56:Quem di diligunt adolescens moritur.
グロ回注意。
「さて、被告人。何か言うことはないか?」
その異様な光景に俺の主は固まった。俺だって似たようなものだ。
アスカには何が起こっているのかさっぱりだった。
昨日あれから俺達は情報請負組織TORAで情報漁った。ロセッタは神子やら教会やら独自のルートであいつの無罪を証明するための証拠を揃えた。裁判の開場だという離宮の廊下を走るあいつは、本当に浮かれていた。これであの大事な少年を助けられると信じていた。その目に飛び込んできたのはあまりに高い場所にいる彼だ。だらりと垂れた四肢。首は下を向いていていつものように凛とまっすぐに前を見据えない。
その時点で俺の主の両目からボロボロと大粒の涙が溢れる。酸素を求める魚のように、陸上で上手く息が出来ないみたいに……あの少年を失ったことでもう自分で息も出来ないのだ。二本の足で立っても居られない。その場に座り込んだ主を俺は抱き上げて、しっかりしろと言うけれど、その声も聞こえていないよう。こいつまでだらりと手足に力が入らない。
女王の法廷の異常さ残酷さに、面白い者見たさの人間達も絶句する。数日前の処刑祭りを知らない、信じていない者も居たのだろう。だがそれが真実だと知って恐れ戦いている。もし彼女に楯突いたなら、無実の罪でもああなると。狡賢い者ならもうセネトレアから、第一島から逃げ出していたかもしれない。或いはこれを見てそれを決めた者も多いはず。これはあまりに惨い。シャトランジアも重い腰を上げるだろう。この場の誰もがそう思うほどこれは凄惨だ。
「なんだ?昨日はあんなに粋がっておった癖に、返す言葉もないのか?黙秘権も結構じゃが、それが良い方に捉えられると思うのは間違いじゃ」
聖十字側から言いがかりのような言葉を述べられ、女王がそれについてラハイアに尋ねる。だが彼は何も答えない。答えられるはずがないのだ。もう彼は、死んでいる。絞首台高くに吊されてぶらんと両足を浮かせている。もし神がいるならば、彼が死ぬその前に……あの縄を切って彼を自由の身にしてくれなかったのか。
はっきり言って俺はあの坊やがそこまで好きじゃない。俺の大事な弟を奪っていく相手だ。それでも俺の自慢の主様が認めた男だ。俺も認めていたんだ。好きではないが気に入らない奴というわけではなかった。俺じゃ勝てないとも思っていた。それくらいリフルにとって、あの坊やは大事な奴だったんだ。それを……
(こんなの、あんまりだろ……)
抱き締めた主の身体が奥歯がガタガタとなる。ヒューヒューと、苦しげな息。咽から言葉を絞り出すことも出来ない、声にならない悲痛な叫びが俺には聞こえる。
ロセッタは唇を噛み締めて俯いていたが、もう目を逸らさないと覚悟を決めたのか彼の最後の姿をその瞳に焼き付けている。彼女の赤い瞳にも涙が浮かんでいた。
「其方は出世したいがため、手柄を求めた。そのため殺人を犯し貴族や証人を殺し、混血、奴隷の保護に当たった。そして偶像の殺人鬼を作り出し、それを追う振りをした。被告、何か言うことは?そうか、ないか。では次に行くぞ」
俺達が何も言えない内に裁判は大急ぎで進んでいく。あっという間にあの熱血正義軍人が殺人鬼Suitにされていく。
「其方は妾の弟那由多にそっくりな混血を拾い手懐け、殺人鬼の振りをさせた。そして妾の暗殺を企んだ。それが失敗に終わり、自らの罪を被せて、あの日殺した。異論はあるか?そうかないか」
リフルの犯した罪が全てラハイアの所為にされていく。まるで身代わりだ。こんなことリフルは望んじゃいなかった。これはあの女王の身勝手だ。リフルの命が狙われることがないように、その罪を洗い流すためあの子を贄にしたんだ。女王の気持ちは解る。だがリフルの気持ちをまるで汲まない、押しつけがましいその一方的な偏愛に、俺は吐き気すら覚えていた。
「さて、陪審員。この者は無罪が有罪か?」
女王が睨み付ければ、震える手の陪審員達は有罪を告げる。
「これにて閉廷、一件落着!殺人鬼Suitはもういない。この国も平和になることじゃろう」
扇を仰ぎながら高笑いをする女王に、臆し人は何も発さない。静まりかえった法廷に響く女王の声。それに斬り込んだのは……斬り込めるのは一人だけだった。この女王と半分同じ血を持つ毒の王家の人間が、その半分の血を信じた後悔を、憎々しげに吐き出した。
「約束を……破ったのかっ!?」
リフルが体中の気力を振り絞り、やっと紡いだその一言。それに女王はにやりと嗤う。
「約束通り、裁判は今日行ったではないか」
妾は処刑も明日だとは一言も言っていないと女王が哄笑。
リフル彼女を殺そうと飛びかかる、それを俺は押さえ込み耐えろと言い聞かせる。
「放せっ!アスカっ!」
「目ぇ覚ませ!冷静になれリフル!」
こんな頭に血が上った状態でどうにかなる相手ではない。俺達の本業は暗殺だというのを忘れたわけでもないだろう。俺達の敵は正々堂々、表から挑んで勝てるような人種じゃない。女王の周りを固めるおびただしい兵士、騎士の数。お前一人で、俺が加勢したところで女王まで届くか解らない。それに……
「ラハイアが、見てるだろ。あいつの間の前で人殺しをするつもりか?」
その言葉にびくと、リフルが震えた。そして彼だったものを直視して……その双眸からボロボロ涙を流した。
「っ、うっ…………」
泣き濡れた顔の主を俺は抱き留めて、その背を優しく撫でてやる。啜り泣くその痛々しい声が、物見気分で来た奴らの心に罪悪感を植え付ける。
その悲痛な声に耐えきれず、一人、また一人逃げ出すように離宮から離れる。そして我に返ったように、道すがらおびただしい数の墓にぞっとするのだろう。城は一般人にとって別世界。それでも死は明日の我が身。初めて他人事ではないと思った奴も多いはず。
裁判の前に殺したのは、口封じをするような理由があった。後ろめたいこと、嘘を吐いていたのは女王の方だ。あの残酷なやり方は、そう思わせるには足りる。女王への不信感は大きく膨れあがったはずだ。革命の火蓋は、落とされる。もうすぐに。今すぐに……何かが起これば簡単に。それを俺もひしひしと感じていた。
「…………」
人もまばらになった法廷内。もう女王は帰ってしまった。それでも一人その場に残った騎士。ティルトはゆっくりと俺達の方へと近づき、リフルへ白銀の銃を差し出した。
「これ……ラハイアが、あんたにって」
彼女の目は元々赤だ。それでも白目も赤くなるほど、彼女も泣いたのだと知れる。しかしそんなものは免罪符にはならない。ギリとリフルに睨まれて、彼女は目を伏せる。
「言われなくても解る。俺も同じ事を思ったよ。俺さえ居なければ……俺がもっと早くあの女を殺していればって」
「……お前が、あいつを殺したのか?」
「…………そう言われても仕方がない。あんたが俺を怨むって言うんなら。それは正当な理由だ。復讐として俺を殺しに来るのなら……俺も相手になるよ。だからこれから言うことは気にしないで、その時は殺しに来てくれていい」
罪悪感を感じている。だからそんな言い方をする。直接彼女が殺したわけではないのだろうがその原因になったのだとは知れる。だからリフルも踏ん切りが付かない。もし本当にその手で殺したなら本気で殺しに、憎めるのに。ラハイアの死に方は……本人があの階段を上らなければどうしようもない。階段は綺麗なものだ。抵抗したような形跡もない。だからここで昨日何があったのか、俺達には知るよしもない。
「……何を、聞かせたいんだ?」
