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52:Nec vitia nostra nec remedia tolerare possumus.

前回、前々回の所為で今回も雰囲気注意回。

 笑う。彼女が笑う。私を笑う。嘲笑う。


 「兄様ったら情っけない」


 惨めね無様ねと嘲笑う。これが夢だと、幻覚だと解っていてもその声は大きく響く。

 私に妹はいない。いたけど死んだ。いる前にいなかった。生まれる前に彼女は死んだ。だから私は片割れ殺しの混血として生まれた。


 「だから言ったのよ。兄様が死ねば良かったのに」


 生まれたのが自分ならもっと上手く生きられた。彼女はそう言う。


 「私なら父様に処刑されなかったし、そうなったなら混血が迫害に遭うこともなかった。今日の不幸は全部兄様が処刑された所為。兄様が処刑されたのは兄様が男だったから。だから兄様が死ねば良かったのよ」


 私を責める銀髪の少女。その姿が次第に別の者へと変わっていく。それも美しい銀髪を持っている。けれどその姿に私は凍り付く。その男の姿に忌まわしい痛みを思い出す。


 「……く、来るなっ!」


 洗い流された黒。その下から覗いた色は銀。私と同じ片割れ殺しの混血児。あの男は、ヴァレスタは……混血だった。銀色の髪……片割れ殺しっ!


 「何で、こんなことっ……」


 足下には死体の山。皆見開かれた瞳。毒により息絶えた苦しみを、痛みをそこに宿す。


 「何を馬鹿なことを」


 男は死体と私を一瞥。そして日の昇り方を告げるよう、確信めいた口調で語る。


 「これはお前がやったことじゃないか」


 違うとは言えなかった。


 「思い出すだろう?半年前を」


 あの日も死体が二人の傍に転がっていた。あの日もそれを殺したのは、お前だったじゃないかと彼は言う。噛み締めた唇と、堪えきれずに流れた涙に、悪魔のような男は惨めな奴だと嘲笑う。

 彼は私の胸へと手を当てて、あの日貫いた場所を探り出す。傷は塞がったけれど、思い起こされる痛みがあった。

 許せなかった、あの日はそう。混血狩りに船を焼かれて、アスカまで傷付けられた。この憎らしい男を討つためならば、自ら剣に飛び込むことも厭わない。血は私の最後の、最大の武器。

 私の毒からどうやって逃れたかは知らない。しかしそんな相手生半可な毒は通じない。殺すなら屍毒ゼクヴェンツ。

 効かなかったわけではないのだ。それは解る。この男は私に血は流れないような拷問をする。それだけ恐れているのだ、私の毒を。

 次ちゃんと浴びせれば、屍毒ならきっと殺せる。縛られた私に出来ること。それはとても限られているけれど、今舌を噛んで血を流して……それを相手に飲み込ませれば。

 そんな私の浅はかな考えを見越した男は、私の口を塞ぐ。口ではなく轡をもって。


 「薄汚いお前は奴隷ですらない。道具は勝手に物を言ってはならぬ。勝手に死んでもならん。唯、壊れるまで使われる。それが惨めなお前にお似合いだ」


 同じ片割れ殺し。同じ髪を身に宿し、同じく身分を失って。

 共通点は多い。それでも隔たった壁がある。私と彼は同じではない。

 私は混血として生き、この男は純血として生きる。属する場所も、守るものも全く別のもの。

 この男を殺してやりたいと思うのに。今混血のこの男を殺せば、私の信念が揺らぐ。足下には混血と奴隷の死体が転がっていて、私を暗い目で見上げている。また混血を殺すのかと私に問いかけてくるようだ。

 復讐心で人を殺すなだって?フォースに偉そうに説教しておいて、私はこの男を殺してしまいたい。だけど殺したいのに殺せない。殺す術さえ奪われた。私の涙さえこの男は拭ってくれない。だから毒に触れることはない。私では殺せない。


 「っう……」

 「余所見をするな。道具風情が」


 勝手に眼を閉じれば、視線を逃せば、鞭を打つ。熱い蝋を垂らす。昨日までは耐えられた。その責め苦が今はどうしてか、駄目なのだ。心が折れた。それだけで、痛みがこんなにも痛みとして認識できるようになる。

 目隠しを望んだのは、今から逃げたいから。それを拒むこの男は刻みたいのだ。自分という存在を。その名を。もう身分なんか失った私を慰みに、タロックを蹂躙した気になって。自分こそが王だと知らしめたいのだろう。真純血の掛け合わせで生まれた私という混血。薄れた血の混血が、それより上だと知る気分はどんなにか良いだろう?男は私を汚すことで、王になった気分でいるのだ。一介の奴隷商風情が。

 愚かな男だ。惨めな男だ。お前だって十分そうだ。そう思うのに今の私はもう、睨む気力もない。唯使われるだけの道具。それ以上には戻れない。

 無理矢理とかそういうのは、別に初めてじゃない。あの屋敷ではよくあることだ。旦那様にも奥様にもそんな風に使われていた。二人はおかしくなっていたけど、それでもそこには私への想いがあった。長く邪眼に魅了された人間は、術者の全てを欲しがる。体も心も何もかも独占しなければ気が済まない。

 しかしこの男は私に魅了などされていない。愛してなどいない。それでも行為に及ぶのは、私の顔が見たいからだ。嫌がる顔。泣き喚く顔。絶望していくその顔を。じっくり傍で眺めて嘲笑いたい。そのためにこうしているのだ。そんな精神的自慰に何故私が付き合わなければならないのか。全く持って解らない。

 今すぐ殺してやりたい。弱々しく睨み付けても、この男には効かない。その美しい変色の瞳が私のまやかしを跳ね返す。魅了が自分へと返され、私がおかしくなって行く。その感覚こそが、絶望だ。


 「惨めね、兄様」


 再び現れた妹が私を笑う。それは目の前の男からではなく、私の内側から発せられたように響く声。


 「私だったらこんなの全然平気なのに」


 だって男女が愛し合うのは当然じゃないと彼女は笑う。これが屈辱だと感じるのは貴方が私じゃないからよ。彼女が私を嗤う。


 「私がタロック王女だったなら、この男が惚れたのは姉様じゃなくて私だったかも知れないわ。私なら処刑されなかった。それならこの男が身分を失うこともなかったでしょうね」


 純血至上主義を生んだのは、私が処刑された所為だ。

 父様が私を殺したのは、男子虐殺令を広めるため。しかしそこに付け込んだ奴がいた。これは混血を迫害する大義名分だとそいつらは言う。タロック王が那由多王子を殺したのは、法のためではなく、混血憎し……その心からだととんでもない解釈を添えて。

 それがセネトレアに広まって……

 トーラの不幸も、鶸紅葉や蒼薔薇の悲しみも、アルムとエルムが奴隷商に追いかけられたのも、ウィルとリリーが実験動物のように使われたのも、カルノッフェルとリアがあんな悲しい再会をすることになったのも……全部元を辿れば私の所為。私には誰かを怨む権利がない。すべてが私を呪う権利はあっても。そう、……ヴァレスタでさえ、私の被害者なのだ。


 「貴方は憎まれる理由があって憎まれている。それが何?なぁにその顔?全然解ってないじゃない。貴方は生まれながらの人殺しなのよ、お兄様?」


 己の罪を知れ。被害者ぶるな。お前が加害者だ。こんな状況でもそれは決して揺るぐことのない真実だと告げられる。


 「あの聖十字が幾ら優しい言葉をくれたって駄目よ。そんなことで兄様の罪は消えないわ」


 お前は被害者だと抱き締めてくれたあの人。そんなものはあり得ない。あり得ないことを言わせている。それを引き出したのはお前の目。あの清純な男さえ、お前のその目が汚したのだ。曇らせつつあるのだ。その罪を知れと彼女は言う。

 お前の不幸は全て私の呪い。私の憎しみ。歌うように彼女が語る。この逃げ出したい悪夢も、逃げ出すことが出来ない現実も……生まれることが生きることが出来なかった片割れからの贈り物。


 「そこの死体達が生きてた頃は、助ける方法はないかってそのためなら痴態を演じても構わないって思ってたでしょ?だけど一人になったらそれが出来ない。あの時より、必死に堪えようとしている」


 それはお前が傲慢だからに他ならない。彼女から下る有罪判決。


 「兄様はプライドを捨てた気になっているけれど、その実本当は誰よりもプライドが高いのよ。仲間のためにそれを捨てられても、自分のためには捨てられない。仲間がいないだけで貴方ほど傲慢になる存在もないわ」


