48:Lex malla, lex nulla.
その名乗りで、空気が変わった。俺だって知っている名前なのに。それでもアスカも動けない。
しばらくは、静まりかえった王宮広場。誰も何も話せない。
「これはつれない。半年ぶりと言うのが正しいだろう?のぅ……那由多?」
女王が言葉を発したことで、それを合図に観客達が動揺、ざわめく。それはこれまでの比ではない。
「やはり其方がSuitだったか。いい目をして居る……半年前よりいい男になりおって」
ようやく捜し物を見つけたと、嬉しそうに笑う女王。
「…………それで姉様。私への判決は?」
「無論無罪じゃ。王族の罪は罪にあらず。神が人を殺しても、誰もそれを咎めぬ。それが世界というものよ」
まったく焦らせおってと女王が溜息。そして両手を向けてこの胸に飛び込んでこいと言わんばかりのポーズで招く。
「それならば姉様、宰相を殺した相手も無罪となりますか?彼を殺めた人間は、このセネトレアの王子です」
「なるほど。その証拠は?」
「その日の本物のトーラのスケジュールは私が把握しています。彼女は当時東裏町にいた」
「彼女……とな?」
「仮に信じてもらえなくとも、それはそれで構わない。彼女もセネトレアの王女です。仮に彼を殺したのが彼女でも、貴女の言葉通りなら彼女は無罪だ!」
「王族が王族を殺すか。なるほど……」
「この場合は、罪はどうなりますか……異母姉様?」
「死人に口なし。強きが正義。ならばその者は確かに無罪よの。仮にこの場で其方が妾を殺しても、妾が其方を殺しても……どちらかは無罪と言うことになる」
「それが聞けただけでも十分です」
女王の返答に、リフルが咽の奥で笑う。
「それで今回は、仲間の汚名を晴らしに来たのか?さては其方はわざと捕まったな」
「……いえ、私は終わらせに来ました」
「……何?」
「私の名が一人歩きするのを終わらせるためにも、私はきっちり表舞台で死ぬべきと考えました。生まれが何であれ、私は唯の人間で、人殺しには違いありません」
「ば、馬鹿な!何を言って……其方は誇り高きタロックの……!」
「王族だろうと、私も貴女も…………唯の、人殺しです。姉様、私は今こうして生きている私が恥ずかしい!しかし姉様、私はそれ以上に貴女が恥ずかしい!人を手にかけ、罪悪を感じることもなく!今もそうやって生きている貴女が見ていられない!!そんなもの、私は御免だ!」
そう言ってリフルが取り出すのは……第二島で入手した、あの毒媚薬だ。毒人間のあいつ自身に効く毒薬はない。今となっては媚薬の効果もたぶんない。それでもその香りはトラウマとして、作用する。だからたぶん、気を失うくらいは可能。
《……これは上手い手だよ。これで気を失ったところ、敵の手に渡れば大変だけど……この大観衆の中、Suitが死んだって見せつけるのは悪くない》
そうなる前に助け出せば問題ない。トーラも俺も固唾を呑んでそれを見守る。
「止めさせろ!聖十字!!」
女王の言葉。それに駆け寄るラハイア。しかしもう遅い。その手から瓶は地へ落ちガシャンと割れる。それに遅れて傾いだ身体。
地に着く寸前、ラハイアがそれを抱き留めるが……だらりと力を失ったその肢体。瞳も伏せられて……あの日見た人形のようだ。
「許さぬっ!貴様っ!!何故傍にいて止められなかった!!」
女王の怒り。それはラハイアへと向かう。兵士達が彼をぐるりと取り囲み、剣と槍を突きつける。
「貴様は那由多を死なせるために、今日ここへ連れて来た!教会ではこれを殺せないと知って!!」
女王は赤い瞳を光らせて、ラハイアを強く睨む。
「この者の、首を刈れ!刈った者に褒美を取らすっ!」
「……言ったな、女王」
処刑宣告に、聖十字の笑う声。
リフルを抱きかかえながら、片手に銃を取る。しかしその頃にはもう兵士達の凶刃は振り下ろされていた。いたにもかかわらず、彼はその全員を無力化した。
「聖十字兵への理不尽な処刑宣告。それは十字法に触れている」
一発目は閃光弾。兵士の動きが止まったその隙に、迷いなく引かれた引き金。弾は急所を外し、手足を狙い、確実に動きを封じる。そしてあっという間に敵を殲滅。これだけの腕があって普段撃たないってのも宝の持ち腐れだ。
女王は一瞬何が起こったのかわからなかっただろう。タロックは教会兵器とは無縁の生活を送っているのだから。そんな彼女に向かって今度は銃を掲げる聖十字。
「如何に貴女が法であれど、ここには聖十字がいる。教会のある国の聖十字の在るところ、それは十字法の支配下!」
