43:Altissima quaeque flumina minimo sono labi.
※またしても雰囲気注意回
笑う。あの女が私を笑う。
悔しくて、睨んで。睨むことしかできない自分が許せなくて。その唯一の抵抗すらあの女を悦ばせることになるかと思うともっと悔しくて。だけどここで泣いたらそれこそ相手の思う壺。
何が楽しいのかわからない。はっきり言って異常。この国では常識が通じない。タロック以上にこの国は歪んでいる。
唯、私は屈辱を感じている。その屈辱こそが、この女にとって何よりのご馳走なのだ。私の中で、私という者全てが崩れ落ちていく。私が曖昧なものになる。そうして私を壊すのが目的なのだ。壊れていくのを壊していくのが楽しくて堪らないのだこの女は。
そして、壊れた玩具にはもう興味がない。そうなればどうなるか、私は知っている。見てきたもの。
私が生きるには、ずっと壊れずこの女に弄ばれ続けるしかない。いっそ壊れた方が楽なんじゃないかとさえ時々思う。でもそれは、今までの抵抗全てを無駄だと認めることだ。私はそれなの許せない。認めて堪るか。私は抗う。生きる。生きて、生きて……生きてっ、ここから這い出してやる。怒りを糧に瞳を燃やす私に、あの女はまた恍惚とした表情になる。
どうしてこんな事になったのだろう。私は考える。考えることは一瞬でも今から抜け出せる。その度に思い出すのはあの男。銀色の髪、あの狂気の宿る紫の目。混血の殺人鬼。
あの男にさえ出会わなければ私は……もっと簡単に壊れられていたのに。
目の前のこの女を殺してやりたい。それでも手が震えるのは……私がそれを見せられたから。故に恐れるから。人殺しになりたくない。あんな男と同じ物になりたくない。そうして私は罪を見過ごす。泣きたいのに泣けない程悔しくても、苦しくても。私は耐える。耐え続ける……
*
「……………最悪」
ふかふかのベッド。それでも夢見は最悪だ。
思えばあの屋敷では私は彼女のお気に入りだった。ふっかふかのベッドを与えられていたわよ。今の今まで忘れていたけど。思いだした。
もうそこで休む気は起きなくて、私はシーツと枕を床へと下ろしそこへ転がる。こっちの方が良い夢見られそう。
リフルと出会ったあの日から、私の生は屈辱の日々。転げ落ちていった。私の人生。
私は幼なじみの連中の中では一番幸せな奴隷になるはずだった。花嫁奴隷はタロック貴族の元へと売り飛ばされる。稀少なタロック人の女と言うだけで随分と幸せなもの。
結婚相手の顔や性格は選べないとはいえ、身分とそれから衣食住には困らない。タロックでそれは十分幸せと呼べるもの。
だけどフォースやグライドは違う。それからパームも。最悪死ぬわ。そういう奴隷。だから逃がした。私は少なくとも死なない。殺されない。跡継ぎを生むための道具だ。ある程度は大切にされる。商人だって私には傷を付けられない。
みんなを逃がした時、私は一仕事を終えた気分で。何処かほっとしていた。だから驚いた。フォースが本当に助けを呼んできていたなんて。
乗せられた船の中で、私はあいつに出会った。殺人鬼Suit。フォースが私の救出を依頼したらしい相手。
吃驚するほど綺麗な混血。出会ったときも再会したときもあいつは女装していた。似合いすぎているのが怖い。何というか見た目からは僅かでも女装特有の違和感がないのが違和感。それでも言葉の節々とか態度から、妙な潔さと思いきりを感じる。女特有の悪い雰囲気というかそういうものがないのだ。
だからこいつは男だって思った。タロックは男ばかりが多かったから、私はそういう雰囲気に慣れていた。いっつも男友達とばかりと遊んでいたんだもの。
逆に私は女が苦手。タロックの女は少ない。それでいて女はいつまでも女のつもりで居る。
タロックの女は数少ない。だから希少価値がある。あるにはあるが、それにも年齢という者がある。価値があるのは、子供を産める可能性のある女。若ければ若いほど良い。
男は馬鹿だ。お手つき女に興味ない。それに跡継ぎの一人以外は後はずっと女を生んで欲しいというのが何処の家でも本音だ。次男からはどうせ処刑される。それなら売り飛ばして金になる女が欲しい。女を生める女が欲しい。だから村では女を生めなかった女への風当たりが酷い。その風当たりが今度は何処に来るか。私のような幼い女に来る。
僻み妬み、そういう視線。視線だけじゃない。女は何時でも陰湿だ。面と向かって何も言えない癖に、証拠も残らないよう隠れて悪さをする。私は彼女たちのそう言うところが大嫌い。私が何をしたっていうのよ。私が私だってだけじゃない。
男は馬鹿だ。だからこそ。私は幼なじみ達と遊ぶのが好きだった。馬鹿だから私が傷つく理由を知らない。だけど私をそういう風には傷付けない。面と向かって悪さをし、面と向かって殴り合い。私が何度フォースを泣かせたことだろう。あれは楽しかった。たまに泣かせられたこともあるけど、次の日は三倍返しにしてやった。あれも楽しかった。
グライドは幼なじみ達の中では一番まとも。男なのに馬鹿じゃなかった。だけど優しかった。だから彼のことは結構好きだった。子供なのに子供っぽくなくて、しっかりしていて賢くて。
だけど、……少し悔しかった。彼はフォースと一番の友達だ。それはあいつが男だからだ。私は女だから、彼とは一番の友達にはなれない。かと言って私は、彼と結婚することも出来ない。
そう思うと、私はパームが羨ましかった。彼女は、親の意向で男として育てられている。もし仮に女だとばれてもあんな男みたいな性格じゃ、嫁のもらい手もない。それでも自由を与えるために、愛ある育て方をされている。私は売り飛ばされるために、女として育てられている。母さんは私を愛してくれてなどいない。贅沢をするための道具だ。一生を遊ぶための金づるだ。
そう思うと私は彼女が羨ましい。女なのにあの子は馬鹿だから、自分が男と信じて疑わない。そもそも男と女の違いも分かっていないのだ。唯何となく男の方が偉そうだから、自分は偉いから男だと思っている。そんな程度の認識。
フォースの後ろをついて回って、兄弟みたい。馬鹿みたい。だけどあの二人は何時までもああやって、友達で居られるのだ。羨ましい。
だけど私を見る目は違う。段々とフォースの私を見る目が変わった。私は彼の幼なじみだけど、……友達ではないのだ、もう。
それでいて再会したかと思うと今度は他の女となんか仲良くしちゃったりして。あれはあれで腹が立つ。別に私はフォースのことなんか好きでも何でもないけど、それでも腹は立つのだ。それが女ってものかと思うと腹立たしいので私は、その腹立たしさを無かったことにしたいと思う。
だってあれ、フォースの馬鹿が騙されてただけだし。エリザベス改めエリザベータだっけ?事もあろうに第五公の縁者なんかに手ぇ出すなんてどういう神経してるのかしら。農民の家のガキの癖に調子乗るからそうなるのよ。
(それにしても……フォースも何で、あんな奴を慕うのかしら?)
