4:Qui non est hodie cras minus aptus erit.
「本気で……あいつらを好きになれ、か」
絵描きから投げかけられた言葉は重く、リフルは何度目かの重いため息を吐く羽目になる。
リアの言葉は単純で、それでいて難しい。人の心を完全に白黒分けることなど出来ないし、好きと嫌いの二つの言葉で世の中を言い表すことだって不可能だ。そんなに単純なものなら世の中どんなに楽なことだろう。
再び溜息を吐いた背中の背後から上がった声はまだ幼さを感じさせる少女の物。
「……あ、リフル。こんなところでどうしたの?」
こんなところ。廊下の出窓から外に上がった屋根の上。丁度廊下を通りがかった少女に発見されてしまったようだ。可愛らしく二つに結われたふわふわと揺れる桜色の髪。それはは彼女が純血ではない何よりの証。
「ん……?ああ、アルムか。また背が伸びたんじゃないか?」
「う、うん」
「私はその内君にまで追い越されてしまうかもしれないな」
「わかった、頑張るね!」
(流石に5歳下の女の子にまで追い越されたら……私も一月くらいは落ち込むかもしれないな)
此方の心も知らずに無邪気に微笑む様は二年前……初めて出会った頃から変わらないようにも見えるがそんなことはない。彼女の星が宿った紅玉色の瞳はあの頃より暗い影を宿している。片割れの弟エルムの安否もこの半年間掴めていない。
それとなくトーラには情報収集を頼んではいるが、私も彼女も半年前の出来事からあまり東側との接触は行えない立場だ。迂闊な行動により西と東の均衡が崩れることにもなりかねない。だから彼のその後の情報は……今のところ皆無。生きているのか死んでいるのかもわからない。
以前のリフルと同じような状況のエルム。彼を案じるアルムやディジットを見ていると、自分が消えたときのことを見せられているようであまり良い気分ではない。その時アスカもあんな瞳をしていたのだろうか。そんな風に思うから。
それでもエルムの不在はアルムに異変をもたらした。弟がいなくなってから、この半年……彼女も以前より大分しっかりするようになった。弟が傍にいることでアルムは彼に依存していた節があり、彼女自身の成長に繋がらなかったのだろう。
(皮肉な話だ)
弟に肉親以上の想いを抱えたこの少女が、そんな最愛の人と離れ離れになることが、彼女のためになるなんて。
けれどそれも全てはエルムのためだ。ディジットがこの店に戻ってきたのと同じく、アルムがここに戻ってきたのはエルムの帰りを迎えるためだ。彼に見限られないよう、今度会うときは立派な姿を彼に見せたい。そんな思いがあるからだ。
「……………あのね、私……私も描いて貰ったんだ」
「え……?あ、ああ。リアにか?」
「うん」
おずおずと彼女が差し出す紙の上には、やはり影を宿した人物画。それはどこか……彼に似ている。彼女の片割れである少年に。
アルムもそれに気付いているのだろう。リフルがそれを察した途端に大きな瞳に涙を浮かべる。それでも泣き喚くことはなく、じっと涙が流れ出るのを堪えている。肩を振るわせ、唇を噛み締めながら……
「アルム……」
この少女はこんなに幼いながら、愛を知っている。誰かを本気で好きになるという気持ちを知っている。
それは簡単なことではなくて、彼女より年上の自分だって本当の意味では何も理解できていないかも知れない、そんなあやふやなもの。それを明確に内に秘めている。
主と奴隷じゃない。人と人として他人を思う術を手にしているのだ。その相手が双子の弟ということではあるが、その思いが間違いだとはどうも私には切り捨てられない。
「私ね………エルムちゃんに、……いっぱい…………っ、酷いこと……してしまったの。だから…………だから、ね……」
「……ああ」
「私……頑張る。頑張って…………何でも一人で出来るようになる」
一人でだって眠れるし、一人でだって買い出しにも行ける。お皿も割らないように頑張る。割っても自分でちゃんと片付けられるようにする…………そんな些細なことを、それでも彼女にとっては難しかったことをアルムは一つ一つ挙げていき、両手の指が足りなくなった所で言葉を句切る。
一方的な好意は相手を傷付ける。少女はそれを知ったのだ。唯好きなだけではいけないのだと彼女は学んだ。本当に大切なら、自分を押しつけ優先させるのではない。相手のことを思いやり、慈しむ心が本当の好きというものなのだと彼女は知った。
「私……いつも、エルムちゃんに頼ってばかりで………こんなお姉ちゃんじゃ、……エルムちゃんが……好きになってくれるはず、なかったんだよ………」
リフルから返された肖像画を片割れのように抱きしめて……アルムが涙を浮かべて微笑んだ。
「私、エルムちゃんが帰ってきてくれても………もう好きだよって言わない。代わりに……ずっと、ごめんなさいって言うの。…………いつか許して貰えるまで、ずっとそう言うの」
彼女は罪を犯した。その自覚がある。だから彼女は贖罪を行おうとしている。それは誰に言われたからじゃない。彼女自身が模索し、見つけた答えだった。
それを自分に語ると言うことは……誰かに聞いて欲しかった?いや……違う。リフルに聞いて欲しかったのだ。幼いアルムもリフルが罪人だということを知っている。そして自分もまた罪人だと考え………だからこそリフルにそれを語ったのだ。
(アスカ…………、やっぱり私は)
こんな幼い少女でさえも罪と罰の在り方を知っているのだ。この少女よりもっと多くの重い罪を犯した自分が罰から逃れることはあってはならないことだ。それを再び強く自覚する。この少女に過ちを犯させたのも元を正せばリフルの罪だ。もっと早く助け出せていればこんなことにはならなかった。
啜り泣いているアルムの姿にリフルは窓の中に手を伸ばし、手袋ごしにその柔らかな髪を撫でてやる。
「この国には、この世界には………悪いことをしてもそれを償おうと思わない人もいる。人を傷付けても君みたいに心を痛めない人もいる。アルム……君は確かにエルムを傷付けてしまったかもしれない。それは勿論悪いことだ」
告げる言葉にアルムの身体が強張った。それを解かせるように小さく微笑む。
「それでも君はそれが悪いことだと自覚している。それは誰にでも出来る事じゃない。それが出来ている君は、それが出来ない奴らよりずっと立派だよ」
今の自分はきっと、リアの言う笑顔に少し近づけた。そんな風に笑えている。
それは彼女への贖罪の気持ちだけではない。過ちを犯して、そこから逃げずに立っている彼女を愛おしく思う心があるからだ。
それはかつて主だった少女に抱いたような気持ちではないけれど、誰かを大切に思う温かな気持ちには違いない。彼女を守りたいと思う。その贖罪が叶うその日まで。
「アルム。君は一歩一歩……少しずつ出来ることを増やしていけばいい。君はまだ子供だ。時間はたっぷりある」
その未来を私が守る。守らなければならない。それが彼女と彼を救えなかった私の責任だろう。
「だからそうやってゆっくり償っていけば良いんだ。生きていれば……償える罪もある」
死ななければ償えない罪もあるけれど、それは今ここで語る言葉ではない。
「…………ううっ」
「無理して泣くのを堪えることはない」
優しい言葉に耐えきれず、思いきり下唇を噛んでいるアルムに苦笑して、リフルは言い方を改める。
「そうだなアルム…………自分を押しつけすぎるのは嫌われてしまうことだけど、自分を殺しすぎてもいけないんだ」
目から鱗。目を瞬くアルムから、大粒の涙が床へと落ちる。
「空っぽの人間を好きになることが出来る人間はいないんだ。アルムの中にちゃんとアルムがいなければ意味がない」
言い回しが難しすぎたのか、アルムは再び瞳を瞬く。何か例を挙げる必要がありそうだ。
「アルムは道化師を知っているか?時々街にいるだろう?」
これには少女もすぐに頷く。涙も少し引いたようだ。
「道化師はいろいろなことをして、いろんな人を喜ばせようと……笑わせようと頑張っている。だけどその道化師は…………多くの人に笑って貰えるようにわざと馬鹿なことをしているんだよ。本当は全然馬鹿じゃない人なのに」
「そうなの?」
「ああ、そうだ。大勢の人間を笑わせるにはすごく頭を使うんだ」
「そうなんだ……」
「それで道化師は自分に嘘を吐くことで、沢山の人を笑わせる。だけど……ショーが終わればみんな家へ帰ってしまうだろう?」
「うん」
「その時、その場は楽しかった。それでもそれでお終い。みんなが好きなのは道化師の芸であって、道化師本人じゃないんだ」
「…………あ」
「それはどうしてかわかる?」
「道化師が、嘘を吐いているから?」
「ああ、そうだ。道化師は嘘を吐いて人を楽しませてくれる。だけどそんな嘘つきな相手をアルムは好きになれるか?」
「…………わからない」
「そうだな。わからないな。道化師は芸は見せるけど、自分自身のことをお客達に教えないから、好きになるための場所が外からは見えないんだ。だから道化師本人をお客達は好きになることが出来ない。笑いながらも見下したり、恐れたり……何処か胡散臭いだとか怪しげだとか得体の知れない者だと思ってしまう。悲しいことだな」
イメージし易い例をあげることでアルムの理解を進めることが出来たよう。ここまで来れば彼女もおおよその話の流れは分かって来ているはず。
「だからアルム、彼の理想の君になろうとしたいという君の気持ちは……道化師と同じなんだ。君が君をさらけ出さなければ変わらないこともある」
「私が……私を……」
「君が変わることは必要なことかもしれない。それでも譲れない物はちゃんと捨てずにしまっておかなければならない。……わかるか?」
「譲れないもの……って何?」
パチパチと瞬かれる赤い瞳。言い回しが十分諄かったらしい。その言葉をアルム用に置き換える。
「大切なもののことだ」
「大切なもの……」
そこまで言えば完全に彼女は理解した。
「リフル……私、エルムちゃんが好き。大好き」
「そうか」
それが彼女にとって大切なもの。それをはっきりと口に出来ることが彼女の愚かさだとは言わない。それは彼女の強さだ。そんな風に心のままにものを語れる人間はそう多くはないのだから。
「それならその気持ちも大事にしてあげるんだ。無理に捨てることはない。無理に嫌いになろうとする必要もない。アルムがいろんなことを出来るようになっても……それはそのまま変わらなくてもいいんだよ」
「………………うん」
そう告げれば少しだけ、絵からアルムが乖離する。彼女の瞳の翳りが僅かに和らいだ。
「さて、長話をしてしまったな。アルムはそろそろ寝る時間じゃなかったか?」
「ううん!酒場のお手伝い!もう少し頑張るの!」
「そうか。無理はするなよ。ちゃんと寝ないと背が伸びなくなるらしいぞ」
「そうなの!?」
「まぁ詳しくは先生にでも聞いてくれ。私はそこまで詳しくないから。……でもアルムに背を追い越されるのを楽しみにしているよ」
「うん!」
笑ってぱたぱた階段を下っていく少女を見送り、口から漏れるのは溜息と安堵の中間あたり。
(いつか、追い越される……か。そうだな……それは喜ばしいことなのかもしれない)
守らなければ。そんな日が来るまで彼女がちゃんと生きていられるように。この店だって安全とは言い難い。アルムとディジットの警護を怠らないようにしなければ。そうだ、それにやはりリアは迷い鳥に移動させるべきか?
