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5:Credo ut intelligam

 夜の風は心地良い。しんと静まりかえった街の中、風の音だけがそこにある。

 このまま瞳を閉ざしていれば、この夜の間だけ、何処にも居なくなれるような気がする。夜はそんな優しい黒だ。

 でも目を明ければ、夜は完全な黒ではない。夜目で見るこの街は、もっと多くの色を抱えている。この髪も、この目も完全塗り潰してはくれないのだ。


(眠気がさっぱりやって来ないな……)


 今日は星が明るい。だからだろう。いまいち寝付けない。明日からの仕事のためには早く休まなければとは思う。それでも眠れないものは眠れない。意識すればするほどそうなってしまう。それなら気分転換に夜の散歩も悪くない。

 そんな気分でリフルの足が向かった先は、西裏町の古ぼけた時計塔。夜は誰もいないその場所で、風に吹かれていると、少しは気持ちも落ち着いてくる。

 もう使われることがなくなったその時計塔の針が動くことはない。人々は皆自分の家に時計を持っている。つい……何かあるとこの場所に引き寄せられてしまうのは、ここが落ち着く場所だからだろう。

 動かない時計。時を刻むことを止めた針。忘れられていく、寂れていく場所。それは何処か私に似ている。本来自分もそうやって忘れられていくべき人間。


「懐かしいな……」


 ここから飛び降りて、殆ど無傷。死ねない幸運を洛叉に見せつけたり、自暴自棄に陥っていた自分をトーラが見つけてくれたのもこの場所だった。しかしよくよく考えれば、彼とここに来たことはなかったような気がする。

 振り返る。二年前と変わった彼がそこにいる。離れている間にまた背を引き離された。たぶんもう二度と、追いつくことは出来ないだろう。

 彼は生きている人間。私は死んでいる人間。同じ場所にいても同じ時を生きることは出来ない。死んでいる私が死ぬことは当たり前。それでも生きている彼が彼らが死ぬのは認めたくはない話。彼らの分も罪を背って死にたい。裁かれたい。変わっていく彼らに生きていて欲しいと思うのは、私の我が儘なんだろうか。そう尋ねればすぐに頷き返される。それが分かるからそれは問わない。だから口から出るのは他の言葉だ。

 

「本当にお前は……何処でもついてくるなアスカ」


 ついてくるなと言っても彼は聞かない。それもそうか。彼は人間だ。奴隷でも道具でもない。人の何もかも言いなりに出来るなんて、するなんて傲慢だ。それでもついてこないで欲しい。私の死に場所までは。

 彼にも何かが見つかればいいのに。主である私以外に、何か生きるための(よすが)が。彼はもっと彼の世界を広げるべきだ。何も私に縛られる必要はない。私の傍を歩いたって、ろくな最期にはならない。そんなものが彼の、私の望みだとでも言うのだろうか?

 そうさせているのがこの邪眼なら、どうすれば彼を解放できるのか。私が死ねば、目が覚めるんだろうか?忘れてくれるんだろうか。それとも……?


(……無駄だろうな)


 リアは与えられる気持ちを大事にしろと言うけれど、アスカが相手では話は別だ。彼の場合はそう簡単な話ではないから。

 この男と自分を繋いでいるのは邪眼だけというわけでもない。アスカは母様との約束を大切にしている。そのために生きていると言っても過言ではない。邪眼と約束、その二つが彼をここまで頑なにしているのだ。


(母様も余計なことをしてくれたものだ……)


 その祈りは、むしろ呪いだ。本来自由を手にするべき人間である彼を道具へと縛り付ける忌まわしい鎖だ。

 いくつ言葉を重ねれば、彼に伝わるんだろう。願っても祈っても届かない。命令だって言っても聞いてくれない。結局は彼はここへ戻ってきてしまう。それでもそれを認めたくはなくて、言葉を積み重ねるのだろう。溜息ながら、放っておいてくれと。


「私だって子供じゃないんだ。天下に名を轟かせた殺人鬼だぞ?お前は過保護過ぎる」

「子供みてぇなもんだろ。目を離せばすぐどこかへ消えるわ、怪我するわ」


 ふて腐れたように、半ば諦めたように彼に伝えるも、彼は私の言葉を鼻で笑った。兄貴風を吹かせて、そうやって子供扱いして……私には自分が必要なのだとそんな風に装う。それは事実だけれど本当ではない。だから反発だってしたくなる。


「私はもう18だっ!お前と1歳しか違わないだろう!?……そうは見えないかもしれないが……」

「あー……はいはい、わかったわかった」


 文句を言っても適当な返事で流される。この男は本当に御しがたい。溜息が出る。こういう些細なことでは、こうやって折れることになるのはいつも自分のような気がする。


(全くわかってないじゃないか)


 宿から抜け出そうとしたところを見つかった。散歩くらい一人で行かせてくれても良いじゃないかと告げても彼が引き下がるわけもない。アスカはそういう人間だ。頑固というか意志が強いというか、一度決めたことは此方がどんなに文句を言っても叫いても聞いてくれない。……いや、人のことを言えないかもしれない。

 ある程度なら譲れても、限度がある。リフル自身もそういうところがあるから、衝突すればそのまま互いに譲れない。どこまでも平行線。そんな風に彼と口論したことがこれまで何度あるだろう?

