40:Non omne quod licet honestum est.
「気がつきましたか?」
「ここは……」
不意に聞こえたのは子供の声だ。辺りは薄暗いが、照明も一応ある。床に置かれた行灯の中でゆらゆらと炎が揺れる。その朧気な灯りに照らされた少女の姿。
長い黒髪、赤い瞳。タロック人の少女。2年前のロセッタを思いだして、息を呑んだが……よくよく見てみてば全く似ていない。それでも見覚えがあるのは、何故だろうか。
「……もしかして、エルムか?」
自分の口から零れた言葉に、リフルは肯定された気になった。口に出してしまってから、トーラの話にも変装した彼が出てきていたのに遅れて気がついた。
「…………何で、わかったんですか?」
しばらく黙っていた、その少女……いや少年が、根負けしたようにそんな言葉を口にする。
「そうだな、……なんとなく、雰囲気が」
「……片割れ殺しって、やっぱり、普通の混血とは違って……何かあるんじゃないですか?」
誰との比較だろう?不思議な言い方をするエルム。
「……君も、攫われてきたのか?」
「……まぁ、そんなところです」
そこで一度区切ってから、エルムは昨日の話をする。
「……この間は、お見苦しい所をお見せしてすみませんでした」
不可抗力とはいえ、ディジットを刺してしまったこと。彼も気に病んでいるのだろう。その気持ちを少しでも軽くしてやりたいと、口を吐いて出た言葉。
「ディジットは……先生が診てくれている。一命は取り留めたとのことだから、君が気に病むことはない」
「……そうですか」
だけどそんな言葉では、会話が長く続かない。妙な気まずさが二人の間を流れている。
謝りたいことは沢山ある。エルムを助けられなかったこと。力になれなかったこと。けれどそんな言葉を送ったら、今の彼を全否定してしまうことになる。
(今更、何だろうか?)
もう手遅れなんだろうか?彼を助けることは出来ないのか。不思議と彼を憎めないのは、昔の自分とその境遇が少し似ているから。
自分の過去は変わらない。救われることはない。それでも、同じような立場の人間の力になりたいと私は剣を手に取ったはずだった。その取りこぼし……指の間から転がり落ちた彼。手を伸ばす度に転がり落ちて、地面に叩き付けられる。それならば彼の背を見送るのが一番なのだろうか?
(……しかし、ここは何処なのだろう?)
薄暗い部屋。家具はそれなりに立派な物が配置されている。エルムが腰掛けていたのも、自分が横たわっていたのもその立派な家具の一つ。一人寝には過ぎた大きな天蓋寝台。
ここに来た経緯から考えて、ろくなことには使われていなそうだとぼんやり思う。
扉には鉄の格子が付いていて……外から閉じこめられている。見張りがいない以上、毒を用いた脱出は不可能。
「…………」
アスカかロセッタ、或いはこの建物の所有者来てくれるのを待つしかないのだろうか?
とりあえずエルムだけでも逃がしてやりたい。エルムが東側に身を置く人間とはいえ、顔見知りを見捨てる様なことは出来ない。
リィナ達がああ言っていたのは、余計な心配を掛けさせないため。彼方のことは彼方で解決しようと、関わりを持たせないようにエルムを連れてきていないと言ったのかもしれない。
何とかならないものだろうかと打開策を頭の中で何通りか練っていたリフルの背に、エルムから声が投げられた。
「…………お嬢様って、誰ですか?」
「え?」
「さっき、魘されていましたよ。リフルさん」
どうしてそこに興味を持ったのだろうか?疑問に思えば、エルムが目を伏せ答える。
「貴方から女の人の名前が出るなんて、ちょっと意外だなって」
「ああ……」
そういえばそうだ。
「君と会う時の私はいつもこんな恰好ばかりだな」
二年前はずっと女装、常時女装だった。影の遊技者に戻ったのは半年前。その頃もう彼はgimmickに攫われていた。思えば、男の恰好でエルムに会ったことは一度もない。今だってタロック人の女を演じている。そう思うと少し恥ずかしい。
こと彼に関しては、先日が二年ぶりの再会だ。ちゃんと話をするのはこれが二年ぶり。
「二年か……君は背が伸びたな」