エリザベスの件はさておき。フォースはリフルに懐いている。
っていうかあいつ今どこにいるんだろ?あいつもリフルなんかと関わったばっかりにろくな人生送ってない。アルタニア公の犬になって、人殺しになって、今度はリフルの……殺人鬼Suit一味の一員なんて。
いくら商人に追われてるところ助けられたからって、そこまで懐くもんかしら?私にはどうもそれだけではないように見えた。フォース本人がここにいない以上追求のしようがないし、別にどうでも良いことだけれど。
*
「……っくしっ!!」
「おやぁ、フォース君ってば隅に置けないねぇ。誰かに噂されてるよ」
「違うと思う」
にやにやと俺を見ながら笑うトーラ。こんな夜中に何をしてるんだろう俺はと思わないでもない。第五島の夜は意外と冷える。セネトレアでは一番の南国の癖に。かといって窓を閉め切っているとそれはそれで蒸し暑い。南国クソ食らえ。第三島アルタニアでの生活に慣れた俺は冬は良いが夏は苦手な体質になってしまった。本当、汗で服がべたついてもう嫌だ。
「っていうか無駄話は程ほどにしよう。時間だって限られてるんだから」
「そうなんだよねぇ。僕の数術押さえ込む数式がこの城に書かれてる以上、僕は唯のか弱く可愛いヒロイン様ってところなんだから。いや、たまにはいいねこういうのも。役得役得♪早くリーちゃん助けに来てくれないかなー」
「まぁ、そんな一日二日では無理だろ普通に」
「そうなんだよね。だから僕はこうしてフォース君が頑張っているのを見守るしか無いんだよ」
「っていうか手伝えよ」
数術が使えない以上、逃げ出すにはこつこつ抜け道を作らなければならない。窓からの脱出は高さ的にも無理そうだし、鉄格子を壊すのも無理。となれば他の方法を採るしかない。トーラの部屋は広い。広いが、ずっとここに缶詰というのは楽しくはない。
トーラの数術を押さえ込んでいる数式を見つけることが出来れば後はどうにでもなるのだが、流石にそう簡単に見つかる場所にそれは隠されてはいない。トーラの数術感知まで押さえ込まれている以上、どれがその数式なのかも解らない。俺には数式なんて殆ど見えないし。手当たり次第に城にあるもの破壊すればいつかは当たるのかもしれないが、そんな騒ぎ起こしたら敵にも感づかれる。第一それがこの部屋にある可能性はほとんど無い。
仕方ないので夜毎、棚を移動して壁に穴を空ける作業を開始。隣の部屋に逃げることが出来たら、そこから何かまた新しい糸口が見つかるかも知れない。
それでもアーヌルス様から頂いた俺の愛剣冬椿。それが何で脱走のための道具にされているんだ。悲しい。壁に打ち付ける度悲しい。それでも刃こぼれしないこの形見が愛おしい。
「いや、ほらこの城では一番フォース君が幸福値高いわけでしょ?幸福値低い僕が手助けしたらろくな結果にならないからねぇ。僕は何もしないのが一番なんだよ」
トーラはそんなことを言って、ベッドでゴロゴロしている。それらしいことを言っているのか、単にさぼりたいのかよくわからない。よくよく考えれば若い男女が密室に二人きりにされているのにここまで何のムードも感じない感じさせない辺り、俺とトーラの関係もなんとも変わった物だと思う。彼女は俺を男だと思っていないし、俺も彼女を女として見ていない。トーラが俺を自分とリフルさんの子供扱いばかりするから、そういう感じに慣れてしまった。トーラはお袋と全然似ていないけど、こういう母ちゃんがいたらそれはそれで楽しいんだろうなと思うようになった。
(……エリザ)
それでも、思う。彼女は俺に言っていた。子供になりたがるんじゃなくて、自分が大人になることを考えなさいと。甘える事じゃない。誰かを甘やかしてやれるような大きな人間になれと彼女は言った。
彼女はそれをどういうつもりで言ったのだろう。俺はまた彼女に騙されていた。唯、それだけのことだったのだろうか?
「フォース君が黙るって事は彼女のことでもお悩みかい?」
「数術使えない癖に、何で解るんだよ」
「女と情報屋は勘が良くないとやってられないよフォース君」
俺の背中一つで、俺の表情思考を読み取るトーラ。本当に力を押さえられているのかちょっと怪しい。
「……第五島のことで僕が知ってる限りの情報を言うならね」
「第五公には幼い跡取り息子がいる。彼は病に掛かっていてその治療のためには多くの人間を必要とするっていうのは話したよね?オルクスはその治療のために召し上げられた請負組織。人のパーツを何でも集めてきてくれるんだからそりゃあ助かるよね」
「……それでその病気を治したからこの島であんなに偉そうにしてるのか?」
「いいや違うよ。治したらお払い箱だよ。だから、わざと治さないようにしているのさ」
「そんな……そんなのって」
酷いじゃないかと振り返る。俺にトーラは肩をすくめる。
「兄さんは商人であって医者じゃないんだよ。考えてご覧よフォース君。例えば鋏。丈夫でずっと切れ味の良い鋏。それを一度売ったらもう誰も同じ物は買わないよ。だからね、それよりずっと安くて壊れやすくて切れ味の鈍る鋏。だけどそれはよく売れる。世の中そう言う物なんだよ」
「やっぱ俺、商人って嫌いだ」
「そうはいうけどさ……」
「アーヌルス様は商人じゃなくて職人だ。あの人なら……丈夫で切れ味の良い鋏だけを作り続けたよ、きっと」
例え精神を病んでいても、あの人の仕事に対する情熱だけは本物だ。だからあの人の作る剣は素晴らしいし、多くの人がその輝きに目を奪われる。
あの人は確かに悪人だ。人殺しだ。だけど……何もかもが悪だった訳じゃない。あの人を狂わせた要因が、この世界にはある。その程度の歪みがここにはあるのだ。
「フォース君、リアさんのことは覚えてる?」
「リア?……あのリフルさんの友達って言う?」
「うん。彼女だけどね」
「そう言えば昨日見かけなかったな……まだ影の遊技者で留守番?」
「あの子、死んだよ」
「え……?」
作業に戻ろうとした、俺は再び手を止める。振り返るが今度はトーラと視線が合わない。彼女は俯せで枕を抱えている。
「リーちゃん、凹んでたでしょ?リーちゃんはあの子のこと、結構好きだったんだよ」
「な、何で……」
「彼女の本名は、マリア。名前狩りに遭って死んだ。カルノッフェルに殺されたんだ。そう言えば君が取り乱すと思ったから今まで黙ってた。ごめんね」
そう言われてしまえば、どうして黙っていたんだよとは言えなかった。
「……っ」
それでも悔しい。俺は壁に拳を打ち付ける。
どうして俺はエリザを追いかけた?傍にいてやれば良かった、あの人の。こんな時に傍で支えてやれないなんて。いつも助けて貰ってばかりで、俺は何も返せない、あの人に。
(リフルさん……)
でも……それだけじゃないだろう。トーラはエリザベスを信用はしていなかったのだ。そしてそれは正解だった。彼女に情報を与えないため、迷い鳥の機密をそこまで知らない俺に案内させたのだ。俺が彼女に案内したのは、そうそう当たり障りのない場所だ。多分食事場所がメインだった。
「トーラは……エリザの正体を知っていたのか?」
「職業病って言うけどさ、僕はある程度の情報が集まった相手以外は信用出来ないからね。あとアスカ君が彼女を警戒していた。それがちょっと気になったんだ」
「……アスカが?」
トーラは意外とアスカを高く買っている所がある。何でなのかはわからないが、今の彼女の言い方からすると、アスカの情報の殆どをトーラが握っているから。それに尽きるのかも知れない。
「ほら、半年前までアスカ君ってgimmickに潜入してたって話じゃない?何でもフォース君の友達の家に転がり込んでたらしいよ」
「………グライドん家に?」
「ほら、彼一応真純血だし。純血ウケは良いんだよね。混血ウケとかもあれだし本命からは全然だけど」
アスカの行動力には驚かされる。俺がグライドの家に行って歓迎されたのって、アスカっていう使用人が姿眩まして空いた穴を埋めるって意味もあったんじゃないかもしかして。
「んーとね、フォース君。年上の僕から忠告するなら、悩むことは一度に一つに絞った方が良いよ。あれこれ悩むと何も出来なくなるからね。悩みにも優先順位が大切だよ」
考え込んだ俺にトーラはそんなことを言う。リフルさんのこと。エリザのこと。グライドのこと。カルノッフェルのこと。そして今ここにいる俺とトーラ自身のこと。悩みは尽きない。それでもそれで身動き取れなくなったら駄目だと彼女が教える。
「…………そう、だよな」
リフルさんは心配だ。でも今俺はあの人の傍にはいない。何も出来ない。なら悩むことは無駄。信じよう。あの人の傍にはいつだってアスカが居る。2年前からずっとそうだ。
多分俺がどれだけ剣の腕を磨いても、俺がアスカの場所には代われない。なんというか、目には見えない繋がりのようなものがあの二人の間にはある。
それは少し悔しいことだけど、俺には俺とあの人の繋がりがある。それもきっと他の誰にも代われない。そう信じる。その上で今俺がすべきこと。俺が悩むことは何だろう?
