7:Qui parcit malis, nocet bonis.
「おい、そろそろ起きろ。もう八時に……」
何だかんだで夜遅くまで出かけていた。だから眠いのだろう。なかなか起きてこないリフルをそのまま残してアスカは朝食へ向かった。ディジットに取り置きを頼みながら帰ってきても、まだ相方の布団は膨らんでいる。
夏場だというのに暑くないのか布団を頭から被っている主は、惰眠を貪り朝を拒み続ける。
「リフル、今日も仕事だろ?」
これでまた被害者が出れば、辛い思いをするのはこいつだ。だからこそここは心を鬼にしてでも叩き起こすべきだろう。
意を決し布団を引っぺがしはぎ取ろうとするも、布団にしがみついているのか上手くはがれない。頭から肩口くらいまでが現れただけだった。
その寝顔を見た瞬間、それが昨晩の不思議な夢?が重なり出した。眠っているのか死んでいるのかわからない。
そう思った途端に、起こすことが怖くなる。まさかそんなはずはない。それでももう星は振った。トーラの告げた日になった。どうしてもその審判という舞台に担ぎ込みたかったらしい数字操る神とやらに、無理矢理死なない幸運を与えられていたリフルも、もう唯の人。死んでしまう人間だ。
俺が朝食に行った隙に何者かに殺されてしまったとかそんなことがもしあったなら……そう思うとアスカの手は昨晩のようにがたがた震え出す。
確認するのが怖い。目の前で彼が勝手に起き出してはくれないものか。
「うん、アスカ君の不安な気持ちは僕も解るよ。二年前まで僕はずっとそんな不安の中にいたんだから」
何やら声がする。何処からだろう。見れば布団の中から此方を覗く光る金の目玉があった。
もぞもぞとそこから頭だけを出した金髪の少女。いつもの赤頭巾じゃない。可愛らしい寝間着姿だ。それでもそれを認めることは出来ない。
なぜならこいつは不法侵入者だからだ。昨日の晩はこんな奴はこの部屋には居なかった。戸締まりもしっかりした。昨日も今朝もだ。
言いたいことは本当に山ほどあるが、さしあたってどこからツッコミを入れるべきだろう?
「そうだね。ここは眠り王子を起こすため、元セネトレア王女の僕がキスをしてみるということでどうだろう。壺涙もいいけどさ、手っ取り早く配役逆でもいいんじゃないかな。お伽話と現在じゃ世界情勢も変わってきたしね」
「この不法侵入者!何時の間に俺の部屋に入りやがった!つか寝言は寝て言え虎娘。第一そんなことすれば毒が……」
「フォース君の一件から僕も反省して影ながら解毒数式の開発に勤しんだからね。データベース上の毒物を解析しまくって、その高速検出数式を編み出してそこからデータのない創作毒を分解、無効化してやるっていう凄い式だよ。改良の結果、ゼクヴェンツ以外の毒ならあらかた解毒可能になったしいけるいける。いや、仮に死んでも僕は本望」
「……そこまでしてこいつとやりてぇか?」
「そりゃ勿論!僕はリーちゃん大好きだもん!まぁ、僕は寝込みを襲うような趣味はないけどね」
「呼んでもねぇのに不法侵入で同衾しといて寝込み襲った内に入らないって?」
「寝顔見つめてただけじゃない。大体それが寝込み襲った内に入るなら幼少のアスカ君なんか毎日朝這いしてたようなものだよ」
「なっ……なんでそうなるっ!つか何処情報だそれ!」
「情報屋をあまり舐めるものじゃないよアスカ君」
騒ぎが聞こえていたのか、リフルがむにゃむにゃと何やら発した。それでも起き上がる気配はない。
「アスカ、朝から五月蠅い……」
「こら!そこで二度寝すんなお前は……」
「私は夜型だと何度言えば……」
「今日は仕事だったろ!?」
仕事の二文字を聞いた途端すぐさま覚醒。勢いよく身体を起こした。
その際目に入った夜這いだか朝這いだか不明な知人に声を掛ける愛想の良さ、心の広さ。流石は俺の主をやってるだけのことはある。