「……リフルさんは、変わりませんね」
「まぁ、毒人間だからな」
自嘲気味に笑ってみせれば、彼も似たような笑みを浮かべる。
「でも、雰囲気が変わりました」
「そうか?」
「今の貴方は人間みたいです。アスカさんが最初にリフルさんを連れてきた時は……凄い精巧な人形でも持ってきたのかと思いましたから」
「そんなに当時の私は虚ろだったか?」
「はい」
「そ、そうか」
即答されて、少し俯く。そんな様子に、少年は小さく笑う。その様子に違和感を覚える。変わったのは彼も同じだ。いつもアルムの影になっていていた少年が、この薄暗い闇の中でも確かに自分という輪郭を描いているようだ。
「今は……前より、安心します。見ていても」
人間らしくなったと褒められている。でもいざそんなことを言葉にされると少し恥ずかしい。二年前の自分を思い返して。
「確かにな。あの頃の私は、狂人廃人一歩手前だったから」
「そうですか?……でも依存は凄かったですね、子供心に印象深いです。あの頃のリフルさんっていつもアスカさんにべったりで……言われるまでみんなリフルさんが女の人だと思ってましたよ。酒場じゃ、ようやくアスカさんに春が来たとか結局振られるとか賭けが……」
「そ、そんな賭けがあったのか。何だか申し訳ないな……」
未だに微妙というか、何とも言えない関係だし。そもそも賭けの大前提からして間違っている。
「でも、凄い一生懸命な人だと思いましたね。本当にアスカさんのこと大好きなんだなって」
「に、二年前は……アスカが私のご主人様だったからな」
「……“二年前”は?」
思わずそう発して、しまったなと思う。エルムの話術は巧みだ。結局話はそこへもどってしまうのだから。
「……私の話など聞いてもつまらないぞ?」
そう前置きはした。それでもエルムは聞く姿勢を崩さない。仕方ない。溜息一つ。そこで覚悟を決めた。
「…………私はアスカの前に何人かご主人様が居た」
彼は私に似ている。何か彼の助けになる、ヒントがそこにあればいい。それなら話す意味はあるかもしれない。
「トーラに拾われてからは、ろくでもない人間を店に誘って招いては、殺すのが仕事だったが……そうなる前に、私は別の屋敷に住んでいた。思い出したのは……アスカに出会ってからだが」
お嬢様の豹変と、お嬢様の死。それから屋敷の人間達の、血みどろの殺し合い。何が起こっているのかわからなくて、耐え切れなくて、無理矢理忘れようとした。
だから、気がついたときには、知らない屋敷の中でぼぅっとしていた。鉄の匂いに鼻が麻痺するくらいの赤の中。そこにやって来た鶸紅葉に助けられて、午前零時に連れて行かれた。そこで暗殺者になって、仕事と言われ何の躊躇いも抱かずに、人を殺していた。
「最初は、そうだな。アスカの馬鹿が仮死状態の私の棺を置き去りにしてな、セネトレアの路地裏で目覚めた私を拾ってくれたのが……お嬢様だ」
ここが何処か、自分が誰か解らない時に出会った。優しい笑顔と言葉と……差し出された手の温かさ。刷り込みと言われてしまえばそれまでなのかもしれない。けれどエルムがそれを否定することはなかった。
「……私はお嬢様のためなら、何でも出来ると思ったし、そうして来たつもりだった。だけど私の行いは、お嬢様を深く傷付けた」
エルムは何も答えず、固唾を呑んで耳を傾ける。続きを促すように。
「お嬢様は、少し我が儘で気が強いところはあったけれど、本当は普通の女の子だった。そんなお嬢様に……私は人殺しをさせてしまった」
「…………人、殺し……?」
「私の邪眼はいくつかの例外はあれど、老若男女構わず魅了するろくでもない目だ。屋敷の人間を狂わせたのは私の咎だ」
邪眼は欲のない子供と、それに通じるような精神を持つ者、それから同族である混血への効き目は弱い。本気で想う相手が居る者にもさほど効かない。
悲しいことにあの屋敷には本当の愛など無かった。だから多くの人間は邪眼に踊らされたのだ。
「……お嬢様が殺したのは旦那様。お嬢様を殺したのは……奥様だった」