 自分たちは価値観が違う。その上で互いに頭が固いからどちらも折れない。彼と同じものを同じように大切に思えるのなら、そんなことはなくなるのだろうけれど。


「……トーラが言ってた。今日、星が降る」

「…………そうか。今日だったのか。そろそろだとは思っていたが」

「…………」


 アスカは冷たい石壁に背を預け、空を見上げる。もたらされた情報は、あの時トーラがアスカに耳打ちしたものだろう。だから彼は此方を見ていたのだろう。

 星が降れば、この強運も終わる。死ねる身体に戻れる。その時、リフルがすぐに命を絶つ危険性をトーラは危惧していたのだろう。


「アスカ、私も自分の立場くらいは理解しているつもりだ」


 そんなに自分は危うく映っているのだろうか?確かに死に焦がれる思いは存在している。

 死ねない幸運から解放される。それが嬉しい。殺人鬼Suitとして裁かれること。罪を贖うこと。

 その時にやっと……置いて行かれたままの自分が、周りの人々と……同じになれたような気がする。戻れるような気がする、本当の人間に。

 それでも……投げ出してはいけないものが、この背中の上にあるのだ。重すぎる責任と義務。それでも絶対に捨ててはならないもの。それが那由多が抱えるべきものだ。


「半年前までの私は教会に頼りきりだった。私が罪を犯しさえすれば、全てが丸く収まるのだと信じていた。私が標的を殺す。教会が奴隷を保護する、移民として亡命させる。それを続けた先、殺すべき人間全てを殺せば、全てが終わるのだと信じていたんだ」


 何かを変えること。それはこんなに難しい。私は愚かだった。世界は私が思う以上に腐りきっていた。ラハイアのような人間が居るから聖教会も捨てたものじゃないと頭のどこかで考えていた。それが誤り。彼自身が善人でも、それは彼だけ。彼の属する組織は完全に終わっていた。自分と彼が一年半続けてきたことは、何の意味もなかったのだ。


「けれど、結果として私の判断は誤りだった。助けたつもりでいた人々を、もっと辛い境遇へと送り込む原因になっていた。全ては教会に救うことを丸投げしていた私の責任。私が本当に彼らを守りたいのなら、救いたいのなら……私がそれをやらなかればいけなかったのに」


 私は王の器にない、混血だから、人殺しだから……そうやっていつも逃げていた。人を救うような資格もない。私なんかに救われたい人間も居ないだろう。今だってそう思う。

 それでも、逃げてはいけなかった。ラハイアに頼り切り、彼の裏方に周り支援をしても駄目だったんだ。

 彼は彼で教会を変え、この国を変える。私は私で出来ることをする。それが最善だともっと早くに気付くべきだった。元々亡命までの一時凌ぎに復興させたライトバウアー。教会の真実を知り、あの場所を奴隷の受け入れ先へと変えたのは半年前。シャトランジアが、聖教会が信じられない以上、それに代わる場所が必要だった。


「人を守るというのは難しいな。あの場所で自給自足のような生活を行うにも、資金は必要だ。設備投資もある。多くの人間の衣食住を保証するというのは、こんなに大変なことだったなんて……私は知らなかったよ。その全てを教会に任せきりだったから」


 シャトランジアが……聖教会が行っている活動もやはり金は要る。それは寄付金だったり、或いは税金だったり、そういったもので賄われていることだ。それを国でもない自分たちが同じ事をするには、やはり金が要る。

 リフルが暗殺業に復帰しても、殺人鬼Suitの復活を世間が騒がなかったのは犯行の手口が変わったから。長年毒で麻痺していた痛覚が戻ってきたのも一つの原因だが、毒から素性が知れないように、ゼクヴェンツの使用は極力控えろとはトーラの言葉。他の毒で殺すようにしているが、変わったことはそれだけではない。前まではただ殺すだけだった仕事も、多くの人間を養わなければならないとなると……目的が一つそこに付け加えられる。

 保護した人間すべての生活の保障をトーラが情報を売って稼いだ金を頼るというのは出来ない話。いくら彼女の組織が莫大な財を持っていたとしても、それは無限ではない。元々TORAは混血を守るための組織だが、大勢の奴隷達を助けるために組織を経営維持する分までの金まで消費しては意味がない。組織が立ちゆかなくなれば、TORAという組織を失えば、西側の秩序は完全に崩壊する。

 それでも増えていく人々を養うためには金が要る。だからリフルは殺した人間から、奴隷達への行為に対する慰謝料分程度の金品を奪ってくる必要が出てきた。綺麗事では国も人も救えないのだ。そうやって汚れた金と力で救われた者は、リフルを嫌悪するだろう。


「本当にこの世の中は何をするにも金だ……嫌になるよ。私には殺すことしかできないから、金を生み出すようなことも難しい」


 金持ち相手に媚び売って暗殺を行うならば、金は確かに手に入る。けれどそうして殺される相手に罪は無い。自分の利益のためだけに相手の死を望む人間からの仕事は受けない。金はない。支払う力もない。だって給料さえ奴隷は手に出来ない。そんな相手を救うための暗殺だ。元々仕事をする度に赤字になるような仕事。

 救うためには手段が要る。馬車?船?それを動かすのも借りるのも金。それが困難ならば所有するにはもっと金。それに代わる力を持つ数術使い達は確かに有能だが、彼らの力だって何の負担もないわけではない。彼らを酷使して死なせるようなことがあってはならない。救うべき相手のために今いる者達を酷使し消費するわけにもいかない。別の存在を救うことと守ること、それを同時行わなければならないのだ。

 例えば50人を救うために100人を配置し100人を犠牲にして50人を救い出す価値はあるのか?組織としてそこに意味はない。こういう場合まずトーラは動けない。そもそも暗殺請負組織としての殺人鬼Suitはそんな風に身動きの取れないトーラに代わり、救える命を救うことが目的だった。

 50人でも100人でも、それを救うために投げ込まれる命が1ならば組織にとってそれは痛くもない数字。自分がその1。それでこれまでは上手くいっていた……そう思っていた。それがラハイアの後方支援を宛に出来なくなっただけで、こんなにも無力。殺すだけなら容易い仕事。そこからだ。そこからが問題だった。たった一人で大勢の人間を無傷で連れ出すことの難しさ。

 忍び込むのは簡単だ。失敗しても死ぬのは自分だけ。そう思えばどんなことでも怖くない。

 それでもアスカが、フォースがついてくる。もし彼らに何かがあったら、そう思うと何もかもが怖くて堪らない。自分の行動一つ一つが恐ろしい。それが彼らの死に直結するかも知れないと思うのだ。

 せめてリフル自身にもトーラのような空間転移の数術が使えるなら、もっと効率的に仕事をこなせるかもしれない。それでもトーラや彼女並みに高等数術を扱える人間はTORAという組織にとっても大事な人間。それを簡単に借り受け身の危険に晒すことはあまり良いことではない。トーラをgimmickのアジトに連れて行ったこと自体、組織にとってはマイナスなのだから、あんな風に彼女を連れ歩くことは極力避けたい。