「ラハイアからの、伝言だ……あの人はあんたに、言いたいことがあるって俺に……」
ティルトは顔を上げて、まっすぐにリフルを見た。いつもあの少年がそうしていたように……まっすぐに、唯ひたすら……まっすぐに。
「“このことで誰も恨むな。誰も殺すな。俺は俺と……お前の正義を信じている”」
遺された言葉に、リフルの呼吸が再び狂い出す。涙を流しながら、咳き込むほど……強い悲しみに、憤りに打ち拉がれている。誰も憎むなだって?そんな酷いことをよくもまぁ……残してくれたもんだ。俺は俺の主を最後まで、苦しめる上方の少年に溜息を吐き強く睨んだ。
(気の利かねぇガキめ……)
最期なら、最期くらいもっと他に気の利いた台詞があっただろうに。飾らないその真っ直ぐな言葉が捻れたこいつをどんなに傷付けるかわからなかったのだろうか。
教会が許せない。悪が許せない。死にたくない。復讐してくれ。殺してくれ。仇を取ってくれ。そんな未練の言葉をせめて残してくれたなら、リフルは嬉々としてその復讐を請け負っただろうに。最期までそんな綺麗な言葉を残さないでくれよ。そんな事を言われたら、リフルはこの悲しみをどうすればいいのかわからずに、自分の内側に貯め込んで、またパンクして壊れてしまう。受け入れたくない。こんな現実。そうして目を閉じて、彼を求めてまた目を開けば……吊された彼が、動かない彼がそこにいる。
逃げられないのだ。もう追いかけてきてくれないのだ。逃げたところで、もう希望は何処にもない。俺に出来ることは、これ以上此奴が暗い場所に行かないように……必死にその心を身体ごと、抱き締められたらと願うだけだ。
この世界に本当の善などない。そう彼といがみ合ってきたリフル。そして賭に負けたのだ。リフルは……本当に。こんな最期を遂げてまだ、人を怨まない言葉を残す、この少年に屈したのだ。俺なんかが死んだって勝てってこない深みまで、こいつの心を持って行ってしまった。抜け殻のような目をするリフルに俺は何を言えばいいのだろう。
とりあえず俺は、虚ろな目をしたリフルを抱え、影の遊技者へ帰ってきた。迷い鳥に帰ろうとも思ったが、こいつのこんな弱り切った姿……あいつらには見せられない。もう一人の頭同然のトーラが行方知れず。そこに頭であるこいつまでこんな姿を見せたなら、向こうの士気に関わる。こいつは何時だって落ち着いて冷静でいるべき頭なのに。
俺はこいつを支えなければならないのに、どうすればいいのか解らない。何を言ってもそれは致命的な決定打になってしまうような気がして怖い。どんな言葉でもこいつのひび割れた心を壊してしまう、そう思うと……
「リフル……」
子供をあやすように頭を撫でて、背中を撫でて……馬鹿みたいに、こいつの名前を呼ぶしかない。名前だけはきっと大丈夫。この名前は俺が付けた名前だから。他の呼び名は多分、NGワードになっている。こいつをあの坊やは長らくSuitと呼んでいたのだから。
あまりに虚ろな目をしていて起きているのか寝ているのか解らない。意識の有無も定かではない。俺の声が聞こえているのかも怪しい。きっとこいつは疲れているんだと自分に言い聞かせて、寝台に横にならせて布団を掛けてやった……しかし微動だにしないこいつ見ているのは俺の心臓にも悪い。こいつまで、連れて行かれるような気がして。
部屋を出て……俺は一つ決意する。そして部屋の前に待機していたロセッタに一つ頼み事をした。
「ロセッタ、暫くの間……あいつを見ててくれ」
「良いけど、あんたは?」
「ちょっと野暮用だ」
「……そう」
俺も疲れたのだろう。仮眠でもするに違いない。そう解釈したらしいロセッタは、特に疑うでもなく俺の頼みを引き受けた。だが、俺は仮眠などするつもりはない。
(前に言ったよな、リフル……)
俺がお前の剣になるって。約束した。お前を守ると俺は誓った。
ラハイアの言葉がお前を押し留めるのなら、俺がお前になってやる。そうだ。俺がSuitになる。ぶっ殺してやる。お前が憎む相手を、全部俺が。
それでもお前が気に病むことはない。これはお前の罪じゃない。全ては俺が勝手にやることだ。
*
「あんたも役者よね」
アスカが消えて起き上がった私の背中に、ロセッタがそんなことを言ってくる。
「アスカには黙っていてくれないか?」
窓に手と足をかけ、部屋から抜け出そうとしていた私。言い逃れは出来ない。
「別に止めやしないわよ。私だって、あいつらには腸煮えくり返りそう。城でも教会でも行くなら付いていくわよ。あんたがそうするつもりなら」
私があの場で命令したなら神子の命令に背いてでも銃殺していたところだと、鋭い目付きで彼女が言った。
「……神子は、あそこで殺せなかったと言っていたのか」
「わからない。でも……殺す時期じゃないって」
「時期?」
「あの女は仮にもこの国の王でしょ?王の居ない国、ラハイアを殺した相手じゃない者が王なら戦う大義名分にはならない。あいつが生きていてくれないと、シャトランジアとカーネフェルはセネトレアを攻められないの」
「…………戦争、か」
それを知っていたのはオルクスと神子。どちらも戦争が起きることを知っていた。或いは起こすつもりだった。その引き金がラハイアだということも知っていた。そのためにカルノッフェルをリアを使って、私を引き摺りだし、ラハイアを誘き寄せた。今はそんな風に思えてならない。
戦争自体はトーラも2年前から感づいていたようだが、その引き金までは解らなかった。それはトーラ自身が戦争を起こす当事者ではないから。神子とオルクスはそれぞれの目的のために戦争を起こしたい側の人間。だからそのための引き金として選んだ、選ばれたのがラハイアだ。
「……ロセッタ、神子の望みは何なんだ?」
「この狂った世界を作り直すこと。そのために、セネトレア、タロックと戦うこと。この二国は放って置いたらカーネフェルはおろかシャトランジアまで食い潰す。奴隷貿易と混血迫害を終わらせるためにも避けて通れない道……」
世界平和のためには戦いもやむなし、それが神子の選択。それ以外の道で犠牲を容認し続けるより、それが一番犠牲が少ない道だと計算しての選択だと言う。
「勿論戦争なんてあいつの望みじゃないでしょうけど、セネトレアを変えるためにはそうするしかない」
ラハイアの気持ちは汲みたいが、それでもこれはどうしようもないことなのだとロセッタは苦渋の策を認める。
「神子様の予言は、一般人の犠牲を最小限に留めるためのもの。元々カードは革命の力。普通じゃ王族を殺すなんて簡単には行かないわ。それをカードの幸福……つまりは最小限の犠牲によって為し得る最大多数の幸福の成就。命懸けで国を世界を引っ繰り返す役割を担う、そのために選ばれたのが私達、カードなの」
この世界を憂うるのなら、彼の犠牲を肯定せよと、彼女が私に言う。彼女だって認めたくないだろう事を、受け入れたような気になって。
カードになった時点でもう終わり。限りなく終わり。悉く終わり。賽は投げられた。願うと言うことはそれだけ欲深いことなのだ。何かを求めることは奪うこと奪われること、犠牲を認めること。自分が何もせず神頼みなんて、そんなことに嫌気が差した神が……奇跡に届く力を人に与え、その過程を観察している。それがこの神の審判。私達は試されている。人殺しを強いられるこのゲームの中、誰も殺さず死んだ彼は……神の目にどう映ったことだろう。その犠牲さえ神には、響かなかったとでも言うのだろうか?こんなに私の胸を打つ、大きな絶望の音が……奴らには聞こえないのか。
(ふざけるなっ!)