「っ!そうだった!ありがとうアスカ。……トーラ、来てたのか。早起きだな」
「一刻も早くリーちゃんに会いたくて朝の四時からスタンバってました、隣で」
「そうか。眠れたか?」
「全然だよー。リーちゃんの寝顔が可愛くて僕不眠。過労死するかと思った」
「なぁ、何平然とこの犯罪者受け入れてるんだ?未遂とはいえ夜這いしかけたんだぞこいつは」
「嫌だなアスカ君、目覚めを襲おうとしたんだから朝這いだよ」
「まぁ、よくあることだ。気にするな」
「気にするわっ!」
「基本的に害はない。トーラは基本言うに留める」
実際よくあることだったらしく、トーラと仕事をする一年半の共犯生活の間にすっかり慣れてしまったようだ。小さく欠伸をしているリフルは気に留めることでもないと言わんばかりの表情だ。
そんなつれない態度の相方に、トーラはと言えば何故かうっとりしてる。
「愛しのリーちゃんの寝顔を見つめるだけに留めるなんて。嗚呼、僕ってばとっても健気」
「そうだな。その画像ファイルの束を処分してくれるならもっと健気だと思う」
「おい虎娘、俺が処分してやるから寄越せ。燃やしてやる」
「そう言って拝借するんでしょ?わかってるんだから。欲しいんなら分けてあげるよ?僕とアスカ君の仲じゃない」
「どんな仲だってんだ」
「え?嫁と舅に決まって……むごっふがっ!」
アスカは反射的に、余計なことを言い出したトーラの口を両手で押さえ込む。
「誰が舅だ!」
「ふぉれふぁあ、ふゅうほへほほふふぁふぉはっは?ふぉふぇほふぉ、ふぉひぃふぁんふぉへふぉ(それじゃあ姑の方が良かった?それともお義兄さん)?」
「てめぇの口、このまま伸ばして目の所まで引き裂いてやろうか……?」
こっちが秘密にしていることを平然とバラそうとしている情報屋のその口の端を、両手でぐいぐい引っ張ってやる。
聞き取れない言葉とはいえ、それが漏らされているというのにも気付かず、弟はやはり眠たそうに目を擦りながら小さく欠伸。
「本当に朝から元気なことだ……一体どんな生活をすればそんな風になれるんだろうな」
何だかんだでお前ら仲良いよなと言わんばかりの生暖かい視線が此方に向けられていた。
それが名誉毀損レベルの屈辱かつ、誤解だと言うのはトーラとアスカの双方で合意。
「嫌ぁああああああああああ!リーちゃん!そんな目で僕を見ないでっ!僕アスカ君とくっつく位なら鶸ちゃんと百合世界にトリップした方が万倍マシっ!」
「はっ、そんなの俺だって。お前とくっつく位なら……」
「くらいなら?」
トーラから返された言葉に、はっと我に返った。売り言葉に買い言葉。我に返らなければとんでもないことを言い出すところだった。
その視線一つで全てを察したトーラがどす黒い迫力を漂わせた満面の笑みをアスカへ向ける。
「………………アスカ君、ちょっと面貸してよ。うん、校舎裏とか屋上とかでもいいから」
「コーシャウラ?」
「ああ、今の時代なら路地裏でもいいや。さぁ、行こうか。ていうか逝こうか。今日から君も殺せるわけだし」
「そのことについてだが、トーラ……話して貰えるか?」
仕事以外では絶対に外さない手袋を外し、白い素肌を外気に晒す。そこに刻まれたカードの証。惜しげもなく平然と晒されたそれにトーラが毒気を抜かれたように息を吐く。
「あのね、リーちゃん……そりゃあ僕は君がそのカードになるってのは予言してたけどさ、だからってそう簡単にそれは見せて良い物じゃないんだよ?」
「お前だから見せているんだ」
「はぁ……リーちゃんってば本当タラシなんだねぇ。最近自覚ある分質悪いー……」
「ああ、それには俺も同意する」
その自覚があるんだかないんだかいまいち不明瞭なタラシ以外の人間二人で溜息を吐き合う。トーラの方は若干頬が赤い。演技でもなくこんな表情を見せるとは珍しい。
「この件終わったらやっぱ一緒に飲み行こうかアスカ君。語り明かそうよ」