それが夫への愛からの、行動だったらまだ……。でも奥様がお嬢様を殺めたのはそうじゃない。奥様は待っていたのだ。旦那様の部屋にお嬢様を向かわせたのもおそらく彼女。そこで私の、或いは彼女の思いを断ち切らせる。そうなれば、もう取引もない。お嬢様と旦那様の間の溝は埋まらない。私が旦那様に仕える理由もなくなる。漁夫の利で瑠璃椿は奥様の物になる。恐ろしい計画だ。
でももっと簡単な方法があることを、奥様に教えたのはお嬢様。ああ、こうすれば良かったのか。彼女は旦那様の死体を見て、きっと笑っていた。
「君の言うことは正しい。私は、女性を恐れているよ。だからそうだな……アスカと居るとほっとするのは確かだ」
トーラの好意は……ありがたいとは思うんだ。大切な仲間だとも思う。だけど、それでも恐ろしいと身構える心もある。いつも子供のような顔をしている、彼女の顔に表れる女の顔。そこに邪眼の狂気が灯ればどうなってしまうのか。混血だからという免罪符もどこまでいつまで通用するのか。
だから私は、リアに惹かれた。女らしさを感じさせない、我が道を行く彼女。私を男として認識することもなく、穏やかな時間をくれた。
どうにもならないから、安心していられたのに。どうにもならないことに、悲しいと思うなんて。馬鹿げている。人でもない癖に。毒人間が、人殺しが……まだ人間みたいな心を引き摺っているなんて。
虚しい恋だ。愚かな恋だ。絶対に好きになってくれない、相手を思っても。それは邪眼で人心を弄んできた私には、似合いの報いだったのだろう。お嬢様を、そしてリアを失った悲しみは、私がトーラにアスカに洛叉に……常に感じさせている痛みだ。
「何を考えているのか解らない。恐ろしさが女性にはある……彼女たちは時に手段を選ばない……その豹変、狂気が恐ろしい」
演じている。日々を女は。
常に考えている。企んでいる。それを実行しないだけで。完璧な笑顔を浮かべて、それでもやはり考えている。ふとした瞬間にその仮面を外されて、その素顔を企みを知る。
此方が勝手に抱いていたイメージとの乖離に衝撃を受け戸惑う。その隙を見逃さず奪いに来る。
男はもっとストレート。そこまで回りくどくない。その単純さには、一種の好感を覚えさえもする。自分に他人に言い訳をしているアスカだって、邪眼を食らっている以上考えていることは一つ。今の私と彼の関係は据え膳を見せびらかして、待てを命じている状態だ。万が一アスカや洛叉辺りとどうにかなってしまっても、考えるべきは毒の治療。死なせないことが最重要課題。心配は基本的にそこだけだ。向こうがどうかは知らないが、私は何があっても何食わぬ顔を続けられる。今更、取るに足らないことだ。
それでも相手が女なら、そうも言ってはいられない。混血のメカニズムがどうなっているかが解らない以上迂闊なことも出来ない。それは毒云々以前の話で。
トーラが欲しがっているのは、どちらかと言えば私の心。そのための手段なら、それこそどんな行為も厭わない。そうさせるのが邪眼だ。それでも彼女は踏みとどまっていてくれる。
アルムとエルムの一件もこれに似ている。エルムには邪眼などないが、甘言を吹き込まれたアルムは正常な判断が出来なくなった。違う、背中を押された。心が欲しい、そのための手段を教えられた。そしてそれに縋った。結果、エルムを傷付けた。
「私はずっとお嬢様を騙していた。知られることが恐ろしかった。軽蔑されるのが怖かった。それでもそんな薄汚い私を求めてくれる彼女が、本当に愛しいと心から思った……彼女が罪を犯しても、彼女への気持ちは変わらなかった」
「…………」
「でも万が一、お嬢様に見られたのが奥様との一件だったらと……思うと恐ろしいよ。おかしいだろう?普通なら、逆だろうと」
「そう……ですね」
「私と奥様が……君たち双子のようになっていたら、私もその場で首を吊っていただろうな」
最愛の人の前で、好きでもない女との愛の証を、動かざる証拠を突きつけられた彼の心を、思い図ることは出来ても、完全に理解はしてやれない。それでもそれが、どれ程苦しいことかは想像に難くない。
「勿論……君の気持ちがわかるとはそこまで自惚れられはしない。私は君のことを、多くは知らないから」
「…………」