 そうなればやはり猫の手でも借りる必要はあって、アスカやフォースの助力は助かっている。それは事実だ。


「いっそ私が再び奴隷になって、その対価の金であの街を支えて……そして金が渡ったらすぐに逃げて……その繰り返し。そんな詐欺でもしようかと思ったよ」

「そんなにすぐ片割れ殺しの混血があっちこっちで出没したら商売あがったりだろ。お前は珍しい分目立つんだ」

「……そうだな。本当に私は何をするにも面倒だ。しかしそれなら短期即日がっぽり高収入な店ででも働くか。コンスタントに金が入るぞ?私の毒に勝てる菌はないから病気の心配もない」

「あのなぁ……そういう自虐的な冗談は止めろ、笑えねぇから。それにお前は毒あっだろ」

「言われてみればそうだったな。……アスカがあまりに私を人間扱いするから悪い」

「俺のせいかよ」

「ああ、お前のせいだ」


 自分のせいにされたことに何やらブツブツと不満そうな物言いを続けるアスカを横目見て、自然と笑みが浮かんで溢れる。


「……ついついお前の傍では忘れてしまいそうになる」


 小さく漏らした言葉が聞こえたのか、彼は何も言わなくなった。唯、風の音を聞いている。

 毒人間だとわかっているのに、手袋も付けずに頭を撫でたり肩に触れたりアスカは平気で行う。二年前に出会った夜にも、素手で涙に触れてくれたのだった。

 そんな彼の優しさに触れて、凍った心が解け出して……道具から人に戻ることが出来たのだ。

 だから瑠璃椿は本当にアスカが大事だったし、道具として必要とされることが何よりの幸せだった。本当を教えられ、自分を取り戻した後も……その気持ちは続いている。道具としての心はいつだって彼の傍にある。それでも人としての心はそうはいかない。人としての自分も彼が大切なのは変わりないから、普段はそれで問題はない。それでも二つの心は時に反発し、この身を苛む。

 だからこそ、彼に限っては……何もかも心を明け渡すことは出来ない。素直に何かを告げると言うことが不可能なのだ。どちらかを告げればどちらかが嘘になる。なんとも割り切れない思いが本当なのだから。

 だから言い淀む。何かを言いたくても、何も言えなくなる。


「……人はどうして金なんてものを作ったのだろう」


 そうして自分はいつも自分のことから逃げる。もっと多くのことを見る振りをして、自分の心などどうでもいいと切り捨て、結果としてそれを隠してしまうことばかり。実際その通りだと思うのだからそう間違いでもないはずだ。

 考えるべき事は山ほどある。下らない自分のことを思い悩む暇があるなら、違うことで悩みたい。悩んだところで解決しない問題も少なくないが、考えもせず悩みもせずに浮かぶ糸口など自分の中には存在しないとそう思う。

 話題の変更にもこの男はついてくる。蒸し返すような素振りも見せない。横道に逸れる前までそれに近い話をしていたのだ。そこまで不思議でもなかったのかもしれない。


 金、金、金……金。ただ生きている。ただ生きていくだけ。それ以上を望まなくとも、金は生に関わってくる。それ自体は食べられるわけでもない。暖になるわけでもない。疲れを癒してもくれない。ただ光り輝き、キラキラとしているだけのもの。そこに何故人は価値を見出した?価値を与えた?


「金ねぇ……このセネトレアっていう国の根本、土台で大前提でが金だからな」


 住まう国の全否定を切り出したリフルにアスカは苦笑する。


「俺も金さえあれば……そう思った時期があったな」

「そうなのか?」


 告げられた言葉は意外な物だ。

 あれば使うしあれば食う。けれど好んで何かを求める風ではない。別にないならないでも構わない。口やかましくはあるが物欲の薄そうなアスカが拝金主義を語った時代があったとは。


「あのな……普通わからねぇ?俺が何のために請負組織なんかはじめたと思ってたんだ?」

「家賃滞納とかでディジットに追い出されそうになったからじゃなかったのか?」

「俺はそこまで甲斐性無しに見えるのか?」

「元が貴族とは思えない程、その日暮らしっぽい適当な生活感を漂わせていると思う」

「お、俺だってそれなりに蓄えてるんだからな!裏情報買うためにそれなりに貯め込んで……なんならそいつ全額迷い鳥に寄付してやるよ。どうせそんなに使わねぇしな。これといって今欲しいもんもねぇし」

「それはいけないぞアスカ。このご時世何があるかわからないし、お前だってそろそろいい年なんだから嫁の一人や二人……」

「今の今っ!1歳しか違わねぇって言った口が俺を年寄り扱いすんなよな……」

「いや、二人は駄目だな。その場合お前を見損なうから自重してくれ」

「とりあえずそんなに俺とフラグ立ってる女がいるかどうかがまず最初にして最大の問題だな。つか主のお前より先に部下の俺が結婚だなんて無礼極まりねぇ話しだろ」

「まぁそんな良い感じの娘さんと添い遂げた場合とかにだな、結婚資金やら生活費、育児費にも金はかかるわけだ」

「あ、スルーですか……割と良いこと言ったつもりだったのに」

「お前が早くに両親を亡くし寂しい思いをした分、お前は幸せな家庭を築く義務と権利があるわけで、お前の家族に同じ思いをさせないためにも金はやはり必要で……」

「なぁ、ちょっといいか?」

「何だ?」

「お前の頭の中で、俺は一体どういうことになってるのかちょいと教えてくれねぇか?」

「なんだかんだでディジット辺りとくっついて、子煩悩な父親をやっているな。子供は今のところ二人で、来年三人目が生まれるらしい。息子には容赦なく、娘は溺愛」

「それって子煩悩って言うのか?」

「さぁ?」

「ていうか俺とディジットのフラグってまだ健在なのか?ていうかそもそも最初から立ってたどうかは怪しくね?」

「最近先生とディジットは微妙な感じだからな。まだアスカの方が部があると見た。漁夫の利で。そういうのがアスカの趣味だろう?」

「結婚は人生の墓場だろ?漁夫の利で結婚なんかしたくねぇな。そりゃ略奪愛は燃えっけどなぁなぁで結婚はどうよ?俺的には略奪愛で始まって最終的に通行人が挙って唾を吐き捨てるくらいに相思相愛って感じじゃねぇと結婚とか考えられねぇな。或いは元々フラグ立ってた相手をどこぞの馬の骨相手にNTRてそれを更に取り返す感じの略奪愛でも可」