「………」
俺は再び壁へと向き直る。一番大事なのはここからトーラを逃がすことだ。
リフルさんにとってトーラは大事な仕事のパートナーだ。相棒だ。アスカとは違う意味で、あの人の傍にトーラが居るのは似合っている。俺をアルタニアまで助けに来てくれたときからあの二人は一緒だった。それが、凄く自然だった。殺人鬼Suitの仕事は長らく彼ら二人で行われてきたものだったのだから。
トーラだって強がってはいるが、抱える不安もあるのだろう。平然と彼女はリアのことを口にしたけれど、本当はそんなに簡単に口にできるはずじゃない。トーラはあの人のことが好きなんだから。
「トーラ、一つ約束してくれよ」
「何?」
俺は振り向かず、壁を削り続ける。それでも俺の声は聞こえているはずだ。
「俺がここからトーラを逃がしてやったら、リフルさんにちゃんと言うって」
「……何のこと?」
「俺はトーラとリフルさんが今までのままで良いとは思わない。今までのまま、何かあって悲しむのは誰だ?リフルさんだよ」
リアが死んだ。そして今はトーラまで危ない状況にいる。あの人が、それに胸を痛めないはずがない。
「逃げ道をあげるだけが優しさじゃないと思う。トーラが本気であの人好きなら、もっと……追いかけろよ」
「フォース君……」
「じゃなきゃ、どっちもきっと後悔するよ。絶対に」
リフルさんも、トーラもカードだ。いつ何があるか解らない。そんな状況だからこそ控えるんじゃない。そんな状況だからこそ、大切なんだってちゃんと言葉で言ってやることって大事なことなんじゃないのか?
これで何度目か。強く打ち据えた、壁に亀裂が走る。
「やった!!」
壁が崩れて、隣の部屋へと続く道が出来た……と思ったが。何故か瓦礫は内側だけではなく外側にも飛んできた。
「うわっ……!!」
思わず退いた俺の口から漏れた声。それと同時に壁の向こうからも同じ言葉が発せられる。
「え?」
砂煙を払いながら、おそるおそる壁の穴を覗いてみれば……向こうからも此方を伺っている少年の姿。金髪に蒼い瞳のカーネフェル人。俺よりもいくつか年下に見える。
ほっそりとした手に握られていたのは食事用のナイフだろうか。彼は俺のような力任せではなく、壁の石と石の隙間を削って通路を作ろうとしていたらしい。それがあったからこそこんなに早く壁を壊すことが出来たのだ。
「ええと……なんて言えば良いんだろう」
とりあえず苦笑、後の会釈。それに彼も習う。苦笑合戦をする俺と彼。それに何事かとやって来たトーラ。
「ん、この子がお隣さん?」
「……っ!」
「ちょ、ちょっと待てって」
トーラを見るやいなや、彼は俺の背後に隠れる。
「お前この子に何したんだ?」
「失敬な!僕は唯ここで監禁されてただけだよまったく。大方僕をオルクスと間違えてるんだよ」
ああ、なるほど。あの男に酷い目に遭わされた人間だったのか。それならこの反応も頷ける。
「んっと、大丈夫大丈夫。あれは別人だから。それにあいつがお前に何か酷いことしようとしたら俺が守ってやるから」
とりあえず安心させるようにその頭を撫でてやる。
「……ほんと?」
「ああ。約束する」
指切りの手を出せば、そういう習慣がないのだろう。首を傾げる彼に、その作法を伝授する。
「こうやって小指を合わせて約束するんだよ。それ破ったら針千本飲ませるっていって……つまりはそんなの飲みたくないだろ?だから絶対に約束を破らないって言う約束なんだ」
「針千本ー!!」
その言葉が約束の言葉なのだと勘違いしたらしい少年は無邪気な笑顔で物騒な単語を繰り返す。無邪気って怖い。それでもやっと普通に笑ってくれた。
「……にしてもそっちの部屋はお前一人か?つまんないだろ?朝までこっちいろよ」
俺がそう言うと彼は明るい顔になる。こんな小さな子供が一人で部屋に閉じこめられているなんてなんとも酷い話だ。
「俺はフォース。こっちはトーラ。お前は?」
「僕は……僕はエリアス」
「略すとエリアか」
「何で略すのフォース君。それにそれリアさんと被って何か嫌なんだけど」
「んじゃあエリスな」
「だから何で略すのフォース君……」
「だってアスはアスカと被るしなんかしっくり来ないんだよ」
「っていうか流石に畏れ多いんじゃないかな。エリアスって名前に聞き覚えあるんだけどさフォース君、多分その子……次期第五公だよ」
「……え?」
トーラの言葉に振り返る。まじまじと見つめてみれば、確かに少しばかりエリザベスに似た面影。
「……な、なんでそんな奴がこんな所に閉じこめられてるんだよ?!」
「そりゃあまぁ、……兄様の所為以外の理由が思いつかないよ」
トーラが、肩をすくめて俺を見た。
*
立派すぎるベッドは昔を思い出して余りよく眠れない。リフルが隣に視線をやれば、なんとも騎士らしくない騎士の姿が見える。アスカは疲れているのだろうか。ぐっすり眠っている。しかしよく眠れないのは別にベッドだけの所為ではないような気がしてきた。
「まったく……私は毒人間だと何度言えば解るんだ」
何時の間にこの男は私の寝台に移動してきたのだろう。寝相の悪さとかそんなレベルじゃないぞきっと。夏場だというのにそんなくっつかれたら汗毒も出る。迂闊な真似はするなと言ったばかりだというのにこの自殺志願者が。
私は抱き枕じゃないんだぞと言ってやりたいが、寝ている人間相手に文句を言っても虚しいので、こっそりその腕彼抜け出して代わりに枕を渡しておいた。
空いた方の寝台に戻っても良いのだが、また同じ事が起きそうだなとか考えたら何だか目が冴えてきた。第二島は緑が多い。窓の外からは夏虫の声が聞こえる。不思議と懐かしい、そんな気がしてふらふらと……風の音を求めて部屋を抜け出す。
「……何してんの、あんた」
「ロセッタ?」
窓を開け風に吹かれていると声が掛かった。場所は廊下だ。確かに目にはつくかもしれない。それでもだ。
「こんな時間にとは奇遇だな」
「まぁね。そっちはどうしたわけ?あの純血にしては素早さの高い男が先に自分だけ昇天でもしちゃったわけ?」
「変な冗談は止めてくれ。私と彼は別にそういう関係じゃない」
「何よ、あんた猥談下ネタスキーなんじゃなかったの?せっかく人が空気読んでやったってのに興醒めだわ」
「自虐ネタだよ。自分で言うから楽しいんだ。別段女の子の口から聞きたい話じゃない」
「……あっそ」
途切れた会話。それを埋めてきたのは彼女の方だ。それもまったく繋がらない話。それでもそれこそ彼女が私に尋ねたいことだったのだろう。
「あんた、何で人殺しなんかしてるわけ?」
「……突然何故そんなことを?」