 声一つ立てたくない。一瞬たりとも目を合わせたくない。ましてこんなやり方に、感じることがあってはならない。嫌だ。嫌だ、嫌だ……こんなの。

 跳ね返された邪眼の魅了が私の心を勝手に書き換えていく。気の高ぶりは私に魅了された者が感じている感覚。普段自分がしていることを自分で味わっている。


 「ねぇ、兄様。本当はもう何も考えたくないんでしょう?我慢したくない。だって我慢すればするほど拷問は長引くのよ。こういうのはさっさと相手満足させてお帰り頂くのが一番じゃない」


 不意に彼女の声が、内側で大きく響いて聞こえた。


 「だから私が代わってあげる。いいのよ、お礼なんて。兄様が認めていないだけで、私達はこういうことが大好きじゃない」


 違うと否定する、私の声が……とても小さくなった。それは口にも出せていない。胸の内の葛藤の声。私の名前が理性なら、彼女の名前は欲望だ。この身を彼女に開け放したなら、苦痛も屈辱も快楽に変えてくれる。何も考えずにここから今から逃げられる。


 「今更拒むことないじゃない。兄様はいつもそう。最後は私に逃げてきた。お屋敷でもそう。考えることを放棄してきた。そうして割り切ってきたじゃない。だから次の日にはいつもけろっと何もなかったみたいな顔出来る」


 でも嫌だ。こんな男を相手に。屈辱に耐えられない。その抵抗が何よりのご馳走なんだとは解っているけど、こいつだけには……この男だけには。


 「兄様がそうしたいっていうなら私は観察に回るけど、後で後悔しても知らないわよ」


 彼女は予言めいた響きを残し、私の内側へと戻る。そして私は……その言葉通り、後悔を知ることになった。

 限界は来た。理性を保ったまま。それは足下から大地が崩れ落ちていくように、私に後悔を呼び起こさせる。

 両耳をそぎ落としたなら、私は何も聞こえなくなるだろうか?そうなるならそうしたい。両目を刳り抜いたならば、彼の目に映る私の惨めな姿が消えるだろうか?それなら私はそれを選ぶ。

 許せない。許せなかった。この瞬間は目の前の男より、何より自分自身が。情けなくて、悔しくて、涙が溢れる。嗚咽さえ、耳障りな甘さがあった。今すぐ首を吊りたい。だけど私を縛る鎖がそれを許さない。そう思うと本当に、惨めだった。

 これが夢だと解っていても、これは本当だったから、目覚めても何も変わらない。眠る度にこの悪夢に脅かされるんだと思うと、何もかもが嫌になる。

 私がそう思ったのを見計らうように、彼女は再び現れて、私に囁きかける。その甘い声は悪魔の囁き。くたびれた心には抗う術さえ残されていない。

 深い意識の水底。今度沈んでいくのは私だ。そして、二度と目覚めない。それは死に似た眠りだ。私の望んだ願いのような……

 最初から間違った生なら、どんなに生きて藻掻いても正しい道には戻れない。ずっと間違い続けていく。人を巻き込んで私は間違い続ける。それならば……それならば…………

 生きればいい。生きればいい。私ではなく死んだあの子が。目を閉じて、私は闇に抱かれる。ほら、眠ってしまえば……もう何にも感じない。何にも解らない。もう、どこも痛くはない。


 *


 世の中何が起こるか解らんもんだ。アスカはぼんやりそんなことを考えた。


 《最っっっっっっっ低!!》

 「返す言葉もねぇ」


 最悪は最悪を招く。解っているんだ。それなのに、俺はその最悪の誘惑を振り払えずにいる。


 「飛鳥様?」

 「あ。いや……何でもないんだ」


 何もない所に向かって言葉をこぼす俺に、あいつは首を傾げる。そうだな。2年前はモニカなんていなかった。いたけど見えていなかった。だから今こいつがそれを見えているのかいないのかはわからない。わからないが、こいつの心はそれをその変化を受け入れない。


 「ご主人様の手を煩わせるなど、奴隷として恥ずべき事です。申し訳ありませんでした飛鳥様」

 「いやお前は……その体質だし、料理は無理だろ」


 そう言いながら、どうしてこうなった。俺は頭の中でそればかりを繰り返す。

 俺は早朝に、爆発音で目が覚めた。その先では料理に失敗したリフルの姿。なんというか、雰囲気が違っていた。それにあれっと思ったら……


 「お早うございます、飛鳥様」


 それはまるで2年前であった頃に戻ったような。そんなはずがない。そんなわけがない。だけど、この最悪を俺は奇跡のようにさえ思う。こいつは昨日のことを覚えていない。いや、何があったのか聞こうとした俺をあいつはそんな風に呼んだんだ。


 「え……、おいリフル?何言って……」

 「私は、瑠璃椿です」

 「……え?」


 夢でも見ているんだろうか?だけどモニカがいる。だからそんなことはないはずだ。


 「そして貴方の奴隷です。今日からよろしくお願いします」


 頭を下げるリフルの横で、また一つの鍋が噴火した。その光景を思い出し、テーブルの上の料理を眺める。これは全部俺が作った物で、俺の主と言えば申し訳なさそうに眉根を寄せて箸を運んでいる。


 「別に人間欠点の一つや二つあってもいいだろ」


 毒人間と言うことで普通に料理をしてもうっかり唾でも飛ぼうものなら、涙でも入ろうものなら毒物混入になる。だからこいつは今まで料理を任せられたことがなかったのだ。なら出来なくても仕方ない。

 それに他に貶すところも見つからない。完璧超人より、身近に感じて可愛く思う。だからこういう一面を知るのは嬉しいことだ。それでも……今のこいつは何でも自分が出来なければならないと思い込んでいる。


 「ですが私は奴隷です」


 自分は道具だと主張するリフル。本当に2年前にタイムスリップしたような気分。こいつの髪は短くなったし、俺の髪と背は伸びた。確かに時は進んでいる。それでも錯覚を覚える。そんな違和感の中流れるのは穏やかな時間。誰もいない店の中、こいつと食べる朝食。とてもささやかな時間だった。


 「それではせめて……洗い物は私がします」

 「いや俺が…………そうだな。それじゃ手伝ってくれ」

 「はい、飛鳥様」


 食事の際話してみたが、こいつは本当にこの2年間の事を知らないようだ。精神負荷が掛かりすぎて、記憶を封じ込んだのだろう。

 オルクス達にされたこと。それを忘れるためにはこの2年の全てをなかったことにしなければならない。それは俺以外の全ての人間を忘れると言うことだ。あの日の瑠璃椿は俺だけを見て俺の道具だと言っていた。今のリフルはまさにそれ。

 トーラのことも迷い鳥のことも知らない。Suitなんて殺人鬼のことも知らない。人の生き死にに思い悩むこともない。

 下手に探りを入れて他の連中のことを思い出させるのは不味い。今のこいつなら、むやみやたらと死のうとはしない。何もかも捨てて、どこか遠くに逃げる事だって今なら出来る。

 俺が来いと言えば何処にだって付いてくる。何の疑いもなく。

 食器を洗うリフルの横で、食器を拭いて片付けて……その間にも俺は考えを進めていた。


 《この子の心を癒してやれって言ったのに!なんで現実逃避に貴方まで乗っかっちゃってんのよアスカニオスっ!!貴方まで無視しないでよっ!》


 何か五月蠅いのがいるが基本無視で構わない。俺から離れたらそんなに大きな事も出来ない。第一このことをこいつが告げ口できる相手などいない。


(モニカ、お前は俺の幸せを願ってるって言ってたじゃねぇか)


 小声で文句を言えば、三倍返しで返された。


 《こんなので幸せなの?嘘でしょ!?この子の幸せが貴方の幸せじゃなかったの?これじゃあ……逆じゃない》

(こいつが何もなかった。忘れたいっていうんなら、それに付き合ってやるのが俺の役目じゃねぇか)

 《そんなの、本当にリフルちゃんのためにならないわよ》

(ためになるとかならないとかじゃねぇんだよ。こいつがどうしたいかって話だ)


 モニカの言うことはもっともだとは思う。それでもそれだけ嫌なことがあったってことだ。これが一時的なショックなのだとしても、その間くらいそれに付き合って浮遊させてやってもいいじゃないか。それでこいつが少しでも楽になれるのなら。


(何処か気晴らしにでも連れて行ってやるのもいいかもな)


