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29:De duobus malis minus est semper eligendum.

 「馬鹿娘が……血迷ったか?」


 備え付けの食器ではなく、その様子の違う器を取り出した私を見て、男は目を見開いた。


 「あら?耄碌爺が何を言っているのかはわからないけど、私はこれでもかってくらいに正気よ?」

 「お前は確か俺にフルコース勝負を申し込んだのではなかったか?」

 「そうよ?」

 「お前は馬鹿か!?フルコースの種目全てをタロック料理にするとは狂気の沙汰だ!」

 「それを決めるのは、あんたでも私でもなくて審査員って話でしょ?」


 ディジットは絶句している父親に向かって胸を張る。出出しは好調。頑固爺の精神に揺さぶりを掛ける一手を打てたのはまず間違いない。

 カーネフェリーとシャトランジーという二カ国の金髪人種をまとめてカーネフェル人と言っている以上、カーネフェル料理と言えばその両方を含むことになる。しかし厳密にカーネフェル料理と言えばカーネフェルという国の郷土料理の色が強い。カーネフェルの都の方では貴族達がそれなりに美食を極めているらしいが、それは平和呆けで暇を持て余した格式高いシャトランジア貴族が作らせたシャトランジア料理が伝来したもの。フルコースと言えば庶民的なカーネフェル料理ではなくシャトランジア料理を指すのが料理人の中では常識だ。

 つまり当然この男は、ディジットがシャトランジア料理で挑んでくると思い込んでいた。


(その先入観が甘いのよ、耄碌偏見糞爺!)


 買い出しをタロック人のフォースと洛叉に頼んだのはこのため。トーラに頼んで蒼薔薇から店に置いてきていたものを取ってきてもらったのもそのため。

 同じ土俵で勝てないなら、違う土俵へと逃げる。料理は料理、格式だの気品だのそういうところで勝負はしない。勝てる土台まで場の流れを持っていく。

 負けられない勝負に正々堂々なんて言葉はない。勿論料理以外での卑怯は行わない。それでも料理という枠内ではどんな小狡い手だって私は使う。


(まったく、あいつの変なところが私にも移って来ちゃったわね……)


 居候のあの男。アスカは幼なじみというか私にとってはだらしない兄のようなものだった。そんな身近なあの男は、何時も適当でだらけていていつもやる気がなく本気を出さない。それで卑怯なことばかりを繰り返す。それでもここぞと言う時は絶対に何かをしてくれる。そういう所だけはこっそり評価をしていた。いや、だから頼っていたところもあったのだろう。支えられてもいた。それはあの男が、私に対する負い目を感じていたからなんだろう。

 この男は……私の父親は、あの男を本当に可愛がった。私への当てつけのように。どこぞの馬の骨の所へ嫁に行く薄情者の娘なんかより、傍で自分を支えて跡を継いでくれる息子の方がずっと良かった。娘なんか要らなかった。そういう態度で。

 だからアスカは私に優しくしてくれた。それにいつも私を助けてくれたのだ。


(でも、それじゃあ駄目)


 私はもう、兄離れをしなければならない時期だ。アスカは私を重荷に感じ始めている。本当にやりたいことは見えている癖に、義理か何かか知らないけれど私が枷になっている。

 本当に守りたいのは、一番大事なのは私では無いんでしょう?それなら迷わず突っ走れ。それで短い人生なっても、犬死にしても貴方はそれで満足なんでしょう?あの子から離れて適当に落ち着いてズルズルと平穏を貪って……そうやって長生きしても、貴方は死んでいるのと同じなんでしょう?見ていればわかるわ。ずっとそうやって死んだ目をしていた貴方が、生き返ったのは、2年前……あの子を見つけてからじゃない。

 だから長らく彼の妹だった私に出来る最初で最後の兄孝行。その背中を押してやるのが私の役目なんだと思う。

 私がこうしてここで戦うことは、あの男へと……そしてあの子への恩返しなのだ。リフルは数日親しんだ程度の私とアルムを助けてくれた。私が騙したことだって、咎めることもなく……エルムの情報が入ったらすぐに連絡するとまで言ってくれた。

 どうしてそこまで優しいの?咎められないと言うことは、私にとってとても苦痛だった。いっそ責めて詰ってくれていい。それでも彼はそうしない。だから私は開き直ることも出来ずに罪悪感を何時までも抱えていた。その彼の力になれるのなら、私はもう迷わない。


(負けるもんかっ……絶対に!)