それでも何て答えればいいのか。とっさに上手い言葉が見つからなくて、私は逃げる。それでも彼女は逃がさない。
「人殺しの癖に。何で私を止めたの?あんたにはそんな権利無いはずよ」
「……ああ、そうだな」
「…………彼が本当に殺すべき相手なら、私が殺す。私はまだ彼をよく知らない。唯、それだけだ。それに今は第二公との交渉もある。交渉に不利になるようなことは出来ない」
「嘘ね。あんたはそんな計算で動ける人間じゃないわ。あんた、本質はあのライル坊やにそっくり。唯冷静ぶって無表情を演じてるだけよ」
私という人間の何を知っているのだろう彼女は。私を勝手に決めつけて、それでもその言葉に抗えない。確かに私は今、それっぽいことを言っただけだ。
地下で見た血の海。2年前その赤の中にいたのは私。今は彼女。この2年。そこに埋められない何かを、失われた何かを垣間見て、私は泣きたくなった。唯の女の子。普通の女の子。その人生をここまで狂わせてしまったのは、それは私の責任だ。
フォースのこともまだ償い切れていないのに、私はまた私の罪を思い知る。私が巻き込んで不幸にしてしまった相手はまだ他にいたのだ。
フォースは私を怨まない。責めない。だからこそ辛い思いもある。
けれどロセッタは違う。彼女は私を怨んでいる。それに私はどこか清々した気持ちを味わう。こうやって憎まれること。それこそが私のやって来たこと、相応の報いだ。
心が痛い。それでも、その痛みが何より私が望んだことだろう?そう思えば私は彼女に感謝の念すら抱く。
「……そうだな。第二公のためだけじゃない。私のエゴだ」
「あんたの?」
「私が、君が人を殺す所を見たくなかった。君がそういう人間だと認めたくなかった。そういうエゴだ」
「ふ、ふざけるな!誰がっ!!私が誰の所為でここまで落ちぶれたと思ってっ!!」
「ああ、そうだな。私の所為だ」
向けられた銃口。震える指をそこに乗せ……ロセッタが涙声で私を睨む。
「君には悪いことをしたと思っている。撃ちたいなら、好きにしてくれ」
その心地良い、怒り憎しみのままにどうか引き金を引いてくれ。殺してくれて構わない。君にはその資格がある。もう、何もかも諦めて。どうせ私になんか何も出来ない救えない。足掻いても無駄。それならここで彼女の怒りのために殺されるのも悪くないんじゃないだろうか。そう思って目を瞑る。その僅かの間にも、風は歌う。
「……ふざけるなっ!」
彼女の怒声。それとほぼ同時に頬を打たれた。身構えていた物とは違う痛みに私は驚いて、声を発することも出来ない。
「人殺しがっ……楽に死ねると思うな!」
「あんたはねっ!人を傷付けた分、人を助けて人のためになって償って償って償ってっ!それでやっと惨めに無惨に死ぬことが許される!その日まで私は神子様にあんたを助けるように言われてるんだ!お前を楽には死なせないっ!自分の責任投げ出して死のうとするような馬鹿っ!弾使う価値もないっ!!さっさと第二公丸め込んで第一島の問題全部解決しなさいよ。仲間の一人や二人助けられずに何が、お頭よ!」
何故だろう。彼女の言葉は不思議だ。端から聞けば酷い言葉のような気もするけれど、それは本当に私の思うところを突いていて説得力がある。自分でそう思っていても、他人にそれを言われるというのはまた違う。
少し自暴自棄になっていたのは確かだ。自分の嫌な面を思いだしたこと。リアのこと。トーラとフォースのこと。ディジットのこと。アルムとエルムのこと。問題ばかりがありすぎて、何も解決しないのに問題ばかりが増えていってもう私一人で抱えきれなくて。それでも誰かに頼るっていうことが私にはとても難しいことで。両極端な答えしか私は出せない。
守りたい。それでも守れず失うくらいなら。もう何も考えられないようにまず私が失われればいい。それは責任を放棄すること。逃げるなと、彼女は言う。お前にはそれはまだ許されていないのだと私を叱咤する。
「……ロセッタ」
「何!?」
「ありがとう」
そう言えば、もう一発叩かれた。さっきよりも痛かった。
「何言ってんの!?馬っ鹿じゃない!?殴られて嬉しいの!?この変態っ!」
「確かに私は変態ではあるが、余りそう言う面は調教されていないから不得意だと思うな」
「んなこと誰も聞いてないわよ!!」
「基本的に私の目に魅了された相手は私を殺せない。だから傷付けることはない」
殴られた記憶が私はほとんどない。私のトラウマは、そういう痛みを伴わない物だ。私の知る痛みは内面を抉るような痛み。精神を砕かれる苦痛だ。だから殴られることには慣れていないが、……それはそれで本当に嬉しいことだ。私に手を挙げる人は邪眼に魅了されていないと言うことなのだから。
「……君が私を嫌ってくれていることに、私はとても感謝している。ありがとう」
もう一度お礼を言えば、彼女はもう私を殴らなかった。怒ったような表情で自分の部屋へと帰っていく。
それを見送りながらも、私はまだ眠気が訪れずどうしたものかと考える。
「はぁ……」
《何かお悩み?》
「……モニカか、寝てたのではないのか?」
口から零れた溜息に呼ばれたように、現れる風の精霊。アスカの守護役だというこの精霊はいつも彼の傍にいたらしい。トーラや私でもその存在をカードになるまで知ることが出来なかったのだから、この精霊も何かと謎が多い。
《基本私は元素の塊だから、あんまりそういう概念とは関係ない存在なの。勿論眠ろうとすれば眠れるけど、眠らないからって死んだりしないし》
基本的に自分たちは数術に使われる元素の塊。その密度が増し意思が生じた存在だと彼女は言う。
《あんまり人間に近づきすぎると問題だしね。だから結構制約も多いのよ。リフルちゃんは数値の視覚開花は成ってるから、多少はそこら辺の数字も読めるでしょ》
「ああ」
《でも、私がアスカと契約するまで私が見えなかった。でしょ?》
モニカの言葉に頷けば、それも仕方ないことだと彼女は言った。
「あれはアスカがカードになって視覚開花が成ったからなのか?」
《そういうこと。波長が合った人間がいないと私らは実体持てないし、数術使いでも姿も見えないわ。あのトーラって子なら数値からそこにいるんじゃないかくらいはわかったかもしれないけど》
「…………トーラ」
《げげっ!じ、地雷!?ご、ごめんねリフルちゃん!!》
沈んだ私の表情に、モニカは慌てふためくが……
「いや……むしろ礼を言いたい。私は彼女を助けるためにここに来たはずだったのに……何をやって居るんだろうな」
今日一日を振り返り、そんな後悔が胸を絞める。今日私が考えていたのは、エルムのこと。それから自分自身のこと。彼女のことを省みた時間があっただろうか?
