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6:Semper inops quicumque cupit.

 一面の黒。塗り潰された世界。目を開けているのか閉じているのかもわからない。そんな黒一色の世界に聞こえる声がある。御伽話を語る子供の声。耳に覚えがあるその声は幼い日の自分。それに気付けば甦る景色。色を取り戻す世界。

 棺を前に、目覚めない主の前で俺は本を語って聞かせる。馬鹿みたいだと思いながら、それを止めることは出来なくて、毎日毎日地下室へと降りた。

 それを無意味と知りながら、繰り返すことに意味が宿るのか。変わらない人形の傍で、変えられたのは自分の方だ。起き上がるなんて、絶対にそんなことはありえないと信じた心が少しずつ揺らいでいった。

 腐らない死体。穏やかな微笑を湛え、時を留めた人形の箱。それを薄気味悪いと思う事などなかった。魔法か奇跡を見るように、その非現実的な風景に魅入られた。

 知らないと言うことは幸福だ。一つ一つを想像で補う創造の世界。そこに答えはない。だから正解も間違いもない。想像それだけが真実。

 紫の瞳。銀色の髪。青空の下、夕暮れの中、月明かりに照らされて……それはどんな色合いに変わるのだろう。この唇は、どんな声でどんな言葉を語るのだろう。第一声は何だろう。痛みを堪えての微笑みがあんなに綺麗なものならば、これが本気で笑ったら……この眼にはどんな風に映るのだろう。

 最初はそんな空想でも楽しかった。それでも人間は欲を持った生き物だ。それは子供だって変わらない。空想を続けるとことを続けることで、欲が芽生えた。正解を求める心が浮上した。

 せめて一言声を聞きたい。話がしたい。その目の色が見たい。瞳が開くところが見たい。そこに自分を映して欲しい。ほんの1秒でも構わないから。そんな風に思うようになったのは、そこに母の面影を見たからか。約束を守りたいと思ったのは、母がこの人形に似ていたからか。今となってはどちらが先だったかなんてわからない。

 唯、寂しかったんだとは思う。

 どうして俺には母さんが居ないのか。幼い頃は寂しい思いをした。死んだと聞かされていた俺の母親が、マリー様だと知った時は驚いた。それからは寂しさを誇りと置き換えて、平気な振りを続けていた。それでも所詮は子供。完全に寂しさを殺すことは出来なくて、心のどこかで二人を恨む気持ちはあった。

 親父もマリー様も、立派な人だ。国の平和のために、自分たちの想いをなかったことにした。人としては尊敬しているし、二人を俺は愛していたけれど、二人とも親としては最低だ。親父はいつも慌ただしく城へ仕事へ出かけて、俺は家の中に一人きり。物心ついたときからそんなもの。タロックとシャトランジアがあの頃は親しくしていたとはいえ、子供達の社会はまた違う。タロークの子供達からカーネフェリーの俺が遊び相手として受け入れられることはなかった。あの頃は混血差別なんてまだなかった。だから、除け者になるのはカーネフェリー。つまりは俺だ。


「那由多様?」


 初めてその名を聞いたのは、まだマリー様が俺の母さんだと知る以前のことだっただろうか。


「ああ、お前の一つ下の王子様だよ。お前も城仕えするような年になったら仲良くしてやってくれ」


 親父は馬鹿みたいに笑っていた。今思うと本気で馬鹿だ。いくら彼がマリー様に似ているからって、自分の恋人奪われて他の男との間に生まれた子供だ。人が良いというか馬鹿だというか。少なくとも俺じゃ逆さになっても真似は出来ない。

 いくら愛した女と瓜二つだからって、大事な人を奪った相手が孕ませた子供だろ?どうしてそんな者をそんな風に優しげに語ることが出来るんだ?

 俺は親父が人として何かが欠けているんだと思った。人として出来ている。それはつまり、人間らしくない。人として欠陥。そんな風にしか見えなかった。

 だけど、本当は違かった。だから親父は、最後にあんな行動に出たのだ。愛した女を見殺しになんか出来なかった。マリー様との約束を守るのなら、マリー様を見捨ててでも棺を持って親父が逃げるべきだったのに、親父にはそれが出来なかった。

 親父だって人間だ。心はあった。ただ、それを押し殺して広い視野で選択することが出来る才能があっただけだ。

 俺にはそんなものはない。それは俺じゃなくて、あいつの方に引き継がれている。つまりはマリー様にもそんな才能があったのだろう。マリー様の心は俺にはわからない。始まりは国同士の決め事。

 終わりの日。最後にマリー様が、狂王を本当に愛していたのか、それとも愛せないままだったのか。それは彼女にしか分からない。その時マリー様が親父をもう何とも思っていなかったのか、まだ愛していたのか。狂王自身、それはわかっていないのだ。

 それでも自分の最後を知らない記憶の中の親父は、人が良さそうな笑顔を浮かべるばかり。


「でも親父は、自分の主は自分で選べって言ってたじゃないか。いくら親父の仕えてるお姫様の王子だって、俺がその子に仕える義理はないんだろ?」

「ああ、だからそうだな……友達にでもなってやれ。那由多様は病弱で、いつも部屋に籠もりきりで、話し相手………はいるにはいるがあいつはなぁ、下手に頭がいいせいで気むずかしいというか性格に難ありというかいろいろと問題があって。悪い奴ではないし、王子の影響で少しは良い方向に変われればと思うんだけどなぁ。うん、王子には友達と呼べる友達がいないんだ、今のところは」

「ふーん……」


 妾腹とはいえ王子は王子。畏れ多くて誰もそんなものにはならない。だからお前なら……親父は確かそう言った。


「……で、その王子様ってどんな奴?」

「そうだな。マリー様に似てとても可愛いな。昔のマリー様はもう少しやんちゃで気も強かったような気がするけど。あれは将来美人になるな」

「親父、それほんとに王子様?王女様の間違いじゃね?」

「いや、まぁ…………そうだな、あの子が王子で良かったよ」


 そう言って笑う親父の意図がわからなかった。でも今なら何となく分かる。

 親父は、もしマリー様が王女じゃなくて王子だったら……そう言っていたんだ。そんなもしもがあったなら、俺はここにはいないけれど……親父はマリー様の騎士としていつまでも傍で仕えることが出来たんだろうな。