「所でこんな所で微妙な性癖をぶっちゃけてしまっていいのか?」

「人の趣味を微妙とか言うなよなお前。まぁいい。続けてくれ」

「それで“パパのと一緒に私の服洗濯しないで”とか言われて家の隅で泣いているアスカの図」

「……ありそうで怖ぇな。相手や娘の顔は全然だが、何故かその構図だけはイメージ出来る」

「そして娘の恋人が現れた日には半殺しにする勢いで得物を持ち出して斬りかかり……」

「まぁ、それは当然だろ。俺に勝てないような男に俺の娘はやれん」

「結果的には奥さんの鉄拳制裁で止められている」

「まぁ、……相手がディジットならそうなるな」

「最終的にほったらかしのせいですれて性格がねじ曲がった息子が可哀想なんで訪ねに行ったアルムやフォースが遊び相手になっている……ところまでは想像していた」

「何であいつらなんだ?お前は遊びに来ねぇのかよ。家で肩身狭い思いしてる涙目の俺が指折り数えて待ってるってのに……っていうか想像しただけで結婚って墓場だな。家に俺の居場所なくね?」

「まぁ、世の中そんなものだ。ちなみに私はその頃既に死んでいる設定で。死因は斬首か絞首刑か火刑か磔刑か、どれになるか楽しみだな。まぁ罪人にも墓くらいはあるだろう。気が向いたらたまには墓参りにでも来てくれ。土産は特にいらないぞ。花も酒も供え物も食えない身分だからな。どうしてもと言うのなら墓の前で官能小説でも朗読してくれ大声で。地獄は娯楽がなさそうな上、私は死んでいるから頁を捲ることが出来ないからな」

「勝手に殺すな!つか何だその羞恥プレイはっ!!」


 なんだその斬新すぎる妄想はとツッコミ代わりに一発殴られた。割と思いきり。毒を恐れる気配が彼は本当に薄い。微塵にも感じられない自然な動作だった。


「しかし割と本気で殴らなかったか?そこそこ痛いぞ。かなり痛いぞ、それなりに。また記憶喪失になったらどうするんだ?責任とってくれるのか?」

「責任って何の責任だよ。面倒見ろって?」

「いや、責任持っていっそのこと殺してくれ」

「そうか、もう一発やられたいわけか」

「冗談を。私もそこまでMじゃない。というか本当に打ち所悪くてそうなったらどうしてくれる……」

「そこまでって……妙な言い方を。ってそんなの俺が都合の良いことだけ言い聞かせて洗脳するに決まってるだろ。そうすりゃお前の自殺願望もなくなるだろうし。つかお前はどっちかっていうと限りなくそっちだろ」

「流石アスカだ。恥ずかし気もなくよくそこまで清々しく卑怯を口に出来るとは。……何?そんな風に思われていたとは心外だ。私だってその日の気分や状況や相手によって使い分けるだけの技量も器量もあるぞ」

「マジで?……いやまぁそれはどうでもいいけどよ、その前のは冗談に決まってんだろうが。本気にしたのか?」

「いや、むしろ私が冗談だ。前文と後文のどちらが冗談かは判断に任せよう」

「うん……なんか俺の悪影響ってあるんだな。お前がそんな面倒な言い回し覚えちまったのって、大体俺のせいだよな?次は気をつけるわ」

「よろしく頼む」


 溜息ながら頭を掻くアスカを見上げ、確かに彼の影響だろうとそう思う。

 意味を成さない言葉の押収は言葉の壁だ。アスカはセネトレアを生きる内に、嘘が上手くなったから、言葉の一つ一つにもその癖が染みついてしまっている。無駄な言葉が多い分、真面目に彼の話の全てを聞く者はいない。そこにうっかり真実を落としてしまっても、気付かれる可能性は低い。

 つまりアスカという人間も、自身の心を表現し、他者に伝えるスキルに欠けた人間なのだろう。本当はもっとしっかりした頼り甲斐のある人間なのに、適当を装いちゃらんぽらんに見える彼だからこそ……何年かかってもディジット一人口説き落とせないのだ。

 そんな彼を相手にすると、釣られるように此方も適当な言葉を発してしまう。踏み込まない会話には痛みがない。だから楽しいとさえ思う。アスカはそうやってリ私を笑わせようとしてくれているのだ自ら道化を買って。

 アスカとの会話は楽しい。それでも何か物足りないと思うのは、この心に触れて欲しいと思う心があるからだろうか。自分から踏み込まない癖に、踏み込んで欲しいと思うのは、とても自己中心的な思いだろう。それなら此方から彼の心に手を伸ばす必要がある。

 理解されているけれど、理解していない。理解しているつもりで、本当は何もわかっていない。把握的でいない部分が多すぎる。


「まぁ……でもそん時は、また同じ事をするだけだ。お前が思い出したいって言うんなら記憶探しを何度だって手伝うさ。思い出したくねぇって言うんなら俺は特に何も言わねぇぜ」


 人の良い笑みで、そんな風に言ってくれる彼が自分を大切に思っていてくれるのは重々承知。それでも結果しか見えない今により多くを欲してしまう。知りたいのはその過程。


「俺が金を集めてたのはな……お前のためだ」


 見計らったように壁を取り払うその言葉。こちらの考えなんか全部筒抜けなんじゃないだろうか?そんな風に感じてしまうタイミングだった。


「トーラは何でも知っている。それを信じて死に物狂いで金を集めた。金を集めりゃ情報が買える。お前と棺の在処がわかるんだって信じてな」


 その言葉は手のようだ。この手を引っ張り心の境界を越えさせようと引き寄せる。長すぎる言葉を終えて、ようやく彼が胸の内を語ってくれている。

 逃げ出してはいけない。それは分かっている。分かっているが、彼の言葉は思いは重すぎて強すぎて。ちっぽけな自分では抱えきれずに受け止められずに押し潰されそうで、足が竦むのだ。