いつも私はそうだ。目先のことばかりに捕らわれて、大切なことを忘れてしまう。
《……リフルちゃんはその子のこと好きなの?》
「大切だとは思っている。死なせたくないとも……」
いつも力を借りてばかりで。彼女を失って、何も出来ない自分の無力さを思い知る。
何でも出来るつもりで居たのは、彼女が傍にいてくれたからだ。そしてそんな風に彼女を求めることは、彼女を利用していることだと鶸紅葉に責められた。
そうなのだろう。私は彼女の好意の上に胡座をかいている。そうすることで救える多くの存在があるからと、彼女という犠牲から目を逸らしている。
この眼で私を好きにならせた相手と向き合うのは辛い。私自身その人を好ましく思っていたとしても、その好意は重ならないのだ。例え向き合ったとしても。
そういう思いは辛いからと、せめてもの慰めに……昔のように差し出せる物が今は何もない。
最近はなんだか、何かを好きになるという概念すらよく分からなくなって来た。
リアのことは友達として好きなはずだった。それが彼女を失って、そうではなかったのだと知った。誰もそういう好きにはならないようにして来たつもりでも、心は勝手にそうなってしまっている。唯私の頭が認められないだけ。
誰をどのくらい好きなのかとか。どういう意味で好きなのか。それを失うまで気付けない。認められない。
そういう中途半端さが、私の弱さを招いている。例えどうにもならなくとも、自分の心はしっかり持っていなければならない。それは解っている。それでも……
「何というか、身内は身内……大切な仲間だからこそ、今は……そういう風には思えないんだ」
人としては好きだ。それでも近しい存在だから、他人とは思えない。つまり、そういう風に意識が出来ない。そういう結びつきから生まれる何かもあるのだろうが、その何かになれるほどの時間が残されているとも思えない。
私がリアに惚れたのは、彼女が私達と全く無関係の別世界の人間だからだ。私では帰ることの出来ない明るい場所。そこで笑う彼女に惹かれた。太陽の下、その日溜まりに焦がれたのだ。同病相憐れむような思いと、それは全く別のもの。
傍にいて、支えてくれる彼女を嫌うことは絶対無いけれど。大切なのは確かだから、中途半端な気持ちで傷をなめ合うような真似はしたくない。
《なるほど……これはアスカニオスも手を焼くわけだ》
「……?どうしてそこでアスカの名前が出て来るんだろうな」
精霊はそれには答えず、代わりに小さく息を吐く。
《つまりリフルちゃんは、仲間は平等に仲間として好きでいたいってことなんでしょう?分け隔て無く、みんな大切だって思っているし思いたい。だから誰かを特別扱いは出来ない。みんな大切なのは本当なんだもの》
モニカの言葉が私の心を映し出す。否定は出来なかった。
《だからそのドングリの背比べから抜け出したくて、無茶するんじゃない?どいつもこいつも》
「どうしてそんな……」
《リフルちゃんはアスカニオスの前でさえ、冷静でいようとするでしょう?勿論時々取り乱したり、感情をぶつけたりって相手にあの子が選ばれることはとっても多い分、アスカニオスはまだ優遇されてる方だけど》
《他の人の前では、そんなことすらほとんど無い。さっきだって、あのお嬢ちゃんの感情を受け止めただけ。貴方があの子に何かを返してぶつけることはなかったわ》
ロセッタとの一件も聞いていたらしい風の精霊。しっかりそれを見ていたかのように彼女はそれを口にする。
《だから……いつも冷静な貴方の本音が見たいのよ》
トーラが捕まったのもきっとその所為だとモニカは指摘する。
「それは違う。彼女は自分の立場と守るべきものを考えて……ああ動いたんだ」
《それは、貴方がそういう彼女を望んでいるからじゃないの?》
姿なき監視者。その存在を知った途端、これまでの日々の全てが私を糾弾して来る。
《だって2年前にリフルちゃんは言っていたわよ。セネトレア王女なのに、蒼薔薇ってあの部下の子を捨て駒扱いしたあの子に貴方は怒ったじゃない》
アスカを守っていたというこの精霊は、常に彼の傍にいたのだ。だから彼と行動していた全てをモニカに見られていた。急速な恥ずかしさに襲われて、私は何も言えない。
しかし彼女の言葉は続く。
《もしトーラって子がそういう女なら、貴方は仲間としても彼女を好きになんてならないでしょう?……そしてそういう好きでもなくなるはずだわ。だから彼女はそうした。誰だって好きな相手に嫌われたくはないじゃない》
「…………」
今度こそ、返す言葉がなかった。
(私は……この眼は、彼女にそこまでさせているのか?)