 マリー様が王女だったから、二人は恋に落ちて俺が生まれた。だけどマリー様が王女だったから二人は引き離された。二人は過去を表沙汰に出さずに、姫とその騎士の関係を続けたけれど、その強い絆が狂王の怒りを買い、二人は十字架で燃やされた。

 親父は俺と王子はそうならないと言う意味で、那由多様が王子で良かったとそう言ったんだろう。俺には自分と同じ思いをさせずに済むと安堵した。

 俺と王子なら、普通に友達とか……普通に主従関係を結べる。それ以上などあるはずもない。ただ忠誠を誓えばいい。彼にその価値があるのなら。ただ、それだけだ。そのはずだった。それでも俺は、あの日あの目に魅入られた。

 それまで仕える気などなかった王子様。俺が城に出入りするようになる前に、俺は彼と出会った。それが彼の終わり。処刑の日。

 あんな綺麗な色を俺は他に知らない。惹き付けられたように、最後まで眼をそらせなかった。猛毒を含んだ王子。彼は涙ながらに微笑んで、震える瞼。閉じられ、眠り、もう動かない。意識が途切れる寸前の、朦朧とした目。その目が再び此方を向くことを……願う自分がそこにいた。

 語る言葉は一つの祈り。今日こそ彼が目を覚ましますように。増えた家族は、語らない死体。俺の弟。そこに自分の空想を重ね合わせる。彼の死に様にすっかり魅了された俺は、起き上がる保証もない死体の騎士、棺の番人になった。本人の了承もない。マリー様の言葉を頼み事を……願いを、祈りを……自分の守るべき約束にした。

 何も知らないというのは愚かなこと。マリー様と自分の関係を知って、母を知らない寂しさを俺は彼女に似た面影の彼に重ねていたのかもしれない。母さんが傍にいなくても、俺には弟が居る。弟は何も喋らないし動かないけれど、傍にいてくれる。寂しいなんて俺は言わない。俺が兄貴だ。そういうことを言うのは弟の方の役割だ。俺がこいつを守ってやるんだ。無邪気にそう思えた頃が懐かしい。

 あの日の俺は知らなかった。自分の中にドロドロと湧き上がる底なしの憎しみの炎が芽生える日が来るなんて。

 マリー様が捕まった。棺を持ち出したのがバレた。親父がマリー様を助けに行って帰ってこない。親父は最後まで立派な騎士だったけれど、やっぱり親父としては最低だった。

 俺を残して死ぬことを選んだ。マリー様の身代わりとして死ぬことを選んだ。家で親父の帰りを待ってる俺の気持ちなんか何も知らずに。

 狂人は約束を守らない。だって狂人だから。それ以上の理由は存在しない。そんな理不尽が罷り通る存在の暴力。

 親父が死んだのも、マリー様が殺されたのも全ては須臾王のせい。須臾王が狂ったのは那由多王子のせい。

 狂王は約束を守らなかった。親父を拘束し足下に火を付けて……そしてマリー様も隣に並べた。動けない騎士。武器を持たない騎士。それはなんて弱い者だろう。親父は剣を俺に預けた。戦いに行くのではない。王を説得に行くのだと偽善者のような綺麗事を並べて。それでも親父は本気でそれを語るような、俺とは真逆のお綺麗な人間だったから。

 そうして俺はあっという間に両親を失った。残されたのは棺で眠る弟だけ。俺と世界を繋ぐ最後の(よすが)だ。

 両親を失った俺は子供だけど、子供ではない。俺はそれ以前に兄で、騎士だった。

 大切な棺。守るべき主。それでもそれは俺の親父と母さんを奪った男の血が流れている。大切な弟。それでも憎むべき仇。こいつさえいなければ、俺は寂しい思いをせずに済んだ。父と母に囲まれた……普通の幸せな子供でいられた。それをぶち壊したのは、あの二人が殺された原因は……この王子だ。こいつさえいなければ。

 そう思った瞬間から、憎しみが生まれた。守らなきゃいけない。でも殺してやりたい。この済ました顔の死体を、殺してしまいたい。引き裂いてやりたい。

 葛藤の末置き去りにした棺。それが俺の罪の全て。引き返しても何もない。

 それから9年、俺は彼を探し続けた。ようやく見つけることが出来た彼は、酷い有様だった。過去の記憶を持たないし、奴隷に、殺人鬼までその身を落としていた。虚ろな目で、俺の主が俺を主と呼んだ。

 起き上がった彼は、二つの呪いを受けていた。触れた者すべてを殺める毒の力と、見つめた相手の好意を引き出し毒の身体に触れさせる邪眼の力。

 彼はその力に人生を滅茶苦茶にされた。その要因の一つが俺。俺があの時棺を手放したから、彼は奴隷になんかなったんだ。

 毒性が強まることで片割れ殺しの外見と結びつき、邪眼が生まれた。邪眼が生まれるまでは時間があった。もし彼があの目を手にするまで、俺が傍で仕えていたなら……彼は俺をもっと信用してくれたはず。今の彼は誰の好意も信じない。それが自分の目が招いた、強制的な支配なのだと嘆き、それを拒絶する。

 再会して間もなく彼を再び失ったのも、彼が俺を信じてはいなかったから。俺が俺の思うことをそのまま口にしたところで彼はそれを完全には信じない。

 彼への償いを望む。彼の力になりたい。彼を守りたい。それが俺にとっての全てだ。それが俺の人生だ。けれど信じて貰えない思いは空回るだけ。彼を追い詰めるだけ。俺が手に負えないところまで邪眼に魅せられたのだと彼は思う。邪眼は人を魅了し殺し合わせる力。