 どうしてそこまでしてくれる?理由は既に聞いている。それでもそれだけでは納得出来ない何かがそこから感じられる。そして……それこそが邪眼の生み出すものなのではと恐れずにはいられない。


「結局はトーラの奴に乗せられて踊らされて、お前には会えたが利用されてあの様だ」

「なるほど……それで金、か。確かに情報も一つの商品だしな」


 ごめんアスカ。本当にごめん。逃げてしまった。逃げてしまった。

 けれどまだ会話に金の繋がりはある。話を引き戻しただけだ。きっとそうだ。全然いける。大丈夫。

 しかし心を開いた瞬間に逃げ出して、経済問題について語り出す自分の姿は情けない。それでもアスカが気にした様子はやはりない。


(もしかしたらアスカは……速度を合わせてくれている?)


 彼の方が足が長いのに、歩幅を合わせてくれている。会話からもそんな空気を密かに感じる。探りを入れて、時期を見ている?此方が預けられた心を支えられるようになれるまで、口を閉ざしているつもり?そんなに私は分かり易いのだろうか。

 まるで自分自身よりも深く正しく理解されているような気さえする。それがそこまで嫌だと感じないのがまた不思議。


「金……」


 自分で引き戻した話題とはいえ、挙動不審気味の精神状態では何を言いたかったのか何を話していたのかをいまいち思い出せない。

 そんな私に代わり助け船を出してくれるのもやはりアスカで、何とも言えない申し訳ない気持ちになる。


「要は今のセネトレア中心経済っていうのは金に重きを置きすぎて、価値を見出す目が曇り、他の尺度を忘れちまってるってことだよな」

「……そうなるな」


 お前もよくわかっているじゃないか、見直した。さもそんな表情を浮かべているがそんなことは全くない。本当にごめんアスカ。


「人の幸福も人の価値も金一つで決めようってんだ。貴族とか奴隷とか混血とか……差別とか偏見なくすには、今の経済について改める必要があるのは確かだな。奴隷貿易には巨額の金が絡んでやがる以上」

「……セネトレアという国が機能しなくなれば一時的にそれは崩壊する。その隙にどれだけこの国を変えさせるか、ということか」


 ようやく本調子を取り戻した。このまま話を進めよう。


「だな。俺たちはその崩壊のための混乱の切っ掛けくらいにはなれるだろうが、国を立て直せる人材ってのも必要だ。その辺は一回トーラを交えて本腰入れて話し合う必要があるだろうな」

「本当にこの国は、何から何まで金ばかりだな……。金なんて面倒なものがあるから……」


 いや、貨幣経済というものが存在しない物々交換の世界にもレートはある。人は数字に支配されている。金が悪だという訳ではない。憎むべきは、数字だ。


「いや、違う。数字という概念が存在するからこそ、この世界はこんなに不幸と悪意に満ちあふれているように思う」


 身長体重、年齢、年収、頭脳指数?鼻の高さ?足の長さ?或いは胸囲?ウエスト?数え上げればキリがない。実に下らない数値の押収。人が人を測るのは数字。その尺度で人は世界を認識している。人はそれだけじゃない。数字なんて傲慢で適当なもので全てを言い表せるような単純なものではない。

 それでもその傲慢な数字は、本来自由であるはず人の心さえも侵すのだ。一人が寂しいとか、大切な人と二人で居る幸せだとか、そんな風に感じる心も数に支配されている証拠。まぁ、一人が気が楽だとか、他人が煩わしいというのもそれと恐らく同じ事。

 見えている世界。聞こえている音。感じるものすべて、それは数字という名の神に支配されている。それのなんと、薄気味悪いことか。かつて洛叉が刃向かったのも、トーラがアスカを利用しようとしたのも、その神を恐れたがため。五感全てを失えば、ようやく人は数字という神から解き放たれるのだろうか?それともそれは脳が活動を止めるまで続いていくのだろうか?少なくとも今、この瞬間……自分たちは目にも見えない触れられない、それでいて絶対の存在に支配されている、薄気味悪い感覚。それが生。


「……私がこれまで憎んだ人間も、今日まで殺した人間も……皆奴隷だったのかもしれない。人の心さえ数字という神の手の内ならば、そこに人の自由がないのなら……全ての人は等しく神の奴隷だ」


 生まれながら与えられた数。それに縛られている。仕組まれている。そして踊るだけの存在、それが人間なのだとしたら。


「その全てが奴隷なら……私はどうすればいいんだろう。全てをなんて、救えない。私じゃ無理だ」


 それならそうだ……皆が愚かであればいいのに。正確な数も分からない、そんな馬鹿な人間達で溢れかえればいい。正確な時間も分からない。日付も分からない。それでもその場所は、ここより多少はマシな場所。そうすれば誰も傲らない。誰も僻まない。奪い合う争いもそこには無いはず。言っていて虚しい言葉だ。それは悲しく響くだけで何の意味も成さない。


「思うだけで叶うなら、祈るだけで救えるのなら何だってする。……私は、そうするのに」


 今まで何度も答えや助け船をくれたアスカが何も言わない。ただじっと此方を見つめるだけだ。

 アスカが言い返せないのは、彼もそんな風に感じているからなのかもしれない。いや、きっと誰もがそうだ。祈るだけで世界が平和になるのなら、とっくの昔にこの世は平和になっている。祈りでは何も救えないのだと、自分も彼も知っているのだ。これまで何度も祈っては、裏切られてきたのだから。

 大いなる数字。神は確かにいるのかもしれない。それでも神は人を救わない。だから人が人を救わなければ、この世界が救われることはない。

 それでもいろんな人が世界にはいるから、願いや祈りは対立する。誰かの幸せは、誰かの不幸。人は誰しも異なる生き物。完全に価値観を統一出来ない以上、万民の幸福など存在し得ない。人は生まれながら誰かを傷付けることを約束されている。それが生。だから生きることは罪深い。人は全てを守ることなど出来ないのだ。それが世界が抱える真理の一つ。


「だから人は、選択をするのだろうか。自分の力量を踏まえて、守れる範囲を確かめて……そうやって守りたいものを決めるんだ」

「…………お前は何を守りたいんだ?」

「私は…………」


 守りたいもの。それは沢山ある。それでも自分の身体一つで守れるものはどれだけあるのだろう?