「それでも私は、無条件でアルムの味方にもなれない」
「リフル……さん?」
驚いたように此方を見上げる偽りの赤い色。その色硝子の下で彼の星の瞳が瞬いた。初めてエルムと目が合った。そんな気がした。
「……ぞっとしたよ。年下の可愛いだけの女の子だと思っていた。あの子の心はもう……女の人になってしまっていたんだな」
可愛らしいのは、子供に見えるのは外見だけ。彼女の心は理解出来ない別のものへと変わってしまっていたのだ。
アルムの音声数術。無条件で彼女を好意的に受け止めさせる。邪眼に少し、似た力。でもそれ以上に使い勝手の良い力。彼女の音声数式は、好意を抱かせる。それは保護欲。盾を得る力。だからエルムも彼女を守った。それでも好意は、保護欲は……恋ではないのだ。それはアルムの望む気持ちでもなかった。だからこんな事になってしまった。
深く傷ついているこの少年を私は責められない。
「私は毒が無かったとしても、上手く深く女性とは接することは出来ないと思う。私は駄目な奴だから」
トラウマは沢山あるけれど、その中の最大のものを上げるならそれは女性の恐ろしさだ。
私の毒人間の基礎を築いたのは母様。毒への抗体を付けるため、だけど隠しきれない殺意を抱いて。愛されていた、憎まれていた。母さんは、女だった。娘であり母だった。少女であり女だった。女性とはその二面性の恐ろしさを抱えている。男は生まれて死ぬまで絶えず男であるけれど、女は違う。表と裏と、くるくると回り裏返る金貨。
洛叉から母様の話を聞かされた時、ぼんやりと思いだした記憶が一つだけあった。記憶は痛みを伴うものばかりが上澄みにある。掘り起こして思い出せるのは、その記憶の上澄み。
優しい記憶は水底へ沈んで思い出せない。子供の頃洛叉と過ごした時間は、未だに欠片も思い出せない。だけど痛みは強みに変わる。苦しさが痛さが脳に刻む。何度忘れてもその度に思い出せと迫り来る。“僕”は、母様が恐ろしい。アスカの語る母様との乖離に恐怖する。まるで聖女の様に彼は母様を崇めるけれど、僕の知るあの人は……もっと冷たい人だった。そんな彼女に縋って、見捨てられたくなくて……僕は毒を飲んだ。ちゃんと言うことを聞けば、いつか愛してくれると信じていた。そうして……一度、僕は死んだ。殺されたのだ。
「だから、彼の傍にいると安心するんだ。これは逃げかもしれないが」
「…………でも、アスカさんは……そんな簡単な人じゃないと思います」
「ああ……確かに」
彼が求めてくるものは、なんとなくだが旦那様のそれに似ている。たぶん、いくら捧げても満足はしない。歯止めが利かない。だから彼は始まりすらを犯さない。食い止める。いつまでも、たぶんそうやってこの目に抗う。
皮肉なことだ。従順な奴隷、瑠璃椿を終わらせた彼が……欲しているのは瑠璃椿。人間として生きている私じゃない。知っているんだ。時折彼はとても複雑な色の目をしている。
混血のこと、奴隷のこと、国のこと。広い大きなものに目を向けている私を、まるで憎んでいるよう彼は見ている。私の視線に気付けば、何食わぬ顔で笑うけど。
そういう彼の二面性、見ると悲しくなる。出会った頃の彼は……ここまで裏表の激しい人ではなかった。ここまで視野の狭い人でもなく、短絡的でもなかった。彼をそうさせてしまった自分を憎む。
「……でも、解るような気がするんだ。彼も男だからだろうか」
「そういうもの、でしょうか?」
隠された言葉、真意、その心。言葉に明文化されない。それでもその目、仕草……空気から、少しずつ読み取れるものはある。
彼の裏表。それがあるのは知っている。それでも怖くない。奥様の時みたいに、怖くない。
どんな顔を見せられても、気持ちは多分変わらない。お嬢様とかリアに抱いた気持ちとは違う。それでも、本当に大切なんだ。見損なわない。失望しない。軽蔑しない。何があっても変わらない。そういう好きなんだ。彼がどんな罪を犯しても、私は憎めない。許してしまう。馬鹿みたいにきっとそうなる。当たり前みたいに、そう思える。信じて疑わない。そんな風に思える人だ。だからこんなに好きなんだ。