 彼を見つけるため手段を選ばない俺は、彼を守るためにこの手を汚した俺は、彼には邪眼の狂気として映るのだろうか。きっとそうだ。だから彼は脅えていた。だから俺を見ていた。俺がもう誰も殺さないように。

 あいつが最近無茶ばかりしていたのは……そういうことだったのか。落ち着いて考えてみると意外と簡単なこと。頭に血が上っていたのか俺も気付けなかった。

 あいつは俺に似ているところがある。これはマリー様の血なのだろうか。意外と頑固だし融通が利かない。一度こうと決めたらこっちがいくら五月蠅く言っても聞き入れやしない。普段は物静かを演じていても、彼の本質はもっと熱いものだ。表面は氷。それでも内側には固まることがないマグマが荒れ狂っている。まるで剣だ。触れれば冷たい金属。でも切り裂かれれば熱い血の温度。

 触れれば傷つくとわかっている。それでも触れずには居られない刀身の輝き。それがあいつの高貴な魂だ。奴隷にまで身を落として、それでもあいつの誇りは汚れない。凛と佇む譲れない意思の宿った瞳がそこにある。俺が魅せられたのはたぶんそんな目の色なのだ。

 力もない弱い人間に不釣り合いの強固な意志と優しい心。その危うさが人を惹き付ける。力になりたいと思わせる。それも一つの王の力だ。だから俺は思う。思ってしまう。俺があいつのことで代われるものがあるのなら、代わりたいと思う。

 それでも俺たちは似ているところがある。俺がそう思うよう、あいつも他の大切な者が背負っているものを、代わりに引き受けたがる。俺にとってそれはあいつしかいない。狭い視野。

 それでもあいつは違う。もっと多くを望む。多くを引き受けたがる。そう言う姿を見ていると、やっぱりあいつは王なんだと思う。王の血は俺にも流れているけれど、俺の本質は親父譲りで騎士なんだろう。それでも親父のようなご立派な騎士じゃないから、国のため民のためなんて選べない。俺は俺が手にしているものを失いたくはないし、そのためにしか戦えないエゴ丸出しの人間だ。


(でもあいつは……俺とは違う)


 そんなあいつのために戦うのなら、俺はこの俺の狭い過ぎる世界を広げることが出来る。

 告げられた言葉。邪眼が効いているのだとしても、彼はそう言った。それでも俺の力が欲しいと言った。彼の瞳に浮かぶのは、俺を信じたいという気持ち。縋るような目だ。まだ信じ切れていない。それでも信じたいのだという彼の言葉に、感銘を受けた。いつでもあの目のせいにして逃げていた彼が、自らの呪いに向き合おうとしている。姿形は変わらなくとも、彼は確かにもう子供ではない。彼の内面は成長している。

 虚ろな目をしていた彼が、自分は道具と言い何も語ろうとしなかった彼が……意思を宿した瞳ではっきりとした言葉を伝えてくる。それが俺は嬉しかった。この人の力になりたいと本気で思った。

 真新しい記憶を思いだし、微笑む俺に……それで良いのかと、暗がりから声が聞こえる。記憶の風景を塗り潰す、黒い色。


 《本当にそう思う?》


 それは聞き慣れた声。俺の声と心を騙るよう、それは饒舌に語り出す。


 《瑠璃椿は、いつでも俺だけを見ていてくれたのに》


 その突き刺すような鋭い言葉に、自分の中の醜い心を曝かれたような気になった。そう思う心が全くないと俺には否定できなかったのだ。


 《俺が望みさえすればあいつは何でもしてくれただろうな。主が死ぬなと命令すれば奴隷のあいつは絶対に勝手に死ねない》


 そうだ。あいつは俺を見ていた。いつもいつもいつも、俺に何かを縋るように求めるように命令を欲しがった。それこそが奴隷としてのあいつの存在理由だったのだ。

 死ぬな。傍にいてくれ。たった二言。当時は容易く叶った願い。それが今では絶対にあいつには届かない。

 平然と己の死を語る。あいつが想像する未来の中に、あいつは生きては居ないのだ。


 《あいつの力になる?馬鹿みたいだぜ。それが終わったら、あいつは死んでしまうのに》


 声が言う。そうだ。あいつはなんて言っていた?その日が来るまで。その日が来るまで……それまでは生きると言ったんだ。彼は自身の死を先延ばしにしただけ。奴隷貿易を終わらせセネトレアを変える。混血を人間と認めさせ……タロックを救う。そのどれもが大仕事。一筋縄では行かない。

 彼の夢が叶えばいいと思いながらも、それが長引けばいいと心のどこかで俺は思っている。それが果たされない限り、彼は生き続ける。その間に、彼を地道に説得し変えていくしかない。


 《あいつが眠ってた頃は良かったよなぁ……》


 突然声は何やら言い出した。何を言っているんだこいつは。


 《眠ってるあいつは何処にも逃げないし、何時でも俺が守ってやれた》


 それは、確かに。目覚めたあいつはいつもどこかへふらふらと消えてしまう。それを探し出すことが、俺の人生の大半を占めていた。


 《喋らないし動かないけど、だからこそ俺はあいつに幻滅さえしないんだ。だって死んでるあいつは唯綺麗なだけだから》

(違う!俺は幻滅なんか……)

 《本当にしていないって言えるのか?》


 見知らぬ見知ったその声の、容赦ない追求は続く。


(俺は……)


 あいつの過去に幻滅なんてしていない。むしろそれが俺に罪の意識を刻み込む。呪うとしたら我が身の方だ。俺なら耐えきれないような辛い境遇を経て尚、俺を呪わないあいつだから償いたいと思う。守りたいと心の底から思えるのだ。そう思うのに、その心を嘲笑うよう声は言う。


 《嘘吐け。幻滅してるだろ?お前は俺は恐れているだろ?半年前も、そして昨日も今日もだ》

(何の話だ?)