 リアの言っていたことが、少し分かったような気がする。彼女は自分の夢のためなら利き手以外の全てを失っても構わないと口にした。

 それは、私自身も思う。

 両腕を、両目を、両足を。それを切って捨てることで叶う夢があるのなら、歩けなくなっていい何も見えなくてもいい、誰かに触れることが出来なくなってもいい。願いが自分の身体を切り捨てることで届く容易いものならば、幾らだって切り裂こう。痛みに溺れて構わない。……それでも、それでは何も救えない。願うだけでは何にも届かないのだ。だから……


「たった一つを私が選ばなければならないなら……私は民だ。他に何も要らない。金も地位も名誉も要らない。過去も未来も愛さえ要らない。捨てられるもの全て、私から捨て去ってしまっていい。その対価で私の民を守れるのなら……」


 それならばお前にとっての民とは何か。ふたつの深い緑が問いかける。

 その深い色に見つめられ、そこに映る自分の姿。そこから異なる名前が語り出すのが見えてくる。

(今なら……伝えられるかもしれない)


 私の中には異なる私が4つある。その異なる名前。

 その内1つは既に死んでいる。二度と呼ばれることもないだろう。主を失った奴隷の名前……瑠璃椿。この名はもう何かを求めることはないだろう。これは奴隷の名。奴隷が民を持つことなどあり得ないのだから。

 それに代わって名付けられたのが今名乗っているリフルという名。アスカから託され母から与えられた最初で最後の……毒以外の贈り物。この身の幸福を願われた言葉。この名が求めるものは何だろう?

 自ら名付けた殺人鬼としての名がSuit。誰でもないし何でもない者。模様名乗りながらどの模様とも語らない、どの国にも属さない抽象的な名前。法がないのなら法に代わる恐怖に。願いが届かないのなら願いを叶える代行者に。その名が欲するものは何だろう?

 そして最も古い那由多という名前。それは私にとって僅かの誇りと重すぎる責任を意味する名前。おそらく死ぬまで、或いは死んでもこの名が生み出す責任から私は逃れられないのだろう。それが王族としての宿命だ。だからこそこの名から逃げることがあってはならない。それも事実だ。

 4つの名前を振り返り……顔を上げて彼を見る。深緑の瞳はそれをじっと待っていた。


(いや……、伝えなければ)


 いつも守ってくれる。支えてくれる。わけもわからないままそれに甘えてしまっている。でもそれではいけない。自分だって彼らが……彼が大切で、守りたいし支えたいと願っているのだ。

 声が震えそうになる。それでも息を吸い込んで、意を決して口を開いた。


「瑠璃椿は……お嬢様を」


 そして彼女と記憶を失ってからは……


「いつも守られてばかりだったけれど……アスカ、あの日の私は何より誰よりお前を守りたかった」


 これまでちゃんと伝えたことはなかったはずだ。それを告げられたアスカは、僅かに緑の双眸を見開いて……それでもそれは過去形だ。瑠璃椿はもう死んだのだ。それに気付いたアスカの目は、少しだけ寂しそうに微笑んだ。

 主だけが大切だった奴隷はもう何処にも居ないのだ。増えた名前、取り戻した名前。それらが告げる大切なものを、守りたいものをひとつだけ選ぶなんて出来なくなってしまったから。


「Suitは全ての奴隷と混血を。那由多はタロックの民を。リフルは……自分の傍の大切な人を守りたい。そう思う。それは我が儘だろうか?傲慢だろうか?」


 守りたい人は大勢いるのに、この身体は一つしかない。守りきれるだろうか。明日からはトーラさえ見えない未来が始まる。世界が荒れる。世界が動く。得体の知れない何かに飲み込まれていく。不安で身体が震える。逃げ出したくて堪らない。でも、何処へ?そんな場所、この地上のどこにもないのに。


「私は私の弱さが口惜しい」


 あり得ない話。それでも例えばの話。例え自分が弱くとも……もしこの身体がもっと大きかったなら。どうせ化け物呼ばわりされるのだ。本当に化け物だったなら。街一つ、国一つを覆い被さって包み込んで飲み込んで……そのまま全てを守れるような盾になる。そうしてこの身を捧げよう。あるいは私が剣になる。悪い者全てを踏みつぶせるような力に変わる。

 それでも暗い空に翳す手は、とても小さく白く頼りない。街一つどころか、自分一人守りきれないような小さな手。重すぎて長すぎて、長剣などとてもじゃないが扱えない情けないこの両手。何年も前から変わらない、子供のままの小さな手。時の止まった私の手。 


「私がもっと強かったなら、私は自信を持つことが出来ただろうか。そうしていれば、私はもっと多くを為せたのかもしれない。例え王にはなれなくても、資格がなくとも……私の大切な民が平和に暮らせる場所。それを作ることを、私は諦めてはいけなかったんだ。私は逃げてはいけなかったんだ。私の責任から……」


 目の前の彼も、一つの責任。彼をこの眼で狂わせたのなら、自分は彼から逃げてはならない。その先にどんな結末が待っていようと、私は彼から逃げてはならない。きっと、そうなのだろう。

 心は開いた。ここにいる。踏み込まれるのを待っている。


「私は願いがある。その夢を叶えるまで、私は死なない。何を失っても私は生きる。私にはまだやるべきことがある。だから無茶はしない。自分の命を軽んじない。お前に誓おう」


 彼から護身用にと贈られた短剣。それを彼へと差し出した。

 ゼクヴェンツは使わない。痛覚が戻ったと知る彼は、私の怪我を忌まわしく思っている。これを失えば、自分を傷付ける手段を失うけれど、自らを殺めるつもりはないと、彼へ約束するために、それを失うべきだった。


