分落ち着いたのだろう。それでもそこに映る自分の姿は頼りなく、情けない。
「……さっさと着替えを済ませるか」
首を振って雑念を振り払う。今すべきことは……考えることは仕事のこと。
昨日のうちにトーラから渡されていた仕事用の衣装。今日の仕事はアスカの手が必要だった。それは確かだ。
変装というのは確かに良い。さっきの今だ。どんな顔をして彼の所へ行けばいいのか解らなくとも、衣装を変えれば気分も変わる。
名前狩りの対象は、カーネフェル人の女性が多い。それは人口比率によるものだろうことは知れているが、変装するのも必然的にそれになる。
長い金色の髪。青色の色硝子を眼に嵌めて……鏡を見ればそこにはもう片割れは居ない。
(金髪の……青眼か。母様……)
アスカや洛叉……母と自分はよく似ていると、彼女を知る者から言われることは多い。それでもそれは果たしてそうなのだろうか?処刑される前。何度かは顔を合わせたことがあるはずの母親。
……彼女の顔を、未だに思い出せずにいる。自分の中に、そのヒントが隠されているのだろうか。思い出そうと見つめるも、答えはあまりに漠然としていて容易くは見つけられない。
「母様……か」
アスカが語る母は何処までも綺麗な人。彼は彼女がどんなに素晴らしかったかを本当に嬉しそうに誇らし気に語るのだ。慈しみ深い聖女か何かのように。
それでも洛叉が語る母は、唯の女だ。娘であり母である、唯の女だ。
毒に狂い、別れた人格。唯の少女である彼女には、わからない。いつの間にか結婚させられていて、見知らぬ男との間に子供までいる。それを受け入れられず、憎く思う。だから時折、分量以上の毒を盛るのだ。抗体を付けさせるためじゃない。殺すつもりで、毒を盛るのだ。
母としての彼女はアスカの言うよう、自分を愛していてくれたのかもしれない。それでも、それが彼女の全てではないのだ。
毒人間となって生き延びたのは、そんな母の愛と憎しみ。そのどちらもがあっての奇跡。おそらくそのどちらかでは、神がいくら仕組んだとしても今ここに自分はいなかったのだろう。そんな気がする。
(しかし……この仮名はいくらなんでも)
トーラに託されたメモに目を留め、リフルは重い溜息を吐く。
*
着替えて下の階へと降りるとそこにはもうアスカが居た。言葉を選ぶように苦しげな表情で振り向いた彼が、途端に呆気にとられたような顔。
それはそうだろう。彼は金髪青眼に眼がない男だ。おまけにリフルの母のマリー姫に入れ込んでいる。彼女との約束のために今まで生きてきたような男だ。
しかしそんな男が何か言うより早く駆け寄ってきたのはリアだ。何故だかそれに癒された。
「おはよリフル!うわ!何それ何それ!すごくいい!ちょっと今度その服でデサらせてよ!」
「デサる?」
「デッサンさせて♪の略」
「ああ……」
本当に彼女の明るさには救われる。救われている。自分もそんな彼女のために何かをしたい。彼女を名前狩りから守るのが、せめてもの……恩返しだと思う。
彼女が安全に、気楽に絵描きを続けられるように……その脅威を排除したい。そう思うのだ。
「それで?お前は何を俯いて居るんだアスカ」
「いや、その……」
さっきまでのやりとりで感じたこと。それは此方が引いては行けない。此方から押していかなければ、彼をまた邪眼の狂気に落としてしまう。
気弱になってはいけない。引け腰になっても行けない。奴隷だった頃みたいな態度を取れば、彼の狂気を増幅させてしまう。あまり乗り気はしないが、こちらが踏ん反り返って主らしく振る舞うこと。それが彼を平常に保つ方法だろう。そう思い試したが、思いの外上手くいっているようだ。
眼の色を変えているから邪眼の効力も弱まっている。感情が爆発しない限り、邪眼が引き起こされることもないはず。
見上げた視線の先で彼は何やら複雑そうな顔。顔は僅かに赤みがかっている。
「……似合ってるよ」
リアのすぐ後に言えば簡単だったろうに、間を空けてしまったからとても言い辛そうに彼は言う。周りの者もその間のせいでツッコミ難い空気を感じているようで何も言えない。
「お前は本当に金髪青眼に弱いんだな」
だから此方がからかうように笑ってやると、ほら彼はいつも通り。
「なっ……何だと!?別に俺はそういうわけじゃなくてだな」
「へぇ、それじゃあどういうわけなのかしら?」