 何かあったらトーラ辺りから文句が入るだろう。それが入らないってことはあっちは無事って事だろうし。後でTORA本部にこの旨を伝えておけば了承して貰えるはずだ。こいつは今本当に疲れている。物騒事から遠ざけてやりたい。


 「なぁ、ちょっと出かけないか?」

 「畏まりました。買い物ですか?」

 「いや、ちょっとこの島出て旅行にでも……第四島辺りでも行ってみないか?あの辺は観光地としても有名だし。いや俺は行ったことないんだが」


 質の良い温泉があるって話だし、療養には良いと思う。数術で治してやりたいが、こいつは傷のことなんか気にもしていない。なんでこんなものがあるのかわからない。そんな顔。変に言及して余計精神追い詰めても困る。命令だって無理矢理脱がせて回復なんて……今なら出来るだろうが、それは寝込みを襲うより卑怯なやり方だと思う。


 「第四島ですか?」

 「お前も行ったことねぇだろ?」

 「はい」

 「んじゃ、決まりな」

 「んなことさせないわよ」


 店内に響く声。無駄に偉そうなその声は、俺でもこいつでもモニカでもない。店の入り口にはキレ気味顔のロセッタがいる。


 「どちら様ですか?」

 「客だな。今日は店休みだって言ってくるわ」


 俺はリフルに仕度をするように告げ、上の階へと上らせる。


 「あんたどういうつもりよ!ていうか何よあれ!」

 「察してくれ。どうせそっちは神子様から大体こっちのこと教わってんだろ」


 ロセッタが黙り込む。多分正解だ。でもどの程度まで聞いているかはわからない。


 「あいつは今精神的負荷で記憶が混濁、それで退行している。お嬢ちゃんに出会うより何日か前の、2年前まで」

 「あの怪我……」

 「敵にやられた跡だ。何されたかは俺も詳しくは知らねぇ。あいつが俺に傷見られたくねぇみてぇで昨日は回復できなかった。今日になったらあの様だ」


 俺は俺の知る情報を吐き、彼女に目を向ける。そこで彼女が俺を責めてこなかったは多分、彼女も良い情報を持っているわけではなかったからだ。


 「……トーラと鶸紅葉がオルクスに捕まった。トーラの方は解放されたみたいだけど、行方不明。蒼薔薇が第五島に残って捜索しているわ」


 そこでどうするか、リフルに聞きに来た。それなのに本人があんな調子では困るのだと彼女は言う。


 「荒療治でも何でもさっさと元に戻って貰わないと」


 物騒な言葉を吐いて階段を上ろうとするロセッタ。その手を掴み、俺は彼女を引き留める。


 「止めてくれ。今のあいつは……休息が必要なんだ。これ以上、追い詰めないでくれ!」

 「はぁ!?馬っっっ鹿じゃないの?そうやって逃げて!その間仲間に何かあって、それで傷つくのがあいつでしょ!?ここで逃がして良いの!?その時あいつはもっとおかしな事になるわよ絶対っ!!」


 お前のそれは優しさなんかじゃないとロセッタが吐き捨てる。


 「大体ちょっと犯されたくらいで何よ。あいつは女じゃないんだし、まだ最悪からは遠いわよ」

 「…………な、何だよ……それ」


 彼女の言う言葉の意味が解らなかった。解りたくなかった。


 「あいつも奴隷だったんでしょ?それなら今更じゃない。殺人鬼の癖にどんだけ精神ひ弱なの?」

 「お前にあいつの何が解るんだよ」


 気付けば俺はロセッタの胸ぐらを掴み上げ、そのまま壁に押しつけていた。今は無性にこの女に腹が立った。殺してやりたいとさえ思う。


 「……純血と混血の間には、子供が出来た前例がないんだってな」

 「だったら何よ?」

 「なら俺が今お前にあいつがされたのと同じ事しても、そいつは最悪じゃないんだろ?なぁ!?」

 「あんた、最っっっっっっっ低!!」

 「お前ほどじゃねぇよ。俺が言ったのはお前が言ったことなんだからな」


 銃に手を伸ばそうとしたその手を押さえる。力は彼女の方が上。それならその前に体勢を入れ換える。幾ら怪力でも、関節決めれば意味はない。体格の差はでかい。


 「飛鳥様」


 背後で上がったその声に、俺はびくっと身体が震えた。


 「る、瑠璃椿?」


 振り向くより先にその声の主が俺の背中に抱き付いた。


 「そんなことなさらないで下さい」


 記憶はなくてもロセッタを庇う。その慈悲にロセッタが目を見開くが……すぐにそれが驚愕へと変わっていった。


 「そういうことをされたいのでしたら道具の私をお使い下さい。私は貴方の奴隷なんです。それとも私に飽きてしまわれましたか?」

 「あ、あああああ飽きるも何も、俺はお前にそんなことしてねぇだろ?」

 「私ではやる気が起きませんか?魅力がありませんか?どんな服なら興奮しますか?飛鳥様のためなら私は何でも着させて頂きます」

 「そ、そそそそそそういうわけじゃなくて……その」


 突然のその言葉に、俺の力が緩む。その隙に逃げ出したロセッタが、リフルに詰め寄った。


 「ちょっとあんた!しっかりしなさいよ!どうしちゃったの!?そんなに見られたのがショックだった!?あれは別にあんたの所為じゃないでしょ!?何そんなに抱え込んでんのよ馬鹿っ!!」


 がくがくとその肩を揺すられても何のことだか解らないとリフルは……瑠璃椿は首を傾げるだけ。


 「……どちら様ですか?以前お会いしたことがありましたでしょうか?」


 残酷なその言葉に、ロセッタの手が離れる。だらんと下げられた腕。力なくそれは微かに揺れる。目の前の男を殴りたいのに、殴る力がそこには残されていないようだった。


 「……っ、もうあんたなんか知らないっ!何処にだって行けばいいじゃない!それで何をなくしても、私は知らないっ!全部全部っあんたの所為よ!!」


 彼女はそう怒鳴り散らして、店から出て行った。それを瑠璃椿は相も変わらず何も解っていない風に、首を傾げている。しかし俺の視線に気付くと、そんなことはどうでも良いかと忘れたように俺へと微笑む。


 「飛鳥様。次のご命令は何ですか?」


 *


 船に揺られながら、潮風を感じる。西への航路ではそんな余裕はなかった。それでも今東へ向かう船は、俺に希望を与えてくれる。

 隣ではしゃぐ瑠璃椿。何もかも忘れて俺だけの物。こんなの間違っていると思いつつ、それでも振り払えない誘惑の笑み。絡め取られたように、この幸せを手放せない。

 本当に酷い話だが、俺はこいつを壊した奴を死ぬほど怨みつつ、……僅か以上の感謝さえ抱いている。俺にロセッタを怒る資格がないのは確かだ。

 情報で見たこいつの過去。それを聞いても俺の中でこいつは神聖なものだった。一つの傷もそこにはない。だから実感がなかった。相変わらずこの人は綺麗だった。死んでいた頃と同じように。

 しかし今、傷だらけのその人は確かに虐げられたのだ。そのことに怒りは覚えるが、妙な感覚が浮かび上がる。この人は神聖な者でもなんでもなくて、唯の人間なんだという思い。手を伸ばせば俺だって手が届く。そういうところまで汚されて、貶められた。そう思うと邪眼の誘惑が途端に強くなる。どんなに否定してもその考えは何度も俺の中に現れる。

 今のこいつなら俺が望めば、どんな願いも叶えてくれる。だけど駄目だ。そう思うのは、いつかこいつが元に戻ったときに俺をどんなに軽蔑するか、それが怖いから。こいつが絶対に元に戻らない。ずっとこのままだという保証が得られるまで、俺は何も出来やしない。

 モニカも俺に呆れたのかもう何も言わない。唯俺達を見ているだけ。


(さて、どうしたもんか)


 邪眼の魅了。それに抗うためには別のことを考えるのが一番だ。俺はこれからのことを考える。

 ロセッタはもう好きにしろと言っていた。勿論そうさせて貰う。蒼薔薇の言うように、こいつとトーラ。どちらが大切かは分かり切っている。あいつが命令を無視してトーラを探しに行ったように、俺だって好きに行動してやる。俺の一番はこいつだ。こいつがこれ以上傷つくような事は避けたい。今第一島のどこにいてもこいつにとっては危険。何時記憶が揺さぶられるか解らない。それなら知らない土地に移動するのが一番だ。