思いきり殴りつけた壁が僅かに傷んだ。でもそれ以上に私の手がやられてしまった。骨が折れたかもしれない。私はどこまでひ弱なのか。嫌になる。自分の何もかも。この憤りを何かにぶつけることも出来ないで。物に当たっても結局傷つくのは私。
「まずと言っていいほどカードは死ぬわ。でもその代わり、常人が為し得ない奇跡を起こす、起こせるだけの幸福が与えられている。カードになった時点で努力次第で叶えられる願いも少なくないわ」
「…………願いだって?ラハイアのっ……何が叶ったって言うんだっ」
「叶ったわ」
情けなくも泣きながら、彼女を睨んだ私に……ロセッタはそんなことを言う。ラハイアの願いは叶ったのだと。
彼女はもう泣いていない。潤んだ瞳で私を見据える。その目の色は彼と違うのに……一瞬彼が重なった。
「だってあんた……耐えたじゃない。あそこで誰も殺さなかったじゃない」
「ロセッタ……」
「あいつは、あんたがカードで、……守らなきゃならない仲間がいるのを知っていた。だからもう誰も殺すなとは言わなかった。だから“この件で”って言ったのよ」
俺の死で誰も恨むな。俺は誰も怨まないから。俺が最期まで俺の正義を貫き通せたと信じてくれ。今際の際に本当は怨んだかもしれない。呪ったかもしれない。それでも残された言葉を信じて欲しい。あいつの最期の、格好付けだ。良いところを見せたかった。私に失望されたくなかった。最期まで勝者でいたかったのだあの男は。
息絶える時彼が何を思ったのか。本当に誰も恨まなかったのか。それは誰にも解らないし、証明なんて出来ない。だから信じてくれと言葉を残した。これまでの……私が見てきた彼の姿を、そのまま信じて欲しいと。最期まで彼は彼だったと……思って欲しいと言ったんだ。
この世界を見下した私を見て、彼はいつか約束してくれた。人の本質は善。私が醜いと思っているこの世界の中から、その目に見せてやると彼は言った。この世は美しく、素晴らしいものだ。この世にはまだ美しい物が残されている。だからそう捨てた物じゃないとそう、言っていた。だけど……
(ラハイア……っ……)
そうだ。世界は美しい物だ。美しい物だった。だけどもうこの世界は醜い。腐敗して、腐って爛れている。私が唯一この世で綺麗だと認めた者が、もう何処にもいないのに。あんな汚れない心を持つ人を殺めたことの世界が、美しいはずがないのだ。こんな世界をどう愛せと言うのだ。お前のように……お前に、私はなれやしないのに。
「しっかりしなさいよ!あんたそんな顔でも男でしょ!?」
「っ……」
嗚咽を漏らし泣き出した私の頬を、思いっきりロセッタがぶっ叩く。
「あんたがそんなんだから、私だって泣きたいのに泣けないのよ!!なんてことしてくれんのよ!!こういう時くらい、私に女の特権返しなさいよ馬鹿っ!!」
目を見開いたところで、胸ぐらを掴まれて……そのまま宙に浮かせられる。私より彼女の方が少し背が低いのに。
「同僚の私に一言も遺さない癖にっ!敵のあんたに言葉も遺品も遺すようなあの馬鹿男っ!人の気も知らないでっ!!あんたらそっくりよ!!人のこと考えてるようで何も考えてない無神経さがお似合いよっ!!」
そこまで言われ手を放されて、床に尻餅をつく。頭の中が混乱して、何を言い返せばいいのか解らない。唯、今彼女が怒っていて……嫉妬して居るんだとは解った。いや……当たっているのだ。彼女の抱える憤りのはけ口に。
「……ロセッタ」
ラハイアの遺品である白銀の銃を彼女に差し出した。それに彼女が目を丸くする。
「何よ。哀れみのつもり……?そんなの……」
「私は銃が使えない。教会の人間でもない。だからこれは君が持っていてくれ」
「あ、あいつは……あんたにって……」
「私にはこれがある」
首下の十字架を握りしめ、此方は渡せないと彼女へと告げて笑った。やっとあいつが私に言いたかったことが解った。
「ロセッタ。それはあいつが私に戒めとして遺したものだ」
人を殺すな、じゃない。正義を忘れるな。あいつはきっと私にそう言いたかったんだ。
「同じ聖十字の君の目から見て、私が悪になる日が来たなら……その銃で私を撃ってくれ」
「は!?」
「私はあいつにはなれないが……私なりの正義を歩く。ラハイアの信じてくれた私から、私が外れたなら迷わずそれで撃ってくれ」
無理矢理彼の遺品を彼女に受け取らせ、私は窓から屋根伝いに外を歩き出す。暫く間をおいて付いてくる足音が一つ。
「……どこ、行くの?」
「……城は後回しだ。教会に行く」
「……そう」
殺すか、殺さないかは話してみないと解らない。彼を売った教会の奴らが何を考えていたのか私は知りたい。知った上で許せないのなら、私は……ラハイアを裏切る。それでもあいつが信じた世界を、今一度だけ信じてやる。改心の言葉を引き出せたのなら……その時は殺さずに帰ってやろう。重い足取りは、猶予を与えてやっているのだ。悔い改めるなら今の内に悔い改めろ。
彼を死なせておきながら、罪悪感すら感じないというのなら……私はロセッタに撃たれることになろうとも、そいつらをこの手で殺す。
「ちょっと待ちなさいよ」
「……?」
「そっちじゃないわ。教会の上層部の居る場所は神子様から聞き出したから」
「……協力、してくれるのか?」
「あんたなりの正義ってのを……見せて貰うだけよ」
ロセッタが私の前を行き、教会の隠し通路を潜る。長い地下道を抜け、立派な屋敷の中へ出る。一見貴族の屋敷のようだ。
「私もここに来たのは初めてだけど……教会って感じしないわね」
場所的にはおそらく東裏町。貴族街の一角に紛れているのだろう。見れば豪華な調度品……実に無駄なインテリアの数々。教会の人間が住まう場所にしては……あまりに醜い。金の色に染まっている。禁欲のきの字すら感じられない。
しかし人の気配がない。ここから逃げだしたのか。あちこちに転がる金貨。それがいくつか道を作っているようだ。
その先に一室があり、踏み込んでみれば、毛布で裸の身体を隠した女ががたがた震えている。その側で動かない男の死体が一つ。最中に背後から斬られて絶命したように見える。
「何があったんだ?」
「あっ……うあ……ああ」
聞いても女は上手く喋れない。余程恐ろしい者を見たような……そんな有様。
ロセッタはゴーグルを付け、女をちらりと一瞥。そして私の腕を引き部屋から出る。
「多分あの女は聖職者っていうか変態クソ生殖者辺りが金で囲ってる女よ。教会をなんだと思ってんだか」
死ねばいいのにと語尾に付けたくなるような、そんな苛立ちのロセッタ。それでも付けなかったのはもう相手が死んでいるからだ。
「…………あれは、恐怖と驚愕って感情値。目の前で殺人を見ただけじゃない。信じられないモノを目にしたって顔だわ。亡霊でも見たんじゃないかって……そんな感じ」
教会兵器のそのゴーグルは、人の心は読めない。それでも数術使いでもない彼女が、優秀な数術使いのトーラのように、数値の流れを読むことは出来るらしい。本人に最適化されているためロセッタ以外には使えない仕様とのことだが、信頼は出来る。
「亡霊……」
「非現実的ね。あの坊やが化けて出るはずはないけれど、罪悪感を植え付けるにはいい手だわ。きっとあの女も今日の裁判は見ていたのよ」
そうして彼女はゴーグルを外そうとし、手を止めた。
「リフル……!あれ!良く見て」
ロセッタが指し示すのは通路に散らばる金貨。もう夜だ。灯りの付かない屋敷は暗い。だが言われてみれば絨毯の色が僅かに濃い。金貨の道しるべは、そこに赤を携えて……被害者か加害者の向かう先を教えてくれる。それを辿って進んだ先に、拓けた場所……大きなホールに出た。パーティ会場?いや……違う。良くみればその奥の方にはオペラホールのような大がかりな舞台がある。
「第三支部の奴ら……教会の金でこんなの作りやがって」
ロセッタが忌々しげに舌打ちをする。そして彼女が突然変な声を上げた。踏みつけたものが絨毯の感触とは違うと気付いたのだ。
「ぎゃぁっ!!」
見れば彼女の足下……ホールの床には死体が続く。その数10人。先の男を加えればこれで11人。その顔を確かめれば今日の裁判に関わった者ばかり。
「ゆ、許してくれ……ラハイア君っ!き、君はこんな……こんなことをする人じゃなかっただろう!?そ、そうだ!や、止めるんだ」
助けを求める醜い声。その声はホールの先……あの舞台の袖から聞こえる。後ずさるよう、そこから舞台の真ん中へ逃げてくるのは第三聖教会の大司教。
しかしそんな男に興味はない。私の気を引いたのは別の言葉だ。
「ラハイア……?」
ふらふらと、吸い寄せられるよう舞台に向かう。その途中で、袖から新たな役者が現れる。
片横髪だけ伸びた金色の髪。隊長格である一等星の白い制服。返り血か、彼の血か……その白が赤に汚れて……
「止めろと言っているのがわからないのか!?私を誰だと思っている!!」
改心などせず、先の言葉も偽り。追い詰められて逆ギレをした聖職者を、ラハイアは悲しく見つめ……思いきり剣を振り降ろした。
見た目はラハイアだ。だけど……ラハイアじゃない。そうだ。彼は人を殺したりしないし、彼は剣より銃を使って……でも銃は今、ロセッタが持っている。だから……ああするしかなかったのか。
「ラハイア……」
やっぱり憎かったのか。苦しかったのか。化けて出るほどこの世が憎かったか?そう思うとまた涙で視界が曇ってくる。だけど……震える私の首元で、十字架の鳴る音がする。それにはっと我に返った。彼の遺した言葉を思い出す。俺の正義を信じてくれと言った彼が……そんなことをするはずがない。
そう思った瞬間に、私に掛かっていた視覚数術は解けた。
「…………アスカ?」
「……遅かったじゃねぇか、リフル」
そこにいたのはラハイアの亡霊ではない。赤い返り血を浴びた、アスカの姿がひとつあるだけ。
「何で……お前が、こんなこと……」
「お前には約束があるだろ」
ラハイアとの約束で、どんなに悔しくても此奴らを殺せないだろうとアスカが死体を踏みつけ笑う。
「だが俺にはない」
「アスカ……」
「んな顔すんなよ。嬉し泣きか?そうだよな。これでお前も清々したろ?」
泣き出した私のその涙を、お前はそんな風に思っているのか?