 《“俺の知らないところで、女口説いて連れ込んで、終いには朝帰り”》


 それはあの絵描きを連れ込んだ主相手に衝動的に思った言葉。

 確かに俺はあいつを神聖視してるところがあるのは否めない。

 そもそも男として認識出来ていない可能性はある。女顔だし日常茶飯事のようによく女装するしあまりにマリー様にそっくりだから、どうにもこうにも。それがそこらの唯の男と変わりない行動に望まれると、……確かに幻滅のような気分を味わうことはある。それでもそれは俺の勝手な思いこみであいつ自身を作り上げそこから外れた途端失望するなんて、おかしいのは俺の方だ。あいつは何も悪くない。あいつだって人間だし男だし、女の子口説きたくなる時だってあって当然の話。

 それに今日一日あの少女と接してみて、そんなものじゃないとわかったし、彼女自身いい奴だった。あいつに友人が出来るのは喜ばしいことだと考え直した。


 《“まったく何考えてるんだ。あの変態に迫られてるってのに、抵抗がなさ過ぎる。今もあの時も俺が助けなきゃどうなっていたことか。やっぱり俺がついていないと”》


 これは今日……屋根の上に現れた闇医者に思いきり花瓶をぶつけてやった時の心の言葉。

 あの変態闇医者は手が早い。ちょっと気を抜けばすぐにあいつを口説き出す。二年前は「15歳以上相手には食指が動かん。第一そっくりすぎて畏れ多い」とか言っていた癖にいつの間にストライクゾーンを広げやがったのか。

 あんな心身共に汚らわしい奴に指一本でも俺の主を触れさせてなるものか。あの変態に毒されてあいつが汚されるなんて御免だ。

 それなのに何を血迷っているのか。昔の顔なじみだなんて嘘か本当かよくわからない(が悔しいことに親父の証言からそれはどうやら真実らしい)あの変態の妄言を素直に信じているあいつは、別にそこまで嫌でも無さそうなのが気に入らない。迫られたこと自体より、詩集読み上げの方が嫌がっていたようにも見える。何でだ。普通に考えて常識的に考えてあの変態に迫られる方が絶対嫌だろう。俺なら100年魘される自信がある。最悪あまりの精神的ストレスで発狂して自害する可能性もある。

 あいつは俺の弟だし、そう感じる可能性は強いはずだ。絶対そうだ。だからあんなばっちぃもん、半径1㎞は常に離れておけと肝に銘じさせておく必要がある。それがあいつのためなんだ。確かにあいつが瑠璃椿だったならそう言えば簡単に了承してくれただろうなとは思う。

 何も見えない中でしみじみと頷く俺に声は呆れたように溜息を吐く。


 《わかるか?いい加減わかっただろ?俺はそこまで馬鹿じゃねぇはずだぜ》

(さぁ?何の話だよ。あの闇医者が公害みてぇな病原菌だって話か?)

 《馬鹿かお前は》


 更に大げさに溜息を吐かれた。


 《お前は感じている。お前の抱く自分勝手な理想をあいつが踏み外す度、苛立ち、失望しているだろう?お前が知ろうとしないお前の心を教えてやろうか?お前はいつも思っているんだよ。あの頃は良かったと》


 死体は動き出したのに、お前はまだ棺を見ている。苛立った様子の声が吐き捨てる。


 《空っぽの棺を見つめて、お前は過去に縋り付く》


 簡潔な、完結された世界を生きている。

 お前の内なる世界は足りないものばかり。それでもそんな場所に満足している。そこに誰かが入ってくることを嫌がっている。棺に囚われているのはお前の方だ。取り残されて蓋を閉じられ葬られるのはお前の方だ。

 置いて行かれる。取り残される。見捨てられる。捨てられる。

 あいつは歩き出す。広い世界を見つめてる。何かを見ている。それはきっと、(おまえ)じゃない。

 声はそう……告げていた。


 《偽善ってのはお前の方だろ。何が死んで欲しくない?俺が守る?どの口が言うんだそんな大法螺?》


 心底おかしそうに声は俺を嘲笑う。


 《忘れたとは言わせねぇぜ。お前はあいつの首を絞めたんだ。殺そうとしただろう?その両手でさ》


 その言葉に暗闇の中、両手だけが白く浮かび上がる。見えるようになる。それが塗り潰されていく色。浸食していく赤。この二年間、殺してきた相手の血のようにべったり両手に張り付いて……僅かに残された白。そこに加わる、落とされた血。それは未来に流れる血。

 可能性。俺があいつを殺めてしまう、可能性。


 《お前は言葉で飾り付けてるだけで、本心ではあいつを憎んでるし殺してやりたいって今でも思ってるんだ》


 確固たる証拠。それを用いての暗い未来を示唆されても、認められずに俺は噛み付く。


(んなわけあるか。あんたが誰かは知らねぇが、推測で物を言うのはいい加減止めてくれねぇか?俺の名誉に関わる)

 《早まるなよ、別に同じ理由でとは誰も言っていねぇだろうが。つか妄想日記書いてた奴の名誉なんかあってないようなもんだろ。既にどん底だぜ。あいつもきっと失望してるんだろうなぁ》


 くそ、痛いところを。俺だってなんであんなん書いてたかよくわからないんだよ。なんか俺を貶めようとする神懸かり的な悪意さえ感じる。この世界が仕組まれているっていうならあれもきっと神って奴のせいだな。きっとそうだ。

 あれで周りにドン引きさせてあったかないか分からない程度のディジット辺りと俺とのフラグをへし折るって魂胆だろうよ。俺が割りかし不運なのも、そこそこイケメン設定なのにろくでもないことしか起きない上に女運がないのも何故かアラ60以上の婆ばかりにモテるのもきっとそいつのせいに違いない。人妻フェチでも熟女と老婆にゃ興味ねぇ!同世代あたりの若妻あたりが俺のツボ。年下は三歳下までなら許容範囲だ。その辺りにモテるモテ期を俺に作ってくれるまで今後一切神の存在なんか認めてやらんし肯定などするものか。

 《つか、お前仮にも聖教徒だろ。そこまで神を罵倒するのはどうなんだ?ていうか唯の責任転嫁だろその大半》

(ええい喧しい!一年半前に俺は完全に神の全否定に入ったんだよ!じゃなきゃ何でも屋から殺し屋に転職なんかするもんか!大体再会からたった数日で俺と主を引き裂くような神様誰が二度と崇めてやるもんか!)