ぶつくさと物思いに耽りながら、はっと我に返る。そうして振り返ってみると安堵は消えて現れるのは溜息だ。
「私は何を言っているんだろうな、全く……」
人に好かれるには自分をさらけ出すことも必要だ、だと?言えた義理か。顔から火が出るほど恥ずかしい。さらけ出すって何をだっていう話。いや、脱げと言われたら今更だし奴隷時代を超えた私にとっては朝飯前。そういうさらけ出すなら話は簡単なのだけれど。
心をさらけ出すというのは難しい。私が彼らを思う大切さと彼らが寄せてくれる好意や信頼、それは食い違っているのか。
今みたいにこっちは相手の心に踏み込んで、余計な事を口にしてしまう癖に……私の方はと言えばそうじゃない。思っていること、感じていること。それを私は彼らにちゃんと打ち明けてはいないのだ。踏み込む癖に、踏み込ませない。
リアの言葉。本気で大切にしていないとはそのことだ。
「……心か。難しいな」
それは自分を守るための最後の砦だ。
衣服を剥がれても所有されても、心までは金では買えない。奴隷だって心までは主のものにはならない。物言う道具も物言わぬ道具も、そこに心は存在する。それは自分自身のものなのだ。
それを誰かに踏み込ませるだなんて、なんて恐ろしいことだろう。
心とは何か。自分が抱えるもののこと?それなら本来抱える全てを知られれば誰からも嫌われてしまうような私が、それでも人の心を繋ぎ止めてしまうなら、それは邪眼の力に他ならない。そんなものを見せられれば此方だって平気ではいられなくなる。
第一そんなもの、どうやって共有したものか。トーラのような読心術にも長けた数術使い同士なら容易いことでも、そんな技がない者同士ではそうもいかない。
第一自分が考えているようなこと、語ったところで怒りを買うのは目に見えている。結局の所どんな言葉を積み重ねても、向いている方向が違う。私は常に死を見つめている。私を生かそうとする人々と、心を通わせることなんか不可能。そもそも心とはなんだろう。考えれば考えるほどわからなくなって来た。
「………はぁ、頭が痛いな」
「それは大変ですね。さぁ、私と地下室に行きましょうリフル様」
「ああ、すまない…………って何でここに洛叉が?」
幻聴だろうか。迷い鳥で後方支援、保護者達の治療をやらせているはずの闇医者の声がきこえるなんて。いるわけないだろうと首を振る。
「私を忘れた次は、存在無視ですか?……いや、そういう嗜好も悪くはないか」
もっと近くから声がする。夜の闇の中。それでも割と近くに白い顔がある。黒以外の色だ。その顔と同じ色のものが此方に伸ばされていて……それは手袋ごしにペチペチと人の頬を触る手だった。
「幻聴じゃないのか?」
「此方に置き忘れた道具があることを思い出しまして取りに戻りました」
「屋根から?」
「セネトレアは屋根歩きが一番安全ですからね」
「すまない。保護色過ぎて本当にいるとは思わなかった」
全身黒尽くめの洛叉はタロック人。髪も瞳も漆黒故に、暗いところでは本当に居るのか居ないのかわからない。
今の今まで室内の方を向いていたため、再び夜目に慣れるまで見えるのは彼の顔の白のみ。それを認識しても仮面が浮いているようにしか思えない。
「……貴方もまた怪我をされましたね」
「多少の怪我は仕事にはつきものだ」
「あの馬鹿の数術は宛にならないので私が診察しましょう。そうですね……とりあえずリフル様、脱いでください」
「ここでか?」
確かに今は夏だしそこまで寒くもないからそれは容易いことだ。別にその位痛くもかゆくもないけれど、いくら何でも急な話。冗談だろうか。酔っているのか?その割りには目が真剣だ。わけがわからない。
「ええ、そうです。念入りに調べたいので上から下まで……」
洛叉が全部言い終わらない内に水を浴びせられるような音……その後に何かが壊れるような音。
「どの面引っ提げてこの店やって来やがった闇医者ぁ!!」
顔を上げれば上の階から顔を出したアスカがいる。屋根の上を見れば散乱した花瓶の欠片と花。
「てめぇは今後一切この店の敷居はまたがせねぇぞ!お前自分がしたこと忘れたか!?」
「別にこの店は貴様の所有物でも何でもないだろうが。居候の分際で大口を叩くな鳥頭」
頭から水と落下物攻撃を食らった割りに落ち着いた態度の洛叉。一発かましてやった割りには怒り狂って冷静さに欠いているアスカ。そんな二人の言い争いをどこか懐かしさを感じながらリフルは見つめる。この二人は二年前からこんな感じだった気がする。
「それとも何か?この店がお前のものになるようなことがあったのか?店主殿と遂に一線でも越えたか?いやめでたい。祝ってやろうか?それでもお前はさっさと寿辞職ということで代わりにこの方は俺が俺専属の主として貰っていくということで」
「洛叉、なぜそうなるんだ」
なんて思って聞いていたらこの闇医者、前と言っていることが変わっている。打ち所が悪かったのだろうか。いや、でもよく考えればその直前から脱げとか言ってたなこの男。むしろ素か。素でこれか。当時はアスカがなぜ洛叉を変態変態言うのかわからなかったが最近それがしみじみとわかってきたような気がしてならない。
「消去法ですリフル様」
いつもの冷静な彼らしくない、妙な言葉だ。アスカ以外の人間をからかうような社交スキル……何時の間に彼に身についたのだろう。しかし何やら向けられる眼差しまで熱く、いつの間にか手まで握られている。冗談にしてはいささか質が悪い。今彼から向けられている好意は見覚えがある。ありすぎる。よく仕事の際に目にするそれによく似ている。
いろいろあるにはあったが、過去のことは互いに水に流して収まるところに収まったものだとばかり思っていたけれど、どうにもこうにもそうでもないよう。
これも邪眼が引き出した好意なのだろうか?半年前敵対していたとき、ガンガン邪眼かけまくったツケが回ってきたのか?……彼は、邪眼に魅了されている。
「私に選択権はないのか?」
それでもとりあえず口から出たのは客観的な感想。いやそうじゃないだろう私。
「そこは私と貴方の仲ではないですか」
「まぁ、年数的にはお前と一番長い付き合いということになるんだろうが……」
洛叉相手だとそれもあっさり丸め込まれる。アスカもそうだが頭の回転が速い人間の相手をし、それを言い負かすのはかなり困難だ。ああ言えばこう言うというか、何を言ってもまるで勝てる気がしない。
もっとも彼の言うこともあながち間違いでもない。毒に倒れる以前のことをほとんど覚えていないのは非常に申し訳ないが、彼の言葉が確かならタロック時代に洛叉とは面識があるとのことだから。
(しかし邪眼に狂っているのだとしたら……おかしい。普通ここまで余裕のある掛かり方をする者はいないはずだが……)
ならばこれは彼の素?それはそれでなんというか、……ノーコメントで。返答に困った私への助け船は窓から飛び降りてきたアスカの言葉。
「おいこら変態。俺の目が黒いうちは俺の主を口説くのは止めて貰おうか」
アスカの言葉に小さく舌打ちをしつつ視線はこちらを見据えたままの闇医者。
「お前の目は緑だな。ならば問題ない。というわけでリフル様、どうですか今晩」
「揚げ足取んな!ていうか自重を覚えろ闇医者ぁああああああああああ!!!」
「とりあえずお前達近所迷惑だから黙れ。まずは話はそこからだ。大体この方は別に貴様のものでもないだろう。従者風情がこの方に指図するとはなんと図々しい」
「お前だって部下その一みてぇなもんだろ腐れ闇医者」
「まぁ確かにお前も私の意見を専ら聞かない男ではあるがな、なぁ洛叉」
「だってさ変態!ざまぁねぇぜ!」
「お前も似たり寄ったりだ。夜中は黙れ。常識だろうが」
「すいません」
「あんたらいい加減うるさいわよっ!!」
馬鹿げたやりとりを続けてしばらく……下の階の窓の開く音と共にディジットが大声で張り上げ注意をもたらす。下方から投げつけられる酒瓶という、物理攻撃をそこに付属して。
その声が一番五月蠅かったなんて私もアスカも洛叉も勿論言えるはずもなく、全員で頭を下げることになる。ちなみに酒瓶は屋根を通り越して三階のアスカをねらい打ち。素人とは思えない絶妙なコントロールだった。それを避けたアスカもアスカだが、部屋掃除をする羽目になったとか。
その文句を言うために降りてきたのが運の尽き。そのまましばらくアスカも二階の酒場で説教を食らうこととなった。そして最終的に最後まで責められていたのは……アスカだった。まぁ、彼女ならば当然そうなるか。
元々迷い鳥で既にディジットと洛叉は顔を合わせていろいろ話も付けていたようなので、それから揉めることもなくあっさり洛叉は入店許可を認められ……アスカだけがギリギリと歯ぎしりを行う結果となった。この辺りは昔と変わらない展開だ。
「……?何笑ってんだ?」
「い、いや……」
言い過ぎて、なんとなく気まずくて部屋に戻れなかったというのに、彼は平然と此方に向き直る。彼は変わってしまったけれど、変わらないところもあるのだと知れて、少しだけほっとした。そう思ったのだけれど、やはりそれを口にすることは出来なかった。
此方を訝しげに見る彼が、何処まで察してくれているかはわからない。まぁ、おそらく6割程度だろうな。
……とまぁ、何故私がアスカの方を見ているかというと端的に述べれば消去法。詳しく言うならそれなりに理由のようなものがある。視線の反対方向からぶつぶつと認識したくない言葉の羅列が発せられているのが大きな原因。
「数週間ぶりの生リフル様。嗚呼、今宵の貴方は常々にも増してお美しい。まるで私と離れている間に美しさに磨きを掛けられたようだ」
「あの、先生……いや、洛叉。命令だ。いい加減煩わしいので止めてくれ。いつもの洛叉に戻ってくれ。正直……気持ちが悪い」
「脅えるその表情……いいですね、悪くありません。昔を思い出します」
「お願いだからその恍惚の表情は止めてくれ。というか……昔?昔のお前は私に何をしていたんだ……」
「さぁ、どうだったでしょうね」
それなりに尊敬していた人が狂い出した姿を見ているのは辛い。目頭が熱くなる。
おのれ邪眼。この眼が、この眼が……この眼のせいで。
「ああ……こいつ、禁断症状か。今更発症するとはなぁ……」
「……?何か知っているのかアスカ?」
リフルにとっては初めて聞く言葉だが、アスカには何か心当たりがあるようだ。
「俺も一時期なったなぁ……まぁ俺も多少は邪眼食らったりしたし仕方ねぇか。お前が居なくなった後暫くしてから邪眼の禁断症状がやって来てな」
「まぁ、一種の薬中みたいなものですね」