「誤解だディジット!俺は別に外見色でディジットを口説いてたわけじゃなくて」
「へぇ、お兄さんってそれじゃあ私も好みとか?」
「いや、君は俺のストライクゾーンとは真逆系列」
「あはははは!正直で面白い人だねアスカさんって。ね?リフル」
ディジットとリアが便乗してくれたことで、空気が緩む。本当に彼女たちには助けられている。自分一人ではこうはいかない。
「そうか?アスカはひねくれ者だぞ。なぁ、ディジット?」
「そうよね、騙されちゃ駄目よー。アスカは外面と内面全然違うんだから」
「そんなに俺を貶して楽しいか?」
「ああ」
「ええ」
「「とっても」」
ディジットと顔を見合わせ笑うとアスカががっくり項垂れる。
「こらアスカ、落ち込んでいる暇はないぞ。今日は一日私の仕事に付き合って貰うんだからな」
「へいへい」
「昨日は私とトーラが偽名で呼び合って歩いていたが、流石に無理があったように思う。名前狩り候補者が二人も同じ場所で歩いているというのは不自然だ」
「まぁ、そうかもな」
そんな不自然が服を着て歩いているような状況で犯人が現れるはずもない。だから今日はその違和感を消すためにもトーラとは別行動というのは昨日の内から決めていた。
「そこで、だ。今日はお前が私の連れとして私の偽名を呼びまくれ」
「へいへい。で?なんて呼べばいいんだ?マリアか?リアか?メアリーか?」
「マリー……そう呼べ」
「はいぃいいいっ!?」
「何か不都合でも?」
「い、いや……ねぇけど」
「私にもお前にも身近な名だろう?お前なら間違えて呼ぶこともないだろうし、私も反応に遅れることはないはずだ」
「まぁ……そうだけどよ」
(……こいつ、そんなに母様のことを……?)
ここまで狼狽えるアスカ。そうさせるのはマリーという名前。それはとても変な話だ。
いくら尊敬する女性とはいえ……神聖視する相手とはいえ……それはここまでなるものか?父親の仕えた姫。アスカと彼女の関係は、唯それだけだ。それだけで、ここまで心を占められるものなのか?
アスカから、アスカの母親の話を聞くことはあまりない。父の話と、……一緒に出てくるのはいつもマリーと言う名前。早くに母親を亡くしたのか?それで母親代わりでマリーを慕った?
(いや、違う)
確かアスカは言っていた。父と母は狂王……タロック王に殺されたのだと。
それならば、アスカがリフルの棺をつれて逃げる寸前まで、アスカの母は生きていたはず。
それなのにアスカは母を語らない。
(……母が、嫌いだった?)
そんな風にも見えない。けれどマリーという女の陰に隠れて、アスカの母の名前が消える。一度だって、リフルは彼の母の名前を聞いたことなどなかった。
それを聞いてみたい衝動に駆られて……それでもそれを躊躇わせるのは、さっきのアスカだ。何が切っ掛けで彼の狂気の糸口に触れてしまうかわからない。踏み込むのが、怖い。
それなら……やはり疑問は疑問のまま、胸に留める。
「……んじゃ、行くぜ。マリー……」
「ええ」
「…………なんか違和感あるなー」
「失礼な。というか私は仕事で時折女言葉を使うではないか」
「いや、まぁ……だな。そういや俺はアスカのままでいいのか?」
「別に問題ないんじゃないか?名前狩りの対象になるのは女の方だけだ。連れがどんな名を名乗ろうが犯人には毛ほども興味がないだろう」
アスカの言葉にそう返すが、彼はまだ煮え切らない態度。
「それとも呼んで欲しい名でもあるのか?」
思い付きでそう尋ねると、アスカは瞳を見開いて……言葉を失う。
「アスカ?」
「い、いや……何でもねぇ。ほら、行くぞ」
その名を呼べば我に返ったように、言葉を発し……くるりと背中を向けて足を急がせる。
足の長さが違う。置いて行かれてしまう。背中に掛かるディジットとリアの見送りの言葉に手を振って、慌ただしくそれを追えば足音が耳に届いたのだろう。思い出したようにアスカは足を遅らせた。
*
これはなんという拷問だろう。
自分の横には可愛らしい少女の姿。長く綺麗に輝く金髪。深い青の瞳。清楚で可憐なお姫様。完璧にストライクど真ん中。理想が服を着て歩いているようなものだ。
それと恋人の振りをして街を歩けと言うのだから拷問だ。
(俺は何を血迷ったことをっ!こいつはリフルだぞ!?俺の主っ!俺の異父弟っ!!)