聖十字は守るだけじゃない。秩序を作るためにある。他国の治安維持にまで務めるのはそのため。法に守られると言うことは、罪を犯せば法に追われることを認めることだ。
十字法の下ではどんな身分の者であろうと法に縛られる。王であろうと貴族であろうと、十字法は逃がさない。
「女王!貴女を現行犯で逮捕する!」
しかしそんな訳の分からない武器を使われても、女王はすぐに思い至る。今の攻撃、その飛距離。それはここまで届かない。
「ならば簡単だ。その聖十字を殺せば十字法とやらの効果は消え失せる!者ども、やれっ!その生意気な口を黙らせろ!!」
弾切れになるまで撃たせる策だ。魅了した兵士達に命懸けで挑ませる。ラハイアは殺そうとはしていない。つまり撃たれてもまだ大丈夫。無駄打ちをさせるために邪魔をし続けろと、なんとも残酷な命令をする。先程撃たれた兵士達も、起き上がれないままずるずると身体を引き摺りながらラハイアへと寄っていく。
「貴女の口からそんな愚かな意見が出るとは興醒めも良いところだ。そんなもの、今時の馬鹿でも言わん。戦時下ですら両軍聖十字を襲わないのは何故か?貴女はそれもご存じないのか?」
ラハイアがわざと女王を煽る。怒らせるための嘲笑で。その教会兵器さえ仕舞い……女王を嘲笑う。
「殺したいなら殺せばいい。だがシャトランジアが腰を上げるぞ?神子は理由が欲しいんだ。この腐った国に正義の鉄槌を振るうための理由がな」
それが怖くないなら殺してみろと、吐き捨てる。女王はそんな言葉で怯まない。本当に、殺すつもりだ。
「ふ、たかが一兵のために国が動くか!仮に動いたところで栄華を極めしセネトレアに、黴の生えたような宗教国が敵うものか!」
「お美しい女王様?笑わせるな。所詮お前も唯の人殺しだ。貴様ほど醜い女を俺は知らん!罪を罪とも認識できぬ、悪に染まった人殺しの顔を!!」
「黙れ教会の犬っ!!許さんっ!!お前だけは、……っ、お前だけは許さんぞっ!!」
挑発だと理解していても、プライドが高いこの女には我慢の限界がある。そしてその沸点はあまりに低い。まるで子供のような女だ。
しかしそんな女王の怒りに触れても臆さず彼女と向き直る聖十字。彼は抱えたリフルの顔を見せ、怒り狂う女王へ問いかける。
「この男の母が誰かをお忘れか?」
リフルの父はタロック王。しかし母は……シャトランジアの王女だ。教会だけじゃない。こいつの存在が表に出れば……中立さえ、揺らぐ。揺らぐための理由になる。
「那由多王子がセネトレア城で死んだ!それを聞いてシャトランジア王は……どう動くだろうか?二度もタロックに、最愛の娘の子を奪われたとあらば!!」
「……謀ったな」
何のために人を集めたか。それは情報を流出させるため。女王がシャトランジアとの対立を避けるためにはこの場の人間全てをここで殺めなければならない。リフルの死体を奪われるわけにもいかない、今までの事を見た観衆の記憶を奪えない以上、命を貰うしかない。
しかしそんなことを聖十字の前で行えば……教会だってもう見て見ぬ振りは出来ない。それなら、聖十字も含め、全てを殺すしかない。十字法を犯してでも。
「誰も逃がすな!一人残らず、斬り殺せっ!」
女王の命令。それに兵士が一斉に走り出す。遅れて観客達が蜘蛛の子を散らすよう逃げまどう。城門を閉じられればアウトだ。そう振り返る。しかし遅い。もう閉じられてる!?これはあいつに注目が集まっている隙に、予めそうしておいたのだろう。女王は、こうなるとは思わなくとも、あいつを逃がすつもりがなかったのだ。
「やってくれたな……那由多。ここまで計算していたのか?流石は妾の弟よ。くくく……実に愉快!愉快だが……同じくらい、腸が煮えくり返るわっ!!」
《やばい、やばいよアスカ君!女王のところが、風上だ!》
(風上ってまさか……毒か!?)
《刹那姫から、凄い元素数値を感じるよ。彼女……かなりの上位カードだ!!》
(上位カードって……ってことはカード的には凄い弱いんだろ!?)
それならチャンスでもある?あの女を殺せば城は暫く機能を失う。東とだけの戦いを考えればいい。そう考える俺にそんな簡単な話ではないとトーラは言う。
《だけど四大元素の加護は厚いんだよ!それに上位カードは社会的地位の高い人間達ばっかだし、ああいう風に取り巻きとか手下も多いんだ!》
リフルを助けるだけなら簡単。しかし、あいつはここから自分だけ連れ出されるなんて怒る。憎む。俺達を。
(くっそ!!)
俺は近場の兵士へ抜刀。刃は猛毒刀クレアーリヒ。だけどこれじゃあキリがねぇ。毒で動きを封じても、相手の数が多すぎる。
(トーラ!鶸紅葉かロセッタに、城門の開放を頼んでくれ!)