「……洛叉、声だけ冷静に戻しながら私の髪の臭いを嗅ぐのは止めてくれないか?」
「それは主の命令でも聞けませんね。これは知的探求の一環。学者の専門分野ですから」
「そうかそうかそんなに死にてぇのか。食らえゼクヴェンツ塗りスローイングナイフっ!」
「こら!私がやった毒をそうやって軽々しく使うなっ!採血するのは痛いんだからな!他人事だと思って……」
例のフォースの件もある。また異母姉の作った毒に遭遇する可能性から、一通りの毒と解毒剤は仲間内には渡してある。もっともその理由はそれだけでもない。もう一つの理由は選別だ。
半年前の一件から、殺人鬼Suitと情報請負組織TORAの繋がりがまことしやかに囁かれるようになった西裏町ではトーラの組織に押しかけてくる輩もいる。それらのおおよそはSuitが死んだという話から、自分が新たなSuitになって暗殺業を行うという者だ。金に困っている者、単に名声を求める者、或いはこの国の現状を本気で憂いている者。
暗殺業は金にならないことを告げ、金に困っている者は適当に仕事の支援の方に回すが、残りの二種類の人間にはほとほと困ると彼女は言っていた。
そこで殺人鬼Suitが毒使いだということを告げ、それを継ぐ人間にも毒への適応能力が必要だと言うことを語る。そして猛毒を前にそれを呷る覚悟はあるかと問いかける。最悪死ぬという脅しもかける。もっとも猛毒とはいえ多少は薄めた毒だから解毒まで時間はあるし、余程のことがなければまず死なない。
名声を求める者の中には手段を選ばずTORAに害を為すような類の人間もいる。或いは嘘を吐き西側の情報を探りに来る東の人間である場合もある。これはその排除や尋問にも繋がる。飲めなかったらそのままお引き取りを願い、飲んだ者にはそれお相応の役職を考える。口先だけではなく国を憂いてそこまでやれる人間や、例え虚勢でも命を賭けることが出来るような愚か者ならそれはそれで見所がある。適材適所としてトーラの部下として仕事を回す。そうやって混血や奴隷への理解者を増やしていくことには意味がある。人が増えれば活動の幅も広がる。それが奴隷と混血の保護へも繋がる。
確かこれを提案したのはフォースとアスカだった。彼らはどちらも私の毒を口にしたことがある人間。
いつだか暗殺業の手助けをしたいと語った洛叉に、一度東側についた洛叉を信用できないというアスカが難色を示した。
怪我ばかりする毒人間の世話を焼く立場である以上、毒に触れる危険は最も大きい。毒への抗体でも無ければいくら医者でも危ないのではと心配したのがフォースだ。
それならばと、自ら毒を含んだ洛叉。すぐに倒れたのを見て屍毒を用いて解毒。数日寝込むも何事もなかったかのようにしれっと起き上がった彼に、そこまでされては断りようもなく今に至る。この選別はそこから通過儀礼化したようなものだった。
大々的に暗殺業を続けて行くには人手不足なのは否めない。信用の置ける人材確保を行う必要もある。仕事の最中に出会った人間で、命を失うことを厭わないような人間に毒とそれを飲むべき場所を教えておいて、困ったら或いは死にたくなったらそこで毒を飲めと告げておく。故に、仲間内にスカウト用の毒を預けているというのがもう一つの理由だ。
含んだ毒への拒絶反応が強すぎた場合は毒人間の私の傍で暗殺業なんて出来ないから、そういう者はTORA内で働くか迷い鳥での仕事を任せる。一度死を覚悟した人間は生きることにしがみついている人間よりも多くを見ることが出来る。他者を出し抜いてまで生きようという考えも薄い。そういう者は他人を思いやれる才能がある。そういう者にしか出来ないこともあるはずだ。
この選別はディジットの店でも行っている。宿兼酒場であることもあるから、倒れられても酒のせいで誤魔化せる。
……もっとも、そこまで腕の立つような人材も見つけられておらず現状としては信頼は置けてもそれ以上には至れず暗殺組織SUITとしては人材確保には至れていない。それでも戦闘が専門分野である鶸紅葉達に人材育成を任せることで、迷い鳥の守り手を増やすことには成功している。
そんな人材不足の暗殺組織SUITはリフルが潜入、暗殺担当。アスカとフォースはそのサポート。洛叉は後方待機で暗殺メンバーや保護した奴隷達の治療に専念。潜入先やその時々によってアスカやフォース、或いは洛叉辺りと共に潜り込む。それにトーラの指示で後方支援や暗殺後突入部隊に人が配置されることもある。トーラ自身は後方でそれぞれの状況を監視し、本当に危なくなったら数術で支援に走る。それが今の暗殺組織のスタンスだ。
トーラが有能であるお陰でなんとかやれているというのは以前も今も変わらないが、アスカや洛叉の協力もあってのことだ。
しかしそんな彼らを傍に置いていたことで何か不具合が生じたのなら、それも考え直す必要がある。
「で、それは一体何なんだ?」
顔を上げてアスカに問いかければ、代わりに何故か洛叉が口を開いた。
「基本的にリフル様の邪眼という者は、相手を魅了する力。それが毒人間の貴方だからこそ暗殺の技として有効となっているもので……つまりは相手の視覚情報から性的興奮を煽り、触れさせようとする力です」
「不本意ながらそうなるな。客観的に端的にそう言われると私としてもなんだかなぁというものではあるが」
多少の例外はあっても、この目の力はそれが基本。毒の力が備わるまでは本当に何の意味も成さないどころか、術者である此方が被害を被るだけの力だ。
「しかし私はかつてそれに抗おうと試みた」
「まぁ、それは俺もだな」
洛叉の言葉にアスカが頷く。言われてみればそうだ。かつて彼らは邪眼に抗おうとしたことがある。そして一度はそれを成し遂げた。
意思の力や他の思考が邪眼の誘惑を打ち破れば、それを乗り切ることも不可能ではない。それは証明されている。
「しかしこの時、存在していた欲求は何処へ消えるのか。考えたことはお有りですか?」
「……そこまで考えたことはなかったな」
効き目が弱ければ好意止まりだと言うことは知っている。それでも魅了した標的はまず殺害するから、魅了して見逃す相手というのは……不慮の事故。私の不注意と感情の暴走でアスカにかけてしまったことも二度ほどあるし、洛叉は敵だったしあの場を乗り切るためには手段を選べる余裕はなかった。洛叉にかけたのも二度ほどか。
「リフル様は昇華という言葉をご存知ですか?」
「つまりその衝動を他のものにぶつけたということか?」
「そうなります。そしてかれこれこの半年で貴方のことを認めた詩集が30冊……」
「よし、さっそくそれを焼却処分させてもらおうか」
どや顔の細身長身の男の黒衣の下から取り出されたのは数冊の本。そんなもの持ち歩くな。もし万が一そんなもの紛失されてどこの誰とも知らない相手に読まれたら、こっちが死ぬ思いになる。残りの20数冊は別所に補完してあるそうだがアジトに戻り次第焼却処分させてもらおう。
「しかしそこまで分析が出来ていて何故そこから逃れられないんだ……」
「それは当然。私に抗うつもりがないからです」
じりじりと詰め寄るが如何せん身長差がありすぎる。彼の手にしたそれまで届かない。
「少しは抗えっ!お前は数字操る神とやらに屈さないのではなかったのか!?」
「どうせ何をやっても変わらないのなら俺は自分の欲を優先したいという結論に達しました」
「開き直るなっ!……くそっ、洛叉かがんでくれ届かない」
「それは出来かねます。如何にリフル様であっても」
「ったく……悪趣味な真似を」
「アスカ!よくやってくれた……さぁそれを」
洛叉の手から本を奪ってくれたのは彼に訴える。燃やすなり切り刻むなりやってくれ。そう告げようとした時だ。あろうことか、彼はそれを音読し始めた。
「ええと何々……『那由多様改めリフル様観察記録』。詩集じゃねぇじゃねぇかタイトルからして。…………洛叉、お前文才ねぇな。お前完全に理数系だろ?こいつの外見の形容詞だけで50頁費やすなんて唯の馬鹿だ。もっと簡潔にまとめないと読み手に飽きられるぞ。大体美辞麗句に混じって瞳の半径とか直径とか眉とか鼻とか唇の目寸まで載せる必要性が見出せねぇな。いちいち色彩コードまで載せる意味もわからねぇ」
「ふ……、読み手が下衆では私の作品が汚されるな。いや、この鳥頭でもこの程度には表現できると言うことはやはり私の作品は優れているのかもしれない」
「お前達、本当にそういうことは止めてくれくれないか?恥ずかしいからまず読むな語るな私に聞かせるな」
「そうですね、リフル様のご命令ならば……先の冷水の礼をしてやろう鳥頭」
「げ…っ!!お前、それを何処からっ!!」
「ここから消えたお前が鳥頭故、机に置き忘れていた日記だ」
「勝手に俺の部屋入るな!プライバシーの侵害で訴えんぞ!」
「ふっ……、この二年ですっかりお前も闇の住人だ。この私を訴えるにはいささかお前も黒過ぎるのでは?」
「くっ……」
「というより、そんなものつけていたのかアスカ……意外とマメだな」
「ま、……まぁな。わかったら返せ。すぐ返せ。今ならお前の本返してやっから」
「そうしてやりたいのは山々だが、もうリフル様に渡してしまった」
「何やらかしてんだ闇医者ぁあああああああああああああああああああああああ!!」
「『今日はあいつと買い物に行った……久々の買い物だ。あいつは方向音痴だから俺がしっかり案内しねぇと』……意外と普通だな」
日記には大したことは書かれていない。洛叉の詩集に比べれば全然大したことはない普通の日記だ。
あいつが指しているのが私だというのはなんとなく察した。何処へ出かけただとか、何と食べただとか……なんということはない普通すぎる日常が綴られている。よく覚えていないが言われてみればそんなこともあったような気がしてくる。そんな薄っぺらい内容だ。
だが闇医者は言う。
「いえ、リフル様。おかしいのはその日付です」
「日付?審判97年秋から……98年冬……?この辺りは私がアスカの所から消えていた頃だな」
それを確認して、さっと血の気が引いていく。これは極々普通の……それでもありえない日常をそこに綴っている。
「も、妄想……日記か?」
私が行方死れずの間、こんなものを認めているとは。彼の狂気の一端を垣間見たようで目眩が身を襲う。
「い、いや!今はそんなん書いてねぇからな!禁断症状だって言っただろ?……ほらようやく探してたお前に会えたってのに、数日でまた見失ったし……ショックで当時はどうかしてたんだって」
「…………恐ろしいな」
邪眼に触れてそれでも自制した結果がこれとは。普通に邪眼にかかるより悪い方向へ走り出してはいないか?