弟、弟。そうだ、弟は妹じゃない。男だ。いくら可愛くてもこれは男だ。
(いや、ちょっと待て。それ以前に妹でも手ぇ出しちゃ駄目だろうが何考えてんだ俺ぇええええええええええええええええええええええええええ)
「…………アスカ?」
「な、何だ?」
「いや、突然頭を壁に叩き付けたり、頭で瓦礫をかち割ったりと……さっきから様子がおかしいが大丈夫か?」
此方を案じるような姿がまた健気だ。思わず感極まって泣きそうになるが、その言葉に我に返った。
(ていうか俺はそんなことをしていたのか……)
通りで。先程から頭が痛むし視界が何だか赤いような気はしていたんだ。
「なんならその辺で休んでいくか?」
様子のおかしいアスカを案じ、リフルが視線を向けた先……釣られるようにアスカも其方を向く。
「ご、ご休憩……一時間三千シェル……!?」
「あそこは日陰もあるし休むには丁度いいだろう。私が注文してくる。何か飲みたいものはあるか?」
「あ、ああ……あっちの喫茶店な」
いかがわしい宿の隣には良い感じのカフェテラス。セネトレア王都は伊達じゃない。こんな不釣り合いな店が隣接していることなどザラにある。
しかし話の流れ的に他に何と間違える要素があるというのだと尋ねられ、返答に困った。
「……本当に大丈夫か?血管でも切ったのか?鼻血が凄いぞ?……やはり横になれるところの方が良いか?」
視線を隣へと移す主の肩を押さえて必死に抵抗。
「余計悪化しそうなんで、ほんと勘弁してくれ……マリー。俺はコーヒー……アイスの方で頼む」
「解った」
注文を頼めば、リフルは小さな微笑を残してぱたぱたと店内へ駆けていく。通りを見渡せる席の確保をし、アスカは机に顔を沈める。
瑠璃椿と出会ったはあそこまで表情の変化がなかったから解らなかった。だから綺麗だなとは思っても可愛いなとは思うことはそんなになかった。
それが今ではどうしたことか。一つの動作、一つの表情に動揺する自分が居る。それは彼が人間らしさを取り戻した証であり、惹かれる要素が増えたと言うことなのだろうか。
以前は本当にあの処刑の日からずっと……彼の外側しか見ていなかったのだなと思い知る。その外に彼の内側からの成長……心が表されるようになった。だからその成長を愛おしく思う心が生じるのだろうか。
(い、いや何だそれは。落ち着け俺!俺にはそっちの気はねぇ!断じてねぇ!……ねぇはず!くそっ……恐るべし魅了邪眼っ!恐るべし変装!恐るべしあいつの女装スキルっ!)
そうだ。それだけではない。それだけではないはずだ。
確かに金髪青眼はタイプだ。それでもそれだけではない。
(母さん……マリー様……)
リフルはマリー姫によく似ている。だからそれを重ねてしまっているのだ。
自分と父は女の好みがよく似ているのだろう。だから母にそっくりな顔で、あんな色を纏った姿をされれば多少ときめいても仕方がない。こればっかりは不可抗力だ。
そしてそれを愛おしく思う心は……母への未練だ。
呼んで貰いたいのは、名前だ。彼女の口から、彼女の声で、俺の名前を呼んで欲しい。呼ばせて欲しい。母さん、と。
あんなにそっくりなんだ。呼んで欲しい。呼ばせて欲しい。
だけど言えない。言えるものか。そう言ったなら……知られてしまう。マリーという女性と自分の関係。そして、自分と彼との関係を。
口から漏れる溜息が苦しい。それは母と呼べなかった言葉が無音で外に発せられたものだから。
(恋って何だ?難しいぜ、親父……)
それは他人を、誰かを好きになること。そのはずのこと。
人の心とか性格とか内面とか。そういうものを愛おしく思うこと。それは別に恋なんかじゃなくてもあることだ。
主のこともそうだし、ディジットのことだって……元は彼女の人を差別しない懐のでかさに惚れたのだ。それに外見の色がプラスされていいなと更に強く思ったのは間違いない。
それならそれについて回るのは外見?確かに今まで自分がいいなと思った相手はみんな母と同じ色を持つ女性だ。だとしたら恋というものは、人の外側だけを測る言葉なのか?