 ここで負けたら私は後悔するわ。これからの余生をそう、ずっと。


 「………………どうやら、本気のようだな」


 本気でこんな馬鹿をやるとは信じられないと、男は呆れたように小さく笑う。


 「で?そっちの審査役はまだ来ないの?不戦勝っていうのはあんまり私の趣味じゃないわよ」


 此方の審査員はもう机についている。料理もお互いにもう完成した。後は残る三人、向こう側の審査員の登場を待つばかり。


(大丈夫……信じよう)


 この策は何も自分1人で考え出したものではない。周りの人々を見ていて与えられた策なのだ。

 セネトレアでの純血至上主義者の大半はタロック人。そして彼らは真純血などではありえない混血のタロック人。

 セネトレアで混血迫害が広まったのは、元々彼らが真純血へのコンプレックスを抱えていたから。それは混血への差別意識は劣等感から来るものや、或いは迫害や偏見差別の目を自分たちから其方へシフトさせようという目論見。

 それは料理においても同じ。この男が連れてくる審査員全員がカーネフェル人と言うことは確率的にあり得ない。混血狩りの組織の中で、カーネフェリーであるこの男はやや浮いた存在なのだ。だからこそ……一度のミスで殺されかけた。信頼されていなかったのだ。仲間からも。

 自分を失脚させたアルムと再会した以上、今度こそ目にものを見せてやろうと思ったのだろうけれど、そうはさせない。


(この子は、私が守るんだから)


 私がきっと完敗させて、もう手出しをしようという気持ちを根刮ぎ取り払ってやる。それが西裏町とリフル達のためにもなるんだから、勝たない理由は一つもない。


(……でも腐っても流石は私の親父ってことね。いい根性してるわ本当に)


 睨み付けた先で、男は私を鼻で笑った。そろそろ精神的ショックからも立ち直ってきたのか、何とも不貞不貞しい男だ。


 「……何、時間にうるさいお方だ。遅れるということはまずないだろう」

 「へぇ、そうなの?」

 「小娘の料理など、予定以上の時間を割く価値がないとは思っておるかもしれんがな」

 「嫌だわ、味と食材の良さに定評のある若い娘の手料理を食べたがらない男が居るなんて世も末ね。おまけにそれを無料で食べられるっていうのにそんな事をうだうだ言っているんじゃ、完全にあれなんじゃないの?」

 「ほぅ……あれとは何だ?」

 「嫌ねぇ、乙女の口から言わせるなんて全く最低な男もいたものだわ。にしても困ったわ。審査員が男気溢れる漢の手料理派だったなんて」

 「お、おい馬鹿娘っ!お前は何と言うことをっ……」

 「え?」


 口論していた相手が、何やら突然青ざめている。言われてみれば声の質が違っていた。聞こえる方向も……後ろというかそれは扉の方だった。


 「つくづく貴様とは縁があるな」


 黒髪と見事に染まった赤い瞳のその男。殺人鬼Suitと相打ちになり、半年前から行方知れず……表向きは死んだと言うことになっていた何かと私達と縁のある請負組織gimmickが頭。


 「…………生きてたのね、ヴァレスタ」


 同じく行方死れずのリィナの身内だからと言って、手加減してやることはない。この男とディジットにも浅からぬ因縁がある。

 ここにいたのが自分で良かった。そう思う。もしここにアスカがいたら、もう料理勝負なんて話は吹っ飛んでいた。可愛いご主人様にあんな大怪我させた人間、あの男が許すわけがない。冷静な判断も下せるはずがない。


(大丈夫。私は……私は大丈夫)