身体に走った寒気と震え。自分がそこまで醜い生き物だと知って……目眩がした。
《貴方に失望されたくなくて、みんな自分に出来ることを探そうとしている。分かり易い例はアスカニオスよ》
「アスカが?」
《あの子、貴方のことが好きよ。ずっと傍で見てきた私が言うんだから間違いない》
「そ、それは私の目の所為で……」
《違う。処刑の日から、あの子は貴方に惚れてるわ。完全に一目惚れ。じゃなきゃ見失った時に、もっと早く諦めてたわ》
9年間も人生、青春全部犠牲にして追いかけてたのよ?生半可な気持ちで出来る事じゃないわとモニカは言う。それ一つ諦められたなら、他の生き方が幾らでもあったはず。その全ての可能性を捨ててでもたった一つを追いかけた。それほど深く、お前は思われているのだと精霊が私に告げる。
《でもあの子絶対認めないのよ。端から見てれば誰にでも解りそうなことなのに》
一瞬何を言われているのか、解らなかった。瑠璃椿としてであった2年前とかならまだしも、処刑の時からだって?どうしてそんな昔から……?当時は私の方は彼の名前も顔も知らなかったのに。
そんな昔から思われていたのだと教えられても、何故だろう。人の好意がありがたいとか嬉しいとか、そういう風に思えないのは。どうしてか、緊張する。身構える。心臓の鼓動さえ戸惑っている。
私はモニカの言葉から、危機迫る何かを感じたのだ。
口と態度は悪いが、いつも私に優しく、何だかんだで甘い人。いつも力を貸してくれて守ってくれる人。付いてくるなと言っても追いかけてくる。それでもそれが彼だ。仕方ないと思ってやっぱり嫌いになれない相手。
そんな彼とモニカの話す相手が頭の中で一致しない。その不一致。私に見えていない何かを彼女は知っているように思えてならなかった。
《どうしてだと思う?あの子は心底貴方に惚れてるわ。それでもそれを口にすることはきっとないし、畏れ多くも手を出すことは絶対無いわ》
男なら、きっと欲しがる。どんな手段を用いても、惚れた相手を物にしたいと思うもの。けれど彼は絶対にそうしないと精霊が断言する。それは何故か。そもそも惚れていると言うことを認めないから。手を出したら、それは証明に変わる。自分が主の惚れているのだと認めることになる。だから彼が私に手を出すことは絶対にあり得ないとモニカは言った。
《だから貴方にその気がないのなら、あんまりあの子をからかわないで欲しいのよ。手は出さないだろうけど、自分を否定し続けるのって苦しいことだもの》
「…………どうして、そんなことわかるんだ?アスカは唯、私に……憧れていた私の母様を見ているだけだろう?」
《まぁ……少なくとも貴方を男としては見ていないわ。だからあんなに過保護なのよ。だけど男だってのは解っているから手は出さない。出せないのよ。何だかんだであの子、面倒臭い思考回路してるから》
モニカは矛盾したことを言う。それでも人とはそういう矛盾した存在なのだと彼女は言いたいのかもしれない。
《私はこんなのでも一応ね、惚れた男の忘れ形見の幸せを願ってはいるの。だから必要以上にアスカニオスが目も当てられないような感じになるのは避けたいの》
「私も……彼には幸せになって欲しいと思っているよ。本当に」
だからこそ逃げ道を何度も示した。それでも彼は、ついてくる。帰ってきてしまう。私の所へ。それは嬉しいことだけど、同じくらい悲しいことだ。私の傍にいる限り、彼はきっとろくな死に方をしない。
《もし貴方に本当に好きな女の子でも出来たなら、あの子も嫌でも認めなくちゃいけなくなるわ。その時は貴方をちゃんと男として見ることが出来るようになる。その時はちゃんと貴方を諦めて、自分の幸せって言う物を考えるようになってくれると思うの》
その時こそ……本当に唯の友達、唯の主と部下になれると彼女は言う。今の私と彼はそのどちらでもないと彼女は言っているのだ。
《あの子が未練がましくも認められもしない癖に、貴方にしがみついてるのは、現状としてリフルちゃんが一番懐いてるのがアスカニオスだからなんだわ》
「それは、まぁ……元々アスカが私のご主人様だった時期もあったしな」
その頃の依存癖がどうにも抜けないのだ。彼に従われる度に、違和感を覚える心はまだ胸にある。
私自身、彼への好意がどういった類の物なのかよく分かっていない。好きには好きだ。仲間とはまた別のところで。他の仲間とは違う。彼との繋がりは、そんな言葉で表せる物ではない。深く強い結びつきを感じている。
「……それぞれを、違う意味で私は好きだ」
トーラの分け隔て無い明るさと人への気遣いが好ましい。フォースのまっすぐな目と直向きさが大好きだ。ラハイアの正義への情熱に魅入られている。洛叉と二人っきりの時の妙に懐かしい空気が好きだ。何故か落ち着く。ディジットの全てを受け入れるような包容力と優しさ厳しさ、そう言った物を尊敬している。曇ってしまったアルムの愛らしい笑顔を、悲しく思う心がある。
アスカは……傍にいるとほっとする。彼が隣にいてくれて、はじめて私は私になれるような気がする。私に人間の名前を付けてくれた人。彼との出会いが、私にとっての全ての始まり。
「強さの度合いで言えば、仲間内では彼が一番好きだ。それは確かだ。……当時のその癖もある。彼が望むことなら何でも叶えてやりたい気持ちは私にもあるが、正直私も自分の心が解らない。そもそも誰かを好きになるということ自体よく分かっていないんだ」
だから失うまで気付けない。脅えている。恐れている。また、お嬢様とのようになるのが怖い。距離を置く。
「彼は何があっても私を嫌わないだろう?私はそれがとても恐ろしいんだ。嫌いなものは嫌いだって言ってくれて良いのに」
お嬢様もそうだ。どん底まで落ちた汚らわしい私を見てもまだ、私なんかを好きだと言ってくれた。
「距離を見誤れば、邪眼に狂ったアスカは多分……仲間内にも手を掛ける。それだけは絶対に……させたくないんだ」
それならいっそとは思う。アスカは毒への抗体もかなりある。くれてやろうか何もかも。それで満足してくれるなら安い物だ。それで邪眼の狂気が静まるのなら。少なくとも旦那様や奥様は、それで抑えられていた。
(アスカ……)
トーラのことを考えていたはずなのに、巡り巡って結局は彼のことを考える。本当に彼女には申し訳ない。それでも私という人間の大部分は彼により構成されているのはまず間違いない。彼と出会って、西裏町で過ごした短過ぎる日々。泣きたくなるほど懐かしい。
あのまま二人で、普通の請負組織を続けられたらとどんなに幸せだっただろう。私も人を殺さない。彼にも人を殺させない。それだけ、それだけで……私は生きる意味を、幸せを見出せただろう。だけど私は今も人を殺していて、綺麗だった彼の手まで汚させてしまった。いつも私達の傍には血の臭いが漂う。あの頃は唯、風の匂いが通りすぎるだけだったのに。
「私が……誰かを好きになる資格がない。邪眼で人を狂わせた分だけ、それを止めることを第一に考えなければならない。誰にも誰も殺させない。殺すのも殺されるのも……私だけでいいんだよ」
そのためには何だって差し出す。身体でも、命でも。何でもだ。
「大丈夫だ、モニカ。私は……アスカからは逃げない。何があっても、必ずだ。どんな彼でも受け止める。それが彼に対する私の償いだ」
《そういうつもりで言ったんじゃなかったのに……》
私の言葉に、精霊は不満そうな呟きを漏らす。二人揃って面倒臭いと言わんばかりに。
しかし精霊はすぐに表情を変える。耳をぴくぴく動かして、窓辺から外へと飛び立った。
《……何か、聞こえる》
「モニカ?」
そのまま少し遠くへ飛んでいき、そこから此方を振り返り叫ぶ。
《大変!向こうの港が燃えてるわ!!》
*
「いきなり叩き起こされたと思ったら……なんだよこれは」
あの後すぐにアスカを起こし、ロセッタを呼びに言った。
アスカが手懐けた馬を走らせた。馬はロセッタを乗せる気がなく、彼女も走った方が早いと乗る気がない。私とアスカだけ乗せて貰ったわけだが……シルワブルグの城下町まで火の手は及んでいる。 遠目に見えるのは今日降り立った南の港街。その街から火は上がっていた。
「……これは酷い。船の殆どが焼かれている。これではしばらく第2島は外部との連絡を取ることも出来ない」
「それ以前に何人生き残ってるかってのが怪しいわね」
シビアなロセッタの言葉に対し、アスカが口に出すのは顔見知り達の名前だ。
「つか、あいつら大丈夫だったのか?」
宿に残ったロイルとリィナの心配をするアスカ。やっぱりお人好しだ。
「…………」
「リフル?」
私の曇った表情に、彼はすぐに気付く。それなら私の思うところに気付くまで後数秒と言ったところか。
「……まさか!?」
「ああ。二人はエルムは連れてきていないと言っていたが……もし」
「流石はリフルさんにアスカさん。やはり気付きますよね」
私の言葉を遮るように割り込んできた女の声。それにはとても聞き覚えがある。
「レスタ兄が休暇なんかくれるわけねぇよな。無給労働あっても有給休暇なんか絶対ねぇし」
けらけらとそれに続いて笑う男の声。
「お、お前らなんつーシャレにならねぇことを……!こんなんやったらグメーノリア敵に回すぞ?」
「あのですねアスカさん、兄さんは第二公に喧嘩を売られたことに腹を立てていまして、やり返してこいって話だったんですよ今回は」
「まぁ、俺らも殺されそうなったし十分正当防衛だよな。あんま面白れー仕事じゃなかったけどよ、…………少しはスカッとしたぜ」
信じたくなかった。それでもそんな気はしていた。エルムに会った時から、リィナに嘘を吐かれているのではないかと。
「第二島の純血至上主義者は本島でも悪さばかりしていて、東もほとほと困っていたんです」
「……大きく出たもんね。東は第二島がなくても西と城に勝てるつもりでいるわけ?」
「勝てるんじゃね?俺様強ぇえし」
「馬っ鹿じゃないの?」
ロイルの言葉にロセッタがお決まりの台詞を口にする。それでも昼間の一戦を思いだしてか、その表情は険しい。ロイルの言葉は唯の傲りではない。教会兵器持ちで後天性混血のロセッタと渡り合うほどだ。
(……もしかして、今のロイルは……アスカより強いんじゃないのか?)