 もっと早くこうしていれば良かったんだ。あの日こいつを見つけた時に、まどろっこしいことをしないですぐに船に乗ってシャトランジアにでも逃げていれば。

 そうすればこいつは今頃シャトランジア王族だ。爺だってそれは喜ぶ。俺はもう戻れないけど、貴族としての地位位は取り戻せる。正真正銘この人が俺の主になるだろう。

 こいつがこんな状況で、それが無理だというのなら、俺の屋敷で使用人として傍に置いて……そんな風に暮らしても良い。ついでに俺達をやたら監視している神子様ってのの顔面一発殴りに行こうか。

 未来わかってんならもうちょい支援の仕方があるだろうに。こいつがこうなるまで放置したってだけでも許せない。先読みの神子のことだ。今になってこいつの存在に気付くなんてあり得ない。解ってたけど放置して、こいつがSuitになるのを待っていた。そんな気さえするのだ俺は。俺やリフルがいればシャトランジアの勢力争いはまた揺れる。教会と神子が今は強いと言われているが、それは王が年老いていて、娘も孫も殺されてしまったからだ。

 神子は王の説得に俺達は必要だが、俺達をその地位に戻したくはないはずだ。だからリフルが今更そこに戻れないよう、罪を犯すまで待っていた。そんな風に思えてならないのだ。助けられるのに助けなかった。そこが胡散臭いと俺は思う。ロセッタを使ってきたのも巧妙だと思う。彼女はリフルにとってのトラウマだ。助けられなかった相手。そんな彼女には罪悪感から強くは出られない。それを見越して彼女を送り込んだ。そう考えて間違いはないだろう。

 向こうは俺達を知っているが、俺達は相手を知らない。それは取引としてフェアじゃない。大体これが本当に一人しか生き残れないなら、最終的に俺達を生かす意味だって向こうにはない。

 赤ん坊の頃の記憶なんてあってないようなもの。俺がシャトランジア王本人に会ったのは1才にも満たない内に何度かだ。それからもう18年も経つわけで会ったところで俺本人だと認めてくれるかどうかは怪しい。しかし神子の監視がない内に面会はしておきたい相手だ。

 しかし船着き場を調べたが、何故か日に何本かあるはずのシャトランジア行きの船がなかった。それなら療養兼ねて第四島を経由して、向かうのがベストだろう。

 第四島プリティヴィーアは観光地。火山島ということで質の良い温泉があっちこっちで湧くわ、火山で滅んだ街の遺跡探検やらなんやらで、観光名所としてはそれなりに繁盛しているらしい。

 船室に戻れば早く目的地に着かないかと瑠璃椿も心待ちにした様子でそわそわしている。


 「楽しみですね、飛鳥様」

 「ん、ああ。そうだな」


 2年前に戻った……。最初はそう思ったがちょっと違うと段々解ってきた。2年前よりいつもより、感情の起伏が大きいように思う。大人しくないわけではないのだが、なんというか明るくなった。どういう反動なのか解らない。こんなことなら洛叉にでも診せに行けば良かったか。いや、こんな状況であいつに会わせたらどんな大嘘吹き込まれるかわかったもんじゃない。第一それこそこいつの心の傷を抉るような真似をしかねない。


 「何か気になるところでもあったか?」


 黙り込んでパンフレットを読んでいる瑠璃椿。向こうで行きたいところでもあるなら連れて行ってやりたい。そう思い覗き込むと、急いでそれを閉じられた。


 「瑠璃椿?」

 「あ、いえ……ここの宿、なかなか風情があって素敵ですね」


 表紙になっている建物に話題を移された。一瞬見た頁には、街の特集だったように思えたが……


 「御入浴の際は私にお背中流させて下さいね」

 「い、いやその位自分で出来るからな」

 「やはり私は道具として、奴隷として使いたいと思えませんか?」

 「い、いやそうじゃなくて」


 今日のこいつは変だ。いつもと本当にテンションが違う。あいつもエロい話を平然と振ってくることはあったがここまでドストレートなのには驚く。大体いつもあいつのそういう話は冗談だ。しかし今のこいつの発言は、なんというか切実な響きを感じる。そういう風に使われないと、存在意義すらないと言わんばかりの……


(どうしちまったんだ……本当に)


 第一島から離れた海の上。これはもしかして俺一人では手に負えない状況?いやいやそんなはずはない。俺一人でやり過ごせる。たぶん。絶対。大丈夫……だったらいいな。


 「二人っきりで旅行なんていったら勿論あれ以外ありませんよね?精一杯頑張らせていただきます」

 「お、おい……」

 「奥手な飛鳥様からお誘い頂けるなんて光栄です。瑠璃はとても幸せ者です。ですがご主人様のお手を煩わせるようなことは致しません。私が上で動きますので」


 開いた口が塞がらない。リアルでそんな状況だ。

 明るくなったとかそういう次元の話じゃなかった。頭の螺子が何本か、ぶっ飛んでる!!


(り、……リフルが壊れた)


 俺はこの時今のこいつが俺の手に負えないことを理解した。もううだうだ言っていられない。不本意だがあの闇医者に診せないと大変なことになるレベルだこれは。精神崩壊寸前か、もう引き起こされた後という可能性もある。俺のリフルはこんなのじゃなかったはずだ。こんな安っぽいエロスの大安売りをするような奴じゃなかったはず。普段のあいつの雰囲気が全部粉砕されている。

 顔は何時もと同じように綺麗だが、とてもじゃないが俺の好みじゃない。なんか刹那姫を下手にしたようなかんじみたいになってしまってる。顔は良いけど、中身が……まるで駄目だ。喋らなければ良いのに。喋ったら完全にこっちが使い物にならなくなるようなことを言う。迫られると引く。邪眼の好意も一瞬にして冷めるような気がした。

 邪眼は外見だけが引き起こすものじゃなかったんだなと初めて知った。こいつのあの性格とか雰囲気あっての邪眼だったんだ。


 《……アスカニオスのへたれー》

(うっせー!こんなの俺のリフルじゃねぇっ!!)


 余り独り言を続けると怪しまれると言うことで、モニカに相談した結果こいつも契約者の俺とは余裕で念話が出来るらしい。それならそうと言ってくれ。


 《どうして貴方に全然恋人出来ないのかちょっと理解したわ。自分でフラグ折ってたら話にならないわよ》

(何でここでいきなりお前は食い付いてくるんだよ。さっきまで俺のこと散々ぼろくそ言ってた癖に)

 《それとこれとは別よ!とりあえず据え膳は食っとくもんよ!あんた男でしょ!》

(あいつも男なんだがな)


 今すぐ船を港に引き返して貰いたいがそんなことは出来ない。向こうの港に着くのは夕方とのこと。


(仕方ねぇ……)


 本当に何日か観光して息抜きしたらすぐに帰ろう。こんなおかしな状況のこいつと何かあったら本当に大変なことになる。こいつ自身我に返った時に、それこそどうなってしまうか。

 いつもは邪眼の魅了を俺が耐えるのが俺とこいつの常だったわけだが、こんな状況は初めてだ。いつもはあいつが俺を避けるのに、今度ばかりは俺がこいつを避けなければならないとは。


 《……しかしなんかどっかで見た図だと思ったらあれね》

(何だよ?)

 《貴方の両親はこんな感じだったわよ。常にアトファスが逃げ担当。結婚するまで手は出さないって。でもそもそもプロポーズなんか畏れ多くて出来ないって逃げて。それであの女が暴走して追いかけるような感じ》

(ま、マリー様…………)


 俺の両親の時代から見守ってきてくれたこの精霊には今の状況が既視感らしい。それなら今のこいつのおかしいところも実は血だってことでそこまでおかしくもないのかもしれないけど。