《……いや、もっと良い方法があるよ。ちょっと揺れるからみんな気をつけて!》
ゴゴゴと鳴る地響き。それは城壁の石が剥がされていく音。観衆の逃げ場が増えていく。その剥がされた石は宙を浮き、女王の風を遮る壁を広場に作り出す。
(ちょっ、お前何してんだよ!?)
《毒がリーちゃんの所まで来てたんだ。ああしなきゃ……大勢死んでた。リーちゃんなら毒は効かないし大丈夫……》
(馬鹿っ!向こうにはラハイアも居るだろうが!!)
*
飲み込んだ毒の量は少ない。目眩くらいは感じたが、いざという時にすぐに起き上がれるよう、死んだふりをしたに過ぎない。
吹き荒れる毒の風。毒人間であるリフルにそれは効かない。
それでも普通の人間はそうじゃない。観客達を本気で殺しに掛かっている。女王は、兵士共々葬るつもり。かなりの濃度の毒だ。
(私は大丈夫だ。だけど……)
私の毒は解毒に使えるが、予防には使えない。どうしても後手になる。毒に冒されるのを待つことになる。
(ラハイア、あれを被れ)
(リフル……?)
死んだふりをしながら彼に抱えられながら、そっと小声で彼に指示。
私はマントを彼に羽織らせ風に触れないようにする。それでしばらくは何とかなる。毒が回ってきたら急いで解毒。その間に少しでもこの場から離れた方が良い。
(逃げるぞ、ラハイア)
《私を置いて行かないでー》
(モニカ!?)
《私って、結構勘がいいのよリフルちゃん》
突然現れた風の精霊。彼女は私達の前に風の壁を張る。
(モニカがいるということは……ここにアスカが?)
薄目を開けて確かめる。その先の群衆の中に戦う彼の姿を見つけた。しかし……その間に空から振ってくる石、石、石!
《そんなの後で!早く逃げなきゃ!》
(あ、ああ)
(何を独り言を言っているんだ?)
走りながらラハイアが、疑問符を浮かべて私を見る。お前、命の恩人が見えないのか。モニカが少し可哀想だ。
(しかし……逃げると言っても)
すぐ傍には高い壁が作られていく。崩れた城壁。それを用いて私達の背後に壁が作られている。その隙間を潜り抜け、完成間際に此方側に駆け込んで来た者がいる。早く走りすぎてウィッグが外れた。その鮮やかな赤毛は……ロセッタだ。
「ソフィア!?」
「馬鹿っ!」
「痛っ」
出会い頭に殴られるラハイア。理不尽だ。だが……かなり彼を心配していたのだろう。強気なロセッタが涙目だ。
(なるほど……そういうことか)
《リフルちゃん、あの穴見える?》
合点がいったと頷く私に、モニカは処刑場のあの穴を指さした。
《あそこから風の気配がする。地下水道は別の所に繋がってるんだわ》
(ラハイア、あの穴から逃げられそうだ)
(あの穴からだと?高さも解らないのに……無事に降りられるのか?)
(信じてくれ)
(……解った)
「早っ」
私とラハイアのやり取りに、ロセッタが驚きの声を発した。「何よあんたら気持ち悪い」という視線は彼に対する思いからのものだろう。
(頼む、モニカ)
《了解!後で報酬楽しみにしてるから》
モニカがそう私に笑い、暗い穴へと飛び込んだ、私達の身体を数術の風で僅かに浮遊。落下の衝撃を和らげる。
丁度足場に着地させて貰ったため、死体に着地と言うことはなかった。しかし地下水道は薄暗い。灯りなんて全くない。在るのはあの穴、天井からの光だけ。それでも一息吐いたのは事実。毒と女王から逃げることには成功。これでやっと死んだふりと小声ともおさらばだ。
「まったく……余計なことをして。黙っていればお前はもっと簡単に出世できただろうに」
「……死なせないと言ったはずだ」
あの殺された議員達のリスト。それは私も知らないことだった。その意図を理解しアドリブで話に盛り込んだが、あれがなければ話は違う方向へ転んでいたはずだ。あれがなければトーラの汚名を晴らすことは出来なかった。
それに事前に話し合った内容では、死んだふりの所でお終いだ。そこで治療するとか何とかいって教会に運び込むといって逃げる。それで良かったのにこいつは……
「あそこでお前が姉様に喧嘩を売る必要はなかったじゃないか」
「坊やにしちゃ、よく頑張ったじゃない」
珍しくロセッタが他人を、ラハイアを褒めている。そんな姿が新鮮だった。
「これで上手く行けばシャトランジアまとめられるって神子様が喜んでたわ。そうなればタロックとカーネフェルの戦争も随分楽になるでしょうって。大手柄よ」
「俺はそこまで考えては居なかったんだが……」
本当ならそこで助けが来ると期待していた。しかし誰も来なかった。自分が何とかしなければ。そう思って口から出た言葉だったと彼は言う。咄嗟のアドリブにしては立派なものだと私は思う。
「結果オーライって奴」