「だから、怖くはない。彼が話してくれないことなら、私が探していく。解り合えるような気がする、今より……ずっと」
「でも、上手く行かないかもしれませんよ?…………貴方はアスカさんが最近おかしくなったみたいな言い方しますけど、もっと前からあの人は変でした」
「そうか?」
「はい。二年前だって、貴方を見る目は尋常じゃなかった。あの人が貴方に抱く好意は異常です。……ディジットを見る目と全然違う。何を探しているのか知りませんけど、貴方を探るような目をしていました」
客観的な立場から二年前を物語る少年。彼から自分たちはそんな風に見えていたのか。
「……私を、探る?」
「アスカさんがリフルさんを見つける前だってそうです。リフルさんが行方不明になった時みたいに、いつも何かに追われるようで。余裕がある振りをしながら、その裏で追い立てられるように焦って全てに苛立っているみたいでした」
「…………そう、なのか?」
自分よりも深く、彼の裏側を知ったようなその口ぶり。彼の観察眼に驚いた。離れた場所からの方がよく見えることもあるのだと教えられる。
「アスカさん、本当に貴方の騎士なんですか?」
「え……?」
質問の意味が分からず疑問符を浮かべれば、エルムは違う言い方をする。
「本当にそれだけなんですか?」
「どういう、ことだ?」
それでもまだわからない。そんな私に彼は少し困り顔。
「アスカさん自身は僕にも優しくて、いい人でした。だから……こんなことあまり言いたくありませんけど、……僕はあの人から、姉さんと同じ匂いを感じます」
「アスカとアルムが……?」
「はい。普通人は……何の理由もなく、あんなに人に固執しません。彼の好意には裏付けされた何かがあります。そういう好意は……放って置いて、ろくな結果になりません。僕らみたいに」
そう言われて、脅えるべきなのだろうか?わからない。しかし私の口には笑みが浮かんでいた。それを訝しむエルム。
「…………ありがとう。君は本当に優しい子だな」
「は?」
「いや、だって一応私は君の主の敵だろう?そんな相手の心配までしてくれなくてもいいんだ」
「…………別に俺は特別、貴方が嫌いなわけじゃありませんから」
少しだけ照れたように、ふて腐れたようなその言い方。エルムの口から俺なんて言葉を聞くのは初めてだったが、何となくその言葉一つに少しだけ距離が縮まったような、そんな気がする。
「リフルさんは、あいつとは全然違う。もっと違う時に……貴方に出会えていれば僕はたぶん、今よりはマシな人間になれていたんだと思います」
「そうか、ありがとう」
それでもその言葉は、もう遅いのだと釘を打つ。もはや手遅れだと物語る。
「あいつ、本当に最低で。全然優しくもないし、酷いことばっかり言う。リィナさんの兄妹だなんて思えないくらいで……」
「うん……」
「でも……俺は、あいつから離れられないんです」
「そうか」
「あいつは……俺を拾ってくれて。俺に理由をくれた。居場所をくれた。その居場所がどんなに薄汚れていても、どす黒い血の色で染められていても……俺はあの場所から離れられない」
エルムは泣いていた。手を伸ばしても、拒まれなかった。今はまだ私より小さな身体をぎゅっと抱き締める。彼の主がそうしてあげないなら、今だけは彼の泣き場所になりたかった。ディジットの代わりでもいい。ディジットの前でも泣けない彼だ。泣いたからって何も変わりはしないけど、それでも今はこうしていたかった。
「あいつは本当、……悪い奴だって知ってても。それだけ……だと、思えないんです」
「……うん」
「血も涙もない鬼だ悪魔だって思ってたのに……あいつもやっぱり人間で。強いけど……強くないんです。だから人を傷付けるし自分勝手で傲慢で」
「だけどそんな男が君の……慕うご主人様なんだな」
手袋越しに彼の頭を撫でてやる。
「はい……」
「そうか。それなら私は……もう余計なことは考えない」
「え?」
「君を君の大好きなご主人様の下へ帰す。なんとか上手く出し抜くから、君は逃げるんだ」
「でも……」
「大丈夫。私は天下の殺人鬼だ」
表情を曇らせるエルムに笑いかけるが、彼の表情は変わらない。