 俺がモニカと念話をしていると、仲間はずれにされている瑠璃椿が俺を潤んだ瞳で見上げてくる。こういう表情にはちょっとドキッとする。しかし……


 「飛鳥様……私の何処が駄目なんですか?」

 「あ、あのな……駄目とか駄目じゃない以前にそんなことになっちゃ駄目だろ俺らが」

 「む……胸がないからですか?小さいからですか?」


 その発言に俺は吹き出した。落ち着こうと思って口にした飲み水を豪快に。


 「でも大丈夫です。毎晩揉んでくださればその内飛鳥様のお好みのサイズに……ってどうかなさいましたか?」

 「お前男だろ!?そんなんで胸でかくなって堪るか!」


 とうとう限界だ。俺はツッコミを入れてしまう。しかしその突っ込みに瑠璃椿はきょとんとした顔。でもしばらくしたらくすくすと笑い出す。


 「飛鳥様は本当に冗談がお好きですね。それともわざとそんな事を仰るんです?」

 「え?」

 「瑠璃椿は女です。信じていただけないのでしたら、今すぐここでお確かめに……?そういうことですよね?」

 「し、信じましたぁああああああああああああああ」


 服に手をかける瑠璃椿を尻目に俺は船室から猛ダッシュ。甲板へと逃げる。


 「ど、どういうことだよ。あれ……」

 《数値的には男だと思うんだけど……精神的ショックで自分が女の子だと思い込んでしまっているみたいね》

 「本当に何しやがったんだオルクスの野郎っ……」

 「オルクスっていうかあんなんにしたのはヴァレスタの方よ」


 モニカの声にしては先の発言よりはっきりとした口調。というか声の質が違う。恐る恐る横を向けば、第二島の時のように黒髪のタロック少年に変装したロセッタ。


 「な、何でお前がいるんだよ!?」

 「私だって来たくなかったけど、神子様が監視継続命令出して来たんだもの!!仕事なの!神子様の命令は絶対なの!もうこうなったらとことん見守らせて貰おうじゃない!あんたらが何処まで人間止めるのか!!」


 酷い言われ様だ。俺が何かしでかす前提の発言だ。


 「っていうかちょっと面貸しなさいよ」


 そう言いロセッタは俺を物陰まで連れて行き、発砲。防音数式結界を張る。


 「……ヴァレスタってマジなのか?」

 「あんたねぇ……オルクスのこれまでのやり方からしてあいつは変人だけどSM趣味は多分無いわよ…………いや、ちょっとはあるかも、だけど。あの男は実験と本命以外にはしないでしょ。うん……女好きみたいだし………」


 そこでちょっと落ち込むロセッタ。


 「あいつこの私を前にして、“君には興味ないから解放してあげるね”なんてほざくのよ!!胸かっ!胸がないからかっ!!くそっ!!」

 「いや、無事だったならそれでいいじゃねぇか」

 「良いんだけどむかつくのよ!!私のプライドへし折られたっ!!」

 「まぁ、それはどうでも良いからあいつに何があったのか教えてくれよ」

 「やっぱあんたも最低っ」


 一発ビンタ食らった。痛い。流石後天性混血児。口の中から血ぃ出た。ここに瑠璃椿がいなくて良かった。いまのあいつなら「私が舐めて傷の手当てを」とか余裕で言い出しそうだ。


 「…………あいつ、貴族と商人殺しの殺人鬼ってのが信条だったでしょ?」

 「ああ」

 「……あいつ、混血と奴隷殺させられたのよ」

 「……!?んな馬鹿な……」


 そんなことあいつがするとは思えない。しかしロセッタは言う。したのではなくさせられたのだと。


 「要するに羞恥刑ね。あいつ縛って吊して、それで処分間近の奴隷に相手させんのよ。それでどんな手使っても良いから一発出させたら奴隷から解放してやるって」

 「え、えげつねぇ……」

 「あいつ毒人間でしょ?そこでやっぱりまぁ……殺しちゃうわよやることやれば」

 「………まぁ、だろうな」

 「オルクスはヴァレスタに半年前の憂さ晴らしの機会を与えたの。その代わりにあいつの手下何匹か暫く借りるって話になったらしいわ」


 淡々と進む、とんでもない話。下手な突っ込みも入れられず俺は相づちを打つ。それでも気になるところは多々あった。


 「……で、なんでそんなの嬢ちゃんが知ってんだ?そいつも神子様情報ってか?」

 「オルクスの所為よ。あいつ向こうとこっちの映像繋いで、あっちもこっちもやばいところを見せられたのよ。私は部外者だからそんなにあれだとは思うけど……トーラと鶸紅葉に見られたのが痛かったんだと思うわ」

 「……そりゃ、そうだ」


 そいつは正にあいつのトラウマ、その再現。自分も決して嫌いではなく自分に気がある女に、他の奴にいろいろされている所を見られてしまうって……あいつが拾われた屋敷で実際あった出来事のなぞりだ。それだけでも十分ショックだろうに、ロセッタはそれだけではないと断言。


 「映像切れてから何あったかは解らないけど、ぱっと見た感じでも傷増えてたしヴァレスタにも何かされたんでしょうね。映像切れる前のあの奴隷商、凄く良い顔してたわよ。あれはドSのド変態心に火ぃ付いた目だったわ」


 原因は十中八九あいつだろうと頷くロセッタ。


 「少なくとも映像切れる前までのあいつはちゃんとあいつだった。問題は映像切れてから何があったかってことで間違いないわ」


 それはそうなんだろうが、そこから今の解決策は見つからない。溜息を吐き考え込んだ俺を見つめるロセッタは、ここで妙なことを言い出した。


 「神子様からの助言が来てるんだけど、聞く?」

 「聞くだけならな。言ってみろ」

 「“もう色々めんどくさいから勝手に一線でも越えて来い腐れ王子共”」

 「聖職者がさくっと同性愛推奨すんなよ」

 「“僕としても自国の王子が19にもなってまだ童貞とかちょっと笑えないというか。この際もう貰ってくれるなら別に良いんじゃないですか?例えそれが男でも弟君でも”」

 「それは俺の勝手だろうが!!プライバシー俺にねぇのか!?ていうかそんくらい好きな時に捨てさせろよ!つぅか聖教的には俺偉いじゃねぇか!」

 「“そう言ってる男が基本浮気とかされるんですよね。下手だけど性欲だけは滾ってるような自己満足男と結婚した相手は余生ずっと地獄ですよ。国の恥さらしになりたくなかったらその辺何とかしてください。彼は奴隷やってただけあって各種スキルパラメーター最高値ですよ、性技だけですけど”」

 「何で初っぱなから俺が下手だみたいな前提で話進めてんだよ!?何でリアルタイム風に俺の答え解ってんだよ!?あと俺の主を侮辱すんな!」

 「“それは一応僕も先読みの神子を名乗っている以上それくらいは余裕です。というのは冗談で、今ソフィアと定時連絡の通信中だったんですよ”」


 何ともぶっ飛んだ神子様だ。しかしそれがロセッタの口から語られるんで、そこから本人のイメージは湧かない。妙に腹立つ相手だと言うのは変わりないが。


 「“ですが手っ取り早い解決法ですよ。彼の不安定さは傍でちゃんと彼を支えられる相手がいないからこその物で、それによくエロ漫画とかであるパターンじゃないですか。あんなことやらこんなことやらで傷ついた心を癒す甘さ全開エロ展開みたいな。どうせ変態王子は寝取られ属性あんでしょうし、燃えるんじゃないですか?”」

 「今のあいつ相手に燃える奴がいたら見てみてぇよ。つかなんだ?エロマンガ?それ何処の国の単語だよ?」

 「“失礼。今の時代にはない物でした。それはさておき少なくとも貴方方のアジトに一人いると思いますよ。あとソフィアの目の前にも一人”」

 「俺は違うって言ってんだろ!」

 「“そうは言いますが昨晩のおかずにでも使ったりしませんでした?”……ってあんた何してんのよ!この変態っ!最っっっっ低!!」

 「昨日は抜いてねぇよ!あんな状況で抜ける阿呆がいるか!俺をどんだけ変態だと思ってんだお前ら!?こっちは大事な主が怪我で寝込んでたんだぞ!?不謹慎だ!」

 「“まぁ今のは冗談ですけど。大体これは貴方が望んでいた事じゃないですか。自己中男らしい下衆発想ですね。俺だけ見ろ俺だけ愛せ余所見をするななんてうわっ、寒っ。その癖そうなったらなったで文句ですか。やれやれ。これだから寝取られ好きは。余所見してるのを奪ってくるのが好きなんですねわかります。っち……うぜぇ。死ね変態”」

 「だからあんたは俺らの何を知ってるってんだ?あと漏れちゃいけねぇ心の声まで流れてきてんだけど」

 「“知ってますよ、何もかも。貴方が知らない貴方のことも”」

 「偉いからって何やっても許されるとか思うなよ。ストーカーはストーカーだからな。あの坊やにでも告げ口してあんた逮捕させてやる」

 「“残念ながらそれは無理ですよ。貴方は第一島を離れてしまいましたからね。ていうかストーカーにストーカー言われたくないですよ。あと僕は国家権力持ってますんでその辺は問題ありません”」


 「“あとここらでいい加減彼を攻略していないと完全に攻略不可になりますよ?彼はうちの聖十字君に魅了されてますからね。おそらくあれは彼と離れた事による精神疾患ですね”」