元々毎回勝負を挑まれる度にアスカが騙し討ちで負かして来ただけ。本気でやり合えばアスカが負けていたのかも知れない。これまでだって。
(厄介だな……)
互いにある程度手の内を知られている相手。それが完全に東側に属している。心情的にも戦略的にもやりにくい。
私達の情報だってもう、ヴァレスタには筒抜けなのかも知れない。
(次やったら……間違いなく負ける。私は、あの男に)
剣術の腕では太刀打ちできない。腕力でもリーチの長さでも話にならない。半年前は捨て身で毒を食らわせることに成功したが、今度は同じ手は使えない。私が毒人間だとあの男はきっと気付いている。その詳細をリィナ達に聞いているなら……絶望的だ。
「!」
「大丈夫だ」
ポンと頭を触られる。驚いてその手の主を見上げれば……言うまでもなくアスカだった。
「俺だって切り札は増えただろ?」
モニカを剣に纏わせて、アスカが不敵に笑う。それに私より先に食い付いたのはロイル。
「……いい顔しやがる」
戦闘狂の血が騒ぐのか、舌なめずりでも始めそうなぞくぞくした表情。それに対し、少しやる気が殺がれたのかげんなりしたアスカ。その図は2年前からあったようにも思うけれど……根本的に何かが違う。
「駄目よロイル。今回の仕事は行き過ぎた純血至上主義者の殲滅でしょ?リフルさん達にあったのは想定外。今回の仕事の管轄じゃないわ。それにアスカさん、貴方がただって純血至上主義者は敵でしょう?別に止める理由は今回ばかりはないんじゃないですか?」
ロイルとアスカ。その両方に声を掛け戦いを避けようとするリィナ。それでもこうなったロイルはリィナにも止められないのか。まるで聞く耳を持たない。
「やっぱこう来ねぇとなぁ!!男の再会って奴はよぉおお!!何か物足りねぇと思ったら、まだアスカとやり合って無かったんだな!!俺様としたことがっ!!」
「来いよ。帰りの船ぶっ壊してくれた礼はしてやる」
「っしゃ!!行くぜ!!」
アスカの怒るポイントがおかしい。確かにそれは困るが、そこで怒るのか?そんなことを思っている内に二人の戦いの幕は切って落とされた。
風の精霊の纏ったアスカの愛刀ダールシュルティング。速度と切れ味共に強化されている。一撃をすれすれでかわし、それを悟ったロイルも得物を入れ換える。
彼の得物はレーウェとグラーウェという対剣。どちらもその見た目からは同じ剣にしか見せないが、その実違う。武器の性能、得意分野もまるで異なる。剣を換えてからのロイルの動きはキレが増した。アスカに習い速度と切れ味を選んだのだろう。誰もがそう思った。
《きゃあああああああああああああああ!!》
「モニカっ!?」
上がる悲鳴。ダールシュルティングから精霊が分離。転げ落ちて、それでもすぐに彼女は顔を上げ、主であるアスカへと忠告の言葉を紡ぐ。
《アスカ!それ硬いわ!!》
「はぁ!?」
モニカの声にアスカが気付いたときにはもう遅い。研ぎ澄まされた反射神経、それが襲い来る刃を迎え撃つ。
二本の剣が合わさる音。そして……
「モニカっ!!」
咄嗟に叫んだ私の声に、彼女が風を起こす。飛び散る刃の欠片からアスカを守らせた。
「……俺様の勝ちだな」
得物を振り上げにぃと笑うロイル。初勝利を喜ぶ彼の無邪気さと、地に膝をつくアスカの丸めた背中が対照的だった。
「……ダールシュルティング。…………親父の、剣が…………」
アスカはモニカを纏わせての戦闘に慣れていない。指先で感じる衝撃、それを彼女の風が和らげた。その所為で感覚に狂いが生じた。気付けなかったのだ。最初の一撃では。
(ロイルが、騙し討ちをするとは……)
そこに私は驚いた。今まで彼はそんなことはして来なかった。
最初に使っていた方が軽い方の得物レーウェ。ここでわざと遅く使うことがコツだ。それを自然にやってのけた彼の演技力は評価に値する。
そして次に重い方の得物グラーウェに入れ換える。そして、その重さを悟られぬよう、さも軽い剣を扱っているかのように応酬。そして武器の破壊に向かった。
「……ロイル、もう気が済んだでしょ?早くエルム君を追いかけないと」
「いっけね!!早くあいつ連れ戻さねぇと兄貴に俺の非常食が殺される!!」
「兄さんは結構面倒くさがりかつ意地汚いものね……私とエルム君いないと料理担当もいないし」
「…………何あれ」
リィナとロイルの会話にロセッタが呆れ気味に呟いた。
全く同感だが、二人が何時も通りに見えてその点だけは安心。そして……そんな何時も通りの陰で大切な得物を壊されてしまったアスカの姿が痛々しい。ロイルに文句を言う余裕すらない。見開かれた深緑色の目には、うっすらと涙さえ浮かんでみる。
「アスカ……」
ダールシュルティングは鞘に入れ替え刃を保存し柄をセットすることでそれを入れ換え引き抜く武器だ。今壊されたのは即死刀。まだ猛毒刀と鋼鉄刀があったはず。それでもアスカが一番愛用していたのは素早さ重視の即死刀。だからこそロイルもアスカがそれで来るのを読んでいた。
「………それはアスカの父様の形見だったんだな」
「……っ、ああ」
「なら、良いじゃないか」
「よくねぇよっ!!」
「それはお前の剣じゃない」
私の酷い言葉に、睨み付けてくる彼。それを諭すよう、私は告げる。それは父親の剣だ。譲り受けただけだと。
「これからお前の、お前のための剣を作ろう。柄も鞘もまだあるんだ。ダールシュルティングは死んではいない。折れたのはお前の心だけだ。過去に寄り掛かっているお前の心だけじゃないか」
「…………っ」
「私を守ってくれるのは、支えてくれるのはお前の父様じゃない。アスカだろう?」
「……ああ、……そうだ」
「剣は形だけじゃない。心だ。お前の心が折れない限り、お前が私を守ってくれるという意思は変わらないだろう?それならアスカ、お前の剣は本当に折れたのか?」
「…………ったく、折れるわけねぇだろうが」
敵わねぇなと彼は苦笑し立ち上がる。もう一度髪を撫でられた。それは私のためじゃなく、恐らく彼自身のため。仕方ないのでされるがままに撫でられた。
「はいはい。いちゃつくのはその辺にしときなさいよ。それでこの街どうするの?消火するにもこれどうしようもないわよ。そこの風の精霊、あんたどうにか出来ないの?それで第二島に恩でも売っとく?」
《あ、無理。私回復補助の方得意だから。やるなら私が力貸してアスカにやらせるしかないと思うけど、やったらやったでアスカの幸福値枯渇してカードとして弱体化すると思う》
「んじゃ、どうしようもないわね。どっちにしろ確かにあの女の言う通りよ。ここの連中助けても私らに得なことってないし」
「…………」
「火の海飛び込もうってんなら殴ってでも止めるわよ。諦めなさい。あんたも人間。出来ることと出来ないことが……」
燃える家々を見つめる私にロセッタが釘を刺す。彼女の言葉はいつも正しい。それでも……完全に納得は出来ない。
「それでもここで彼らを見捨てたら……混血だからと迫害する者と同じにならないか?」
確かにここの人々は罪を犯したかも知れない。それでも私が直接何かをされた訳じゃない。私はまだ何も知らない。そんな相手を、このまま見捨てて良いのだろうか?