「あいつもきっと喜んでるぜ。お前は約束、守れたんだから」
「アスカぁ……っ」
違うよ。そうじゃない。確かに私だって、此奴らは許せない。その死を悼んだりはしない。だけど……そうじゃないんだ。
どうしてお前がそんな風に笑うんだ?そうじゃないだろ。そうじゃなかったはずだろう?お前はそんな風に……人の死で笑ったりしない奴だったじゃないか。そもそも2年前までは、人殺しをタブーとしていたはずだろう?幾ら金を積まれても、こんな仕事お前は引き受けなかった、そうだろう!?それなのに……どうして!?
そんな血の匂いのするお前に抱き締められても全然嬉しくない。余計涙が止まらないんだ。それがどうして解らないんだ?解ってくれないんだ?
私が好きだったのは、口は悪くても……柄は悪くても、本当は優しくて……優しい目をして笑う人だった。それが今は何処に?こんなに側にいても、お前が何処にもいないじゃないか!
(返せ……返してくれっ)
この眼か。この眼が……彼を私から奪ったのか。あんなに優しい人を、こんな冷酷な笑いをする者に変えてしまったのか!?
「……放せっ!」
「り、……リフル?」
その温かく冷たい腕を振り解いて、逃げ出した私を驚いたように彼が見る。
嫌いになった訳じゃない。だけど今、私が彼の側にいたくなかった。彼を狂わせているのは私だろう?私が犯すべき罪を彼に肩代わりさせたのも、私だろう!?この手で人を殺すより、大切な人に人を殺させる事の方が私にとっては辛いこと。この手は幾ら汚れても、今更だと諦められる。だけど、諦められない。後悔してもし足りない。それが、お前ならば……
その真っ赤な手に触れられたって私は死なないけれど、息が出来なくなりそうだ。その手が追って来るのが怖くて、私は走る。私は逃げる。あの手に捕まる度に、思い出が汚されていくんだ。記憶の中のアスカと、今のアスカは重ならない。
*
「……個人的にはありがとうって言いたいけどね」
目の前の惨状に、清々しているのはあいつじゃなくて私の方よ。そう思いつつ、ロセッタは溜息を吐いた。
「だけどあんた、あれはないでしょ」
あいつはここに殺しに来た。それでもきっと寸前で止めた。ラハイアとの約束が、あいつを縛る。きっと、殺せなかった。
あいつは見たかったのよ。醜いものを。醜いものを見て、それで失われた人がどんなに素晴らしいものだったのかをもう一度思い知りたかった。強く感じたかった。だけどアスカがリフルに見せたのは、醜いものじゃない。一瞬でも殺意を抱いてしまった。自分の心。その暗さを映す鏡のような……
見たかったのは他人の、世界の汚さと醜さ。見せられたのは自分のそれ。弱った心にそんなの見せられちゃ、その破壊力は並々ならぬものだろう。
「大体、よくこんな所まで来られたわね」
「……第三聖教会は神子を敵に回したからな。シャトランジアの王族が味方に付いてやるって言えば簡単にここまで通してくれたぜ」
そう言ってアスカが片手をちらつかせる。そこには指輪。マリー姫がなかったことにされた結婚の時、自らの騎士に贈った指輪だ。見る者が見れば、アスカの身元を保証するものだと解る。
「……それでここまでやって来て、精霊の視覚数術でこいつらに悪夢を見せたってわけ?」
「俺に殺されたって、こいつらは意味が解らないだろ。あれが一番こいつらにとって、恐ろしい死に方だ」
反省も改心も悔い改めもしないなら、恐怖の中で死を与える、それが報いとなるだろう。彼の言葉に私は共感する部分があった。
「……あんたは本当、こっち側の人間ね。キャヴァロ家のあれな所継いでるわ」
元々こいつの父親の家は、運命の輪と関わり深い血筋だ。メンバーはその代の神子が拾ってくることも多いけど、教会に代々忠誠を誓っている名家から選出されることもある。こいつの家がそれ。もし世が世なら、こいつはシャトランジア王になっていたかもしれないけど、私の同僚になっていたかもしれない。母親が国王派、父親が教会派っていう少々特殊な身の上。それでもそんなことは今の自分に関係ないと彼は言う。
「生憎俺は教会派でも国王派でもなく、リフル派なんだが」
「それならもう少しあいつのこと考えてやりなさいよ。汚れ役は私の仕事。そのために神子様から派遣されてるんだから、少しは上手く使わせなさい」
基本私はリフルからの頼み以外は聞かないが、こういうことなら話は別だ。此奴らは神子様にとっても不穏分子。いつか始末の仕事はやって来ていたはずだもの。
「……まったく」
水の数術弾をセットし、頭からぶっかけてやる。血の匂いもこれで少しは落ちただろう。
「冷てっ!」
「さっさと追いかけなさいよ。あんたの仕事でしょ」
文句を言いたそうなアスカを、私は睨み付けて言う。それに彼も自分の役目を思い出したのか、精霊にリフルの追跡サポートを命じる。
「モニカ、頼む」
《無理》
しかし精霊から返って来たのは短すぎる言葉だった。
「は?」
《もうあの子一キロ圏内から出ちゃったわ。私達も移動しないとわからないわよ》
「おいおい。相手はリフルだぞ?あんな全力疾走十秒と持たないだろ。一キロなんかこんな短時間で無理に決まって……」
それはつまり、あいつ以外の力が働いているってこと。何かあったと見て間違いない。
「リフルっ!!」
ホールを抜け、私は走る。通路の先にあいつはいない。それでも代わりの者がいた。
「やぁ、また会ったねお嬢さん。僕は君には本当興味ないんだけどな」
「オルクスっ……!!」
長い金色の髪、虎目石の目。トーラと瓜二つの死神がそこに佇む。
「あいつに……何したの!?」
「彼はあの血まみれお兄さんから離れたがっていたからねぇ。可哀想だから外に飛ばしてあげたんだ。君たちの足を持ってしても追いつくのは難しい」
オルクスが答える頃には、アスカもここに辿り着く。剥き出しの敵意を私達に向けられた、オルクスは苦笑し肩をすくめて見せた。
「でも僕は別に喧嘩を売りに来た訳じゃないんだ。親切心で、妹の友達達に情報をあげにきたんだよ」
「……情報だと?」
「うん、そう。君たちは大事なことを一つ忘れてはいなかったかい?」
オルクスはにたりと笑んで、私達を眺めている。
「僕は一度迷い鳥の場所を当ててみせた。僕はあそこを知っている。そして僕は昨日、誰と一緒にいただろう?」