ロセッタがばしっとラハイアの背中をばしばし叩く。褒める時くらいもう少しなんとかならないものだろうか。あれだとまったく褒められている気がしないだろう本人も。
「……話はその辺にしてそろそろ撤退と行こう。何時までもここに居るのもどうかと思う」
「それもそうね」
放っておけば何時までもそうやってラハイアを褒めちぎりそうなロセッタがいたので、私は次の行動の提案をする。一応ここはまだ敵の本拠地の中だ。何時までも留まっていたい場所でもない。
しかしこの暗さだ。進むにしても慎重に進まなければ。そう覚悟した私の、肩を叩く者がいた。驚きのあまり声も出なかった。私が振り返ったのはその主の声を聞いた後。
「いや、遅かったなお前ら」
その声は、あの運命の輪の青年だ。彼は手に数術で光を作って顔だけ照らす悪趣味登場。ホラーかと突っ込みたくなった。場所が場所なだけにかなり怖かった。
「エティ!何故こんな所に!?」
「退路確保って言ったろ」
「その声、ラディウス!?」
「相変わらずソフィアは残念な胸だな」
「うっさい!あんたの部屋凄く気持ち悪かったわよ!!あのエロ本全部燃やして置いたから!」
「鬼っ!お前は鬼だっ!!」
聖十字二人は彼との対応も慣れているのか、そこまで驚いては居ないようだが、部外者の私にとっては心臓に悪い。
「しかし……こんな場所、よく潜り込めたな」
それでもラハイアも、こんな所で出会うとは思わなかったのだろう。声には驚愕の色が滲んでいる。
「俺城に潜入任務してたんだよ。前に城で会っただろ?」
「…………?まさか、あれお前か!?」
「俺の変装って凄いだろ」
「元が印象に残らない顔ってだけじゃない」
ロセッタは彼に大して辛辣だ。
「可愛子ちゃん、慰めてー、ソフィアが冷たいんだ俺にだけ」
「え、ああ。よしよし」
助けて貰っているのは事実だし、とりあえず抱き付いてきた彼の頭を撫でてみる。
「っておいおい王子さま、なんつー恰好してるの!裸足なんか危ない危ない。俺が背負ってやろう、うん」
「え?」
「あ、……やっぱ胸はねぇか。あるような気がしたんだけどやっぱねぇか」
灯りを自動運転数式に切り換え、空いた手で私をおぶる青年は……とても残念そうに溜息を吐いていた。
「あんたそれ以上胸の話題続けるならぶっ放すわよ?」
「これだから胸の小さい女は心も狭い」
地下水道に響く発砲音。ラディウスが狙われると言うことは私も危ないと言うことで、掠りそうになって私もびくつく。
「おいおいソフィア、俺を殺したらここから脱出不可能になるぞ?ここの水道結構入り組んでるんだからな?」
「だったら少しは言葉遣いに気をつけなさいよ」
「凶暴女はモテねぇって。なぁ、ライル坊ちゃんも女はお淑やかな方が良いよな?」
「人の好みは人それぞれだ」
「それなら個人的には?」
「……そう言うのも悪くない」
「はい、お淑やか一票は入りましたー!これで二票目な!」
「ざっけんな!あの無駄乳ルキフェルは全然お淑やかじゃないじゃない!」
「童顔巨乳ってステータスさえ在ればある程度のことは目を瞑れるんだよ!お前は凶暴、彼女はお転婆って形容で済むくらいには!」
ガツンっ……何かを壁に打ち付けるような音。最初はまたロセッタが発砲したのかと思った。だけど違う。
その音の方向に灯りを向けるラディウス。そこに映し出された人物に、モニカとロセッタ以外は目を見開いた。だってそれもそのはず。私達三人は、彼女と面識があった。
「…………こんな所にいたんだ、イアン」
暗闇では尚暗い、黒髪に赤い瞳の少女騎士。
「て、ティルト!?」
「馬鹿!何つけられてんのよ!!」
ロセッタがすかさず同僚を罵倒する。
それにへらへらと苦笑するラディウス。そんな彼にティルトが得物を突きつける。
「おいおい、嬢ちゃん。確かに嬢ちゃんも貧乳だが今のは嬢ちゃんに言ったわけじゃなくて……」
「あの馬鹿姫の命令だ。那由多王子を置いていけ。じゃないとあの女、この街の人間……この島の人間片っ端から全員殺しかねない」
見当違いのフォローはこの場を濁すため。それでもティルトは、城での同僚として彼へ命令を伝える。城と教会、どちらを取るのだと。
「おいおい、ここで俺らがやり合ってもなんの意味もねぇだろ。この坊やは不殺主義だが俺らは違う。神子の命令さえあれば、幾らだって誰だって殺す側の人間さ。嬢ちゃんと利害は一致している。そのはずだろ?」
「…………なんであんな、あいつ怒らせるようなことしたんだよ!?あいつ怒らせれば人が死ぬって解ってたんだろ!?」
涙声のティルト。きちんと話さなければ。
「……降ろしてくれ」
「え、ああ」