「だからアスカ……もしお前が私の目に毒されているのだとしても。……私はお前が必要だ。どうかその日まで、弱い私を助けて欲しい」


 リアに言われた。彼や彼女に報いるには、自分が変わらなければならないと。

 我が儘な言葉。エゴ丸出しの言葉。彼を利用しようとしているだけ。そう言われればそれまでだけれど、自分は必要としている。彼の力が必要だ。

 欲しいのは盾じゃない。この身を守るための道具じゃない。欲しいのは剣。至らない我が身を支え、力ないこの腕に力を与えてくれるもの。

 私を守るものじゃない。私の守りたいものを守るための力。この武器の代わりに私の傍で私の剣になってくれ。差し出した手。それは短剣ごと掴み返される。


「アスカ……?」

「…………俺はお前を信じる。お前の言葉を信じる。だからそいつはお前が持ってろ」


 ふっと彼が微笑する。此方の言葉に満足そうに、彼は優し気な笑みを湛えていた。


「お前は俺の主だ。それでもお前は子供じゃない。女でもない。それなら自分の身ひとつくらいは自分で守ってくれるよな?」


 突き放すような、試すようなその言葉。その真意と言葉の含み。その答えは彼の中にあった。それが与えられる信頼なのだと目を見るだけですぐにわかった。


「……お前がお前を守って生きてくれるんなら、俺がお前を守る必要はない。それなら俺はお前を助ける。お前が守りたいものを俺が守る、全力で……命がけでそれを守ってやる」

「アスカ……」

「リフル様……その命令、喜んでお受けします」


 彼が足下に跪く。止めてくれとは言えなかった。彼が、本当に嬉しそうに笑うから。

 では、何と言えばいいのだろう。

 ありがとうでは語り尽くせない感謝の気持ち。伝えた心を理解し受け止めてくれたこと。それに対する喜びのようなもの。

 わからない。その言葉を自分の中で探す内……不意に視界が闇に包まれる。掴まれていた手は見えない。目の前にいた人も見えない。一面の黒。欲していたその色は不可思議な光景。現実味を感じない。だってそれはあり得ないもの。夜の中にだってそんなものは存在しない。


(ああ……そうだ)


 トーラは言った。星が降る。それがどういう形で現れるものかは分からなかったがピンと来た。これが星だ。星は今、落ちたのだ。

 笑う男。泣く女。冷たい床の温度。毒が身体の中で暴れ出す死の痛み。

 心身共に浸食されていく。人から道具へ……物へと落ちていく痛み。

 優しく微笑む少女が狂い出す姿。切り刻まれ動かない男。女の哄笑。赤い色。ボロボロとこぼれ落ちていく。刻まれていく身体。燃える赤。殺し合う人々。首が転がる。椿の花のようにボロボロと……人の命が消えていく。虚ろな瞳の瑠璃椿。人を刈るだけの花。枯れない花。それでも終わりを望む花。

 黒は様々な景色を映す。記憶の中の声。懐かしいものばかり。忌まわしい記憶もそこにはある。それでもそれが今へと至る道。

 否定したい過去は確かにある。受け入れがたい現実もある。それでもそれを無かったことには出来ないし、してはならない。その全てを背負う責任が私にはある。逃げ出してはならない。全てと向き合うと、決めたのだ。


(下らないな。こんなものを私に見せて何が言いたい?)

 《お前は……私は憎んでいる。そうだろう?下らない、下らない……こんな世界を》


 闇に響く声。それは自分のそれとよく似た声。

 屈するものか。過去の感情に引き摺られて堪るか。過去は過去。憎らしく愛おしく呪わしい私の過去。そこに残した想いの欠片。それはそこに置き去りのままでいい。そして時を留めよう。那由多も瑠璃椿も眠りに就いた。リフルは今を生きている。


(私は今の私が思うことを、感じたことを信じたい)


 神や数字などに操られて堪るか。私は道具じゃない。奴隷じゃない。人間だ。

 身体の奴隷に下る程度なら好きにすればいい。一度や二度も同じ事。

 それでも操られてなるのか。神なんて傲慢な者に、この心を明け渡しはしない。私は民以外を望まない。奪うというのならこの意思以外を根刮ぎ奪えばいいじゃないか。死んだって、殺されたって、この意思だけは譲らない。侵させて堪るものか。


 洛叉は神に挑んだ。邪眼の力に抗うために、自分の心に刃向かった。望まぬことを行うことこそ、神に抗う術だと信じた。けれどこの傲慢な数字は、それさえ計算の内だったと笑うのだろう。

 そう。神はどちらでも構わないのだ。心のままに生きること、或いは心に逆らい生きること。


(神という存在を信じたら、そこでもう負けなんだ)


 それが確かにいるのだとしても、自分は絶対に認めない。ここは人の世だ。神などいない。私の民を、……俺の国を、勝手に虐げ支配するお前。神というその言葉で何をやっても許されると思っているのか?

 人を慈しむ事を知らない存在に、守るべきものを譲り渡すことなど出来ない。神の審判?笑わせるな。壊すくらいなら、最初から作るな。失望するくらいなら最初から期待するな。思い通りにならないからって壊すなんて唯の子供だ。そんな自己中心的な存在が神だって?そんなものは神などであるはずがない。少なくとも俺は認めはしない。


(確かに俺はこんな世界は大嫌いだ!憎んでいる!)


 それでも俺は……こんな場所で出会った大切な人がいる。守りたい場所がある。それを傷付けるというなら許さない。相手が人でも神でも構わない。誰であっても許さない。裁かれるべき人間は、罪を犯した人間だけだ。罪なき人を苦しめるなら、神だって俺と同じだ。それは唯の人殺しだ。それなのに何故神は裁かれない?人が虫を殺して罪を裁かれないのと同じ事?それなら神など人をその程度にしか感じていないのだ。殺すことを何とも思わない。何も感じない。冷たい心。別の生き物。理解などしていないし、する気もない。

 自分の能無しと不衛生と怠惰を棚に上げ、湧いた羽虫を煙たがる。そして害虫駆除を試みる程度にしか思っていない。その程度なのだろう?神の人への愛と言うものは!