「……あんた…っ、まさか!?」
「ヴァレスタに……っ、混血狩りにあそこを教えたっていうのか!?」
「僕も商人だからねぇ。取引と商売を持ちかけられれば売らない情報はないよ」
私達の驚愕も予想の範疇だと余裕を崩さない死神。何故そこまで頭が回らなかったのか。第五島の時点で気付いても良かった。ヴァレスタの手下とオルクスが連んでいた時点で、そうなることは気付いて然るべきだった。
「それは無理だよお嬢さん。君たちがそこまで考えられないように、これまで僕は計算してきた。幼なじみとの再会、置き去りにしたトーラと蒼薔薇への不安……それから壊れたリフル、そして君の憧れの聖十字君の死。これだけ揃ってそれでも君が正常な判断を下せるはずがない」
全ては私達の関心を、迷い鳥から余所へ移すため。そのために私とグライドを引き合わせ、トーラ達を虐げ、リフルを傷付け、ラハイアを死に至らしめた。
(許せないっ……)
私は銃を向けたが、怒りで手が震え……狙いが定まらない。
「落ち着けロセッタ、あれは映像だ。本体はここにいない」
無駄弾を撃たせ、そこから私の武器の情報を得る気でいるのだとアスカに指摘され、私も我に返る。だけど怒りは拭えない。アスカの冷静さが厄介だと気付いたオルクスは、瞬時に彼から崩す方針に切り換える。
「そっちのお兄さんは、最愛の弟君があんなにボロボロになっていれば頭に血が上って他のことなんか考えられなかっただろう?可愛い可愛いご主人様が、あんな痛々しい姿になって、可哀想にねぇ?」
「………っ、てめぇらがやったことだろ」
「そうだよ。だけど貴方も同罪さ。あの傷を見て貴方が興奮しないわけがない」
「だ、誰がっ!!」
「だってそうだろ?貴方も加虐趣味の気があるじゃないか。でなきゃ、あんな風に人を殺したりしないよ」
そうして背後を指し示す。ホールの扉の向こう。転がる死体。ここまで踏みつけてきた。靴に、足跡に残る赤い色。
「どうして貴方から彼が逃げるか解る?怖いんだよ。貴方もヴァレスタ兄さんと同じなんだって思ってさ」
「俺は違う!俺はあいつに……」
「あんなことしないって本当に言い切れる?貴方は大事なご主人様が敵に汚されて、そこに燃え上がれる変態じゃないか」
「ち、違うっ!!」
「そうだよね。綺麗な者ほど汚した時は堪らない。蹂躙されてこそその美はより美しく輝くんだよ」
アスカの心の隙を突いてくるオルクス。これ以上聞くに堪えなくて、私は天井に向かって一発ぶっ放し、それを再びオルクスに向ける。例えこれが届かなくとも、必ず本体を見つけ出して打ち抜いてやると。
「反吐が出るような変態講義はその辺にしときなさいよ。それ以上垂れ流すってんなら公害として始末するわよ」
「お嬢さん、君だって知っているはずだよ」
指を鳴らして、死神は私に見せる。本来ここにあるはずもない、吊された彼の幻影を。
「不完全なる正義はその死によって誰も侵すことが出来ない完全なる正義になった。君は彼の亡骸に怒り以外のものを感じた。崇高な、神聖なる者を君はそこから見出した。下賤な好意を語るに畏れ多い、聖者の姿をそこに見た。死に汚された彼は、生前より輝かんばかりに高貴だろう?」
「ふ、ふざけるんじゃないわっ!!あんたがあいつの何をっ!私の何を知ってるってのよ!!」
何も知らない癖に勝手に決めつけて。そんな風に語らないで。私の心まで侵さないで。
「そうだね、別に貴方達のことはどうでも良いね。僕は忠告に来ただけなんだし」
人の心を踏みつけるだけ踏みつけて、その言い草。ついでみたいに人を傷付けて良いとでも思ってんのこいつは。
「とりあえず僕が言いたいことは、迷い鳥はカードも薄手の大ピンチ。一番強いのがあのフォースとかいう少年だろう?彼はちゃんと戦えるのかな?冷徹なそこのお嬢さんですら戸惑ったのに」
「あ、あんた……なんて事を!!フォースとグライドはっ……あの二人は親友なのよ!?」
「だからこそ忠誠を試すいい機会なんだよ。彼ら二人にとってもね。それに別にあそこを攻めているのは彼だけでもないよ。早く助けに行かないと……大変なことになるかもね」
指を鳴らして二つの扉を作り出すオルクス。その片方が迷い鳥、片方がリフルの向かった所へ通じているのだと、なんとなくわかった。私達の迷いを見て、さぁどうするのと死神が言う。
「一人が潜った時点で、もう一方の扉は消える。二人とも同じ扉を潜るしかなくなる。決定権は早い者勝ちってことだね」
「……これが罠じゃねぇ保証はねぇよな」
「ああ、勿論僕の親切心を信用できないっていうなら、第三の選択肢もあるね。もっと時間は掛かるけど自分たちの足でどちらかに向かうっていうそれも、一つの立派な選択だよ」
疑うならそれでも良い。罠と知りつつ飛ぶ込む勇気か愚かさはあるのか。それを尋ねられている。この場合、必ずしも賢明さが正解とは限らない。それでも愚かさが正解という保証だって何処にもないのだ。
「彼は今、そこのお兄さんに会いたくない。追ってきて欲しくない。それでも追いかける?それとも彼の大事な場所を守りに行く?それが出来れば弁解弁明は幾らでも出来るだろうねぇ」
アスカが揺れている。本心ではリフルを追いたくて仕方がないのが見え見えだ。それでもリフルのためを思えば迷い鳥一択。この迷う時間が迷い鳥を危険に晒す。
「ロセッタ!?」
「私は迷い鳥に行く。あいつなら私にそう命令するわ」
あいつは私に言った。自分なりの正義を歩くと。それを裏切ったなら次に会った時に殺してやる。だからあいつが間違うようなことは絶対にない。
あいつはキング。滅多な事じゃ死なないカード。そしてもうどん底よ。あそこまで沈んだら、後は浮き上がるしかない。これ以下なんてあり得ない。
「あんたがそうしたくないんなら、自分の足であいつを追いなさい。じゃあね」
私は扉を選び、そこへ飛び込んだ。
*
「……?」
走っていて気付かなかった。気付けば途端に妙になる。その違和感にリフルは足を止める。先程まで走っていた通路とそこは明らかに違う道だ。まっすぐに走っていたはずだったのに。そう内装が変わった。それだけではない。空気まで別物になってしまったように感じられる。
振り返ると道がない。走ってきたはずの場所に壁がある。
(数術で、飛ばされた……?)