「ははは、考えといてやる。って誤解すんなよリフル!?別にそういうのじゃないからな!」
「……はっ、もしやリーちゃん……僕にジェラシー?いや、モテる女は辛いねぇ。僕ってばなんて罪な女の子!でも僕の本命はリーちゃんだけだから安心して!アスカ君なんかそこらの塵屑以下だよ僕の中では!」
「そ、そこまで俺を貶めるか虎娘……」
アスカをズタボロのボロクソに言うことで落ち着きを取り戻したらしいトーラ。こほんと咳払い一つで話を区切る。
「でも気をつけてよね。それはカードにとっては命みたいなものなんだ。カードを見せるって事は急所の位置を相手に教えるようなものなんだからさ」
そう言って、トーラも自分のカードを明かす。その言葉の後にこれとは……信用してくれているということなのかもしれない。少なくともリフルのことは。
「僕はこれ」
「……俺らと模様が違うな。これはダイヤか?」
手の甲にはダイヤのような菱形の赤い紋章。
「うん。僕はセネトレア出身だし、商いをしている身だからね。ダイヤが発現したのも頷ける。君たちがスペードなのは出身がタロックみたいなもんだし、戦いが仕事みたいなものでしょ?アスカ君は騎士だしリーちゃんも暗殺者だし」
「つまりカードのスートは、出身国や職業という要因に定められるものなのか」
「うん、概ねそうだよ」
リフルの言葉に頷くトーラ。
「んじゃ、この数字は何なんだ?」
「へぇ、アスカ君はⅨか……!そこそこいいカードじゃない!コートカードには及ばないけど」
アスカが掌をトーラに見せれば、彼女が感嘆の声をあげる。
「僕はⅤ。思ったより上の方で吃驚したよ。まぁ僕は社会的地位もあるし資産もあるし、混血の中じゃ報われている方なのかもしれないな。基本的に数字って言うのは、社会的地位とか身分が上の方ほど上位カード。君たちはまぁ……元の身分が貴族とか王族でもほら、今は戸籍にも載っていないような破落戸だから……」
「まぁ、暗殺者だしな」
「そうだな」
トーラは混血とはいえ大組織の長。対する自分たちは犯罪者。裏町の破落戸に、社会的地位などあるはずもない。数字の割り振り基準を聞いて納得したところでトーラが話を再開させる。
「以前僕が君たちに復讐を持ちかけたことを覚えている?」
「ああ」
頷くリフルにトーラは告げる。
「この審判では下位カードほど強い。だからKのリーちゃんは、最強のカードと言っても過言じゃない。だから上位カードに選ばれているだろうタロック王や刹那姫を殺すことが出来る。その幸運が与えられている。そういうことなんだ」
復讐という言葉を聞かせられても、リフルの様子は一見何も変わらない。それでも一瞬、彼の目に浮かんだ色は憎しみの色。そんな主を見ていると、アスカもなんとも言えない気分になった。
いくら言葉で自分を諫めても、完全にそれを殺せるわけではないのだ。それはおそらく、自分も彼も。
「これは一つの革命。リーちゃんは昔言っていたよね、戦争はしたくないって。王にはなりたくないって……そうすることで多くの人の命を奪うこと、奪われることを認めたくはない。だから暗殺者の道を選んだ」
失敗しても死ぬのは自分だけ。裁かれるのも自分だけ。本当に王らしくないこの王は、これまで民を持つことさえしなかった。
「普通はさ、たった一人で乗り込んだところでうまくいかないだろうね。まず乗り込むまでの道程が困難。その上、運良く殺すに至ったとしてもそこから逃げ出すことは不可能」
なるほどな。そう思う。
審判が始まるまでリフルは死ねない。既にカードとして選ばれていたから、あり得ない幸運が何度も死から彼を掬い上げた。
だからといってそこで彼がタロック王の暗殺へ向かっても殺せない。それは既にタロック王もそれに選ばれているとトーラが告げたから。だからリフルが1人でタロックに乗り込むことはこの二年間無かったのだ。期を待てと言われたように、一歩一歩その外堀を埋める。