「言われてみれば再会したときのアスカもしばらく様子がおかしかったな」
「そうだったか?」
「ああ」
いきなり現れたかと思えばしばらくべったり抱き付いて押しても引いても離れない。トーラに呆れられるほどだった。
「この所リフル様はこの鳥頭にべったりでしたからね。禁断症状も薄れているのでしょう」
「それで今度はしばらく留守を頼んでいた洛叉が発症したのか……」
とりあえず最後には自分が死ねば丸く収まると思っていたが、世の中そう簡単にはいかないらしい。数ヶ月、数年離れてこれだ。この重症患者達を残してさっさと永別してしまったら、更なる狂気を発現してしまうのではないか?
とりあえず魅了した人間の傍にいることでその症状を抑えることが出来るのだとしても、それは邪眼が常にかかる可能性があるという危険なことでもあり……それを抑えられても、離れたときの禁断症状が強まる可能性がある。
「くそっ!それ以上言うなら俺も容赦しねぇ!“観察記録二年プラス空白の十一年、飛んで三ヶ月と十日目!!(前略50頁の美辞麗句)な今日のリフル様は顔色も良くいつもに増して……”」
「止めてくれっ!本人達以上に私が一番恥ずかしいっ!!今すぐそれを止めないと、ここから首をくくってぶら下げて飛び降りるぞ私がっ!」
「…………先生、なんかいろいろ変わっちゃったわねぇ」
何でこんな男に惚れていたのか。それとも何でこんな男なのにまだ好きなのか。そのどちらも本人自身もよく知れない、そんな表情のディジット。
「……でもまぁ、詩集や日記くらいならまだ別段害はないからいいんじゃないかしら」
「それは確かにそうだな。魅了された結果で殺傷沙汰を引き起こされるよりはマシだ……そうだな、それなら別に放置していても構わないか」
精神的苦痛を味わうという被害が術者であるリフル自身ということなら、実害はないようなもの。取るに足らない問題だと言えばそれまでだ。
「いや、それはどうかと思うけど……」
そう告げればディジットが何とも言えない顔で苦笑。顔を上げれば……それを静かに聞いていた洛叉の顔は、いつも通りに感情の薄い冷静さを取り戻しているようにも見える。
「そうですね。今となって冷静に自己分析をしてみますと、一ヶ月以上顔を合わせないのは禁断症状発症の原因になり得る。ここの所向こうでの仕事が忙しすぎて昇華作業の執筆も行えなかった。故に先程の出会い頭にあの様な言動が起こってしまったのでしょう」
「……なるほど。落ち着かれたようで何よりだ。しかし……先生、私の髪を解いたり結ったりで遊ぶのは止めてくれ」
「心配ありません。よくお似合いです」
「仕事以外で女装以外でツインテールなんて18にもなる男がするものでもないだろう」
「そうですね私の失策でした。それではこちらにお召し替えいただければ気にならなくなりますよ」
「やはりまだ落ち着いて居ないんだな……」
どこから取り出したんだそのメイド服は。黒衣の下から何でも出て来るのか彼は。ていうか常備しているのか。それもどうなんだ人として。医者として。そんなものを持ち運ぶ余裕があるならもっと医療器具を持ち運べばいいものを……
「はっ、所詮は闇医者だな洛叉。そんな悪趣味な真似を……」
「アスカ……」
さっきは驚いた。自分の目のせいとはいえ、リアの言葉が重たくのし掛かる。それでもこんな風にいつも助けてくれる彼には感謝しているし……
「リアルでツインテールなんて邪道だ!変態の極みだ!こいつは断然ポニーテールの方が似合う。マリー様も昔はポニーテールだったと親父が言っていたし断然ポニテだっ!」
「やはりお前も同類だっ!見損なったぞっ!!」
やはり、リアの言うことは難しい。
*
あんなことがあった後では気が立って部屋に戻る気もしない。開け放した廊下の窓から吹き込む風に髪を遊ばせ時を刻んでどのくらい経っただろう。気持ちが落ち着くまでそうしていようと思ったがなかなか落ち着く気配を見せない。そんな背中にかけられる声。
「お疲れ、リフルさん」
振り向けば髪を下ろした黒髪の少年。一瞬誰だろうと思ったが声で気付いた。
「フォースか……」
風呂にでも行っていたのだろう。先程の騒動の時は顔を見なかった。
「……ディジットあたりから聞いたのか?」
「うん。回し読み大会開かれてた」
「やはり燃やしておくべきだったか」
小さく舌打ちすれば、隣にやって来て風に当たる少年が小さく笑った。それは別におかしくもなんともなかったけれど、どうしたことか釣られて此方も笑ってしまった。
それを見たフォースは……目を閉じ暫く風と遊んだ後、溜息のような声を絞り出す。
「……大人って」
「……うん?」
「なんか、面倒臭い……って思うんです」
分類するなら年令的にはまだ子供。それでも背負った役職、責任は……彼を大人の世界へ誘った。彼は元処刑人。彼もまた人殺し。子供だからと逃げられる責任はない。
法が彼を許したとしても、その心が自身を許さないのなら、罪を感じる心がある以上彼にも罰が必要。その償いに彼は一生を費やす必要があるだろう。だからこそ、この子の生を守りたいとも思うのだ。落とし前が必要だというのなら、代わりに自分が彼の罪を買って出てもいい。彼は殺した以上の人間を助けながら生きていけばいい。彼にも長い未来が待っている。諦めなければきっと出来るはず。そう思う。
それでもその償いのために彼が選んだのは私と同じ道。殺すことで救える命がある。誰もやらない汚れ役をすることにこそ、意味はあるのだと彼は言う。
それでも私はフォースが心配だ。この子は優しい子だから、いつか何かを見誤りそうで怖いのだ。
彼の主だった残虐公のように彼を恐怖で支配したなら、彼は何も間違えない。唯人を殺すだけの道具として機能するだろう。
それでも私はそんな風に彼を使わないから彼自身が悩み、彼自身が決める。それは彼に迷いをもたらす。彼のことを案ずるのなら、支配すべきだとは思う。それが彼を守ることに繋がる。それでもそうすることが出来ない私は、心のどこかで彼の死を容認しているのだろうか。
そういう風にも受け取ることが出来る。それならつまり、私は彼のことを本当に大切にはしていない。リアの言うことももっともだ。気持ちだけで人を守ることなど出来はしないのだから。
フォースに釣られて気の沈んだリフル。それを察したフォースが挙動不審気味に此方を心配する。なんて声を掛ければいいのかわからないけれどとりあえず心配だという彼の気持ちがよく分かる。こういう分かり易く嘘のないところは出会った頃から変わらない。彼の目は今だって、彼の魂を映すよう……本当に澄んだ色をしている。こんな国で二年も暮らしていながら、自身の本質を守りきった彼は類い希な人間だ。例えその色がありふれた色だとしても、彼の目はとても綺麗な色を映している。それは金では計ることの出来ない美しさ。
綺麗な暗灰色の瞳の少年が語る悩み。他の者には明るく振る舞いながら警戒心を忘れない彼から、もたれ掛かるように心を預けられている。信頼されているんだなと実感する。それと同時にそれに応えられているのかと不安も生じる。
「昔の俺はリフルさんの目を見ても何ともなかったけど、今はちょっと邪眼にかかったりもする。そのうちアスカとか洛叉さんみたいになったりするのかな……」
年を重ねること。それは生きる人間には避けられないこと。成長すれば邪眼に惑わされる割合は増す。それは人が人である以上、仕方がないことなのだ。
それが分かっているから、フォースの声は暗さを宿す。相変わらず彼は優しい子だ。それがリフルを悲しませるのだと……まだ起きてもいない未来のことを敢えて今に悲しんでいる。
「リフルさんは、俺に邪眼が効くようになったってわかった時、凄く悲しそうな顔をしてた。俺、リフルさんのあんな顔はあんま……見たくない」
呟かれた弱々しい言葉にはっとする。この少年は、数術の心得もないのにリフルの心を読み取っていた。
それは恐ろしいことのはず。それでも……こんな風に心配そうに放たれた言葉に、恐ろしさは感じない。知られることで気味悪がられる。そう思うのに、……フォース相手では預けられる好意……それが彼のものだと素直に受け取ることが出来てしまう。
出会ったときのまっすぐな綺麗な目。それがまだこの瞳に焼き付いているからか。本当に嬉しかったのだ。他人から純粋な好意を与えられることが……
それは、彼が成長した今でも尾を引いて……余韻のような温かさを心にもたらす。
不思議だ。彼ももう邪眼に惑わされかける年なのに。……それでも私はまだ、彼を信じられているのだ。
見開いたままじっと彼を見ていると、柔らかく優しくフォースが笑う。
「……リフルさんはそれも邪眼の力だって言うのかも知れないけど、俺……最初リフルさんに会ったとき、もし俺に親父が居たらこんな感じなのかなって思ったんだ」
「私が……?」
「俺のことって……リフルさんにあんま話したこと、ないですよね?」
「……ああ。私も……自分からあまり語らない分、聞かない性質だからな」
これまで話したくなかった。それを聞かずにいたこと。それに対して遠回しに礼を言われたような気がする。そんな立派なものじゃないと言っても彼は小さく笑うだけ。リフル自身見えていない此方の胸の内が彼には見えているのだろうか。
微笑んだまま、フォースが語るのは自身の事情。
なるほど。語らない分、聞かない。それでも話されれば逃げずに聞く。そういう奴だと彼に見抜かれていたのは確かだろう。
「俺の家、親父いなくて。俺を育ててくれたのはお袋一人だったんです。だから親父ってどんなものだろうっていつも思ってた」
他の子供の家にはいたりいなかったり。他の子には居て自分にはいない。そんな存在をどこかで羨み、憎んでいた。
その言葉に僅かに感じる親近感。リフル自身、父をよくは知らない。生まれも育ちも違う彼の境遇。それでもその話には深く興味を引かれた。
追い越されたはずの背丈。それでも昔語るフォースの姿は頼りなく、小さな子供のようだった。そう感じさせる理由が知りたかった。
「……何か辛いことがあったら助けてくれる。守ってくれる。そんな人が親父なんだとあの頃の俺は思ってて……俺にはそんな人がいなかったから売られて、セネトレアに来てしまったんだって思ってたんです」
そこで自嘲気味に笑った後、一息吐いて彼は続ける。
「初めてリフルさんに会った時、……リフルさんは見ず知らずの俺を守ってくれた。助けてくれた。あの日の俺にはそんな貴方の背中が俺が探してた、想像の親父のそれと重なったように見えていた……」
その声があまりに優しく語られるものだから、此方まで気恥ずかしい気持ちになる。吹き込む風がもっと涼しくなるように心の中でそっと願った。
「でも俺はアルタニアへ渡って、親父っていうのがそういう存在じゃないんだって知った」
それまでの話と区切るように放たれた言葉。それは優しさではなく影を落とした声色だ。
アルタニア……今はカルノッフェルが収める極寒の大地。かつてはフォースの主、残虐公アーヌルスが治めた土地だ。その場所がフォースにとっての第二の故郷なのだと、この半年間の彼の言葉の端々からリフルは感じていた。
「アーヌルス様は慣れるまで本当に怖かったし、恐ろしかった。コルニクスっていう俺の師匠はいっつもエロ話ばかりで最初はあんまり好きじゃなかった。俺は大人になってもあんな風にはなりたくねぇっていっつも思ってた」
思い出すように、懐かしむように。愛おしげに誇るように悪く言い、そして僅かな痛みを感じさせる彼の声。
「それでも俺はそんな二人に親父っていうものを感じていた。理想じゃなくて、現実的にこういうのが親父なんだろうなって思ったんです」
守ってくれない。助けてくれない。支配する。逆らえば殺す。そんな絶対支配。恐怖の象徴。フォースの理想とは真逆。それが現実での父性というものだった。
「二人は俺の理想じゃなかったけど、二人とも人殺しだったけど……俺はいつの間にかあの人達を本当の親父のように思って……良いところも悪いところも含めてあの人達が好きだった」
それでも人はそれだけではない。その影をフォースは見ていた。
狂気の中に、悪の間に潜む弱さと優しさ。狂人が狂うまでの過程。それを察した。その苦悩する傷ついた魂を癒し、守りたいと願った。例え狂人でも恩人……そして人間。全てを理解することは出来なくとも触れ合える心の一面は存在したのだ。彼はその一面から彼らの全てを親父と慕ったのだろう。
大切な人の信頼に応えたい。その気持ちが恐怖から行っていた処刑人の仕事を変えた。罪のない人を殺すのは辛い。苦しい。それでも……フォースはアルタニア公の心を守りたいと願ったのだ。
多くより少数を選ぶことは罪だ。それは確かだ。多くの命を踏みにじったことは逃れようのない事実。それでも彼がその人を大切に思った心、その全てを悪だと誰が言い切れるだろう?