(それなら俺はお前達を崇めない。決して神など愛するものか!)


 思いきりそう叫んでやる。その言葉に闇が引く。その中で誰かが笑ったような気配がしたが、気のせいだ。何も見えない。見えたところで認めない。そうして黒が開けていく。立っていたのはチェス盤のような白と黒の二色の世界。

 リフルの眼前。そこに佇んでいる黒。黒い炎だ。それを認識するや否や、響いてくる詩がある。


 《開かずの箱が開かれし時、天地は逆さとなり、世界は束の間の夢をみせる》

 《幸福なる者、僅かな数字を。不運なる者、王の座を》

 《されど己が生まれ持つ、赤き血までは騙せない》

 《女王を処刑台へと送るのは、全てを統べる王だけ》

 《騎士を解雇出来るのは、KとQの二人だけ》

 《騎士は数兵達を虐殺し、数兵は小さい数値を刈り尽くす》

 《最も小さきAの兵士、己が周りは敵だらけ》

 《逃れることだけ許された、Aが向ける矛先は…世界を操る愚者へと向かう》


 《王を殺めた道化師に、不可能事は…何もなし》

 《見誤りし愚か者共、己が数に身を滅ぼされん》

 《四の紋章、五十四枚の紙切れ。同じ血同士、殺し合え》

 《塔へと至る四枚に、双子模様は残されぬ》

 《三屠り…最後の一枚、望む世界に君臨す》


 トーラの恐れていた時が来た。それを告げる詩。

 顔のない未来。顔のない人間達が殺し合う。神の審判。カード。悪魔のゲーム。

 逃げられない。逃げ出さない。犠牲を肯定するかと問う声に、言い返す。そんなのは御免だ。

 願うなら、手を伸ばせと声は言う。

 願い?誰が願うものか。お前らなんかに。それでも逃げられないなら、手は伸ばす。立ち向かうために。


(俺は俺の民を誰も殺させないし、その日が来るまで俺だって死ねない!)


 これまでのように無茶はしない。死ぬために戦ったりしない。守るために、生きるために俺は戦う。約束したんだ。ずっと一緒になんていられないから。いつか償わなければならないのはわかっている。だからせめてその日が来るまでは、報いたい。


(俺は神のために死んだりしない!お前達に裁かれるなんて御免だ!俺を裁くのは人間だ!俺が償う相手は神じゃない!人間だ!)


 結果は変わらないのだとしても、そこに宿る意味は異なる。私は迷わない。立ち向かうと決めたのだ。守ると決めたのだ。だから手を伸ばす。炎に利き手が燃やされる。こんな痛み、大したことはない。戻ってきた痛覚が、とんでもない激痛を教えてくれるが、耐えられない痛みではない。それどころか、嬉しくさえあった。

 カードなんかに選ばれて、ゲームが整うまで勝手に死ぬことさえ許さない。本来なら自分は6歳の時の処刑によって奪われていたはずの命。それを神の奇跡なんて傲慢な言葉でずるずると延命させた得体の知れない者の策略。

 そんな者に奪われていた。ようやく取り戻した。唯の人間に戻る。痛みを痛みと知ることが出来るのは、取り戻した自由だ。ならばこれは喜びだ。

 目を開ける。焼けこげたような痛みの続く右手。そっと手袋の中には見慣れない黒。

 手の甲に刻まれたのはスペードの紋章。掌に刻まれたのは、Kという文字。


「…………見事にトーラの言っていた通りだな」


 君は王だよと彼女は言った。その意思も心もお構いなしに、カードは上から下から定められると。傍にいれば巻き込まれるよと。

 毒と邪眼だけじゃない。皆から離れたのはそれも怖かったから。殺されるような人間は、それなりの罪を犯しているべきだ。罪なき人間が殺されるようなことがあってはならない。

 アスカは二年前の時点で既にトーラが選ばれていると預言した。トーラが言うには彼女自身とそれからその腹心である二人もだ。

 鶸紅葉と蒼薔薇は、セネトレア王女のトーラの傍にいたことで選別されてしまったカード。トーラの預言ではでは神の審判にはタロック、カーネフェル、シャトランジア、セネトレア……全ての王の血が関与すると言う。だからこそ、そこに復讐の機会があると二年前彼女は取引を持ちかけた。

 最強のコートカードの一枚。トランプで言えば道化師を抜かせば誰にも殺されることがないカード。それを確認し、手袋の内側にその手を隠す。

 神の審判が、普通のカードゲームとどう違うのかはわからないが、かつてトーラがリフルを手に入れようとしたのはこのカードのせい。崩壊寸前の精神状態の瑠璃椿を上手く操るためには、アスカが必要だった。だからアスカを欲しがった。

 だからこれが悪いカードではないことは察することが出来る。トーラが神の審判を恐れている気持ちが分かるから、これまで突っ込んだ話はしてこなかったが、始まってしまった以上そうも言っていられない。今日にでもそこを追求せざるを得ないだろう。

 それでもこんなものに抜擢して神とやらは自分に何をさせたいのだろう。


「アスカ……?」


 倒れ込んだ身体を起こせば、彼が目に映る。倒れている。


(そうだ、トーラは言っていた)


 二年前、自分とアスカをトーラが求めたのは……先読みの彼女がカードと見抜いていたから。アスカも自分も、顔のない人間に殺められる未来を宿した人間だ。


「アスカ……」


 彼も、カードに手を伸ばすんだろう。それは決まっていること。それでも彼は何を願うのだろう。そんなものに頼らなくても、叶う願いは幾らだってあるのに。

 私はお前の幸せを願ってる。お前も私の大事な民だ。お前に守られる、頼ってしまうことはある。それでも最後は私がお前を守る。彼は確かに罪を犯した。人を殺してしまった。それでもアスカは私の民だ。私が王だ。民の罪は私の罪だ。お前は何も悪くない。だからどうか、願うなら……


(お前は生きて、お前自身の幸福を……)


 そう願うのも、やっぱり私の我が儘なんだろうか。


(それでも……)


 それが見つかるまで、私は傍にいる。守るんだ。お前の未来も、幸福も。私に代わる目的が見つかるまで。

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