 審査員が誰であれ、やることは変わらない。それを自分に言い聞かせ確かめて……ディジットは顔を上げる。


 「私の料理の腕が気になるってことなら歓迎するわよ。あんたの部下には食べさせてやったことはあるけど、あんたには食べさせてあげたことないものね。ただしお金持ちのヴァレスタ様からは累進課金ってことでぼったくらせてもらうかしら」

 「この俺が時間を費やしてやるんだ。中途半端な物を食べさせてみろ。貴様ら全員パーツ小分けで明日からのセネトレア市場に並ぶと思え」

 「あっそう。それは兎も角セネトレア中に中年親父好きのBL野郎の薔薇要員だって吹聴されたくなかったら審査には私情を挟まずしっかり審議することね!」

 「戯れ言を」

 「あ、間違いだったわ。不正でも発覚したら知り合いの情報屋に頼んで世界中に発信させて貰うから、そこんとこよろしく。うちの数術使い様はほんと凄いわよー」

 「リィナ然り貴様然り……カーネフェル女はろくな奴がいないな」

 「げ、あんた混血派?なるほど。だからこの子を狙ったのね。でもうちの子はあんたなんかにあげないわよ!」

 「誰が要るかそんな小娘」

 「小娘の良さがわからないなんて、あんた呉々も夜道に気をつけなさいよ。刺されるわよあんた、今全世界のロリコンを敵に回したんだから……………っていうかあんたが連れている子だってこの子とそんなに変わらないじゃない」


 今ここにいないが会話を聞いているだろう洛叉を本格的に敵に回すような発言をするヴァレスタ。それでもそういうこの奴隷商だって幼い少女を連れている。


 「喧しい。混血風情と真純血を一緒にするな。見ろこの鮮やかな赤……その紛い物の星紅娘とは大違いだろう?」


 奴隷商は、含みありげに赤目の少女の頭を撫でる。光の加減で紫がかった黒髪は、確かに綺麗な色だった。しかし撫でられている少女はそれに不満そうに彼を睨み付けていた……が何も発さず口を閉ざす。一瞬此方に向けられた、少女の視線が悲しげに映ったことがディジットには印象的だった。


(……どうしたのかしら、あの子……?)


 考え込んだディジットを一瞥、ディジットにはもう用はないと言わんばかりに視線をエリザベスへと移した奴隷商。


 「…………そして何故お前がここにいる?」

 「きゃ、ヴァレスタ様!何日かぶり!」


 睨み付けられて、それでも屈せず頬に手を当て顔を赤らめるような仕草を図るエリザベス。

 そんなことで誤魔化されんぞと眼光を鋭くする雇用主に、小さく彼女は舌打ちをする。本当に強かだこの子……凄いわ。


 「そんなことはどうでもいい。それで何故お前がここにいる?昨日組織で食事が出なかったというのはこの所為だったのか!?外食出前代も馬鹿にならないのだぞ!?」

 「えー、ちょっと好みの男の子見かけてー、口説いてこの店紹介したらここの爺ったら私まで縛るんだもん。しかも無料でっ!こんな可愛い子縛るんなら出すものさっさと出しなさいよって本当苛っとして。ていうかついでに言わせていただきますけどもう一年くらい働いてますけど私の給料鐚一文も上がらないのも苛々してました!ってなわけで私今日はこっちです」


 元々この奴隷商の手下として働いていたこの少女は、ちゃっかりその雇い主の敵側審査席で手なんか振っている。この子もなかなか良い根性をしていると感心せざるを得なかった。「これだから金髪女は」と吐き捨てた奴隷商。こればっかりはディジットもヴァレスタを同情してやらないこともない。