 そこまで声にならない声を言い切って、息切れのようなもの。ぜぇぜぇと呼吸をする俺の耳に届くはあの声とはまた違う二つの笑い声。

 片方はくすくすという女の上品な感じの声。どことなく上流階級の清楚で可憐なお嬢さんのそれでいて人妻めいた香りがする。ちょっとタイプっぽい声だ。

 もう一つは地の底から響くようなくぐもった声。なんとなくこっちは野郎だと思う。以上。


(おい、なんかお前笑われてんぞ)

 《いや、それはお前だから……いやそれならつまり結局俺か》


 俺によく似た声は何やらこれまでで一番重いため息を吐いてきた。


 《まぁいい、話を戻すぜ》

(おうおう、聞いてやろうじゃねぇか。何だって俺があいつを殺したがってるって?)

 《嫉妬だよ》

(はぁ?)


 なんだその冗談みたいな理由は。そんなもんで人に殺意なんか抱いて堪るか。


 《そもそも失望するとしたらディジットじゃなくてあいつの方だろ。どうせ元々お前なんかディジットには意識されてねぇからなこれっぽっちも》

(……これっぽっちも?)

 《当たり前だろ。自分の行動省みろ。惚れる要素が何処にある?》


 また痛いところを。

 確かにそうだ。大事なときにいつも彼女の傍にはいられないし、俺は彼女を何よりも優先することは出来ないような男だ。その程度で好きだのなんだの宣ったところで相手にされるわけもない。


 《お前とフラグ立ってるっつったらせいぜいあいつくらいだろうよ》

(いや、あいつ相手にフラグ立ってどうするよ)


 何かの冗談か?声はよりにもよってあいつの名前をそこへと挙げた。

 俺の最優先事項。確かに大事だ何よりも。好きか嫌いかで言うなら無論愛してると言い切れるが、分類するならそうじゃない。愛は愛でも親愛とか友愛とか家族愛とか兄弟愛とか。


(おい、俺はそういう方面は至ってノーマルだぜ。そういうのはあの変態野郎の専売特許だろうが。確かに俺は多少ブラコンでマザコンかもしれねぇが変態じゃねぇぞ!)

 《すぐこれだ。思考の停止。そうやってお前はずっと逃げている。その癖手放したくない自己中野郎。それが嫉妬じゃないなら何だって偏狭男?愛想尽かされるのも時間の問題だな……》

(何でそこでそういう話になるんだよ)

 《相手は生きてる人間なんだよ。失望するのがお前だけだと思ったか?何時までもあいつがお前の道具だとは思わないことだな。お前がそんな調子じゃあいつもお前に失望するぜ》


 失望するのは此方だけではない。相手もだ。死んでいる人間は何も感じない。失望など抱かない。何も言わず何も思わず唯傍にいてくれる。

 生きているから、怖がられる。失望される。見放される。捨てられる。それでも殺してしまえばそんなことはなくなるのだと声は言う。


 《お前は一時はあいつの主だった。一時でも所有したんだ。だからその認識をお前は引き摺っている》

(共通語で話してくれねぇか?俺もそんな妄言は理解しかねるぜ)

 《例えるならお前は最初に飼われた犬だ。ご主人様のためなら死ねると言って憚らない忠犬だ。生き別れたご主人様を捜して旅をするような健気なわんこだ》


 分かりやすく言えとは言ったがそれでどうして犬に例えられるのかは謎だ。


 《それが最近ご主人様が虎猫連れ込むわ、番犬子犬拾ってくるわ、真っ黒な大型犬まで飼い始めた。昨日の女は野良猫か?》

(なんとも分かり易い例え方だな)


 しかし謎だが分かり易かった。誰が誰だか何となくで大体分かってしまう。


 《ご主人様はみんな平等に可愛がろうとするけれど、お前はそれが気にくわねぇ。自分一匹だったときはもっと自分だけを見て貰えた。一緒にいられた。それが今はどうだ?虐待から犬猫救って来る度に、ご主人様は広い世界を見るようになる。最初のわんこと遊ぶ時間も減っていく》


 無理に大人ぶろうとして、兄貴風を吹かせる。そこまで出来た人間でも無い癖に、そういう風になりたがる。

 他の奴らと接する主。主の世界が開けていくことを喜ばしいと見守る振りして、それを羨ましそうに見つめている。お預け食らって放置プレイかまされてる犬みたいに。

 演じてる素顔をそっくりそのまま慕われて、そのせいで我が儘なんか言えやしない。少しでも好かれようといい人ぶろうとした結果がこれだ。俺はMじゃないんで割と苦痛だ。


 《更には気の多い浮気性のご主人様は教会の短気で真面目でよく吠える牧羊犬に一目惚れ。思い出してはデレデレしている。おまけに仕事の度に発情犬に襲われそうなってて獣姦の危機っていうか人姦の危機か?忠犬のお前は気が気でねぇ》


 確かに。あの聖十字兵のことを語る時、あいつは嬉しそうに物を言う。仕事で出会した後はしばらく機嫌が良い。確かにどっちかというとあの少年は俺と真逆の人間で、言うなればあれは俺の親父系に分類される人間だ。あいつとマリー様が顔から好みのタイプまで似ているなら、心惹かれてしまうもとい好感を抱くのは仕方のないことかもしれない。

 別に俺はあいつをどうこう思っているわけではないが、思い入れが強すぎて、立ち位置的には狂王にでもなった気分だ。自分の両親殺した相手と同じ気分を味わうというのも複雑な心境。