「それでもこの審判が始まれば、王族を殺すための勝率が上がるんだ。上のカードほど弱い。城にいる王族、貴族なんてみんな上位カード。王達はまず選ばれている。リーちゃんの相手にもならない。お世辞にも強いと言えないリーちゃんでも、運が味方する。だから君は殺すことが出来る。タロック王も、刹那姫も……」
上の人間を殺めることで、国を世界を変えることが出来る。これは革命のための切り札。
戦争で傷つくのは民達ばかり。それでもこれは違う。カードだけで殺し合えばいい。必要最低限の犠牲で何かを為すことが出来る。その大きな可能性。
「何万とか何千という軍を持たなくとも、たった数人で乗り込んでも……タロック王の暗殺に成功する。そしてそこから生きて帰ることだって不可能じゃない」
その言葉の時だけはリフルではなくアスカの方を見てトーラは語る。
わかってるじゃないか。そう思いアスカは苦笑。
性格的にリフルは単身で乗り込み、暗殺に行く方を好む。自分の命と引き替えにタロック王を殺せるのなら、……簡単にそれを選ぶ。無事に生きて帰るつもりなどない。
タロック王を殺せばそこでこいつの目的は終わる。後は罪を償うだけ。
それでもそれを君は認められるの?受け入れられるの?トーラはそう問いかけている。
僕には出来ない。君もそうなんでしょ?リーちゃんを死なせたくなんかないんでしょ?トーラはそう言っているのだ。
(ああ、そうだ。そんなのは御免だ)
「……聞かせろよ」
アスカの言葉にトーラは頷く。
「あの詩の僕なりの解釈なんだけど、カードは基本的に下位ほど強い。他のゲームなんかと違うのは、Aについて。普通はさ、エースカードってそこそこ強い役回りを任せられていることが多いよね?それでもあの詩からはAが最弱だっていうのが読み取れる」
「でも“世界を操る愚者へと向かう”っていうのがあったよね。つまりこのAっていうにはその愚者というカードを殺すことが許されている」
「だが、そんなカード……トランプにあったか?」
「…………道化師?」
「そう、正解だよリーちゃん」
あの時はそれどころじゃなかったから話半分に聞いていた詩。それでも言われてみればそのすぐ後に、その単語は出てきていた。
「道化師。つまりはジョーカー。この神の審判にはリーちゃん達Kを上回るチートカードが存在している。それもこのジョーカーは全てのカードを殺められる最凶カード」
「だから僕たちからすれば、Aの誰かにジョーカーを殺して貰いたい。勿論Aなんてのは国の支配者レベルの人に宿るカードだからそう簡単には動かせない。もし仮にAが四枚とも殺されてしまえば……この審判の勝者はその時点でジョーカー。それは避けなければならない」
「しかしトーラ……」
「何?リーちゃん……?」
「そのジョーカーとやらが勝つことに、何か問題はあるのか?」
「リーちゃん、何言っているんだよ……もう」
「馬鹿かリフル!?」
その疑問にアスカもトーラも呆れるが、リフル本人は何が間違っているのかよくわかっていないような表情。
「私は別に何か叶えたいことがあってカードになったわけではない。これといって欲しいものもやりたいこともないしな。あったとしてもそれはお前達が居てくれれば出来ることだ。罪のない人間を殺してまで私は生き残りたいとは思わない。そんなことをしてみろ。私は本当に一片の救いようもない殺人鬼になってしまう。私はもうこれ以上、そういうことはしたくない」
「この馬鹿野郎は、どうしていつもこう……」
こいつはまだそんなことを言っているのか。お綺麗なその言葉にアスカは苛立つ。
「んじゃ、言うけどなリフル。それなら今ここで俺とトーラを殺せ。お前は王だ。お前のカードなら俺たちを殺すのは容易いことだ。そうだな?」
「お前が馬鹿か?どうしてそういう話になるんだアスカ……」