(……フォースはどこか、昔の私に似ているな)
母を泣かせたくないという気持ちもあった。それでも父の期待に応えたい。毒を飲んだのは、その気持ちから。
初めて会った父親に、与えられた舞台を立派に演じることが彼からの期待。盲目なまでに無いはずの愛を信じようとしたがための過ちだ。それが今の私の身体を蝕む毒だ。
もしあの日、与えられた仕事が毒を飲むことではなくあの場にいた人間全てを殺めることだったなら……あの日の私はそれを行っただろう。フォースが犯した罪はそれに等しい。
誰かを大切に思うことは、線を引くこと。境界の内と外。その内側だけを慈しみ、外側全てを弾圧、迫害していくことだ。世界の全てを線の内側に招くことは誰にも出来ない。確かにいるのだ。どれだけ話し合っても理解し合えない、埋めようのない壁、全く異なる思考、認識を持った存在。互いの幸福のためにはどちらかが邪魔。同じ場所に存在できない相手。それは確かに存在するのだ。だからこそ人は、線を引く。その内側で更に多くの者が線を引く。それが今日の世界の在り方。
優しい彼が、自分と自分の大切な人を守るためには境界が必要だった。彼はその境界を守った。そしてそれを侵された。
「だからカルノッフェルに二人を殺された時、俺は本当に悲しくて……悔しくて……本当の父親を殺されたような気になった」
境界を破られた痛み、憎しみ。それはまだ彼の心の中にある。
この仕事を手伝ってくれている理由の一つには、カルノッフェルへの復讐をと願う心も消えてはいないのかもしれない。憎しみは強い感情だから、すぐに殺すことは出来ない。だからそれも仕方がないことなのだろう。
「……そんな時だ。リフルさんがまた、俺を助けてくれたのは」
それまで影を落としていた言葉に、震えが走ったのはその時。再びそこに自分の名前が浮かび上がった。
「俺は初めて人を殺したとき……もう、リフルさんに会えないと思った。合わせる顔がないって思った」
掌を見つめるフォースの両手が震えている。思い出しているのだろう。その日のことを。
「俺は誰かのためじゃなくて、自分のために。自分が死にたくないから、人の死を肯定した。そんな汚い人間を、リフルさんはもう助けてくれないと思った。もし会えるとしたら……貴方が俺を殺しに来るときだと思った。もしそんな日が来たら……俺はリフルさんのことも、殺そうとするんだろうなって思って……俺はそんな自分が凄く嫌な奴だと思った。生きようとすることって凄く醜いことなんだって……そこまでして生きる価値なんか無い俺なのに、死にたくないって思った……そんな俺が大嫌いだった」
「フォース……」
「それでもリフルさんは……、そんな俺を……また、助けてくれたんだ」
そこまで言う頃にはフォースはもう泣いていた。それでも此方が動く前に、服の袖でごしごしとそれを拭って彼は無理して笑って見せる。
何度か深呼吸をして、息を整え……再び話せるようになるまで暫しの静寂。リフルはそれをじっと見守った。
「一年半ぶりに会ったリフルさんは、昔と変わらなくて……俺なんかと違う綺麗な目をしていた。それなのに俺はそれを昔みたいにただ綺麗だなって思うだけじゃなくて、変にドキドキしたり変な気分になった。それが邪眼だって知って、俺は怖くなった。リフルさんに嫌われるのが怖かった。リフルさんにまで捨てられるんじゃないかと思ったら……本当に、怖かったんだ」
「捨てられる……?」
フォースが邪眼に惑わされてしまうようになる。確かにそれは悲しいこと。それでもそのくらいで出会った頃、彼が与えてくれた気持ちは消えない。そんなことで嫌いになることはあり得ない。
それだというのにフォースは何を言っているのか。第一後半部分の言葉がよくわからない。
疑問を浮かべるリフルにフォースが苦笑し答える。
「昔は親父みたいだと思ったのに、変な話で……再会した時は背を追い越したせいなのか、俺はリフルさんをお袋みたいだと思った」
「わ、私がか?」
「変な話ですよね、ごめんなさい」
「いや、別に構わないが」
母親か。そう言えばトーラにも何か言われていたことを思い出す。確かにフォースは自分にとって弟と子供の中間のような存在だ。
「俺のお袋は昔は凄く優しくて、いつも俺のことを心配してくれていた……」
そんなところが重なるのだとフォースが言う。
「お袋は村じゃ器量よしって言われてた時代もあって、たまたま行楽に来た貴族に遊びで手を出されたんだ」
少し胸を張るように、母のことを語るフォース。もっとも「俺は父親似らしくて、全然似てないけど」と自虐に走るあたり、相変わらず自分には自信がないようだ。
「そんなことはないぞフォース。お前も後2,3年もしたら背も伸びていい感じに筋肉もついて魅力的な好青年になるぞ。私が女だったら真っ先に口説きに行っていただろうな」
「冗談でも止めてくださいよ、そんなことされたら俺アスカあたりの辻斬りに遭います」
「わかった。男女差別は良くないな。2,3年後に私は男だが一度口説きに行ってやろう」
「ぎゃああああああ、こ、殺されるっ!!」
ノリで言ってみたら本気で嫌がられた。少し凹んだ。
「アスカの奴、確かに私馬鹿で過保護だが、そこまで見境無しではないとは思うのだが。フォースには一目置いているところもあるしな」
「いや、最近のアスカ……目が怖いですよリフルさん絡みのことになると本当……。なんか洛叉の妹みたいに目がギラギラしてて、ほんと何するかわからないってくらい……」
なるほど。そこで冒頭の大人は面倒だ発言に戻るのか。
「まぁ、心配するな。お前のことは私がしっかり守ってやるから」
アスカ怖いと未だ震えるフォースの肩を叩いて続きを促す。それにもなんだかなぁと釈然としない面持ちだったが、フォースが話を再開させた。
「……もし女が生まれていたらお袋も俺も引き取られたんだと思う。だけど俺は男だから貴族の家としては駒としても使えない。無価値な子供だったから……俺が生まれた後は俺の父親が村を訪れることもなくなって……母さんはそれで心を病んだ。俺が立派な跡取りになれば男が戻ってくると信じて……俺が駄目だから戻ってこないんだってすぐに怒るようになった」
それはリフルの知らないタロック事情。農村での話を耳にするのは初めてで、新鮮でもあり……悲しくもあった。
「俺が居るから食べ物も早く減る。俺が居るから他の男と結婚することも出来ない。いつの間にか母さんにとって俺は……重荷で、人生最大の汚点になった」
この子が私の幸せ。そのはずだった。それが、変わってしまった。
この子が私の不幸。その元凶。
この子さえ居なければ、他の幸せを手にして今頃そんな風に暮らせていたはずなのに。
……それはあまりに悲しい、心の変化。
例え器量よしでも子持ち。他の男に踏み荒らされた身体だ。それを本気で愛せる男が果たしているだろうか。
その言葉が鋭く胸に突き刺さる。愛し愛されたはずの彼女が汚れていると言うのなら、私はどうだ?本当の意味では愛してもいないし愛されてもいない。その癖やってきたことは比べものにならない。本来誰かから好意を寄せられること自体が烏滸がましい、そんなゴミ屑以下の存在だ。そんな塵に好意を集めさせる邪眼は、許されることではない。真っ直ぐなフォースの言葉だから、それが余計に身に染みる。
「後は食に困って……金に困って……。俺を女装させても役人の目を誤魔化すのはきつい年頃になって……だから端金で俺を商人に売り飛ばした。最後に見たあの人は、もう昔の母さんじゃなかった。別の人みたいに……本当に嬉しそうに金を手にして笑っていて……俺はここにいちゃいけなかったんだなって、よくわかって……」
そうして彼は、故郷と居場所を失った。彼に残されたのは心の在処、それだけだ。
「だから俺、グライドとかロセッタとかパームとか……あいつらを本当の家族みたいに思うことにして、兄貴になったつもりで頑張ろうと思った……」
出会った頃の彼の心は幼なじみである少年少女三人にあった。温かな気持ちを教えてくれた彼の力になりたくて、アスカに無理を言って彼の依頼を引き受けた。
「でも、ロセッタもパームも……もうどこに行ったかわからなくて、グライドはやっと会えたのに……奴隷商なんかになってて…………昔みたいに俺には優しいのに、リフルさん達混血には酷いことを言うんだ。前はあんな奴じゃなかったのに……」
邪眼の暴走、そして聖十字を信じた私の盲目から、見つけた二人を再びフォースから奪ってしまった。
そして最後の一人。フォースの親友であるグライドという少年とも敵対させ、戦わせてしまうという結果になった。
一度彼に殺されかけ……それでもグライドはフォースの境界の内側に存在している。宿に戻ってからの話し合いで、gimmickと手を組みたいと語ったフォースは彼をまだ信じている。
「…………フォース、私は立場上動けない。生きてることが知られれば、向こうにも此方にも良くないことになる。それはわかるな?」
「はい……」
「それでもお前も大きくなった。強くもなった。だから私はお前を子供扱いはしない。お前が行きたいというのなら私は止めない。彼と話してくると良い」
「リフルさん……!」
突然の許しにフォースが目を意味開く。それに過保護を一言付け加えてやることにした。そうでもしないとこの少年は無茶をしそうだったから。
「それでも私がお前を心配しないということはない。お前が怪我をしても私は悲しい。それが身体であっても心であってもだ。どうかそれだけは理解していてくれ。私はフォースが大切だ。守ってやりたいとも思っている」
私は彼を支配したくない。父ではなく母のようだと語った彼の言葉のように、恐れさせず支配せず、守り慈しむ者でありたい。