 仕事の度に湧いて出る変態人間博覧会には、心底同意。あんな奴ら殺されて当然だ。あんな危険なことをさせなくとも屋敷中に油まいて火でも放り込んで燃やしてしまえばいいとか思う。そのあと盗んだ馬車かなんかで走り出せばいいだろうとも。いや、楽しい逃避行になりそうだ。なんて言ったら怒られるのでまず言いません。言えません。

 あいつの力使わない殺しってのは、あいつ自身が望む償いにならないし、それはあいつを傷付ける。


 《そこでお前は考える。他の犬猫全部殺しちまえばまた昔みたいに戻れるかもってな》


 そんなことで戻れるのか?二年前みたいに。

 ああ、なんだそんなことだったのか。


 《だけどそんなのは面倒だし数が多すぎるし現実的に考えて不可能だ。ずっと脅威からご主人様を守るのは大変。それなら手っ取り早い方法がある。そっちのが簡単だしな》


 何だ勿体ぶりやがって。でもまぁ、言われてみれば確かに面倒臭い作業ではある。


 《ってことでそうなりゃ怒りは浮気者の飼い主様に向くわけだ。ご主人様が動かなくなれば、ずっと傍にいてくれるってな。ははは、これじゃ忠犬じゃなくて狂犬か》

(なるほどな……ってんなわけあるか!)


 ついついそれっぽいことも言われていたので流されそうになったが、今の奴だけは納得できない。


(あいつ守ってあいつのために死ぬのが俺の存在理由!生きてる意味だ!んな本末転倒な馬鹿げたこと、この俺がするとか思うのか?)

 《ああ、思うね。お前はそういう奴なんだ。知らなかったのか?自分のことなのに》


 声はあっさり言い切った。


 《お前は棺の那由多を自分のものだと思ってる。そしてその所有権を瑠璃椿に認められた。その時からお前はあれをやれ主(笑)だのやれ弟(失笑)だの言ってはいるが、結局の所道具程度にしか思っていないんだ》


 そんなことは。そんなことはないはずだ。俺は苦悩したはずだ。主に主と呼ばれる度に、そうではないと思ったはずだ。それでも俺は、否定できるか?

 憎むべき両親の仇。愛すべき俺の主。気高く可憐な王子様。それが奴隷なんかになって恥ずかし気も無く女装なんて無様な醜態を晒して俺に隷属を誓うんだ。そのことに全く高揚感を抱かなかったと言えるのか?ほんの少しも?少しは……いや半分くらいはそう思っただろう?

 声は俺の心の闇を曝いていく。


(でもとりあえず俺の声でそのかっこわらいかっことじとかかっこしっしょうかっことじとか口述するのは止めてくれ)

 《だからお前は自分の物に他人の手垢がつくのが嫌なんだ。いやまぁ、主様(笑)曰くお前は微妙な性癖だからその手垢まみれのご主人様(爆笑)に興奮する変態野郎だってのは否めないか。それでもその手垢付けた相手は抹殺しようとするくらいの独占欲と支配欲の塊みてぇな屑野郎ではあるな》


 それを嫉妬と呼ばすに他に例える言葉があるのかと、声が俺に問いかける。それにあるとするなら、思い浮かぶ名前は狂気くらいのものだった。

 何故あいつが俺を恐れるように見るのか。心配そうに見るのか。完全には信じてくれないのか。それは俺が既にぶっ壊れている人間だからだ。

 それが邪眼によるものなのか、元々俺がそういう素質のある人間だったのか、……両親を失ったショックでそうなったのかはわからない。それでも俺はどっかおかしい。これまで飄々と目を逸らし逃げつつけていた己が内面。今それを突きつけられている。


(でもやっぱりそのかっこばくしょうとかは自重してくれ。お願いだから。二重の意味で今正に俺が苦悩するわ。真剣に話の方を悩ませてくれよそこは。なんつー嫌がらせだ)


 自分そっくりの声は悪魔の囁き。言われた言葉はすんなり肌に馴染んで、そんな気がしてくるけれど……頭ごなしに信じてはならない。

 俺にだって俺の信じる俺がある。理想の自分だって一応は存在している。例え悪魔の声が真実だとしてもそれが俺の全てだとは認めたくはないのだ。主を弟を大切に思う気持ちは本当だから。それは自分自身にだって笑い飛ばさせるものか。臭い台詞吐いてる自覚はあるが、それが俺の誇りなんだ。

 それでも自覚した。俺はあいつにとって害になる可能性。もしあいつに危害を加えるなんて事になる前に、さっくり自害出来るような滑り止めは用意しておくべきだろう。

 そうだ。あいつの想像する未来にいらないのはあいつじゃなくて、むしろ俺の方なのだ。あいつが俺の墓参りに来てくれる方が余程俺と世界にとって有意義だ。俺は俺の未来の幸福削ってでも、あいつを幸せにしてやれるんなら残り一生分の幸福をあいつに譲って構わない。あいつが語ったような地獄のような墓場のような、それでも幸せな……何気ないそんな暮らしの風景を、草葉の陰から見守るさ。家で肩身の狭い思いをするなら夢枕に化けて出てやっても良い。

 しかしそれには相手が要る。毒人間のあいつに子供なんて出来ないだろうが、それでも心の支えになる伴侶くらいは出来ても良いはず。


(でもまぁ、あいつを守れるくらいに腕っ節と骨のある女じゃねぇと不安で任せられねぇな)


 身近なところでトーラ?それなりに上手くやってるようだし相性も悪く無さそうだ。有能な数術使いだし、腕っ節と骨の方は認めてやる。トーラの方は言わずもがなベタ惚れしてるし、リフルの方は煮え切らない態度だが、彼女に報いる方法を探そうと悩む程度にそれなりには大切に思っているのは確か。すぐにどうにかなるような二人ではないが、息も合ってる。毒と邪眼の問題が解決したなら……時間さえあれば上手くいくだろう。だが、二年前とそれ以前の恨みはまだ忘れてねぇぞ俺は。ってことで土下座挨拶を毎朝一年くらい欠かさず続けない限り俺は認めん。不可。あいつも暇じゃねぇし無理だろうな。