「お前の言ってることはそういうことだって言ってんだよ俺は」
瞳を瞬かせる主に、アスカは不遜に言い放つ。
「生き残るのが一枚だって話。それでお前は殺すべき相手しか殺さない。一般人みてぇなカードが命狙ってきても……あのガキの時みてぇに、それを受け入れようとするんだろ!?」
「……っ!」
手に掛けたリリーという混血の少女のこと。それは自分と主の中では触れてはならないタブー。それに触れられた主は途端に絶句、泣きそうな顔になる。
「そん時ゃ、俺は向かってきた奴は誰だって殺す。男だろうと女だろうとガキだろうと容赦はしねぇ。それが嫌なら俺をここで殺せ!」
「アスカ君……それはちょっと、言い過ぎだよ。リーちゃんは君のことを……」
誰よりも危なっかしくて弱い癖に、守られるのが嫌だと言う俺の主。こっちは命懸けで守ることこそが使命、存在理由。好きでそうしてるっていうのに、そうされることが本当に嫌。守りきって死ぬことこそが俺の至福。だから半年前、本当に俺は嬉しかったんだ。主の盾なれた。主には怪我一つ無い。それを確認したとき、痛みとか苦しみとか以上に、温かな気持ちが胸を包んだ。そして目を閉じて……このまま二度と開かなくともそれでいいとさえ思った。
それでもアスカの瞳は再び開いたし、その時目にしたのは自分より重傷を負って昏睡状態の主。
こっちがあの時どんな思いを味わったのか、この野郎は全く気付いていないのだ。
怒りに駆られ、部下一匹のために無謀なことを。
(いや、違う……こいつは俺を部下の一匹とは思っていない)
だからあんな事になったのだ。
「ああ、そうだな。お前は出来ない。そうだよな、“瑠璃椿”?」
その名で呼べば、弾かれたように俯いていた視線を此方に向ける。長年染みついてきた習性だ。その条件反射は、彼がまだ奴隷だったころのことを忘れられていない何よりの証。
「わ、……私は…………」
瑠璃椿は奴隷。奴隷は道具。その主は失われ、アスカに継承された。だから瑠璃椿はアスカが大事。死なせたくない。守らなければならない。それが道具としての本能だ。
人の心は複雑だ。簡単に割り切れる物じゃない。だからこそリフルはまだタロック王への憎しみを捨てきれない。それと同じように、瑠璃椿はまだアスカを主と捉え、部下として、友人としては見ることが出来ていないのだ。
「お前は俺を死なせたくねぇ。お前は俺をまだ主だって思ってるところがある」
言い返す言葉がないのか、気力がないのか。それでも眼はそらせずにいるリフル。そこに宿る色は憎しみとは違うが、遺志を宿した道具にあるまじき反抗的な目。言い返せない悔しさをそこいっぱいに浮かべている。
ほら、お前は人間じゃないか。道具じゃなくて。従順になんてなりきれないのに、まだ奴隷気分が抜け切れていない。
よくわからないが、酷く苛々していたアスカは言葉を続けてしまう。言わなくても良い言葉。それでも気付かせてやりたかった。目の前の男が言い捨てた言葉の裏に宿った言葉のその意味を。
「道化師が勝つっていう意味、本当にわかってんのか?お前は自分だけじゃねぇ。俺やトーラが死んでも、殺されてもいい。それを容認している。今の言葉はそう言うことになるんだぜ!?」
「あ……」
言われてようやくそれに気付きました。そんな面。
母親似のその顔は好きだ。それなのに、今はそれがとても憎々しい。
ああ、でもその狼狽えるような顔は良い。助けを求めるように見つめる相手が今は居ない。彼にとってのそれは自分だったのだろう。だから縋れる相手が居なくて、彷徨わせる視線が戻ってくるのはここだ。それを恐る恐る顔色を窺うように見上げてくるのは、正に奴隷の頃の姿の映し。
なるほどこれは面白い。今の此奴は奴隷だ。主の許可無く自分の意思を公にすることも出来ない、唯の道具。ほら、悔しかったら何か言ってみろよ?なぁ……?