こんな風に見下ろして対等な話し合いが出来るわけがない。ラディウスの背から降り、彼女と向かい合う。
「……ティルト、聞いてくれ。今回のことは女王の本当の姿を人々に見て貰うためのものだ。私の仲間も動いている。観客は彼らが逃がしてくれている」
「どういうつもりかじゃない!結果だ!結果としていろんな人が危ない目に遭ってる!そんなやり方、間違ってる!!復讐なら誰にも頼らない!一人で何もかも終わらせられる!リスクを誰かに託したりしない!!あんたのやり方は、おかしいよ!!」
確かにそれは正論だ。昔の私はそう思った。だけど実際一人で出来た事なんて、たかが知れている。救ったつもりで結局何も救えていなかった。過去の自分を見るようで、彼女はとても腹立たしく思える。
「……それなら君はこの一ヶ月何をしてきたんだ?」
「え……?」
「一月もあの女の傍にいて、寝首一つ掻けないのか?それで復讐を語るだと?とんだお笑い草だな。誰よりも傍にいた君が、どうして女王を殺せなかった?この一ヶ月、君があの女を殺せていれば死なずに済んだ命が幾らあると思う?」
「っ……」
「他の誰に責められても、君だけには何も言われたくないものだな。私は言葉だけの人間が何より嫌いだ」
「言い過ぎだ、リフル。相手は……」
私とティルトの間に入り、その仲裁を務めるラハイア。何故彼女の味方をするのだこの馬鹿は。何故だか少し悔しかった。彼女の言葉も正論かも知れないが、私だって間違ったことを言っているつもりなはい。
「ちょっと待って」
それは冷や水。怒りに傾く私の心に、差し込まれた水だ。割り込んで来たロセッタの声。彼女は両手に銃を構え、それをティルトへ向ける。ラディウスも片手で頭を掻きながら、剣を鞘から抜き払う。
「おかしいわよね、私らはあそこから来たからここまで来られた。ラディウスは上にいなかったからここまで来られた。だけどこいつは上のことを知っていて、それでここにいる。それって絶対変よね?あの穴から生身の人間落ちたなら、そこら辺の肉片と同じように叩き付けられて死んでたかもしれない。でもこいつは怪我一つない。数術の気配も感じないのに」
「……それは簡単なことだよ。ほら……だって僕は凄い天才数術使いだから」
その声に顔を上げる。こいつは、この声は……!
「いやいやご立派だね聖十字のラハイア君。女の子を庇うのは美徳とも呼べるよ。唯、僕が女の子じゃないって気付けなかったのは痛いね」
背を向けたのが命取り。彼の首筋に、ぴったり刃物を押し当てるのは死神。死神商会が頭、オルクス。暗闇に金色の瞳を爛々と光らせる。
「そいつから手を離しなさい」
じゃないと撃つ。そう脅すロセッタの手が震える。打てば銃の方が早い。それでも相手は音声数術をマスターしている。次にどんな手を繰り出されるかわからない。
動けないロセッタの代わりに、一歩踏み出したのはラディウス。
「……あの嬢ちゃんはどうしたんだ?」
「彼女なら無事だよ。トライアンフさん?」
ティルトの身を案じるラディウス。それにオルクスはにやにや笑って、奥の通路……その一方を指さした。
「通路の途中で寝かせておいたから、彼女は貴方の正体をまだ知らないよ。その点は安心してくれて良いよ」
「…………」
「彼女随分貴方に懐いているね。貴方にいろいろ相談したいことがあったみたいだよ。精神安定剤代わりみたいに思われているのかな?僕は貴方を追ってきた彼女と途中で出会ってね……その時情報を引き抜かせて貰ったよ」
その言葉に、ラディウスが少し苦い顔つきになる。均衡状態が長引けば、彼女が目覚めてここに歩いて来る可能性もある。それを匂わせるオルクス。この均衡で得な者は誰もいない。それを理解し、私が口を開くことにした。
「…………ここに来たということは、用は私にか?」
「話が早くて助かるよ」
ラハイアを人質にしたのはそれがこの場の人間全てを躊躇わせるに足る人物だと見抜いて。運命の輪二人も、私も彼への思い入れは強い。
「しかし君たちには驚かされたよ。まさかこんなに早く第二島を攻略されるとは思わなかったし、第三公の件まで解決。今度は城まで攻め込むなんて」
二ヶ月の猶予を与えられてまだ数日。トーラ解放の条件は成った。それが成る前に彼女が逃げ出してきたのだからこれも彼にとっては予想外。この男は、思い通りに物事が進まないことが嫌いなのだろう。ピリピリと乾いた空気。笑っているが怒っている、そんな気配がする。
「だけど物事には順序ってものがある。短期決戦とかされちゃうと、困るんだよね僕としても」
そのためにもやはり人質は必要だ。そう思い至ったと彼は言う。彼が言う人質とはラハイアではないだろう。彼は人質を人質にするための人質だ。だってあの男はさっきから私の方ばかりを見ている。