 「はぁ?」

 「“彼と一緒にいた時は彼に支えられていた。だから持ち直すことが出来た。しかし彼が教会に戻り、その間一緒にいた貴方が那由多様を支えられなかった。だからその隙におかしな事になってしまったんですよ”」


 要するに貴方の所為ですと、口伝先の神子は言う。


 「“彼は貴方に失望されるのを恐れている。そしてされなかったらされなかったで自分の目を怨む”」


 あいつは俺に知られたくないことが出来た。それでも俺が失望しなければしないで俺を疑う。俺が魅了されているから優しいのだと、そう思う。でも俺が失望すればそれはそれであいつは傷つく。どうしろって言うんだ。


 「“だから面倒臭いって言ってるんじゃないですか。手っ取り早くアスカニオス殿下が自分の胸の内洗いざらい吐き出してくれるのが一番楽なんですよこっちとしても。貴方が下手に質の悪い嘘をやけに上手く吐くから彼もおかしくなっていくんです”」


 「“ちなみに今シャトランジアに来られても迷惑なので、船は全て欠航にさせて貰いました。勿論第四島からだって渡れません”」

 「はぁ!?」

 「“今はカーネフェルやシャトランジアも大変な時期なんですよ。厄介事は御免です。近日中にセネトレアとシャトランジアの国交も絶たれる頃ですし”」

 「さらっと国家機密漏らされてもな……」

 「“貴方方もそうそう無関係でもありませんからね。殿下、貴方の罪は重いですよ?立場ある者が何年も放蕩して遊び歩いて”」

 「別に遊んではいねぇよ!」

 「“おまけに兄弟揃って犯罪者になんかなって”」

 「嫌な言い方するんじゃねぇよ。あんたは俺達が生きてるのを知ってた。知らなかったとは言わせねぇぜ?それで放置したんだ。あんたも同罪だ。それが何だ。今になって取引なんか持ちかけやがって」

 「“それは勿論知ってましたが必要なことでした。那由多王子を見つけ出して引き取ったところで今の彼はいませんよ。王族としての彼では奴隷や混血の痛みが分からない。今と同じ行動は取らなかったことでしょう”」

 「……あんたは、あいつを見捨てたんだな。他の奴らのために」

 「“例えそれが王族でも、その犠牲で多くの人が救われるのならその犠牲に意味はありますよ”」

 「…………あいつがあんたをどう思ってるかはわからねぇ。だがこれだけは言っておく。俺はあんたが好かねぇ」

 「“そうですか。僕は結構好きですよ。初恋の人のために人生も身分も放り出すその馬鹿みたいな所が。何というか似てないようで実にアトファスにそっくりですね”」


 話せば話すほど不快な相手だ。わざと俺を怒らせるような事を言う。


 「“だから貴方にもチャンスは十分あるんですよ。最大の敵が貴方自身というのが厄介ですが”………以上、だって。あんた気持ち悪っ」


 通信が切れたと告げるロセッタは、突然俺から三歩離れた。


 「何で俺だけ罵倒されるんだよ!?半分はお前の神子様が変なこと言ってた所為だ!売り言葉に買い言葉だろ!?」

 「いや、そうじゃなくて……なんか雰囲気って言うか印象が気持ち悪いのよ。自分で認めてないところがまた余計に拍車掛かってるっていうか」


 酷い言われ様だ。俺だって世が世ならシャトランジアの王子さまなんだが。この女の属する国の王族なんだが。ここまで酷いこと言われても不敬罪が成立しない、今の身分がちょっと悲しい。


 「私は男も女も異性愛者も同性愛者も大嫌いだけど、それと同じくらいに言い訳ばかりの口だけ男が大嫌い。あんたは要するにそれなのよ」


 俺が言い訳をしていると彼女は言う。誰に?周りに?自分自身に?


 「あんたと比べたら鶸紅葉の方がずっと潔くて好感持てるわよ。私この世で何より嫌いなのが女好きな女なんだけど、あの女は立派なもんだったわ」

 「鶸紅葉……?」

 「惚れた女助けるために片足捨てるわ、身代わりなるわ……あんたと違ってお喋りでもないし、何も言わないであれだけのことやってのけるんだから、そりゃあ私もちょっとは認めたわよ」


 好きな相手をどういう風に好きか。それを正しく受け止めて、嘘を吐かずにいられる姿は立派だ。そしてそこから何にもならなくても、その思いを誇りにさえ思う。そんな彼女の姿には考えさせられるものがあった。ロセッタが俺を一瞥。話にならないと溜息。

 そうは言うが俺だって。それくらいちゃんと認識しているし誇りだとは思っている。邪眼に多少やられているのは認めるが、基本的に俺があいつを好きなのは、ご主人様としてと、弟として、家族として、友人としてだ。それが合わさっている分、かなり強い思い入れと依存があるのも認めてやる。

 しかしどうしてどいつもこいつも俺の忠誠を恋愛とか性的な方面に持っていこうとするんだ。そりゃまぁ、俺だって人間だし嫉妬とか独占欲くらいはあるさ。それは俺があいつに母親重ねてる部分もある以上、仕方ない。その母親代わりを得体の知れない男に奪われるってんだ。そうなりゃ苛ついても当然だ。

 そこに邪眼の魅了が加わることで、俺のあいつへの好意が歪んできているってのも事実だが……それに負けたらそれこそ、あいつを傷付けるだろう。そんなこと俺は望んじゃいない。


 「あいつら……その後の情報入ってるか?」

 「全然。あんたはあいつの療養最優先とか言ったんだから、そっから起こる全ての責任受け止めるくらいの覚悟はあったんでしょうね?」

 「受け止めるだけならな。責任は取らねぇよ。どいつもこいつも自分の一番のために生きてんだ。俺は文句言わねぇし、言わせねぇ」

 「やっぱあんた最低……」

 「それくらいで丁度いいんだよ。俺のご主人様が最高過ぎるんだから」


 あいつが人のために生きる。それなら俺はそんなあいつのために生きる。俺達の関係はそういうものだ。俺が好きなのは他人のために生きるあいつであって、俺のために生きるあいつじゃなかったんだな。悲しいことに実際そうなるまで気付けなかった。俺を振り返らない、省みない。だけど時々もたれ掛かってくる。俺にだって滅多に弱音を吐かない。そんなあいつだから俺は支えたいし守りたいと思うんだ。


 「……まぁ、あいつが元に戻らねぇと何をするにもどうにもならねぇ。他の奴らも物騒な職業の奴らだ。ぶっちゃけリフルより全員強い。俺らが心配するのが失礼ってもんだ」

 「そりゃそうかもしれないけど。あんたって意外と薄情なのね」

 「心配事ばっかかけるご主人様がいるからな。俺の心労は定員オーバーなんだ。……余所見すんなって叱られたしな」


 俺が目を離したことであいつがああなったんだ。城へ行ったのも、あんな人格になったのも。もうこれ以上悪化しないように俺は早急に部屋に戻るべきだ。そう思った。


 「んじゃ俺は戻るから。監視も追跡もほどほどにしてくれよな。あいつ今はしゃいでんだ」

 「私だって仕事以上のことはしないわよ。見たくもないもん見せられたくないし」


 甲板の上からロセッタが俺を見向きもせずにそう言った。

 船室の前まで来て、ちょっと気まずい思いを思い出しながら、意を決し俺は室内へ……


 「おい、瑠璃……」

 「飛鳥様ぁっ!」

 「うぉっ!」

 「良かったです!戻って来てくださったんですね?」


 俺に抱き付いてくる瑠璃椿。空っぽの旅行鞄。寝台の上に散らかされた衣類。見れば先程と服が替わっている。俺の好きそうな服はどれか。考えに考え清楚と可憐の調和の取れたお嬢様のような服。長いレースの手袋とケープ。その隙間から覗く怪我の跡が……妙に色っぽいのは確かだ。

 髪のリボンの結び方も変わっている。女にしか見えない。顔はタイプなんだ、物凄く。だからそんなのに抱き付かれれば多少ときめいても仕方ない。何か、これもこれで悪くないような気がして……来たりなんか全然してねぇし!