それならオルクス辺りに嵌められたと見て間違いない。慎重に進まなければ。しかしここが敵陣の中なら……それも好都合。トーラ達の行方を知るための手がかりがある可能性もある。
取り乱した心を落ち着かせるためには、他の心配事を考えればいい。そうだ。私は頭だ。個人的なことで取り乱してはいけない。最悪の結果だが、ラハイアの件は……終わった。悔しくても今は何も出来ない。私は請負組織の頭としてやるべき事がある。今は頭を其方に切り換えよう。悲しむことは何時でも出来る。どうせ一生癒えない傷だ。それくらい大きな損失だ。だがそれを悲しむ余り私が判断を間違ったら、それこそラハイアに叱られる。
そう自分に言い聞かせ、一室一室を検めていく。私の手には、トーラと仕事をしていたときに渡された数術を施された鍵がある。鍵穴に合わせて形状を変形させるその鍵に開けられない扉はないし、閉められない扉もない。
彼女がいなくなってからも彼女にこうして助けられている。そういう思いがあるから、今度こそ……彼女はこの手で助けたい。もう、あんな風に……リアのように、ラハイアのように助けられないなんて、そんなのは絶対嫌だから。
そんな思いで幾つ目かの部屋を開くと……
「トーラ!?」
「リーちゃん!」
金色の髪虎目石の瞳。トーラだ。間違いない。少し窶れたように見えるが目立った外傷はない。
「良かった……」
彼女に駆け寄ると、ベッドの足と彼女の片足に鎖が付けられている。それは私や彼女の力では持ち上げられそうにない。彼女の数術があれば別なのだろうが、オルクスに相殺式を刻まれて、数術を封じられているらしい。
(それなら……)
トーラに貰ったその鍵で、彼女の足枷を外す。この部屋、或いはこの建物から出れば彼女の数術の力も元に戻るはず。
「ありがと、リーちゃん」
「トーラ……?」
彼女の反応に、いつもの明るさがない。いつもの彼女ならここで私に飛びついていてもおかしくない。何かあったのか。それを尋ねようとして……彼女と最後に顔を合わせたのは何時だったかを思い出す。
知るのと見るのは別のこと。私の過去を知っていても、実際あんな所を見せられたら……嫌悪して当然だ。私を嫌うことで邪眼の束縛から逃れられるなら、それも彼女の幸せだろう。
「……帰ろう、トーラ。みんなが待ってる」
彼女に背を向けて扉に向かう。すると躊躇い勝ちにとととと付いてくる軽い足音。それが加速して、私の背中に抱き付いた。
「……トーラ?」
「リーちゃん……」
そう言ったっきり彼女は何も言わないが、背中に時折落ちる生暖かい雫がある。彼女が鼻を啜る音もする。泣いているのだ。トーラが。
「…………」
彼女が落ち着くまでここから出られそうにない。騒がなければ敵に見つかることもないはず。そう考えた私は、部屋の中央まで戻る。
部屋はそんなに広くない。椅子もない。仕方ないかと彼女と寝台に腰を下ろした。抱き付き辛いからなのか、その頃にはトーラが背中から腹側に移動していた。
(トーラが泣くなんて……)
余程のことがあったに違いない。一緒にいたはずの鶸紅葉は?助けに行ったという蒼薔薇は?聞きたいことはある。それでもそれが彼女の心を抉る言葉になるのなら、私からは聞けない。彼女が話してくれるのを待つことしかできない。手袋越しに彼女の髪を撫で、こんな事しかできないが、他に私に出来ることがあるのなら何でも力になりたいと……そう思った。
そんな私の心を読み取ったのだろうか?トーラが私を突き飛ばし、私の上に馬乗りになる。
「と、トーラ?」
「…………慰めてよ、リーちゃん」
「わ、私は毒人間だ。女とは……」
「最後までじゃなくて良いから……ね?それなら毒で死なないよ」
トーラの顔が近づいてくる。
(だ、駄目だ!こんなのっ!!)
彼女は仲間だ。大切な仲間だ。それをこんな風にするのは間違っている。彼女を思う人も沢山いる。私がこの眼で魅了したから……今は心が弱っていて、そこに私が現れた。吊り橋効果か何かできっと魅了が進んでしまったのだ。
そんな衝動で何かをするなんて、絶対駄目だ。彼女は女の子なんだ。私とは違う。どうなってもいい人じゃない。彼女を拒むように思いきり目を閉じた。
「……リーちゃんって馬鹿だよね。頭は良いのに」
トーラの笑い声の直後……ガチャンと数回、何かが嵌る音を聞く。恐る恐る目を開ければ、身体の自由が奪われている。手から足から腹から首から。寝台に拘束されている。
「トーラ……一体、何のつもりで……」
「可哀想に。僕と彼女を見間違えるほど貴方は疲れていたんだね」
「オルクス!?」
その言葉遣いと声のトーンに、これがトーラでないことを知る。そうだ。私は誰に嵌められここに来た?自分でそれがオルクスに違いないと、そう想定していたじゃないか。なのに、どうして彼女を疑わなかった?疲労が直感を、安堵が危機感を鈍らせる。私は嫌なことが多すぎて、これ以上嫌なことを考えたくなかった。だから自分にとって都合の良い解釈をし、相手の罠にまんまとはまってしまったのだ。
決して読めない策じゃない。普段だったら気付いていた。それを成功させるため、この男は幾重にも罠を張り巡らせた。罠の数が多すぎて、この男の真の狙いが何なのか、それがまるで読めない。だから何処かの防御ががら空きになる。そういう心の隙を、この男は上手に突いて来る。
「今日貴方をここに呼んだのは、どうしても見せたい物があってね」
そう言ってオルクスが指を鳴らせば……舞台のセットが崩れるように、部屋は姿を変えていく。
(視覚数術!気付けなかった……)
私が拘束されているのは、普通の寝台ではない。前の映像でトーラが寝かせられていたような診察台。私の周りには多種多様の医療器具。鈍い銀色。その冷たい輝きがとても恐ろしく見える。
「……私の目が欲しくて、とうとう我慢できなくなったか?」
「コレクションには是非とも加えたいけど……そうだね。確かにその目は貴方に付いているから綺麗なのかもしれない」
この眼をほじくり出したなら、もしかしてその輝きは失われる?美しさは半減する?オルクスはそれを考えてはいるようだ。
「あの状態からこんなにすぐに立ち直り、そしてさっきの今でもうそんな態度を取れるんだ。なかなか出来る事じゃない。この状況で……加害者に向かってそこまで不遜になれるのも才能だね、……王という者の」
一応、褒められているらしいが……全く嬉しくはないし、そんな気もしない。
「だけど僕は、コレクションを加える時に欲しい表情というのがあってね。それは今の貴方の顔じゃないんだ。だって君は強がっているだけだから、完全にそう思えてはいない」
「……?何の話だ?」
「混血が何故純血より優れた数術使いになれるのか、貴方はそれを知っているかい?答えは簡単。僕らは生まれながらに優秀な触媒を持って生まれているからだよ」
オルクスは自分とそして私の目を交互に指さし笑う。
「だけど貴方は身体の毒に蝕まれ、偏った数術の才能しか開花できなかった。その触媒はもっと多くの可能性を持つ。つまり貴方は勿体ない使い方しかできていない。ああ、言い方を変えるとね……」
無礼な発言だけど大目に見てねとオルクスが片目を閉じる。
「貴方の目は本当に素晴らしい触媒だ。だけどそれを使う貴方の脳がいかれている。毒によって冒されている。だから複雑な数術計算が出来ない。一度死んだ脳だからね、それくらいの後遺症はあって然るべきなんだろうけど、本当に勿体ない事だと思わない?」
私は邪眼以外の数術を使えない。邪眼自体、数術と言うようような利便性がない。その発動は片割れ殺しの外見と、毒に冒された私の身体と感情に深く依存する力だ。だから私と同じ事を、この眼を手に入れたからと言って出来るようにはならない。
しかし、オルクスが勿体ないと言うのは邪眼が使えなくなっても、他にもっと大きな事がこの眼にはできるのだとそう言わんがため。
「貴方は毒殺さえされなければ僕やトーラや、神子をも越える数術使いになれていた。断言してあげる。だからそれがとんでもない宝の持ち腐れなんだって解るよね?」
だからその目が欲しいんだと、羨むようにオルクスが私の頬を撫でた。
「勿論美しい目は鑑賞品としても価値がある。だけど僕が求めるのは鑑賞品と触媒としての側面さ。そのためには刻まれる感情数がより触媒としての強さを刻んだ物が良い。どんな感情でも良いんだけどね、それが最高まで振り切られた物が良い触媒になる」
オルクスが求める物は、数術使いとしての叡智。それとコレクター癖が同居したような目的。その黄金の輝きは、人を本当に物、アイテムを生み出す材料程度にしか思っていないのだと知れる子供のように純粋で残酷な探求者の目。
「人間って我が儘な生き物だから、正の感情じゃ最高値まで至らない。負の感情、苦しさとか痛みとか、そういったものを貯め込む。増幅させる。触媒としての価値を高める。だから僕はこれから貴方を思い切り苦しめようと思うんだ。最高の触媒を作るためにそれは仕方のないことだからね」