「ち、違う……私は、そんなつもりじゃ………なくて」
「それならどういうつもりだって?」
「落ち着きなよアスカ君!」
雷のようにピシャリと響くトーラの言葉。その刹那、頭から冷水を浴びせられたような寒気が……見れば実際足下が濡れているし陶器の欠片と花がある。花瓶を頭上から叩き落とされたらしい。
その衝撃の痛みを感じられないほど、意識がここから乖離していた。白熱していた。彼を言葉の剣で傷つけることに夢中になっていた。
(俺は、何をやっていたんだ…………)
我に返ると数秒前までの自分が口にしていたこと、考えていたこと。その全てが恐ろしくて堪らない。
(俺は、何だって言うんだ……)
あの夢の中の声。それが自分を浸食してきたような感覚。
「君の言いたいことも解るけど!それ以上は駄目!」
アスカとリフルの間に立ち、リフルを庇うようアスカを睨み付けるトーラ。背丈は二人よりも低いのに、得も知れぬ迫力がそこにはあった。
「リーちゃんの……自分って物に対する執着が希薄だってのは何も今に始まった事じゃない。それでもリーちゃんは、それ以外の人をとても大切にする人だよ?君もそれはわかってるんでしょ!?リーちゃんは……僕を、僕たちを………アスカ君を、とても大事に思ってくれている」
ああ、そうだ。それは痛いほど解る。知っている。それなのに……
「そんなリーちゃんだから僕は、君は……、彼をとても大切だと思うし守りたいと思うんでしょ?ねぇアスカ君、異論はある?」
「…………ねぇよ」
返す言葉がないとはことのことだ。そう言った後、アスカは完全に言葉を失った。
これまでいろいろあったが、昨日は……溝を埋めることが出来たように感じた。ずっと身近に感じられるような気がした。理解し合えたのだとそう思った。
しかしそれは気のせいだ。唯の勘違いだった。
相手の言動。取るに足らないその一つ一つにどうしてここまで気に障る?
それはトーラの言うように、今に始まったことではないのに。
(俺は………)
やはり此奴の傍にいてはいけない。心ない言葉を口にしてしまう。
お前を守るとか言ってのけたその口で、平然と彼を傷付ける言葉を口にする。そしてそれを心から愉しんでいた自分に気付く。
(おかしい、何だ……これ)
いたぶるのが愉しくて仕方がない。それは憎しみとは違うけれど、ドス黒く酷く歪んだ得体の知れない何か。
「……カードになった直後は、気持ちが不安定になるものなのかもしれない。僕だって多少の気の高ぶりはある。少し頭を冷やす時間が必要なのかもね」
生の保証。それがなくなった。それはとても恐ろしい。それに脅える気持ちは誰だって持ち合わせている。それが自分であっても他人であっても。
「ってそうだ!僕はこんなことを言いに来たんじゃないんだよ!」
はっと我に返るよう、顔を上げるトーラ。
「リーちゃん、アスカ君!この宿の人で他にカードに発現した子は把握している?」
「……え?」
「は?」
「ああもうっ!主従揃ってどうしてそういうところは抜けてるのっ!?」
呆れに僅かの怒りが混じった声で、トーラが吠える。
「前にも言ったでしょ?カードは上から下から決まる!リーちゃんに関わった人間はそれなりにここにもいるでしょ?確認しにいこう!」
部屋の中をずんずん進み、トーラがドアノブに手を掛けた時……その外側から響くノック音。その後に聞こえてきたのは女の声。
「ねぇ……アスカ?リフルはもう起きてる?」
「ディジット……?」
扉を開ければ不安そうな顔のディジットがそこに佇む。
「今朝からフォースを見ていないのよ。アルムも寝坊かと思って起こしに行ったら何処にも居ないの……また、何かあったのかしら……?私、心配で……」
このタイミングで二人が消えた?確かに何か嫌な予感はある。あの二人もリフルに関わったとは言えば関わった人間。彼との出会い……そこから引き起こされた更なる出会いによって、二人は大きく道を踏み外した。
何処に出もいるような普通のガキだったフォースは人殺しの処刑人まで身を落とし、アルムはと言えば実の弟のエルムへの思いを募らせ気持ちも合わさらぬまま彼を襲った。フォースがアルタニアへ行ったのはリフルが彼を助けた結果だし、アルムとエルムが奴隷商の下へ渡ったのもリフルがこの宿に厄介になったという事実が引き起こした結果。
子供だからと言って、カードに選ばれていないという保証は無かった。いや、子供だからこそ……
(あの声は……俺に願いを求めた)
子供なんてものは、もっと欲に従順だ。欲しい物は欲しいと口にする。願う。手を伸ばしたがる。
それなら子供の方が陥れやすい。御しやすい。カードとして絡め取りやすい。ならばそうしない理由があるのか?