「港はもう無理でも城下町はまだ間に合うかも知れない。急いで戻ろう!」
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!!そんな勝手な!!」
「リフル、乗れよ!こっちのが早い!」
すっかり立ち直ったらしいアスカが馬へと私を抱き上げる。ロセッタだけが不満そうに……
「馬っ鹿じゃないの!?」
そう叫きながら、それでも彼女も走り出す。
*
足の速いロセッタに城へと戻ってもらい、人手を集め城下町の消火活動、それから救出活動の支援と支持を第二公へと仰ぐ。
その間私とアスカはモニカの耳で息のある人を探し、燃える家々に入り込む。モニカの風の防御壁を纏っているから火と煙からは逃げられる。熱気で毒汗が出ないかだけが心配だったが、火傷しないだけでも幸運。汗なんかとてもじゃないがかけない。熱風に炙られている。それに耐えると言うのが現状だ。
「とりあえず、俺らだけじゃこの辺が限界だな」
二人で助けられたのは、十人程度。ロイル達の乱闘の時点で大分怪我人死人もいたらしく、そこに火の手が襲っては、間に合わない相手も多かった。それでも助けを求める呼吸音をモニカは一つ一つ拾っていった。
「ああ……」
「つか、悪人に限ってしぶといもんだな」
助けた人間の中には、あの宿屋の主人もいた。彼は私の目と髪を見、「混血なんかに」と呻き、すかさずアスカに殴られた。
なんなら見捨てるかとアスカから視線が向けられたがそれは却下。嫌がる男を無理矢理助け出した。
「何故……助けた?」
まだそれを屈辱と思っているのか、嗄れた声で問いかけてくる男。
「人を殺すのに理由が必要かとお前達は言うのかも知れないが、人を助けるのに理由が必要だとは思わないな」
「全くだぜ。助けるのに理由はないが、殺すのには理由が要るからな。今度こいつに舐めた口利きやがったら覚悟しとけよ」
「そういう意味じゃないのだが……」
私の言葉に続いて男を震え上がらせるアスカ。脅してどうする。呆れたところに、投げかけられる声。振り向けば赤毛の少女と、数人の男達。彼らは元捕虜の人達だろう。
「リフルっ!」
「ロセッタ!来てくれたのか!」
それにしては人数が少ない。そう思ったが彼らは素早く怪我人達を背負い、また城の方へと走り出す。
「慌ただしいな。どうしたんだ?」
「良いから!あんたらも走って!!アスカ、そこのお姫王子運ぶの任せたわよ!」
ロセッタに言われるがままのアスカに背負われ運ばれていく。私が走るよりその方が早いというのが悲しい。その間も、ロセッタはしきりに後ろを振り返る。その様子に違和感を覚えたのは皆がそうだが、最初にその正体に気付いたのはモニカだ。
《……もしかして》
火の燃え盛る音。それに紛れて聞こえる音があるとモニカが言う。
「城の最上階まで逃げるの!良いわね!」
詳しくはそこで話すとロセッタは言い、抱えた怪我人が呻くのも気にせず彼女は走る速度を上げた。
「……悪い。重かったか?」
「いや、重くはねぇけど。死ぬかと思った」
城の最上階。そこから街を見下ろして……ぜぇぜぇと息を吐くアスカの背を労るようにさすってやった。
城下町の火は消えている。消火と言うにそれはあまりに荒々しい。
「あいつら……壊したの港だけじゃなかったんだわ」
リィナとロイルが壊したのは、第二島南に位置する防波堤。そこから注意を逸らすために敢えて火を付けたのだ。
そして二人は、何処へ行くと言っていた?そうだ。そこで私は聞いた。エルムの名前を。
「…………ロセッタ、モニカ。精霊憑きと呼ばれる数術使いは、こんな事が出来るのか?」
「……不可能じゃないわ。唯こんな大技、命に関わる。一生でそう何度も出来るものじゃない」
《でも、こんなの無精霊クラスじゃないと無理だわ。あの時見たのは中精霊だったのに……どうして?》
「そこはカードの幸福値でなんとか補ったんだと思うわ。その子……こんな序盤でそんな使い方するなんて、馬鹿なの?迷いがなさ過ぎる」
(エルム……)
あの男に使われることが幸せ。その望みを叶えることが幸せ。例え命を削ってでも、喜ばれたいのだ。力になりたいのだ。それが、道具の気持ち。
ささやかな幸せだ。あの少年が望むのは。唯愛されたいだけだ。必要とされたいだけだ。そんな思いを利用して、あの男は、ヴァレスタは!!
「これが、本当に……お前の幸せなのか?」
「リフル……」
「わからない。わからないんだ!2年前の私なら、この景色に何を思っただろう!?もしアスカが同じ事を望んで、私が……私が……」
この景色を引き起こして。それに彼が喜んだなら、瑠璃椿は笑っただろうか?私は幸せですと微笑んだ?きっとそうだ。きっとそうした。アスカが殺せと言うなら私は殺す。誰でも、何人でも。これはそれと同じ事……
肩を震わせる私の耳に、静かに囁かれる声がある。すぐ傍で。私を見て彼は言う。
「……俺は命令しない。こんなこと」
「アスカ……」
「だからお前はこんな事はしない。あの時も、今も」
「………………はい、アスカ様」
つい、あの頃の言葉遣いが零れ出る。情けないな私は。さっき彼にあんなことを言ったばかりなのに。過去に囚われているのは余程私の方じゃないか。やっと支えられたと思ったのに、こうしてまた彼に支えられている。本当に、情けない。彼は泣きそうになっただけ。私に至っては泣いている。
それを彼はあの日のようにその手で拭う代わりに、私をぎゅっと抱き寄せる。泣くなじゃなくて、泣いて良い。そう言ってくれている。その優しさに、守られていると強く実感する。武器が壊れても、こうして彼は私を守ってくれている。
このまま何も聞こえないように抱きしめていてくれないだろうか。耳障りな水音が、波の音が、全てをなぎ倒すその音が、もう聞こえないように。
港町、城下町。第二島の繁華街はほぼ壊滅。エルムの引き起こした水の数術。それが街を飲み込んだ。城壁と堀を備えた堅牢な城だけが、この一帯に残された。