「…………精々、やってみろ」
何をされるのか。怖くて堪らない。それでも私は頭だ。弱音は吐けない。
「そうなんだよね。兄さんがやらかしてくれたデータから見て、貴方は自分の痛みより他人の痛みの方が苦しいタイプの人間だ。だから僕もプランを立て直した」
オルクスはそこで再び、指を鳴らす。すると今度は無数の棚が診察台を取り囲むよう配置される。暗くてよく見えないが、その硝子の中には何かが所狭しに並べられているようだ。
「さぁ、僕からのプレゼントだよ。見やすいようにしてあげるね」
寝台の角度を変えて、その棚を見えるようにするオルクス。彼がもう一度指を鳴らすと……薄暗い室内にパッと床からライトが上る。
「ひっ……!?」
主言わず息を呑んだ。私は見られていた。薄暗いその戸棚の中から。じっと私を見つめる者がいる。いや、違う。見られてはいる。だけどそれは一人とか二人とかじゃなくて……身体ごとでも頭だけでもなく……もっと小さい。これはグラデーションを飾るように近い色から並べられたオルクスの、眼球コレクション!ザッと見ただけでも100を越える人間の目がそこに飾られていた。
「これは新しく入荷したばかりの出来たてほやほやの商品なんだ。綺麗でしょ?純血みたいなありふれた色じゃない。ここまで言えば、貴方なら解るよね?」
「ま、……迷い鳥を…………襲ったのか?」
「うん、大正解だよ!王子さま?」
目眩がした。耳から聞いた言葉を脳が拒絶したがっている。だけどこの死神はそこから私を逃がさない。現実逃避をしないよう、痛みで私をここに繋ぎ止める。手や足を、刃物で刺していく。
「ねぇ?どんな気分がする?貴方が守りたかったもの、全部、もう壊れちゃったんだよ?」
「あ……あぁ……っ」
グリグリと刺さったナイフを動かされ、激しい痛みに襲われる。悲鳴を上げればそれを抜いてまた振り下ろす。
「迷い鳥も壊滅した。混血達も殺された」
「や……っ、止めっ」
「貴方の大好きなラハイア君も死んじゃった。正義のヒーローももう君を助けてくれない」
「……ひっ!」
「君を守ってくれるはずのナイトも気狂いで、君の言うことなんか聞かない」
「……ぁっ」
私の血の毒なんか気にもせず、オルクスが私をいたぶる。自分は肌を晒さずきっちりゴムの手袋、マスクまで。完全装備で来ている。
「さて、あんまり僕ばかり遊んでいると怒られるからね。貴方はすっかり忘れて居るみたいだけど、昨日のご挨拶は覚えているかな?」
オルクスがくすと笑うと、その声が引き金となり音声数術がまた展開。部屋の奥行きが広がり、室内に見えていなかったものが見えるようになる。
「昨日の澄ました面がまた随分と情けなくなったものだな」
「う゛ぁ、……ヴァレスタ!」
どかと豪華な椅子に腰掛けた男が私を嗤っている。黒髪と赤目……いや、ライトから離れたその瞳は鈍く、青緑色の光を放つ。
「まぁ、そう威嚇するな。貴様に無給で構っていられるほどそこまで俺も暇じゃない」
「あはは!兄さんってば素直じゃないね。ここ数日赤髪の子も青髪の子も出かけてていたぶる相手が居なくてうずうずしてた癖に」
「知らんな」
「それに、仮にも那由多王子は邪眼の使い手だよ。あそこまで密着したんだ、如何にヴァレスタ兄さんだって少しは魅了されたんだろ?少なくともまた苛めたくなる程度には」
オルクスは笑うが、私としては全く笑えない話だ。そんな興味など持たれても困る。
「……私に、何の用だ?」
「うわー、ほんと凄いな。今あそこまで追い詰めたのに、またここまで強がり再浮上。兄さんよっぽど怨まれてるねー」
刺した凶器を動かされても、悲鳴を上げなくなった私にオルクスが感嘆の声を上げる。苛立ちで痛みを押さえ込んでいるだけで、勿論痛いものは痛い。それでもこの痛みを忘れさせてくれるのだ。その点だけはヴァレスタに感謝している。
「それじゃ、兄さんどうする?この手術の痛みだと、かなり締まるらしいよ」
「…………俺は金にならんことはしない主義だ。悲鳴があった方が書類が捗るのでな。見物させてもらうと言ったまで」
昨日私に手を出そうとした奴が何を言っているのだろう?報酬なんかなくても私をいじめ抜けるのなら嬉々としてやりそうなものなのに、ここで渋って金を引き出す作戦か。流石商人。どこまでも金に五月蠅い。
「嫌だな、勿論支払うよ。僕も金なら腐るほど在るし。それにこの間以上の悲鳴の中遊ぶって言うのもなかなか面白そうだと思わない?」
「報酬の話が本当ならやってやらんこともないが、貴様は俺を唯の棒か何かと認識していないか?」
「そんなことないよー(棒読み)」
「…………」
「でも王の資格の一つに好色であるべしって言うのあるしね。兄さんも金金言ってないでもう少しはじけちゃえば?いいじゃないか、こんな美人さん相手に金取られないだけ」
私としては慰謝料やら請求したいところなのだが多分こいつらのことだ。鐚一文として払わないだろう。
「それに彼は兄さんのこと心底嫌っているからね、兄さんに頼むのが一番良い触媒になりそうな気がするんだよ。前にトーラで試した時に解ったことだけど、相手の拒絶反応が強ければ強いほど、良い触媒になるんだよね」
ヴァレスタへの敵意剥き出しの目が、オルクスの望む触媒へ私の目を高めている。憎むことでこの身を危険に晒している。それでも、どうして憎まずにいられるだろう。
「というわけだ。この男はお前の目が欲しいらしい。だが、そうだな。同じ片割れ殺しのよしみだ」
ヴァレスタが私を見下し笑みを作る。
「先日の非礼を詫び、貴様が俺に隷属するのならこの男の企みを止めてやらんこともない」
「……っ」
「そうだねぇ。それは残念だけど、西の恐怖の象徴である君はもういない。トーラの守りもない。これから西は商人達に攻め滅ばされるだろう。十分それだけでも僕らにはいい儲け話だったねって話だし?兄さんが貴方に飽きて殺すまで、目は保留にしても良いんだけどね」
「西と共に滅ぶか。俺に下るか、選べ。俺の奴隷になれば存分に使ってやるぞ?」
皮肉たっぷりに歪められた口元。使ってやるとはどういう意味だか。暗殺兵器として?拷問相手として?それとも他の何かとして……?そのどれもが私にとって屈辱でしかない。
「だ、誰が……お前などに」
「俺はこのセネトレアの王になる男だ。そしていずれは全ての国を従える」
悪い話ではないはずだ。そんな風にこの男は言うけれど、何処が良い話なものか。
「貴様の怨んでやまないタロックをも俺は支配する。意味が解るか?俺と共に来るならば、貴様に復讐の機会を与えてやると言っているのだ」
「復讐……」
「貴様は奴隷貿易を目の仇にしているが、俺からすれば見当違いも良いところだ。貴様が憎むべきは、貴様を殺した毒の王家だろう?」
奴隷の身に落とされたこと、そこで知ったこと。そこから復讐を企みのは間違い。お前が憎むべきはそれ以前。殺されたこと自体を憎めと悪魔が囁く。
奴隷貿易なんてどうせ他人の不幸。守るべき相手ももういない。今更そんなものにしがみついてどうする?もう世界の流れは変えられない。一人で抗ったところで何も変わらない。それなら流れに身を委ねろ。そしてその先で、本当に憎むべき相手を思い出せ。悪魔が私に語りかける。
(……くそっ)
憎い。憎い、憎い。ヴァレスタが。オルクスが、姉様が憎い。
私を辱めたこの男が憎い。私の仲間を傷付けたあの男が憎い。ラハイアを吊したあの女が憎い。憎しみ、その感情一つで殺意が生まれる。その思いのまま全てを壊せたらどんなに良いだろう。だけど私は……復讐で、個人的な憎しみで人を殺してはならないと……そう言ってきたじゃないか。私はもう唯の殺人鬼じゃない。暗殺請負組織だ。憎しみで人を殺さない。私が人を殺すのは、弱くて正しい誰かのためだけだ。
(ラハイア……)
首元で揺れる十字架に、祈りを込める。弱い私の心を、どうか支えてくれ。
こんなに憎いのに、許せないのに……それでも私はこいつらを殺してはならない。そんな理由で殺してはならない。私は西のため、街のため……人のため。殺すのはそうじゃなければならない。
「今の貴様の戦力では到底タロックになど挑めまい」
相手は商人。交渉術は長けている。悔しいが、その分野で私に勝ち目はない。こんな男と絶対手など組みたくない。服従を誓うなんて嫌だ。しかし奴隷貿易を止めるためにはタロックを潰す必要がある。そのためには協力者が要る。この男はキング。私と二枚キングがあれば……確かにタロックを討つのも夢じゃない。そこでこの男を裏切り殺す。そういう手もないわけではない。
(それでもそのために……)
これから何人の死を見ない振りをする?混血や、奴隷が殺されていくのを見て見ぬ振り?それが最大多数の幸福のための最小限の犠牲だと言うのか私が?