 「後五分経ってもお帰り下さらなかったら、飛鳥様を怒らせてしまった責任を取り海に身を投げようと思っていました」


 笑顔で怖いこと言い出した。やっぱ無しだこれ。だけど勝手にいつものあいつの口調で脳内変換されてきた。「後五分経ってもお前が帰って来なかったら、……そうだな、責任でも取って自害しようかと」こんな感じか。それでもって笑顔などではなく、いつもの冷静でなんということはないと表情一つ変えずにあいつがそう言ったなら……俺は普通にツッコミを入れつつ、やっぱ俺が傍にいねぇと駄目なんだなとか思うだろう。

 しかし今のこいつは本当にそれをしそうで怖い。そしてこの笑顔に脅迫されている気さえする。


 「そういう馬鹿な真似はしないでくれよ、本当に」

 「解りました。それでは馬鹿な真似をした責任を取って首を吊ってきますね」

 「どうしてそうなるんだよ!?」


 性格変わったと思ってもやっぱり根本的な部分は同じだ。極度の死にたがりには違いない。


 「はぁ……どうしてそんなに死にたがるんだ?」

 「私は高級奴隷です。使っていただけることが存在意義です。そういう風に使って貰えないのは道具として無価値だと言われることも同然です」

 「あのさ……お前は今、ちょっと疲れてるんだ。だから俺なんかのために無理しようとしてる。だけど本当のお前は俺をそんな風には思っちゃいねぇだろ?目ぇ覚ませ」

 「私は飛鳥様が大好きです」


 不意打ちだった。今のこいつがおかしいのは解ってる。それでも、その言葉は卑怯だろう。だからうっかり聞き返してしまった俺はそんなに悪くはない。悪くないはず。多分そう。


 「ど、どの辺が?」

 「全部です」


 にこりと微笑んで、瑠璃椿は俺の手に細い指を絡ませてくる。


 「でも……特に好きなのは、飛鳥様の手です」

 「手?」

 「優しくて、温かくて……大きな手。大好きです。私の涙を拭ってくれました」


 その言葉に2年前を思い出す。こいつの言葉は決して嘘ではない。嘘ではないのだ。おかしくなっているのは確か。それでもこいつは……確かにリフル。

 言えないこと。言いたくないことがあって陰に隠れている。代わりに俺と対話をさせるためにこうやっておかしな何かを表に出しているだけで。

 瑠璃椿に戻ろうとした。したけれど2年間のいろいろが、完全に2年前には戻してくれない。だからあいつの変化がここに狂いを生じる。そしてこいつは代弁している。心の一部を。大げさに誇張して。俺に何かを気付いてと、必死に語りかけているのだ。


 「飛鳥様の手に触られるのが好きです。頭を撫でられるのも、背中に回して貰うのも……」

 「……リフル」


 こいつがそれを望むなら。その頭を撫でて、背中を思いきり抱き締めてやる。こんなことでお前が救われるなら幾らだって何時までだってそうしてやる。俺が毒で死ぬまで、ずっと。


 「あ、飛鳥様!離してください、そろそろ……」


 今は夏だ。こんなに密着していたら汗毒も出る。


 「お前が本当にやりたいことがあるんなら、俺は何だってやるけどな……だけどお前が自分に嘘吐いて、無理矢理自分を苦しめようとするのは見てらんねぇ」


 こいつは罰が欲しいのだ。俺にそれを求めている。ラハイアがこいつを責めず、罰さなかったから。俺にその役割を求めている。


 「誰が何て言おうとお前の所為じゃない。だけどそれでお前が苦しむなら……言ってやる。全部全部、お前の所為だ。あいつらが死んだのも、トーラ達が危ない目に遭ったのもお前の所為だ」


 こいつの耳元で、望みだっただろう言葉を贈る。抱き締めた身体が強張った。それを解かすようにまた頭を優しく撫でる。


 「だけどな……お前から目を離した俺の所為でもあるんだ」

 「飛鳥……様?」


 しっかりと向き合って、その目を見据えて俺は言う。こいつの中にいるこいつ自身に呼びかける。隠れてないで、出て来いよ。大丈夫だから。


 「だから悪いのは俺達だ。お前の罪を俺が半分背負う。一緒に頑張って……償おうぜ?一人では無理だと思う。俺だって無理だ。だけど俺がずっと傍にいる。勝手に目を離したりもしない。だからお前はそこまで気に病むことはない。辛いなら俺を責めろ。何で目を離したんだ?どうして無理矢理でも引き留めなかったと俺を責めろ」

 「…………」

 「俺は何があってもお前を嫌わない、今日も明日も明後日も!俺が死ぬまで、俺が死んでもそれは絶対変わらねぇ!約束する」

 「…………飛鳥様は、狡い人ですね」


 瑠璃椿が泣いて微笑み……俺を睨んだ。


 「結局貴方は私を見ていないんです。外面ばかりを見ている。私がちょっと貴方の理想から外れればすぐにそう。例え嫌いはしないでも、好きにはならない。違いますか?……だから私には絶対好きって言ってくれない。他の人には簡単に言うのに」

 「え?」

 「飛鳥様はディジットさんが好きだっていっつも言ってます!妙齢の人妻とかにもよく嫌らしい目を向けています!そ……そんなに胸があって、それから母性的な人が好きですか!?」

 「いや、あの……まぁ、うん。ああ…その、なんだ」

 「でもそう言いながら貴方はいっつも兄様ばかり見ている!」

 「兄様……?」


 いきなり出てきたその単語。こいつの兄様?二人いる。異父兄の俺とあともう一人。異母兄の方もタロック王の怒りを買って処刑されたって話だ。となれば俺?いや俺は俺見てねぇよ。大体こいつが俺の正体を知るはずもない。それなら……これはどういう意味?

 答えはすぐに明かされた。瑠璃椿がそれを明かした。


 「兄様ばっかり狡いです!もし私が生きていたら!生まれたのが兄様じゃなくて私だったら、貴方は私の物だったのに!」


 兄様とは、リフル……つまりは那由多のことだ。こいつが那由多なのだが、今のこいつは自分が那由多だと思っていない様で別人として別の言葉を発している。これはいよいよまずい。これはかなりの重傷。こいつの精神は極限まで追い詰められている。

 しかし追い詰められているのは俺も同じ。

 トーラとオルクスに挟まれた鶸紅葉。俺の今の状況はそれに酷似していた。トーラが鶸紅葉を見ないよう、リフルも俺を見やしない。オルクスが鶸紅葉を好いているようにこの瑠璃椿は俺を見ている。そして俺は……こいつを見ていない。


 「生まれたのが女の私ならっ、貴方は私を拒まない!貴方は悩まない!私の手を放さない!」


 もっと簡単に自分を、自分の想いを認められるだろう。瑠璃椿ではない誰かがあいつの身体を使ってそう叫ぶ。


 「拒むのに……悩むのに……放すのにっ……どうして追いかけるんですか?」

 「それは……」


 即答は出来なかった。唯それが当たり前で、追いかけずにはいられなくて。それが既に普通じゃないことは、誰の目にも明らかなのだ。


 「兄様だってこんな辛い思いばかりするならいっそ、私が生まれれば良かったって言っている。そうよ!兄様は間違って生まれたのよ!生まれたのが私なら、こんな事にはならなかった!私は唯のお姫様でいられたんだわ!処刑もされないっ!奴隷になんかならない!こうやって何も叶わないと、私が泣くこともなかったんだわ!」


 泣いて縋るその背を撫で、身体を引き離す。そして俺は手を伸ばしてその涙を拭った。


 「……お前は、ずっとそんな風に思っていたのか?」

 「私じゃない。兄様が……」

 「……なんかちょっと安心した」


 笑う俺に彼女は……いや彼は不思議そうに俺を見上げる。

 他人への恨み言を胸にしまう、優しい人が俺の主。その胸の中をこうして曝いても、出てくるのは自分への恨み言。何もかも自分の所為だと言う。悲しい人だと俺は思う。だけどずっと綺麗だと思っていた、その人の中にも怨みという概念があった。それをこうして知らされるだけでも、俺は嬉しかったのだ。ほらお前も道具じゃない。そうやって思い悩み怒ることが出来る人間じゃないか。


 「でもそうだよな。お前も人間だもんな。何かを怨むことはあるよな」


 こいつは今……自分は間違い。無かったことにしたい。そんな思いから片割れの幻覚に取り憑かれている。もしもこいつが女なら、俺が仕えたのがこいつの妹姫だったなら……今俺とこいつの関係は違う物だったかもしれない。だけど俺はその人が唯の王族だったなら、ここまで心酔しなかった。傷も汚れもあってこその、俺の仕える人なんだ。俺はこの人のそういう一面を知るからこそより強く守りたいと思う。