「そうじゃなくて……いいんですか?僕はあいつの、ヴァレスタの……貴方の敵の奴隷です」
「君の優しさへのお礼だよ。今日は私も君を敵だと思えない」
甘いと言われればそれまで。野放しにすれば敵になる。エルムはカードだ。私なら殺せるカードだ。ここで殺せば、ディジットのように誰かが傷つくことはない。それでも……ディジットだって、そんなことは望んでいない。
「君が敵として現れた時は、私も覚悟を決める。私も守りたいものがあるから、その時は全力で行く」
「……」
「だけど、それは今じゃない。私は君を殺すためにここへ来たのではないのだから」
そう微笑めば、彼が泣きついていた胸から顔を上げる。口の形が“あ”に変わる。お礼でも口にするのかと思えば……
「アスカさんのこと……リフルさんは、どう思っているんですか?」
と来た。これには私も固まり苦笑い。
「な……何故いきなり話が其方へ飛ぶ?君もなかなか突拍子のない子だな」
しかしそこからは、エルム自身自分の主との距離感とその心に悩みを持っているようにも見える。その参考までに他の主従関係の話を聞きたかったのかもしれない。傷つきやすく、悩める少年の力にはなりたいと思う。しかしそんなことを突然聞かれても……返答に困る。私と彼の関係は、一言で言い表せるようなものでもないからだ。
「そうだな……よくわからない、と言うのが一番正直な感想かもしれない」
「よく……わからない?」
「そうだな、誰だってある程度以上真摯に心を捧げられればそう無下にも出来なくなる。相手がどんな人間であったとしてもだ。だから君のご主人様を変えたのは君なんじゃないか?」
混血嫌いのヴァレスタがエルムを殺さず傍に置くのは、何か理由がある。そこに関わっているのはエルム自身なのだと思う。
「彼は確かに邪眼に狂っている。だけど私はこの毒で、彼を殺したくない。……それ以外の道があるなら、どうなっても構わないとも思う。私にそう思わせてくれたのは……やっぱりアスカなんだよ」
いつか彼が暴走したら、それを止める。受け止める。だけど死なせはしない、絶対に。守ってみせる。
「おかしいとは思う。大切なのは確かでも、好きの意味が違うのは知っているんだ」
でも彼を狂わせたのは私の目だ。だから責任を取れと言われたら言い返せない。仕方ないかなとも思う。
「憎めないんだ。多分何があっても嫌いになれない。私がアスカを呪う日は絶対に来ない」
二年前、彼に仕えた日から……その優しさに触れてから、私の心の一部は既に、彼のもの。彼は……お嬢様を失って、記憶も無くして、存在理由も存在意義も無くして彷徨っていた私に名前をくれた人。本当に、私は刷り込みに弱い。だけど慕う心に嘘は吐けない。
「奴隷の悲しい性だな。お前は人間だと言われても……まだ私は今でも、どこか……彼の道具のつもりでいるんだ。そしてそれを嫌だとも思わない」
「……だからエルム、君が君の主を慕う気持ちはなんとなく、私も解るんだ」
「俺は別に……あんな奴……」
「二年前の私は、今の君だ。私はアスカがどんな男でおそらく慕ったよ。あいつがどんな最低の男で、おそらく嫌いにはなれない。どんな酷い命令を下されたとしても、あの日の私なら喜んで従っただろう」
「……怖く、無いんですか?」
突然、エルムが小さく呟いた。一つだけ納得できない様子で。
「怖い?」
「……ああそうだな、確かに怖いよ。もし、私の毒で彼を死なせてしまったらと思うと」
「……え?そこなんですか?」
「それ以外に何があるんだ?」
「な……何って……」
「相手はあのアスカだぞ?」
何を恐れることがあるだろう。そう言ったが、エルムは否定的。
「十分怖いと思いますけど……」
「他人の死より恐ろしいことなど……私にはないよ。もう十分、いろいろなものを無くしてきたが、あれだけはまだ慣れない」
私が苦笑すれば、エルムは黙り込む。この子は大人びているけれど、やはり子供だ。恐ろしいことが山のようにある。あれもこれも恐ろしいと、身動きが取れなくなっている。
「迷うなら、たった一つを選ぶといい」
「一つを?」