 「そう言えば、審査員って三人ずつでしょ?そっちのあと1人は?」

 「言われてみれば残飯毒味係がいないな」


 問いかけるディジットに、奴隷商はそんな言葉を吐き捨てた。やっぱり前言撤回だ。少しも同情してやる余地はない。


 「ざ、残飯ですって!?」

 「どんなものが出されるとも知れん。当然だろう?」


 つかつかと扉へと歩み寄り、そこを開けて最後の1人を彼は呼ぶ。


 「何処へ行った埃沙!さっさと来い!」

 「あ……埃沙ですって!?」


 その名前に青ざめなかったのは、その場でフォース1人だけだった。奴隷商に呼ばれて数秒、現れた少女はうっとりとした表情で笑みを浮かべていた。


 「まったく……何処で道草食っていた?」

 「……間食」


 会話として噛み合っていないようで噛み合っている奴隷商と奴隷少女の会話にディジットの頬に冷や汗が浮かんだ。そんな場の空気とディジットの顔色を見てフォースが心配そうな視線を送って来る。


 「ディジット?」

 「な、何でもないわ」


 埃沙。この少女にはあまり良い思い出がない。

 それでもここで弱気になるわけにも行かないと、自分を奮い立たせようと息を吸う。それでもまだ身体が震える。いや、違う……


 「アルム……?」


 震えているのは自分ではない。自分にしがみついて来ていたアルムだ。


 「どうかしたの?」


 尋ねてもアルムは何も言わない。それでも解る。あの男だ。ヴァレスタにはアルムも酷い目に遭わされてきた。アルムの中であの男は大きなトラウマになっているのだろう。


 「大丈夫よ、私がいるじゃない」


 何があっても守ってあげるから。そう微笑んで小さな彼女を抱き締める。

 そう、私はもうアスカの妹じゃない。あの男の娘でもない。私はこの子の姉。そしてこの子の母なんだ。


 *


 その訪問者が現れたのは突然だった。


 「久しぶり、洛叉兄さん」


 その声に屋根の下……室内のトーラの気配が消えるのを洛叉は悟る。優秀な数術使いはまず自身の存在を悟らせないことが重要らしいとそこから察した。なるほどそれは一理ある。相手方に敵の数を正しく認識させないことは、大きな隙を生み出す好機となろう。


(おまけに今回は俺という餌もあることだしな)


 確かに俺に気付いたなら、これは他に何も見えなくなるだろう。先読み対象の照準にされている可能性は大いにあり得る。だからこそ洛叉はリフルから距離を取っていた。自分と彼が一緒なら、埃沙が危害を加えるのは彼になる。それは何としても避けなければならないことだ。

 向かいの店に現れた二人を見て、下に尋ねに行こうとした瞬間だった……。屋根の上飛び上がってきたのは青い髪に水晶の瞳の少女。

 此方に向けられた視線は病に冒されている。その病は死の間際まで彼女を蝕む毒である。しかしその治療薬はない。適当な言葉と態度で中途半端に彼女の想いに応えても、それは彼女のためにならない。それは以前のことで学んだはずだ。

 一応はトーラに気配を悟らせないような数式を組み込んだ道具を渡されてはいた。

 一度組み立てられた式が綻ぶことはない。綻ぶことがあるとすれば式の計算途中だけ。トーラの負担が増し、集中力が乱れたとしてももう完成されている式に影響を及ぼすことはない。つまり埃沙が洛叉を察知したのは数式が破れたからではない。まだ式は見えている。


(……なるほどな)


 以前は絡繰りが解らなかった埃沙の数術。それも今となっては簡単な式。答えが今の洛叉には見えている。此方を見つめる異母妹の視線は熱っぽい。そんな視線を注がれても、溜息しか出せない自分は我ながら自分は酷い兄だと思う。そして薄情者だ。


 「何の用だ?」


 冷たい視線で突き放しても、異母妹はうっとりとした視線を持って応える。


 「取引をしに来たの」

 「……取引だと?」


 埃沙の登場で、店に現れた人間の一人は予想が付いた。それでもそれを決定づけたのは続く埃沙のその言葉。


 「私はヴァレスタの奴隷だから、彼の命令には従う。だけど私は兄さんの妹。兄さんにお願いされたなら、私はあの女に票を入れても良い」


 例えどんな料理を出されたとしても、主の命令通りの票を入れる。その前提で埃沙はこの話をしに来ていた。


 「それで?その条件はなんだ」

 「今ここで私に口付けてくれればいい」

 「それだけか」

 「ええ、それだけよ」


 美味しい話でしょと埃沙が微笑む。

 確かにそれは美味しい。それだけで一票が確実なものとなるのなら。万が一ならなかったとしても、そう別に減るものでもないそれくらい。

 仮にそれをあの人に知られたとしても、それであの人の俺を見る目が変わるわけでもない。あの人は、そう言う人だ。それどころか自分の所為だと追い詰めて、引け目を感じ始めるかもしれない。それはそれで俺にとっては美味しい話でもある。