「よく考えたら人質には一番貴方が最適だったと思ってね。おまけに今ので表舞台からは死んだことにまたなったんだろう?」
「人質と言うからには、それなりの歓迎はあるんだろうな?」
「そりゃあ勿論!貴方の好きそうなことでたっぷり歓待してあげるよ。パーティの準備もさせているんだよ?」
私が了承の方に流れていくのを見て、ラハイアが私を見る。
「止めろっ……リフル!」
「純血は黙っててよ。人質の価値もない君をこうして人質にしてあげてる僕の身にもなって欲しいな」
刃に力を入れられ、ラハイアの首筋に赤い血が滲む。それが見ていられなくて、私はオルクスへと踏み出した。来るなと言うラハイアの瞳を裏切って。
「私は何処へでも行くし何だってされてやる。だから彼を解放してくれ」
「馬鹿っ!お前は頭だろう!?お前には守るべき奴らと場所があるだろう!?自分の価値を考えろ!お前の命は、お前一人だけのものではないだろう!?」
お前は抑止力。東が攻め込んでこないのはそのためだ。それが今、Suitが死んだと公表されて、それで攻め込まれるかもしれない。実際そこに私がいれば、嘘の情報に掛かった東を迎え撃つ策を練ることが出来る。しかしそこに私が居なければ……情報は本当に変わってしまう。でも……
「ここでお前を犠牲にしては、私は守れない」
「リフルっ!」
「私の守るべき奴はお前で、場所もお前だ!お前は部外者ではない!死なせたくない……大切なっ……私の……」
もう入っているんだ。守りたい者の中に。それは私個人の感情と、それから世界を見つめた結果と、その両方で。
「お前を失って、あの街は守れても……この国が、世界が守れなくなっては意味がない!お前こそお前一人の命ではないことを考えろ!お前は沢山の人間から必要とされている!お前が救いだ!私に出来ないこと、救えない奴を……お前は沢山救ってきたじゃないか!」
「リフル……あんた……」
私の言葉に反応したのは、ラハイアではなくロセッタだった。彼女は少し鼻水混じりの涙声。何故だろう。彼女にお礼を言われたような気がした。そんなはずないのに。
「……違う、俺は……っ」
しかしロセッタを説得できても意味がない。意固地なラハイアを折れさせなければ。私は再び彼へと言葉を投げかける。
「お前の守れるものを、私には守れない。だが私の守りたいものを、お前は守ってくれる。お前は守れる何もかも!なら、……私の選択は最善だ!」
モニカの回復数術。アスカが居なければ使えない。彼女自身は元素の塊。それを使役する存在が居なければ意味がない。式として成立しない。
ラディウスが回復数術を使えるかはわからない。第一、首でも落とされたら回復など不可能だ。オルクスの気が変わる前に、さっさと私はラハイアを解放させなければならない。
「オルクス、私の心は決まった。好きにしてくれ」
「そう?それじゃあ……」
ごそごそとラハイアの服から、手錠を取り出すオルクス。その片方を私に付けるように言う。それに従えば、もう一つの輪を掴み私を引き寄せる。
「うん、それじゃあ彼は返してあげるよ」
運命の輪二人の攻撃圏内から外れた所まで退避した後、オルクスはドンとラハイアの背中を蹴る。
「リフルっ!」
此方を振り向くラハイア。その声に重なり、ロセッタが飛んだ。一瞬で距離を詰めてオルクスに発砲。
しかし、オルクスはもう数式を完成させていた。ラハイアを蹴った時のあの音で。
張り巡らせた防御壁。それが弾丸を弾く。攻撃が届かないことを笑うオルクス。その笑い声が発動条件。彼は私とラハイアの会話の際に既に式を書き上げていた。
数術は、空間転移。飲み込まれて、景色が重なり……全く別の場所に出る。
「ようこそ、那由多王子にはここでしばらく楽しく時間の無駄遣いをしてもらうよ」
薄暗いが、無駄に広い牢だ。しかし家具と呼ぶには物騒なものばかりが揃えられている。
何というか拷問部屋と言った方がいいんじゃないのかこの部屋は。あちこちに手錠やら、鎖やら。鞭やら蝋燭やら。寝台もあるにはあるがこんなところで落ち着いて眠れる気がしない。だって天井から吊すためのフックやら、拘束具やら、吊り籠やら、三角な木馬やら、棘の付いた床やら表面が刃のように研ぎ澄まされた大きな振り子やら。
「これはまた、悪趣味な部屋だな」
「え?那由多王子はこういうのが好きだって情報で聞いたんだけどな」
「好きは好きでも分野が違う」
「あはは、そんなの一緒だよ。使う物は同じだし、最終的には入れられるって意味では一緒じゃないか。料理と同じだよ。どんな料理でも最後は胃袋に入る。それと同じ」