「ああ。優先順位第一位。それ以外はみんな捨ててしまえばいい。そうすれば失うものも多いが……本当に大事なものを見失わずにいられる」
「本当に……大事なもの」
「そうやって生きてみて、後悔したのなら……またそこで悩めばいい。歩き方を変えてみればいい」
「…………」
「皆好き勝手に生きている。何も君だけ何かに縛られて生きることはない。心のままに思った通り生きてくれればいい。私が混血と奴隷に望むのはそういうことだ。君がヴァレスタの傍にいたいと言うのなら、私は君を連れ去る権利はない。君の自由だ。君は人間だからな」
「リフルさん……」
「君の選択を祝福するよ。せめて今日くらいは」
そこまで言えば、やっと彼が微笑んだ。小さくありがとうと口にする。
何かを言い返そうとして……そこで物音に気付く。カツンカツンと、遠くから近寄ってくる足音。
「……隠れろエルム!そこの寝台の下にでも」
無理矢理彼を寝台の下に押し込んで、シーツを垂らして隠してやった。
その直後に、扉が鳴り……開けられた。現れたのは一人の男。黒髪黒目のタロック人。その色は灰色に近い。
「今日の女は……なるほど、これは確かに上物だ」
もう一匹捕らえたと聞いた気もするが気のせいだったかと、男は頷く。
「……何のつもりですか?ここは一体……?」
「喜べ娘。お前をこの俺の妃にしてやろう」
問いには答えず男が肩を掴んだ。
「…………ん?これは……」
「私の顔に何か?」
「まさか、女王陛下!?これはとんだご無礼を!!」
間近で顔を見て、突然慌てふためく男。その物言いはまるで、私を異母姉様と間違えているようだ。
「くくく……妾をこんな薄汚い部屋に閉じこめるなど、良い度胸だな美男。其方は余程処刑されたいと見える。なるほどのぅ……世に言うこれがMという奴か」
我ながら上手く姉様を演じられている気がする。一度会っただけにしてはなかなかの名演技だと思う。
「し、しかし女王様。何故貴女様がグメーノリアになど?」
「ふむ……妙な胸騒ぎがしてな。妾の勘を見くびるでないぞ?」
「も、申し訳ありません!!」
「して?其方は何を企んでおる?夜な夜なタロック女を攫うわ、カーネフェリー男を殺すわ。なんと勿体ないことを。美男は世の宝ぞ!貴重な金髪美男を減らしてどうする痴れ者が!」
あ、何か姉様が言いそうなこと言えてる。凄く、それっぽい。
「……其方もなかなかの美男故、訳が訳なら免罪も考えてやろうぞ。して申せ」
「……初めは父の、先代グメノリア公が始めたことです」
「先代?」
確かに前情報だと第2公はもう少し歳の行っている男だと聞いていた。しかし目の前の青年はまだ年若い。グメーノリア公の訃報も聞かない。しかしこの男は先代と言った。
「ええ。父は先日亡くなりました」
それは悲しみの色も感じさせない、薄情な響きだった。本当に親子なのだろうか?
「父は貴女の……刹那姫様の大ファンでした」
「……ふむ」
「貴女の結婚を苦に、父は貴女のような若く美しい妻を迎えると言って聞かなかったのです」
「しかし、その言い方では其方は公爵の息子という風に聞こえるが?それでは公爵に妻は居ったのだろう?」
「……お忘れですか?女王様」
男がより一層顔を近づける。耳元で囁いてくる。その声にぞわと鳥毛立つ。
「母を殺したのは、貴女じゃありませんか?」
「え……?」
「タロックまで求婚に行った父に貴女は、妻帯者が求婚に来るなど片腹痛いと言って妻を殺してその首を持ってくれば考えても良いと言ったでしょう?」
身に覚えのない話。つい言葉に迷う。その一瞬の隙を突いて、男は私を寝台に突き飛ばす。
「……な、何を!」
「その反応からすると、お前は女王ではないな」
起き上がろうとするが、馬乗りで両手を押さえられてしまった。こうなったら毒に頼るしかないが、情報を聞き出すまでは迂闊には殺せない。暴れたら汗毒が出る。大人しくするしかないだろう。
抵抗を止めた私に、男はやはりと頷く。
「あの女ならこんなに真面目に人の話など聞くまい。“求婚者?掃いて捨てるほどいたから覚えておらん”と高笑いするのが正解だ。最近城には姫の影武者が雇われたと言う。さてはお前はその影武者だな?」
(影武者……?姉様の?)