 「でも、そんなこと言うな。他の誰かになったつもりで自分を貶して……それでそれを聞く俺がどんな気分になるか解るか?」


 逃げの言葉はこいつに届かない。斬り込むしか道はない。


 「俺はお前が好きだ。そんなお前が貶されれば俺は悔しい。例えそれがお前自身でも」

 「あ、……」

 「お前がお前を嫌いでも、俺はお前を嫌わない。誰がお前を嫌っても、俺はずっと……お前が好きだ!」


 しっかりとその肩を掴んで逃がさない。ちゃんと聞いて貰えるように、まっすぐ言葉を投げかける。


 「だから戻ってきてくれ、リフルっ!俺の好きな、いつものお前に戻ってくれよ!!」」


 *


 我に返ると見知らぬ部屋の中。何故かアスカが真剣な顔つきで私を見ている。ぼんやりとその会話を私は聞いていた。私の口からよくわからない言葉が勝手に流れていた。

 それは夢を見ているような感覚。夢の中にいる私を私が見ている。何も出来ず何も言えず何も変えられず唯見ている。

 そんな中はっきりと響く声。一際大きくアスカが言葉を発したのだ。

 その言葉の恥ずかしさから、それを見ている私も驚いた。こいつは何を言っているんだ。

 不意にモニカの言葉を思い出す。信じたわけじゃない。わけじゃないが彼女が言うにはこいつは私が好きらしい。そ、そんなこと馬鹿げている。好きは好きでも違う好きだろう。友人としてとか主従関係的なあれだ。

 だけどアスカは邪眼に掛かっている。魅了されている。そしてこの至近距離。危ない。実に危ない。

 ぞくと思い出す恐怖。呼び起こされる痛みがあった。いや、痛みならまだ良い。それくらいなら構わない。私は私の情けない姿に気付かれたくないのだ。主、主と仰がれる、私のその無様な姿。アスカは私を美化して見ている。だから私もそこから外れようと必死になったりもした。それでも私を変わらず美化している。私はそれが怖いのだ。それほどフィルターを通して見られている私。その正体が実に惨めなものだとか、知られたくない。人の命を奪ったあんな状況で不謹慎にも醜態を晒した私。もしここで彼が魅了されたなら、同じ事をされてしまう。そうなれば私は再び惨めな姿を晒すことになる。


(嫌だ……そんなの、嫌っ)


 強い拒絶の意思が私の中で膨れあがる。これ以上私を見ないでくれ。私に触らないでくれ。


 「だから戻ってきてくれ、リフルっ!俺の好きな、いつものお前に戻ってくれよ!!」

 「嫌だ……」

 「おいっ…………って、もしかして、リフルか!?」


 声一つ。言葉一つ。それで私を知る彼は。本当によく私を見ているんだな。呆れるくらい私を見ている。その優しい眼差しがどれ程恐ろしいか彼は知らない。


 「来るな、見るなっ……放って置いてくれ!」


 もう嫌なんだ。私はもう……何も考えたくない。道具になりたい。道具でいさせてくれ……何でもするから。そういう思いが私の中にはある。

 何も聞かないで。触れないで。そっとしておいて。誰に嫌われても良い。だけど……せめてお前だけは離れていかないで。傍にいて。私を嫌いにならないで。そう縋り付きたくなるから。そんな弱ったところ見せたくない。


 「放ってなんか置けねぇよ」

 「……何故だ?」

 「あのな……何回恥ずかしいこと言わせりゃ気が済むんだ?一回で解ってくれ」

 「嘘だ。本当は私のことなんか嫌いなんだろう?そうだよな両親の仇なんか好きになれるはずがないんだ。アスカが寂しい思いをしたのも私の所為だ。私が処刑なんかされたから」

 「なんでそうなるんだよ!」

 「だってお前はおかしくならないじゃないか!」

 「は……?」

 「私の目を見てもお前は平気じゃないか!やっぱり私が嫌いだから……っ!だから平気でいられるんだ!」

 「いやいや、俺も大分おかしくなっただろ!?」

 「お前もヴァレスタみたいに……私が憎くて殺してやりたくて堪らないんだ!」


 私の目を見てもおかしくならなかったのはあの男だけ。アスカはよくわからない。効いていないわけではないのだけれど、自制の心がとても強い。それは私を拒む意思。私なんかとどうにかなったら嫌だって。それはつまり私だ大嫌いだと言うこと。

 私は……お前が本当におかしくなってしまったなら、それでもいいと思っているんだ。何もかも受け止める。大切なのに変わりはないから。だけどお前はそうじゃない。私が思っているほどお前は私が好きではない。どうでも良いのだ。嫌いなのだ。

 何言ってるんだろう私。もうわけがわからない。だけど私の中で、好きとか嫌いの物差しは一つだけしかなかったから。言葉だけで人を信じられないのだ。

 これまではその言葉とあの行為は常に一緒にくっついていた。だけど私を嫌っているのに、あんな事をした奴もいる。だから私はわからなくなる。何をもって人の好意を信じればいい?


 「……それならお前は俺が狂えば満足なのか?」

 「え……」


 アスカが私から視線を外さずそう言った。邪眼に掛かっていない。強すぎる怒りがそれをはね除けている。それはあの男の目に似ていて……あいつの目も緑だった。それを思い出した途端にこの場所から逃げ出したくなる。

 背を向けて、逃げだそうとした。その手を思いきり捕まれ……そのまま投げ出される。スプリングが弾む。寝台の上だ。起き上がろうとして……起き上がれない。アスカに押さえつけられている。


 「っう……」


 今日は縛られてなんかいないのに、身体が動かない。力も体格も負けている。為す術もない。


 「あ、……アスカ?何を……」


 彼は黙したまま、私の服に手をかける。外気に彼の視線に晒された、無数の傷跡がひくつくようだ。見られた。見られている。何て言い逃れすればいいのか。これは何だと言えばいいのか。


 「それなら俺が今ここでおかしくなって、お前に手ぇ出したならっ……それなら俺を信じてくれるのか!?お前はそれで満足なのか!?」


 信じて貰えるなら、もうそうしてしまっても構わない。そんな言い方されても嫌。そういう風に好きでもないのに、そんなことをされたくはない。あいつの二の舞。また私は……とても惨めな思いになる。


(でも……いっそ)


 こいつにも裏切られたなら、もう諦めも付く。

 結局この世には私の信じたい物など無い。欲のない好意なんて何処にもない。

 アスカが本当に私を主として、友人として慕ってくれているだけなら……ここまでおかしくはならない。アスカは自分が邪眼に勝っていると言っているけど、負けかけたことも何度かあった。

 ついこの間だってそう。……風呂の順番一つで顔を赤らめたり、動揺したり。邪眼を制御して動きを封じた。嫌味のつもりで口にしたこと。嫌がらせに迫ってみた。

 だというのにあの時のこいつはもう、観念した顔をしていた。観念……違う、期待していた。私を完全に女と誤認していた。その目に欲の炎が浮かんでいた。唯やりたいとかそういう欲の目とは違う欲。あれは末期の旦那様と同じ症状だ。彼は何故私が女ではないのかと私を責めた。娶り孕ませ傍に置きたい。嫁に貰って家庭を作りたいと思うのに、何故お前は女ではないのかと。その時の旦那様と同じ欲の色が見て取れた。

 お前も同じだ。どうせ私のことを女か何かだと思っているんだろうお前も。全部脱ぎ去って肌という肌を見せるまで信じないのだろう?見せたところでまだ逃げるんだろう?無かったことにして何も信じないのだろう?


 「……それがお前の願いじゃないか!」


 泣き喚く私に、彼が我に返ったよう。その隙に私も畳み掛ける。今を逃せばもう二度と、こんな恨み言は言えないだろう。今の私はおかしい。だからこそ、遠慮無く……酷いことを言える。


 「お前が欲しかったのは私じゃない!私と同じ顔をした女が欲しかったんだろう!?そんな奴を、どう信じろと言うんだ……っ!!お前の目と、お前の言葉はっ……いつも違うことばかり言うっ!私はお前の何を信じれば良いんだ!?」


 お前を傷付けてももういい。どうでもいい。だってもう……さよならだから。

 私は涙に微笑んで、私を箱に閉じこめるよう瞼を閉じる。全て手放すような遠い、遠離る感覚に襲われて、沈んでいく。深いところへ。

 私の代わりに浮かび上がるのは怒りを宿した熱烈な魂。悲しみと涙の海を蒸発させるような熱さ。落ちた先の炎に感じる痛みさえ、次第に遠離っていく。何もわからない。

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