リフルの方も心配になってきたのだろう。平静を装う声が僅かに震えている。
「フォースなら私が聞いている。あれも隅には置けないな、人と会う用があって今日は出かけるそうだ。しかしアルムの方は私もわからないな……頼めるかトーラ?」
「うん、僕の方で捜索してみる!」
「待て」
「え……?」
もし仮に二人がカードで、何者かに攫われたのだとして……それがカードを知る者の手による犯行なら、最悪二人はもう生きていない可能性もある。或いはリフルがKであることを何らかの方法で知った人間が、二人を人質に何かを企んでいることだってあり得る。ならばその交渉の場にリフルを配置するのは危険。今と半年前では何もかもが違うのだから。
(死なせ、ねぇ……)
小さく息を吐いて呼吸を落ち着けた後、アスカは肩をすくめてみせる。そしてしゃが視線を合わせ、睨み付けながらトーラの額を指でつつき、悪態を吐く。
「お前らには仕事があんだろうが。例の名前狩り。あっちを突き止めるのが先だろう?身内事だからって仕事に私情挟んでんじゃねぇよ。それでも請負組織か?」
「アスカ君にだけは言われたくないけど……そうだね」
「アルムとフォースの方は俺がなんとかする。だからお前らは仕事に専念しろ」
「…………でも嫌」
「はぁ!?」
こそと耳元に寄せられたトーラの顔。彼女が小声で何やら告げる。
(アスカ君てば僕に借りがあるのも忘れちゃったの?)
(あぁ?何時の話だ?二年前か?)
(嫌だな、たった今。もう忘れたの?僕のお陰で君は踏みとどまれたんじゃない。あの時止めてなかったら君、リーちゃんを壊してたかもよ)
(……それなら、尚更俺よりお前が)
その危険性に気付いているのなら、見透かしているのならどうかそれを止めてくれ。俺じゃあいつを守れない。その心まで。もうこの際お前でも良いから。俺からあいつを守ってやってくれ。認めてやるよ、あいつの嫁でも彼女でもなんだって。だからあいつを守ってやってくれよ。もう何も悲しいことがないように。泣かせないように。大事にしてやってくれ。
そう呟いた胸の内を、トーラは見透かし小さく笑う。そういしたいのはやまやまだけど、本人に認めれもらえなきゃ何の意味もないんだよと。だから僕はそのためのことをしているだけだと彼女が微笑む。
(もう頭は冷えたでしょ?リーちゃんと早く仲直りしてよね。じゃないと君と離れてる間ずっとリーちゃん気が気じゃなくて仕事どころじゃないんだから)
そう耳打ちしたあと、トーラにばしっと思いきり背中を叩かれた。本気で来やがった。それなりに痛い。
アスカが背中を押さえていると、トーラは窓の外へと飛び出して、そこから顔だけ出して手を振った。
「アルムちゃんは僕も心配だしね。捜査は僕の方がずっと得意だし。今日まわって貰う辺りの情報と方針はリーちゃんに伝えてあるし、リーちゃんはアスカ君と一緒に捜査を進めて?元々そのつもりだったしね」
そう告げるや否や、数術で彼女は消えた。相変わらず窓を閉めるつもりはないようで、風に揺れるカーテンが残される。
あの騒がしい少女に叱咤されたのだと知り、複雑な気持ち。素直に感謝する気になれなくてアスカは粗探し。目に留めたその窓に向かって悪態。
「ったく……窓閉めていけっての」
いつものその光景に溜息を吐いた後、訪れる沈黙に汗が伝う。後ろを振り向けない。リフルはどんな顔をしているだろう。今日一日行動するのが自分だと知った彼が、嫌そうな顔をしていたら……もう立ち直れないかもしれない。
「あの……その、な。さっきは俺も言い過ぎた。俺もそういうつもりだったんじゃなくてだな……そう、寝不足で苛ついてたっつーか……」
おそるおそる紡いだ言葉に返されるのは何故かディジットの声。
「リフルなら仕事の仕度があるって言って出て行ったわよ」
「……あ、そうですか」
それにアスカは思い出す。
そうだ。俺の主は逃げ専だった。