(………無理だ)
見て見ぬ振りなんて、私には出来ない。それは私の正義じゃない。
「……好きにしろ」
目を開けてそう言い放った私に奴は当然だという顔をしたが、何が当然な物か。勘違いをされては困る。私が好きにしろと言ったのはこの身体のことだ。
「勘違いするな。貴様らに忠誠など誰が誓うか。目でも心臓でも何でも持っていけ。殺されたって私は……俺はお前の物にはならない!お前を王など呼ぶものか!」
「……言ったな、殺人鬼風情が」
「計算を間違えたな。私を従えたいのなら、生きた人質を用意することだ。幾ら屍を積まれても私はお前を王とは認めない」
私はヴァレスタと睨み合う。この男達が私の守る者を殺した時点で、交渉は決裂していたのだ。
「……それじゃ、手術決行ってことでいいのかいヴァレスタ兄さん?」
「それがこいつのお望みらしい」
ひひひと笑うオルクスに、ヴァレスタが溜息を吐く。そして気を取り直せばすぐに私の心を折りに来る。
「貴様はどうしようもない淫乱だな。眼球を抉り出されながら犯される方が好みだとは、流石の俺も想定外だ」
「眼球を抉られる人間を犯したいなど言うなんて、そう言う側も大概だな。一度自分の性癖を省みる事をお勧めするが?」
売り言葉に買い言葉。強がらなければやってられない。本当は怖くて堪らないんだから。
でもいっそもうどうにでもなれ。守る者ももういない。何もない。何もない。私は頑張って生きなくても良いんじゃないか?相手もキングだ。もしかしたら私はここで死ねるのかもしれない。オルクスの手術が痛くても、おそらくそれでショック死は出来ない。カードの桁が違う。となれば可能性としてはヴァレスタだけ。死因が抱き殺された所為だなんて嫌だけど、死ねばもう何も解らなくなる。恥ずかしくもない。どうでもいい。
「何がお前にそこまでさせる?もう貴様には何も残っていないはずだ。何故、そんな目が出来る?」
何もないはず。私もそう思っていた。しかしそんな私に奴が聞いてくる。お前にはまだ何かあるのかと。こんな私に何がある?何が残されている?
プライド?そんな立派な物じゃない。残っているのは唯の意地だ。そう、認めたくないという意地。
「お前達の話など頭ごなしに信じられるか。私には、頼りになる仲間がいる。彼らはそう簡単にやられはしない!」
そうだ。この眼で迷い鳥の壊滅を見た訳ではないのだ。この眼だって本当にあそこで匿っている子達の物とは限らない。元々オルクスのコレクションだった。それを見せられているだけかもしれないじゃないか。
「ふむ、それも一理ある。ならばこの眼に見覚えは?」
ヴァレスタが私の眼前に小箱を差し出す。そして瞼を開くよう、ゆっくりとその蓋を開けて見せた。
「……っ!!?」
そこにあったのは黄金の瞳が二つ。虎の目のようなギラギラと輝く瞳。
その目に私はオルクスの方を向く。彼の目には、付いている。二つとも……付いている!!
「トーラ……」
声に出してしまった。その途端堰を切ったように涙が溢れ出す。何時も私を追いかけて、見つめてくれていた瞳。それがどうしてこんな箱の中に。
くるくると変わる表情、愛らしい彼女の顔に付いていたはずのその両目が、私を見ている。
「そうだよ、那由多王子。それは君の大切な、トーラの瞳だ」
肯定され、身体から急速に力が抜けていく。抗う気力が奪われていく。もう泣いて痛がることしかできない。守れなかった。私はまた……失ってしまったのだ。
(トーラ……)
この2年、一番近くにいてくれた。ずっと側にいてくれた。何時も私を支えてくれた、大切な私の相棒。その好意を受け取る振りでかわし続け、のらりくらりと縮まらない距離を二人で守っていた。それをあの第二島で一歩踏み出したのは彼女だった。口付けられて、死んだはずの私の鼓動が動き出すような予感がした。だけど……彼女はもう、私を見上げてはくれないのだ。
最後にこの眼が見た私は、縛られながら混血を奴隷を殺す姿だろう。醜く汚れた私の姿を、この眼はどう思い眺めたのか。
私が捕まりさえしなければ、彼女が危険に飛び込むことはなかった。彼女をこんな目に遭わせたのは私の不注意。私の盲目だ。ラハイアを思うあまり、私は頭としての役割を果たせていなかった。それを彼女に任せきりで……いつも彼女に重荷を背負わせて……
「トーラっ……」
「感動の再会の所悪いけど、そろそろ始めても良いかな?ああ、さっきの傷は治してあげたよ血は危ないからね」
ベッドの傾きを元に戻して、片手にメスを携えたオルクスが私の頭上で微笑んだ。それはこれから与える痛みをちゃんと感じることが出来るように、他の痛みを排除した。そんな風に聞こえてならない。
触れられた足が、顔が引き攣る。より良い触媒を作るため、オルクスは麻酔すら使ってくれないらしい。視界に迫り来る凶器。それを前に私は、震えることしかできない。邪眼で二人の動きを止めようとしても、二人は止まらない。私が恐怖に負けている。押されている、完全に。これでは誰も従えられない。魅了など出来ない。魅了したところでこの者達は、私に害為すことしかしないのだ。
「…………」
アスカ。彼が私の目で狂ったのなら。
洛叉が言うには目がなくなったところで邪眼の本質はなくならないし、魅了された人間が元に戻ることはない。それでも、今より彼が狂うことはなくなるだろうか。少なくとも……あんな風に笑う彼を私は見ずに済む。そう思えば、これから来るであろう痛みにも耐えられるだろうか?
(いや……)
耐えられなくてももういいや。どうでもいい。だってもう、私には何もないじゃないか。嫌だなと僅かばかりに思うのは、トーラの目。彼女の目に見られながら、私は情けない姿を晒してしまう。
そんな悠長なことを考えていた私は、現実から逃げていた。だけどそんなことももう考えられない。突き入れられたのだ。
あまりに痛すぎて発した悲鳴は言葉にならない。耐えられると思っていた。だけど駄目だった。私の弱さが浮き彫りにされている。守るべき者を失った私はこんなに弱いものだった。虚勢も痛みで破られる。
毒の痛みに慣れて久しく、長らく痛覚も朧気だった。だから私はここまで鮮明な痛みを知らない。幾重の死の想像が脳裏を駆けめぐる。
目を閉じたいのに、固定されて動かない。涙が染みる。そもそもそれは涙だけではないだろう。血の匂いがする。嗅ぎ慣れた屍毒の匂いだけが、ほんの少しの慰めだった。
 