 それじゃあディジット?なんとも複雑な心境だが、悪くもない気もする。互いに気遣ってるところはあるし、彼女は俺が認めた女だ。まぁ、不満はない。気は強いからそれなりの状況にも対応できる肝はあるが、腕っ節の方はどうだろう?犯罪者のあいつを追っ手から守りきれるかどうかは不安だ。それ以前にまず怪しいのは男だと認識されているかどうか。たぶん男だって知ってるけど女友達みたいなもんだと思ってるなあれは。まったくもって意識されてねぇ。むしろ洛叉の野郎を巡ってへんな三角地帯が発生しているような気さえする。ってことで無理か。

 身近っていうならアルム?同じ混血だし気は合うか?これはトーラもだけどな。でもいやそれは流石にどうよ。あいつはエルム一筋ってところがあるから相手にもされないんじゃね?うん、無理だなこれは。

 っとなると消去法でリアか。俺のタイプじゃないが、悪い奴じゃないし、あいつにとって癒しになってるところはある。殺しや裏社会と無関係の人間ってところがいいんだろうな。俺にとってのディジットみたいな感覚か。絵描きだし純血だし、腕っ節の方は心配だが妙な図太さはある。変人っぽいところがあって独特な考えを持っているのかいまいち邪眼も効いている感じはしない。案外ああいう子と一緒なら、あいつももっと明るい方向に変わっていくことが出来るのかも知れねぇ。


(そういやあいつが守りたいって連れてきた女なんて初めてか?)


 守られる側になりがちなあいつが、行動したのだ。どうにもこうにも消極的なあいつは、進んで何かをするということはあまりない。毒と邪眼から他人との接触を嫌う。そんなあいつが連れてきたのだ。これは見所があるかもしれない。彼女なら、俺に出来ないこともやってくれる。

 俺は剣技を磨いても、守れるのは身体だけ。心までは守れていないし、癒せなどしないのだ。あんな醜い感情を見せつけられた後だから、あいつの何もかも守れるなんてそんな傲慢なことは思えない。

 けれど彼女は、あいつに何か大切なことを教えてやってくれている。

 傍にいたいとは思う。それでも俺はあいつに与えられるものが何もない。教えてやれないどころか、もっと狭い場所に閉じこめてしまうような者だとたった今教えられたのだ。だからその役目は俺には出来ない。


(あの子と一緒にいることで、あいつに必要な何かが見つかれば……)


 死をも凌駕する強い感情。未練。死にたくないと思わせるような何か。それがあれば彼は死なない。生に繋ぎ止められる。

 彼だけが裁かれなければならない道理はないのだ。彼以上にもっと酷いことをしている人間はいる。そいつらが罰を逃れているのに、どうしてあいつだけ死ななければならない?そんなものはおかしい。あいつが死ななければならない理由なんてないはずだ。あいつが人を殺したのは世のため人のため、標的自身の自業自得と、因果応報。それから邪眼の暴走による事故。それにここはセネトレア。金と力なき者が悪。そういう理不尽な場所だ。こんなことは言いたくないが、この国では死はある意味で自業自得。死んだ者が悪い。そういう世界。

 それでもそんな言葉で、あいつを引き留めることは出来ないんだろう。あいつは言うんだ。殺した奴が悪い。だから自分は償わなければならないと。本来の地位を取り戻せば無かったことになるような罪。タロックの王も姫もあいつ以上に悪意を持って多くの人を殺している。それでもそれが許されている。

 地位も名誉も欲しがらない。金も愛も要らないという。何も欲しがらない人間は自身の生さえ投げ出す人間。そんな人間を生かすためには何が要るだろう?どうすればあいつを生に引き留められる?繋ぎ止められる?


(………そうだ、せめて……)


 せめてあいつが普通の人間だったなら。毒も邪眼も持たない普通の人間に戻れるなら。そうなったなら、あいつは生の喜びを知るだろうか?あいつが欲しているのは、たぶんそんなささやかなもの。あいつ以外の誰もが手にしているはずのもの。仕組まれた好意じゃない。周りから向けられる自然な好意や敵意。あいつが求めているのはそんな当たり前の事。

 マリー様は、あいつに名前を残した。血とか身分に縛られない、普通の人間として生きる自由な名前だ。那由多として苦しんだ分、傷ついた分、泣いた分……笑って暮らして欲しい。あの人はそう願っていた。俺はそれを守らなきゃいけなかった。あいつの兄貴として。

 けれど今……あの日一度あいつを見捨てた俺に、今更兄と名乗る資格はない。


(俺はあいつの幸福を守りたい)


 人としての幸せを。人間らしい生活を。あいつはこれまでずっと苦しんできた。報われたっていいはずだ。


(お前が望むことなら、俺はどんな手を使ってでもそれを守る)


 死以外の願いなら、生きるための願いなら、どんなことでもする。卑怯なことでも汚いことでも。そんな仕事を俺が請け負う。言ってくれれば俺が叶える。なんだってする。

 迷い鳥でのあいつを見ていると、こっちが苦しい。手を触れられない箱庭の人々の幸せ。寂しそうに、それでも幸せそうに笑うあいつは間違っている。

 あいつがその箱庭を守るために、手を汚し罪を重ねて苦しんで、裁かれることを望んでいるのに、そうやって守られている人間の内、何人があいつの苦しみを理解し、それを省みているのか。何も知らずに、ただ守られて、人間らしい生活を手に入れて、のうのうと暮らして居るんだ。心の底からあいつに感謝している人間が、一体何人いるだろう?