「私は過程を楽しみたいな。生きるために食べるのではなく、楽しむために食べる方が好きだ」
「え?楽しいよ?食べる方はさ。唯今回貴方は食べる側じゃなくて食べられる側ってだけなんだけど。ま、立ち話も何だし座って座って」
そう言って勧められる椅子は明らかに普通の椅子ではない。手枷やら足枷やらが付いている。この男が何を考えているかは解らないが、私は人質なのだからそう従う理由もない気がする。
「あのね那由多王子、貴方が人質のつもりかも知れないけど、それは確かだけどさ……僕はそんな生温いことはしないよ」
引き離すことに意味があるのだと死神は言う。
「彼らには貴方が人質。貴方には彼らが人質。言ってる意味がわかるかい?」
「なかなか座り心地の良い椅子だな」
「喜んでいただけて何より。ここに拘束するともっと良い感じだと思うよ。あはは、似合う似合う」
選択の余地無し。そう言われた以上は、受けねばなるまい。どんな辱めも。まぁ手足を拘束されるくらい、大したことでもない。
「そうそう、面白いことを教えてあげようか?」
私が言うことを聞いたことで機嫌を良くしたオルクスは、彼女にそっくりの顔で……彼女が浮かべないような冷徹な笑みをうかべた。
「僕はあの水路の出口のいくつかに、彼女の姿を借りた時に兵士を配置するように指示しておいたんだよね。コートカードはリアルラックが低いからねぇ。無事に遭遇してくれたみたい」
笑って言うことか。何を言っても無駄な気がしたので睨み付けるに留めた。
「それで君の死体が見つからないだろう?ラハイア君は城からとても怪しまれている。身の潔白を証明したいんだけど方法がない。困ったよねぇ」
「……っ!!」
ラハイアの性格からして、人を殺してまでは逃げない。疑われたら無実を証明しようとする。しかし……今回は、その証拠がない。私がいない。
私が生きて助けに行ったら、それはそれで裁判での行動を怪しまれる。私の死体を何処に隠したか。誰に渡したか。迂闊なことは言えない。でも、女王はそれを知りたがる。
「ラディウス君は城の潜入任務の顔に戻って、彼を発見したような振りをしているけどね。彼一人でラハイア君を逃がすのは難しいかな。ロセッタさんは君の仲間に情報を伝えるために、別のルートから出口に向かっていた」
ロセッタは無事。それには安堵するが、安心は出来ない。こんな最悪な情報、持ち帰った彼女が責められないだろうか?彼女は悪くない。それを伝えたくとも私には出来ない。
「よく推理物なんかで二手に分かれるのは死亡フラグだって言うのにねぇ。まぁ固まってても駄目な時は駄目だから、誰かが生き延びるって意味ではいいのかな」
「……お前は、何が目的なんだ?」
「僕も人間だからね。いろんな願いがあるよ」
ぼかすような死神の答え。
「例えば好きな人を僕だけの物にしたい。あ、これは貴方じゃないから安心してね」
最初の言葉は意外なものだ。こんな男にも好いた相手が居るのか。人間らしい答えが返ってきて、胡散臭いと疑ってしまうのは私の心が貧しいからか?そう思わせる彼の人格に問題があるのか。
「例えば数術をもっと極めたい。そのための研究資金も稼げるだけ稼いでおきたい」
二番目の答え。それは数術使いなら大抵の者が思うこと。才能がなくてもあっても……未知への好奇心。それが尽きることはないらしい。
「例えばコレクションを充実させたい。ついでに憎たらしい奴にぎゃふんと言わせたい」
三番目の答え。そこから危機迫るものを感じる。ぐいと顎を持ち上げられて無理矢理彼の瞳を見せられた。彼は私を観察している。私を、私の目をまじまじと。
「僕は貴方自身のことはなんとも思っていないけど、その目だけは好きだと思う。綺麗な色だし、そこには数術学的興味もある。そして売ればお金にもなる。どう使おうか本当に迷うよ」
私を見る、その目が怖い。魅了されるにはされている。だけどそれは邪眼の引き寄せる本来の物とは違う。蒼薔薇との戦闘での失態、それとも少し毛色が異なる。ヴァレスタのように計算する瞳でもない。この眼は……彼以上に得たいが知れない。
「貴方自身思ったことがあるんだろう?その目さえなければ、全ての呪いが消えるんじゃないかって」
邪眼は私を好きにならせる力。それは私を傷付けさせない、殺させない。生かすため、守るための力。魅了し欲を煽って、それで心が壊れても……身体は守られる。
だけどこの眼は、私を壊したがっている。加虐の目とも違う。私を解体したい。解剖して調べ尽くしたいという探求者の瞳。恐るべき知的好奇心の塊。
洛叉もそういう系統かもしれないが、あの男は魅了されている。私を殺すよりも、私とどうにかなる方がまだ興味がある様子。それに比べてこいつは何だ。