まっすぐな気持ちを捧げてくれる彼を大切にすること。彼の意思や心を大切にしたいと思うこと、それを伝えること……それはリアの言う言葉に少しは重ならないだろうか。
「俺の我が儘、聞いてくれて……ありがとうございます」
「子供は我が儘を言うものだろう?」
「子供扱いしないんじゃありませんでした?」
「公私混同はしない主義だ。これは公ではないから構わない」
軽く笑えば今度はフォースが笑ってくれる。「何ですかそれ」とはははと小気味よく。
「それじゃ、もう一つ我が儘言ってもいいですか?」
「許容範囲内ならな」
軽く考えながら答えると、フォースは本題ではなく回りくどい言い回しで我が儘を言い始める。
「俺がこの仕事を手伝うって言い出したとき、リフルさんは嫌がった。俺が死にかけたって知った後もしばらくそうだった。俺、リフルさんと再会して……少しだけ変われたんだって思うんです。それまではずっと、死にたくないって気持ちがあった。でも実際死にかけて……思った。処刑されたときのリフルさんや……俺が毒矢で殺してきた人達も、こんな風に痛かったのかなって。そうなって初めて俺は……俺がしてきたことの重さを、本当の意味で知ったような気がして……、俺が死にたくないって思うことが、凄く狡いことだって思うようになった。リフルさんは殺される痛みも殺す痛みも知っているから、罰を欲しがるのかってその時わかった。俺も……逃げちゃいけないことをしてきたんだって、あの毒が俺に教えてくれた」
一度死にかけた少年は、死と向き合って思うところがあったと言う。
唯がむしゃらに生にしがみついてきた。それが彼の罪の始まり。
突然、呆気なく訪れた死の足音。それを聞き、はじめて知ったことがある。
「だから俺はアスカやトーラみたいにリフルさんに死なないでって言うことは出来ない。それでもリフルさんが悲しいと俺も悲しいし、リフルさんが痛い思いをするのは俺だって嫌だ」
人が言った言葉を鸚鵡返しで応用してくるフォースの言葉。自分が用いた言葉だけにこれは説得力が強い。言い返せないように上手く使ってきたなと内心感心する。
大人なら我が儘は言えない。心配するのは自分はよくて相手は駄目とは年上としてはまず言えない。
「俺はリフルさんが罪を償いたいっていう気持ちを否定はしません。だけど俺は……俺を助けてくれたリフルさんの力になってリフルさんを助けたいし守りたい。そのために俺は無茶したりするかもしれないし、リフルさんの邪魔をしてしまうかもしれない。いつかはわからないけどそんな日が来るかもしれない」
「それがもう一つの我が儘か?」
「はい」
強い意志の灯った目で力強く頷くフォース。
彼の生きる境界。生きるために必要な境界。そこにしっかり組み込まれてしまったのだな。
そんなに踏み込んでおきながら彼を見捨てたら、それこそ彼はまた捨てられてしまう。
「……わかった、許そう。それがフォースの確かな気持ちなら」
そう頷いた途端に笑みを浮かべる彼は現金だ。苦笑するしかない。
喜びのあまり抱き付いてくる彼にはどうしたものか。追い越された背丈を見せつけられるようで非常に複雑。二年前は本当に子供だったのに、時の流れをしみじみ思う。
そんな相手にこんな言葉を言うのもどうかとは思ったけれど、それでも言っておきたいことがあった。
「それじゃあお相子に……私のことも許してくれるか?私もお前が罪を償おうとしてもそれを受け入れず助けに行くかもしれない。半年前みたいな」
こんな非力な自分が本当に彼を守れるのかなんてわからないけれど。
それでも言いたいことは伝えておくべき。リアが私にそう言ったのだ。
その言葉にフォースは頷いて、また笑う。それを見てなんとなく、唯漠然と。彼は一年後も十年後も、おそらくこんな風に笑うんだろうなと、そう思った。それを守ってやりたいとも……私は思った。
*
「おや、リフル様……」
こんな時間に何用ですかと疑問符を浮かべる洛叉。彼の地下室に赴いたのは彼の様子が気になったからだ。
「……随分空けていた割りに綺麗なものだな」
「…………彼女たちがここも掃除していてくれたんでしょうね」
別にそれを感謝するでもなく冷静に淡々と語る様子は、もうすっかりいつも通りの闇医者。その様子に少しだけ安堵する。
「そう言えば洛叉は何かを取りに来たと言っていたな……見つかったのか?」
「いえ……久々ということもありますし、こう荷物が多いと我ながら困ったもので」
「ならば私も手伝うことにしよう。それで何を探せば良いんだ?」
見渡した部屋には大荷物。大量の本に薬剤、医療器具。何の情報も無しに探るにはいささか量が多すぎる。
「まぁ、嗜好品通りオーダーメイド店作特注メイド服とか言ったら一発殴らせて貰おうか」
冗談のつもりでそう口にすれば、闇医者が漆黒の目を見開いていた。
「よくご存知でしたね」
「ま、まさか本当なのか!?冗談で言ったのに」
「はい。実は真っ赤な嘘です」
「洛叉……」
「リフル様は昔から素直な方ですね。実にからかい甲斐がありますね」
「私で遊ばないでくれ」
本当にどうしたものか、この男は。出会った頃の印象とすっかり変わってしまった。当時の彼ならこんなことは言わなかった。からかわれる担当はアスカだった。
あの頃の洛叉は過去を持たないリフルにとってとても頼りになる相手。怪我をすれば心配してくれたし、毒の危険性と詳しい解毒法を教えてくれたのも彼だった。アルタニアで敵として再会したときも洛叉は優しかった。それがどうしてこうなった。
(いや、私のせいか)
溢れる溜息は自身に返る。
「…………それはその、……洛叉には悪いことをしたと思っている。本当にすまない」
処刑される以前の過去は殆ど思い出せない。かつて洛叉とどんな風に接していたのかもわからない。アスカと洛叉は以前にも増して犬猿の仲だし、顔を合わせば喧嘩ばかり。アスカの監視もあったからこの数ヶ月、洛叉とゆっくり話すことも出来なかった。二人きりで話をするという機会を設けることも出来ずにいたことを思い出し、以前のことを掘り返す。
「怒ってる……よな」
「別に構いませんよ」
「……え」
気にした風でもないという闇医者の言葉に驚かされる。
「こうしてまた、貴方にお仕えすることが出来るのは私にとって十分幸福なことです。それに共有する記憶というのも良いものですが、片方だけが所持するというのも悪くありませんよ」
謙虚な言葉と僅かの含みを宿した言葉。相反したものを語る闇医者がほくそ笑む。
「あの鳥頭も、貴方自身も知らない貴方を私だけが知っていると思うと優越感のようなものも生まれますしね」
そういう考え方があったか。そんな風に言われると凄く気になる。そして恥ずかしい。なにか過去の自分が恥ずかしい失敗を犯したとしてそれを彼だけが知っていてにやにやと笑っているのだとしたら、悶絶のあまり卒倒しそうな勢いだ。
「……あ、悪趣味だ」
「そうですね。ですがそれが何か?」
平然と言い返す様は此方の反応を楽しんでいるよう。何とも彼相手ではいつも手玉に取られているような気がしてならない。
言い返せずにむくれると、洛叉が小さく笑う。そんな風に笑われたのは初めてで……それなのに何故だか懐かしい。そう思った途端、何故だか温かな気持ちになる。からかわれているというのに、とても落ち着く。安堵する。何とも不思議な感覚だ。記憶こそ残っていなくとも……この身体は彼と過ごした時間を覚えているのだろうか。
奇妙な感覚に襲われて、狼狽えるように視線を彷徨わせるリフルをじっと見つめる二つの漆黒は冷たい光を宿した色。それでもそれは僅かに優しげだ。
「時に、リフル様は私が怖くありませんか?」
「何故そんな話に?」
そんな風に思うならこんな風に部屋を訪ねるはずもない。そう言い返せば洛叉は苦笑する。
「あいつがどの程度邪眼に触れているかは知りませんが、半年前から俺は確かに貴方の邪眼に冒されている。意思を邪眼が上回れば、或いは貴方の目が暴走したなら……多少の力には抗えもしますが全開の貴方の力には俺では勝てません。そうなれば俺は貴方に手を伸ばしてしまう」
洛叉は淡々と自分と邪眼の分析を行う。学に秀でた彼がそう言うのなら、そうなる可能性は非常に高い。そして彼はここ最近の自身を振り返る話を始める。
「この所率先して留守を預かったのはそう思ったからです。しかしまさかあんな副作用まで存在するとは思いませんでした」
「……副作用に掛かると、どんな風になるんだ?」
「皮膚が飢える……そう表現するのが適当でしょうか。恐ろしい感覚です」
そう言うや否や、洛叉の視線がリフルに合わせられた。
「この手が貴方に触れたくなる。この目が、全ての皮膚が貴方の視線を求める。かといって視線を受ければ、邪眼の魅了が始まる。それに負ければ……どうなるかはご存知ですね?」
手袋越しに頬に触れる手。漆黒の瞳が此方を見つめる。
「だ、駄目だ……洛叉!」
咄嗟に目を逸らし邪眼を外す。それでも僅かに掛かってしまった。
怪我をさせてでも、ゼクヴェンツ以外の毒を食らわせてでも止めなければ。そしてすぐに解毒を……
しかし焦るリフルの耳に届いた声は間の抜けるくらい平坦な声。
「……いえ、大丈夫です。確かめてみただけです」
「確かめ……る?」
「通常程度の邪眼なら、眼鏡を掛けていればそこまで効かないことが確認されました。彼の言っていたことも全てが嘘だというわけでもないようだ」
硝子には反射により邪眼の誘惑を跳ね返す働きがあると人から聞いたのだと洛叉は言った。しかしその人物への心当たりが薄い。
「彼?」
「gimmickの頭です」
「……リィナの兄か」
返された言葉に思い起こすは一人の男。
「彼も特殊な人間ですから数術への独自での理解はそれなりに高いのでしょう」
ヴァレスタ。あの赤目の彼の死体が上がったという話は聞かない。不確かとは不安に同じ。