 身も心も捧げて、それでも報われることがない。そんなものをあいつは幸せなどと呼んでいる。それはおかしい。絶対におかしい。

 あいつの犠牲に感謝さえしない人間達を、どうしてそこまで思うんだ。それが責任だって勘違いしているのか。違う、違う。そうじゃないだろう?

 あいつが守りたいと思うもの。それが時々殺してやりたいほど憎らしい。それでもあいつがそんな奴らの幸せを願うなら、俺もぶっ殺してやりたいそれを守ってやる。

 でもそれはあんな奴らのためじゃない。あいつのためだ。だからだ。

 俺があの箱庭をとても憎らしく思うのは、そこにあいつがいないから。あの阿呆面で笑っている人間達の中にあいつも含んでくれるなら、俺だってあの場所をもっと愛せるさ。あそこを守っているのはあいつなのに、支えているのはあいつなのに、その中にあいつがいないのだ。それはとても理不尽な話じゃないか。

 あいつが箱庭から、世界から拒絶されるのは……あいつが毒人間だから。そうだ、だからだ。例え殺人鬼だって、そうすることであいつらを救い出しているんだ。その点に嫌悪するとは言わせない。言わせるものか。嫌悪するというのなら元の場所にもう一度帰してやる。それ以下の所で、あいつの味わった苦痛を思い知ればいい。


(戻してやりたいな……そんな方法があるのなら、あいつを普通の人間に)


 そう呟けば、響く透き通るような声。それが語る詩がある。俺そっくりの声はどこにもない。いつの間にかどこかへ消えてしまっていた。

 その声に示されるまま、俺は願う。手を伸ばす。救いをそこに求めるように。

 焼け付くような痛み。伸ばした手。目を開ける。掴んだ先には一人の人間。心配そうにこちらを見ている紫の色。こちらの意識が戻ったことに安堵するよう息を吐く彼。それでもそこに浮かんだ微笑みは、あの日とは違う。


「…………リフル?」


 何故だろう。俺はそれに驚いて、それが何故か…………とても、気に入らず…………薄気味悪かった。目の前にいるのは確かに記憶の中の人なのに、笑い方が違うのだ。

 あの夢を見たのは久々だ。目覚めていても表情は思い出せると思っても、やはり見るのと思い出すのとでは話が違う。今見た夢はこれまで見たそのどれよりもはっきりしていて……もう一度あの処刑を、棺をこの眼で見たのではないかと思ったほど。その直後だからこそ、その対比がありありとわかるのだ。

 今笑う主の笑みは……毒の眠りに苦しみながら、たった一人に大丈夫だよと笑みかけるあの微笑みじゃない。死の淵にありながら誰かを想える慈しみではない。ほっと息を吐く優しい笑みは、俺を見ていない。もっと多くを慈しむような曖昧なその視線。

 瞳を合わせても……まるで見つめ合ってる気がしない。何処か遠くを見ている瞳だ。彼の視野が広すぎて、そこに映る自分はちっぽけな虫のよう。手を伸ばせば届くのに、たぶんそうしたところで本当の意味では触れられなどしないのだろう。こいつの心は、それほどまでに遠かった。今まで俺は何を見ていたのか。こいつはいつもこんな風に俺を世界を見つめていたのか?

 死んでいる彼は、何も言わない。何も思わない。だから勝手に此方が想像したことが俺にとっての真実。

 目覚めて生きている彼は自分で語り考える人間。遠離っていく。手の届かないどこかへ。

 それは自分も相手も人間である以上当たり前のことであるはず。それなのに何故?それが……今更、とてつもなく恐ろしいことのように思い知らされている。遠離る彼が向かう先は黄泉だ。だからだ。手を放せばすぐに冥府に連れて行かれるような気がしてならない。


「……アスカ?」


 まだ意識がはっきりしないのかとこちらを案じる主の姿。夏の夜長とはいえ塔の上は涼しげで、おまけに嫌な想像のせいで冷や汗まで浮かんで俺の手には震えが走る。それを寒さのせいにして、俺は何気ない素振りで手を放す。気付かれたくなかったのだ。

 トーラのような情報関連の数術能力を持っていないことは知っている。それでも触れるこの手から、何か察してしまわれることが怖かった。夢で囁く悪魔の言葉は、この心にいくつもの棘を送り込んで来た。視線一つ、行動一つにその棘は痛みを発する。お前の正体を教えてやろうかと、取り繕った仮面を引きはがそうと動き出す。


「いや、急に倒れるなんてな。俺としたことが」


 その痛みを抑え、仮面を付け直し……欠伸と共に大きく伸びる。騙すことなら慣れている。そういうスキルには長けているから、きっと上手くやれているはず。

 先程までは頭上に光り輝いていた星も今はすっかり影を潜めている。急にやってきた曇り空が自身の心と重なるようでなんとも嫌な気分になる。


「もう遅いし宿に戻ろうぜ」


 何食わぬ顔をしてリフルの背中を軽く叩いた。その時にはもう自分を欺せていたから手の震えは収まっていたはずだ。そう信じたい。


 宿に戻っても結局その日は一睡も出来なかった。頭の中を駆けめぐる言葉の数々。他の部屋ではもう他の奴らが眠っていたようだし、護衛と称して同室に連れ込んだ主に寝台を譲ると疲れていたのかあっさり眠りについてしまった。

 端の方に丸まっているのは自分の分も空けてくれたからなのだろうか。こっちは眠気もないのでその丸まっている主を中央に移動させた後、床に転がる。

 天上に翳した手に刻まれたのはカードの証らしきもの。宿に帰ってから気付いたそれに、リフルも自分の手を見せてくれた。手の甲に刻まれたのは同じスペードの紋章。よくわからないがお揃いだとはしゃぐ心があったことは否定はしない。俺は何処の女子供だ。

 数の方は負けている。Ⅸとは何とも中途半端な数。リフルの方はKだったが、これが何を意味するのかはトーラから明日……というか今日か。詳しく聞いてみようと思い、目を閉じる。眠れない夜はとても長く感じたが、次第に空は白ずんで来るものだった。

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