それなら結局の所人間なんて生き物、狭い輪の中でしか生きられないものなんじゃないか?
母に似た相手を愛しく思う。それは母への未練。身代わりとしての愛。それが恋というものならば、人の欲はなんと醜いものなのか。結局の所相手のことなんかどうでもいい。自分の寂しさを癒し慰めてくれればそれでいい。
相手を知りたいとも思わない。いつも、自分が……自分が。相手を優先などしない。押しつけ、奪う。それが恋。受け入れ与えるものではない。そんな傲った欲が恋だというのか。
(親父はよく……マリー様を好きになれたな)
そして変わらずよく好きでいられたものだ。
(俺はわかんねぇ……)
親父とマリー様は国と国の平和を選んだ。そのために自分たちを犠牲にした。俺を無かったことにした。俺を犠牲にした。そしてまた主と騎士に戻った。
それでも親父が最後に選んだのは、マリー様だった。マリー様のために、その恋のために死んだんだ。
断言できる。あれは忠誠心などではなかった。
父は、国より家族である……俺より彼女を選んだ。父としてではなく一人の男として、つまりはマリー様の恋人として死にに行ったんだ。子供への愛情よりも、一人の女のための想いが勝った。だから生きて帰ってこいと見送ったアスカを見捨て、そのまま死んでしまった。父を狂わせた要因。それが恋。人に誤った判断を下させる病の力。
(それってそんなに大事なことなのか?……命を賭けるに値するようなものなのか?)
父と自分。それを比べてみてもアスカにはわからない。
多少いいなと思う女が居ても、命を賭けられるかと言われれば困る。傍にいれば守ることはするかも知れない。殺されれば少しは悲しいし起こるかも知れない。でも、それだけだ。
生きる意味になどなれないのだ。たかだか恋なんか。
それを失ったら生きていけない。そう思うのは、彼だけだ。でもそれは、恋なんかではない。
(あいつは俺に……何か見つけろって言うけどなー……)
見つけられる気がしない。代わりなんて居ないのだ。もしかしたら……既に代わりにしているのかも知れないけれど。
あんなに大切な彼にでさえ、半分くらい母への未練を重ねているのだ。残りの半分は彼自身への思いでも。
彼でも完全に彼として見ることが出来ていないのに、全く他の人間を他人を他人として認識し、認め……それでもそれを丸ごと愛する事なんて、出来るのだろうか。
「……無理だろ、そんなの」
大事な、何よりも誰よりも大事な彼の中に……母を見ている。
記憶の中の彼女はこれよりもっと年上だったけれど、この位の年頃の頃はきっとこんな姿だったのだろう。それを信じさせてくれる在りしの母。ついうっかり母さんと呼びそうになるのを何度堪えたことだろう。
どっちにしろ、何時まで保つかも解らない命だ。神の審判。何時死んでもおかしくない、ゲームの駒に選ばれた。そんな明日も知れぬ身で、わざわざ面倒臭い恋など探す意味がわからない。そんなもの無くとも人は生きて、死んでいける。
自分には主一人いればそれが成る。世界は成立してしまうのだ。自分の偏狭さと単純さにアスカは再び溜息。その際顔を上げれば、疑問も浮かぶ。
「それにしても、おせーなあいつ…………」
混んでいるのだろうか?視線を店内の方へと向けるが……彼の姿が見あたらない。
がばと身を起こし辺りを見回すが、それらしい人物は何処にも居ない。
「しまった!!」
俺としたことが!!油断した!アスカは己の失態を知り舌打ち。
カーネフェル人の女は狙われない。それはどこにでも大勢いるから。奴隷として、商品としての価値がない。
それでも物凄く人目を引くような外見なら話は別だし、第一今……あいつはマリー。名前狩りの対象者!!