あの青年の目を見たときの恐ろしさ。それをまだこの身体は覚えている。
加虐趣味という性癖の人間にさえ逆効果とはいえ機能する邪眼。それが全く効かなかった初めての相手。それが彼への恐怖に拍車を掛ける。
洛叉が情報を留まらせたおかげでゼクヴェンツを使うことに成功したものの、もしそれさえ効かなかったならもう打つ手がない。
あの男は危険だ。混血を本当に塵屑以下の物の用に扱い、そう見る眼差し。それを殺すことを何とも思っていない冷めた瞳。何を思い、生きているのか解らない。その目を見ても、同じ人間だと認められないような相手が、存在していることに驚いた。姿形が、ではない。彼の心だ。彼の心は、考えは……あまりに遠い場所にある。それは本当に人間と呼んで良い場所なのだろうかと疑いたくなるほどに。
(……まるで、悪魔だ)
差別などしたくない。見下したくなどない。それでも隔たっている壁がある。同じ生き物だと彼は此方を思っていないし、此方もそうは思えないのだ。
金のためにどこまでも残酷になれるあの男。万物の根源は金だと言って憚らないようなあの不遜で傲慢な態度。一体どこで生まれて育ち、どんなものを食べて生きればあんな風になれるのかがまったくもってわからない。
「……ゼクヴェンツを殺せる毒はない。医者の立場から言わせていただくなら、彼が生きていることはあり得ない」
「ああ……そうだな」
知を持って此方を安堵させるよう語る洛叉の言葉にリフルも息を吐く。彼がいるのならグライドの説得に向かうフォースも危険だ。あの少年はフォースよりヴァレスタという男を選んだ。
しかし彼が居ないのなら話は別だ。説得もまた、無くもない話。
「まぁ……何はともあれ、対処法が見つかったことは幸いです。それにリフル様、この所邪眼も上手く使いこなしておられるようではありませんか?」
「……そうだな。以前よりは制御できているように思う」
「混血における数術発現の殆どは精神負荷から生じるものです。邪眼の発動もそこに起因するのかもしれませんね。詳しくはもっと貴方を調べてみないことにはわかりませんが」
感情が暴走しなければ。
確かにそうだ。二年前の暴走を除けば、これまでの暴走はいつもリフル自身の感情がそこに絡んでいる。
(アルジーヌ様が殺されて……それからアスカが死んだと思った時)
どちらも一時は自分の主だった人。何とも言い難い複雑な思いを抱える相手。
好きか嫌いかで言えば前者に属するけれど、どちらにも引け目や負い目を感じているのは確か。
「とはいえ油断は禁物です。二年前のようなこともないとは言えません」
深く考え込むような素振りを見せて……しばらく間を取った洛叉が静かに顔を上げた。
「混血は純血よりも邪眼の抵抗力は強い。殺し合うほどの魅了はおそらくないと思われます。情報屋の彼女やアルムはまず問題はないはず。フォースはまだ幼い。しばらくはまだ安全圏。店主は貴方を男として見てはいないし、俺なんかにまだ気の迷いを抱いている以上、何かが起こると言うこともまずないでしょう」
回りくどい言い回し。故意にそこから外された名前があることにリフルは気がつく。それを見計らったように洛叉は続けた。
「俺をあまりあの鳥頭の傍に配置しない方がいいかもしれません。俺とあいつは邪眼に深く毒されている。何かが起こればまず俺とあいつが殺し合いを始める確率が高い」
それに元々あれと俺はそれがなくとも馬が合わない人間ですと闇医者は付け加えて語る。
「なるほど……洛叉とアスカを一緒に連れ歩くのは控えろということだな」
「そうなります」
「二人とも私の毒には耐性が多少はついている。何かあっても一人ずつなら対処が可能……それなら特に問題はないな」
「…………貴方は怖くはないのですか?」
与えられた情報を確認しているリフルを、疑うような視線で洛叉が尋ねる。
「……?何のことだ?」
「貴方は人の愚かさを知っているはずだ。邪眼に狂った人間が何をするのかだって知っている。かつての貴方が自ら忘れようとした記憶をなぞることだって起こり得る。それなのに、貴方は何故そんなに平然と物を言えるのか私にはわかりかねます」
物言う道具へと成り下がる時間。意味を成さない言葉。這いずり回る探られる手の感覚のおぞましさ。いくら時が過ぎてそれが過去に変わっても、それは美化されるような記憶ではない。
その目に狂えば、こうして話をしている自分もそんなものになってしまうのに、何故そんなに平然としているのかと洛叉は問いている。
「そうだな……それは怖いな。私が洛叉やアスカを殺してしまったら……そう思うと怖くて仕方がない」
「リフル様……?」
屍毒以外なら対処の方法もあるが、万が一屍毒ゼクヴェンツに触れさせるようなことがあれば、二人は助からない。毒の抵抗があっても屍毒からは逃れられない。それこそ何かの神懸かり的な奇跡でもない限り。それは確かでも、予想と異なるらしい返答に闇医者は不思議そうに此方を見ていた。
それでもリフルからすれば、リアの言うよう……出来る限り正直な思いを伝えたつもりだ。それが伝わらないというのならそれは自分の言葉が悪かったのだろう。そう思い、リフルは言い直す。
「仮に何かが起こっても、私が恨むとすればそれは私の目の方だよ。それで毒に触れさせてしまうことの方が私は怖い。私には洛叉もアスカも必要だから」
彼らは自分にはない多くの物を持っている。無力な自分が何かを為すには彼らの力が必要だ。
「最近仕事が大がかりになるにつれ、私は私の無力を思い知る。自分一人で何もかもが出来るとは思わないが、頼る相手が少ないに越したことはない。そう思えた頃が懐かしい。私は……私が目指すもののためには、私一人の力ではどうしようもないことがあるのだと知ってしまった」
「……お言葉ですが、私に出来ることなど大したことではありません。学はあっても俺は数術も使えない。俺の治療は医術であって数術ではない。あの馬鹿が父母から引き継いだように得体の知れない精霊などの恩恵もありませんし、情報屋の彼女のようにすぐに傷を塞ぐようなことは出来ない」
「それでも私は、洛叉の手が割と好きだ」
「……随分急な話題転換ですね」
話の繋がりが見えないと苦笑する洛叉に今度はリフルが問いかける。
「覚えているか?二年前……私の手当をしてくれた時のこと。毒人間なんて得体の知れない私を恐れずに治療してくれた」
解毒のためナイフで切り付けた傷。猛毒だと知っても淡々と行われる治療。手袋越しでも彼の温かさは伝わった。
「あの頃はわからなかったが、洛叉は私を気遣っていてくれたんだな。……だからお前の手が優しく感じたのかもしれない」
だからこの闇医者は優しい人なのだと思う。唯とてつもなく不器用で、頭は良い癖に理論武装の鎧のせいで自分自身をよく知らないだけだ。更にそれに付け加えるなら知を誇り過ぎて尋常ならざるほど一部の分野においてのプライドが高すぎるだけ。
それら全てが絡まって、洛叉は多くを巻き込み傷付けた。
ディジットとあの双子達、それから妹だという埃沙という混血の少女。
医者の本質は人を傷付けないことにあるというのなら、洛叉は医者失格。それでも彼の腕は確かだから、彼は多くを救えるはずだ。
「私の手は殺してしまう手だが、洛叉の手は人を救う手だ。お前は多くを傷付けたかもしれないが、私とは違う方法で償うことが出来るのだと……私は思っているよ」
「リフル様……」
「それでも洛叉、お前が私の傍にいてくれることは私の望みでもあるが……それはあの子を再び傷付けることにもなるかもしれない」
多くを救うために洛叉が異母妹である少女と敵対すること。それは裏切り。少女の心を傷付けること。それを強いることになるのはやはり心苦しい。
「出来ることなら彼女と和解させてやりたいと思うが……今の私では彼女にどんな言葉なら届けられるのかわからない」
「それは無理な話です」
「言い切ったな」
「はい」
さらりと即答された言葉から、闇医者の心情を察することは難しい。何とも思っていない風ではあるが、何かは思っているだろう。
「あいつは俺の言葉かあの人の言葉かしか聞きはしない。俺たちでさえ半分以上は届いていない」
あの人。それがgimmickの頭を指すのだろうとはなんとなく気がついた。
命令には従う。それが奴隷の在り方。どんな扱いを受けていようとも、埃沙という少女は奴隷として教育された立派な道具。此方からすれば厄介過ぎる道具。
ヴァレスタのいない今、彼女を支配し制御しきれる人間が彼方にいるかどうかは怪しい。思う心はいざ知らず、行動における忠実な奴隷は厄介だ。主を亡くした忠実な奴隷の暴走程御しがたいものはない。それを止められる唯一の人間がいないということなのだから。
「埃沙は基本的に何を言っても聞きません。主の命令だけは忠実にこなすが、それでも主を敬うことはなくその態度を罰されても反省することはない。俺の言葉で唯一彼女に届く物があるとするなら……愛の言葉くらいでしょう」
そんな物を妹に語るつもりなど毛頭ありませんがと溜息を吐く洛叉。その気持ちはわからないでもない。いくら相手が綺麗でも、可愛くても、尻込みするような相手はいるものだ。
「私が異母姉様から迫られたような感じだな……確かにそれは、何とも……。しかし意外だな。彼女はまだ先生の守備範囲内では?」
「失敬ですね、俺だってそこまで見境無しではない」
いくら少女相手でも、流石に肉親に相手に欲情出来る才能はないと闇医者は肩をすくめる。
「なるほど」