(嫌だ……)
私はこういう目に慣れていない。こういう目を向けられることがこれまでなかった。邪眼が私を守ってくれた。だけどこいつには効かない。
混血だから、だけではない。きっとこの男には、心底惚れた相手が居るのだ。だからこんなにも、私に靡かない。
そんな未知との遭遇。向こうは心が躍るのかも知れないが、私は恐怖で頭がいっぱいになってしまう。知らないことは、唯それだけで恐ろしい。
だから誰もが知りたがる。痛みを和らげるため。情報を真実を求める。だけど普通に生きていて、知らなくて良いこともある。知らなくても生きていける。これはそういう方面の情報。教えられること、それだけで既に不幸。
「僕の片割れは、本当に貴方が大好きだね。それならどう思うのかな?大好きな王子様の目がさ、送り届けられたりなんかしたらもう、泣いちゃうかなぁ、感激のあまり」
すっと頬に添えられた手。もう片方の手が伸びてくる。眼球に触れようと、黒目の真上数ミリ程度まで。思わず瞼で守るが、見えないのも恐ろしい。瞼の上から眼球の形を確かめるように優しく撫でられる。こんな恐ろしい愛撫があってたまるか。
「こう見えて僕も昔は妹想いの良いお兄ちゃんだったんだよ。独り占めは狡いよねぇ?僕の研究に一つ、あの子に形見として一つ分けてあげるのが兄妹愛ってものかな」
両目を刳り抜くことを前提での話。身体が拘束されているから逃げ出すことも叶わない。
「あの子もきっと喜ぶね。どうやっても手に入らない貴方の、パーツ一つでも自分の物に出来るんだもの。昔みたいに馬鹿な顔してお兄ちゃんって鼻水垂らして抱き付いてくるねきっと」
「……どうしてそこまで、トーラを憎むんだ?」
「憎む?僕が彼女を?」
私の言葉にオルクスは笑い出す。どうしてそこで笑うのか、解らなかった。
「彼女は……彼女が必死になって生きてきたのも。あんな言葉遣いをするのも。それはお前のためだ」
こいつのために、二人でトーラ。死んだ兄を想って、一緒に生きようと足掻いた。そこまでされて、何も感じないというのか?
「それは貴方だって知っている気持ちだと思うよ。僕があのティルトって子を演じて。ラハイア君に庇われた時、君は苛立っただろう?誰かを好きになるって事はそう言うこと。他の誰かが憎くて堪らなくなるってこと」
「それとこれとは……」
「いいや、同じだよ。貴方は思うところがあっても別段彼女が嫌いではない。にもかかわらずそう思う。それは貴方が彼を大好き過ぎるから」
オルクス自身、トーラのことが別に嫌いなわけではない。唯、思い人のことが大好きすぎるだけだと告白する。
そんな風に語る彼は人間らしさが滲むのに、そのためにやることを思うと、彼が解らなくなる。
「大切な、希望なんだろう?彼が」
私の胸の内を読み取って、私の心を嘲笑う。彼の苦しみが私の苦しみ。私の苦しみが、トーラの苦しみになる。そしてトーラの苦しみが……オルクスの思い人へと繋がる。思い人を直接苦しめることに意味はない。だからこんな遠回りなことをする。そんな相手……それは。
(鶸紅葉……?)
蒼薔薇と違い……彼女なら私に何かあってもたぶんそこまで何も思わない。それでもそうなることでトーラが苦しむなら、彼女も苦しむ。
それに彼女はライトバウアー時代からトーラに仕えていた。つまりオルクスとも顔見知りと言うことだ。
トーラとオルクス。二人は双子で同じ顔。違うところは性別と性格くらいなものだろう。それでも鶸紅葉はトーラが好きだ。主に対する以上の愛情を持って彼女の下で働いている。誰よりも彼女のみを案じ、彼女の傍で、彼女を守る。どうして自分が選ばれなかったのか。選ばれた片割れに、憎しみが募る。
その時不意に、運命の輪のラディウスが言っていた言葉を私は思い出す。憎しみが愛情に似た、深い結びつきに変わることがあると。
深く憎まれれば憎まれるほど、その人の心に入り込める。心を頭を支配できる。そしてその内すっかり自分の物になる。私やトーラ、ラハイアは……その憎しみを増幅させるために組み込まれたパーツ。そのパーツである私に趣味の研究という理由がたまたま重なっていただけ。
この男の目的を達せないためには、私が怒らない。憎まない。怨まない。それが大切。
だけど私に出来るのだろうか?今、ラハイアが……私の希望が窮地。こうして話を聞かせられているだけの現状に、耐えられるのか。
(もし……あいつに何かあったら……)
私は憎まずになんて、いられない。だけどそれがこの男の思う壺なのだ。
右と左に心が引っ張られて、今にも引き裂かれて千切れてしまいそう。いっそそうなればいいのに。そうなれないから、痛みだけがこの胸を刺す。