そんな者までいたのか。城の情報が外に漏れることは少ない。この男はなかなかの情報網を持っているらしい。
「……何故、このようなことを?」
「聞いてどうする?」
「聞いてから考える」
「なるほど、時間稼ぎか。まぁ夜は長い。一つぐらい伽をしてやるのも良いだろう」
勝ち誇った顔で、男は語り出す。強者の余裕と言ったところか。
「俺と弟は賭けをしていてな。父の後を次ぐにはこの一年でこの島により多く貢献した者が勝ちという賭けだ」
「島に……貢献?」
「より多くの混血を殺す。混血の芽を摘む。その数を競っているんだ」
混血の芽。それはつまり、カーネフェル人とタロック人の恋人。その交わりを禁じることで、純血至上主義を貫くということか。混血など生ませて堪るかと。混血憎しが暴走して、純血まで手にかけ始めた。
こいつらの主張だと混血は人間ではないから殺しても構わないという話だったが、純血にまで手を掛けているのだから言い逃れは出来ない。させない。許さない。
「良かったな女。もしお前が金髪族などと交わろうものなら、その腹裂いて赤子ごと殺してやっていたところだ」
「なるほど……何処の島にも救いようのない人間はいるものだな」
「何!?」
「……それには俺も同意します」
寝台の下から這い出してきたエルムが、男の背後を取った。ゆらゆらと重なる影が、彼から乖離して、輝く数字の群れが現れ……それは彼の片手に集まり形を為していく。
赤い瞳と、黒い髪。視覚数術ではない。でも何かの数式だ。それを解除して彼は、別の式を汲み上げたのだ。
そこから現れるは深紅の髪に桜色のスターガーネットの瞳。二年前より髪の伸びた小綺麗な少年の姿。
振り返る男は、エルムの姿に驚愕。
「だけど殺した方がいい奴は、沢山いますけど」
男が何かを発する前に、エルムはその手で男の背中に触れる。
「殺れ、クレプシドラ」
瞬間、感じる冷気。男心臓を貫く一撃。氷の刃。血は流れない。空中に止まったまま。傷口から赤い氷の花が咲き、血を縫い止める。
男が傾いで倒れて床へ落ち、赤い氷の彫像が割れて、男の胸から血が噴き出した。
「え、……エルム?」
「こいつには半年前、借りがあったんです。休暇ついでに、返して来いとあいつに命令されました」
攫われてきたんじゃない。殺すためにわざと……捕まりに来たのだこの子は。
「行きすぎた純血至上主義には、あいつも手を焼いていました。味方が味方と限らないのがこの国の厄介なところですよね」
エルムが溜息を吐く。そんな顔は先程までと何も変わらないように思うのに……彼も変わってしまったのだ。躊躇いなく人を殺められる人間になってしまった。
「ああ、あとあいつの言っていたこと嘘ですよ?」
「え?」
言葉を失っている、私に彼が投げかける声。
「刹那姫に求婚に行ったのはこの男で、その言葉に乗せられて婚約者殺したのがこいつです。それでむしゃくしゃして混血狩りを始めた阿呆です。前に東でも暴れたことがあり今日はその落とし前を付けさせに来ました」
ストレス解消目的で東裏街を荒らされては困ると、ヴァレスタが不満を口にしていたらしい。それでも相手は公爵の縁者だ。迂闊には始末できない。
「…………つまり君たちは、私達が今日この島に来ることを……知っていたと言うことだな?」
「……死神商会の頭は時々、お茶をたかりに来ますから」
「……まったく、大した物だ」
恐ろしい子供だ。見事なまでの公私切り換え、そしてその混同。私用で得た情報を、なんら躊躇いなく仕事に用いる。
先程の涙もお礼の言葉も嘘だとは思わない。それでもそれはそれ、これはこれ。切り替えの早さ。アドバイスなんかしなくても、この少年はもう選んでしまっているじゃないか。本当に……今更なんだなとそれを理解した。
「それじゃあ、俺はこれで」
血濡れた片手を振ってエルムが部屋を出て行く。その背中を呼び止める、言葉が今の私にはなかった。