「第一あれは俺の趣味じゃない。いいですか?幼児性愛というのはそもそも精神と身体が合わさってこそその真価が発揮されるのです。基本は天然でもツンデレでもデレツンでも構わないっ!上辺はどうあれその本質は子供らしい無邪気な心、疑いを知らない真っ新な精神。心のどこかでいもしない神に祈るようなその愚かさが嗚呼愛おしい!それを宿す器としての小さな身体。保護欲をそそるその愛らしさ!あどけなさ!声変わり以前のあの性と性の狭間の絶妙なバランスに揺れる天秤!その姿は正に天の使い!しかし自省を知らぬエゴ丸出しの欲の塊、正に悪魔!その均衡が俺をここまで狂わせる」
「専門用語が多すぎて何とコメントしたらいいのかよくわからないがとりあえず、趣味だったら手を出していたと」
「否定はしません」
とりあえず言えることとしては倫理観念ではなく……単に趣味の問題だったと言うことだけだ。
あの少女は子供らしさを感じない。危機迫る異様に不気味な迫力があった。
子供らしさを感じないという点ではエルムも同じだったが、彼には闇医者が悶えていたこともあったから彼の方は守備範囲内だったのだろう。確かに彼は、姉のアルムを見守りながら……いつも寂しそうに彼女とディジットのやりとりを見つめていた。強がって寂しいと言えないだけで、本当は姉が羨ましかったのだろう。
「彼の場合は、俺も拍車を掛けていましたね」
押し黙る此方の表情から考えを推測、正解に結びつけられるこの闇医者はやはり頭が良いのだろう。洛叉が混血の少年を語る。
「愛らしいアルムを愛でて楽しみ、エルムの劣等感を刺激することで辛そうな顔をする彼を楽しむ、一度で二度美味しいと言うわけです」
「先生は…………地味に性格が悪かったんだな」
「何を今更」
言われてみれば敢えて姉の方ばかりにこの男は猫可愛がりのようにデレデレしていたように思う。
「店主に甘えられない分、その寂しさが爆発すれば俺に泣きつくかもしれないではないですか」
「いや、たぶんそんなことはなかったと思うぞ。あったとしても精々アスカ辺りが及第点だろう」
「そしてそうなれば今度はアルムが俺に嫉妬して、“先生の馬鹿ぁ!”とか涙ながらに殴りかかってくるという完璧な計算です」
「その計算の穴かつ惜しむべくはお前の性格くらいだろうな」
話を聞かずに過去の妄想に浸る洛叉。SなのかMなのかいまいちはっきりしない闇医者。おそらくその両方を極めているのだろう。しかし、そんな変態にも苦手分野はあったらしい。博愛主義などお断り。えり好みはしたい派だと闇医者は言う。
「まぁ……ですが、俺はヤンデレの良さだけは理解しがたい。あれをリアルでやられると公害以外の何物ではありません。はっきり言って迷惑です」
「……洛叉は割り切っているな」
「そうですね」
目的のために洛叉はある意味心を砕いたアルムとエルムを見捨た。その代わりに選ばれたのは埃沙。その埃沙も二度捨てられた。
「洛叉は私と違って……彼女に憎しみがあるわけではないのだろう?」
「リフル様は……刹那姫を恨んでおいでですか?」
質問を質問で切り返す手口。それでも「も」ではなく「は」と言う以上、洛叉「は」妹を恨んではいないようではあった。
それともリアの言った言葉通り?
知りたいのなら教えろ、さらけ出せ。洛叉は切り込んできた、踏み込んできた内面に。毒に触れられないなら心に触れたいと、そう思ったのかもしれない。人を割り切るこの男が、聞きたがる。拾われた自分はどう答えるべきだろう。
洛叉の問いに答えるべく、リフルは半年前に出会った姉のことを思い出す。
「彼女自身が私に何かをしたわけではないが……私は異母姉様を許せそうにない」
リフル自身が害を被ったわけではない。それでも彼女の残虐非道な行いを、放置するわけにも行かない。あの奴隷商……ヴァレスタに脅されなくとも、いつかは殺すべき標的に異母姉の名前はあっただろう。
半年前……あの日初めて会った異母姉様は、それは美しい人だった。けれど子供のように無垢な笑みを浮かべながら、簡単に人の命を奪うことを命じる人だった。そしてそれを悔いることも悲しむこともない。彼女の中に罪という言葉はなく、その意識も皆無。自身が行うことはどんな非道な振る舞いも道理に変わる。傲慢すぎる生ける正義にして法、その化身。生き続ける限り周りの精神を毒し腐らせ狂わせる。それは国も世界の飲み込む悪だ。蠱惑的な花の香りに惑わされた人々は傀儡と化す。
「……俺は逆ですね」
闇医者の口からぽつりと呟かれた言葉。リフルの中から答えを引き出し、そこで今度ははっきりと洛叉は己の心を明かす。
「これまで俺はあいつが心底どうでも良かった。そのツケが回ってきた結果……あいつは俺ではなく貴方を憎んでしまった。……私が憎むとすればあいつのそれだ」
邪眼が引き出す好意か。それ以前の交流か。それを問うことはもう止めろとリアに言われた。捧げられる思いは真実なのだから。そうだ。全てが以前の物だとは思えないけれど責めて半分。二つの要因、その両方であればいいなと願う。それでいい。
「それでもあいつの目的は俺にある。狙うとすれば俺。俺と共に行動しない限り、あいつが貴方を襲うことはない。だからしばらくはあいつに貴方を守らせてやります。あの鳥頭は本当に好かないが、剣の腕だけは俺より上でしょう。頭脳レベルは遙かに俺に劣っている上に背丈も足の長さも年収も元の身分も学歴も顔も俺には及びませんが」
だから洛叉は埃沙の件が片付くまで、守りはアスカに一任させるという判断を打ち出した。
持ち上げた分、他を徹底的に叩かなければ気が済まない。素直に彼を褒めることが出来ないのか。本当にこの人は不器用だ。
「リフル様……貴方を治療することで共に過ごせる時間が出来るのはいいですが、貴方が怪我をすること自体に私が喜ぶわけではないということだけは、心に留めておいてください」
「洛叉……」
労りの言葉に絆されて、思わず視線を上げれば彼は余所を向いていた。興が殺がれた気分になるが、それを辿ったリフルの視線は棚の上へと移る。
「……こんなところにあったか」
棚から下ろした箱の埃を払う闇医者の背中からその荷物を覗き込む。中に入っていたのは何枚かの紙だ。
「これは何だ?」
「検査薬に用いる指標です。貴方の毒の解析を続けようと思いまして」
「検査……?」
「二年前の検査は簡単に入手できる毒を中心に調べましたが、今度は徹底的に調べさせていただきます。時間のあるときで構いませんが、なるべくお早めにお願いします」
二年前の検査は簡素な物だ。だから結果が出るのも早かった。採取されたのは血に唾液、涙に汗……この辺りのものだったように思う。
それでも母から食事として与えられた毒はそれなりの種類があっただろうし、ゼクヴェンツは世界中の毒物ミックス劇薬を死体の中で長年放置したことで誕生した屍毒。それを持っているリフルの身体には多くの毒が潜んでいる可能性は大いにある。
「それにより新たな毒が見つかることは十分あり得ます。貴方は毒の宝庫だ。世界で失われた毒も貴方の中には眠っている。それを知ることは貴方にとっても役立つことなのでは?」
成長の止まっているリフル自身の身体能力の向上には限度がある。仕事で使える毒が増えるのは確かに喜ばしい。もっと違うスマートなやり方を見つけることが出来るかもしれない。さくっと仕事をこなせるようになれば、アスカにもフォースにも心配されることはなくなるだろう。殺しの効率が上がれば救える相手も増える。何かが起こる前に、救い出せる?間に合うかもしれない。
「そうか……」
期待から顔を綻ばせるリフルに、それだけではないと洛叉が告げる。
「毒から薬が生まれることも多い。貴方から摂取した毒を用いて人を救うことも出来るはず。貴方が生きることで救える命もあるのだと私は思います」
「洛叉……」
生ける屍に役目を与えることで、生きる理由を与えようとしているのか。
身体だけではなく人の心まで救える医者がいるのなら、それは確かに名医。この医者は人を傷付けるが故、闇医者ではあるが……確かに名医でもあった。
「貴方は私に多くを救うことが償いだと言いましたが、私はその多くの中に貴方を入れた
い。貴方を連れて逃げることが出来なかった俺の償い。それは貴方を救えなければ意味がない」
「反魂の法以外に不可能毎は何も無しと語る数術で……貴方の毒を消すことが出来ないのなら、俺は俺のやり方でそれを目指したい。貴方から見つかる毒の保存と繁殖方法を見出し、そこから薬品開発を。そしていつか貴方の身体の毒を抑え、貴方を普通の人間に戻す薬を……神に逆らってでも見つけ出す」
数字という神に抗う術。それを洛叉は心ではなく、行動へと変えた。
研究対象としての興味ではない。それを認めたくないと抗い続けた人に、人として見られている。自分以上にある意味自分を多く語らないそんな相手に生きていて欲しいと切に願われている。それは強く胸を震わせる言葉ではあるけれど、それでも彼は自分の主ではないのだ。
(私の主はどこにもいない。いるとしたら私の中だ)
自分の主は自分自身。それが人間。それがあるべき人の姿だ。
「洛叉……その言葉だけで、私は十分救われている。ありがとう」
精一杯の感謝を伝えられるように願いながら一度だけ微笑んで……リフルは立ち上がる。
「お前の研究には全面的に協力しよう。だが、それでも私は人殺しだ。罪は必ずいつか償う」
「……その後、どんな問題が生じるか……貴方ならお気づきですよねリフル様?邪眼の呪縛はそれだけでは終わりませんよ」
理論を打ち破るものがあるとすれば、それは人の感情だ。それは正しくはなく間違ったものなのかもしれないが、人の内側で時にそれは理論を負かす。止められないのだ、言葉では。それはどうしようもないことでもある。人が心を持った物であるなら。
「私は道具ではなく人間だから、誰に何を言われても最後の決定を変えるつもりはない」
例え脅されても泣かれても縋られても殴られてもそれは同じ事。そこに望む心くらいは変わるだろうけれど。
「お休み、先生。良い夜を」