 「でも、兄さんはそれを裏切りだと思ってしまうわ」


 埃沙がくすくすと洛叉の心を見透かし笑う。見透かすなどというものではない。それは予言。まだ洛叉が至らない答えを彼女は照らす。

 別に恋人でも愛人でもない。彼と自分の関係は唯の主と唯の部下だ。そう、だからこそ彼はそれについては何も思わない。負い目引け目を感じることはあっても、当然嫉妬なんてするはずもない。あの人は毒人間だ。だからそんな人間のような愚かな真似はしない。そんなことをするのは人間、あの人の目に毒された人間だけだ。

 それでも此方は違う。邪眼の恐ろしさはその衝動に抗うことで、好意の形を違うものへと歪曲させようとすることだ。自分の中で自己完結することで、触れられない現状を緩和させる。

 あの蒼薔薇という少年にそれは顕著に表れている。元々馬が合わなかったという彼とあの人。それが友人になれたのも蒼薔薇が邪眼に毒されてから。彼はトーラへの思いもあったからそういう形に落ち着いたのだろう。しかし洛叉は違う。

 邪眼の引き出す好意は触れたいという衝動。言うなれば性愛とかエロスと言うべき愛だ。それをねじ曲げて彼に仕えるこの俺は、それをもっと崇高なるもの、アガペー的な愛まで昇華させたのだという自己完結の自己満足へと至った。返される見込みのない思い入れでも、それでも尚大切だと思えることに満ち足りた何かを感じているのは確か。他人など実験材料としか見てこなかったこの俺がそんな風に思えている。そのことに満足しているとも言える。

 そんな中で埃沙に口付けること。それがあの人の役に立つことなら喜んで。そう思う。

 それでも埃沙は指摘する。お前はそれを裏切りだと思うだろうと。


 「兄さんはその裏切りに耐えきれなくなったら、彼を怨むようになる。半年前までの兄さんと同じ。兄さんは兄さんに応えてくれないあの人を、憎くて堪らなくなるわ。傍にいるなら、きっとそうなる」


 「だから距離を置くしか無くなる。そして今以上まともにあの目を見られなくなる」


 邪眼を見ることが無くなれば、魅せられる力も徐々に衰える。あの目は痲薬のようなもの。依存性の強い毒だ。一度あの目を見たなら、魅せられる。普通はそこで毒に触れて死ぬ。

 それでもその毒で死ねなかった人間は、邪眼の中毒に苦しみ始める。洛叉とアスカの現状が正にそれ。それでも長期間続く禁断症状に抗い打ち勝つことが出来たなら、そこから脱することも不可能ではないはずだ。それならば確かに、邪眼を見ないということが治療法としては最善だろう。


 「私は兄さんを解ってあげられる。他人じゃ無理なことでも妹の私なら、同じ血の流れている私なら誰より兄さんを理解できる。何年かかってでも兄さんを本当の兄さんに戻してあげるわ」


 兄さんが愛せるのは、愛しているのは他人なんかじゃない。この世に自分1人だけ。それに気付けないでいる。忘れさせられているだけ。あの邪悪な瞳に惑わされているだけなのよと埃沙は語る。


 「元の俺……か」


 あんな者に戻って何が楽しいのだろう?他人を実験材料としか思えない。命を愛おしいとも思えない、そんな医者に。そうなれば実験のため、この馬鹿に愛しているくらい言ってやることは簡単だ。それでもこの馬鹿が欲しいのは、そんな薄っぺらい言葉なのだろうか?そんなことで満足するという、この女は本当に愚かだ。元の俺に戻ったところで俺がお前を愛することなど絶対にあり得ないことだと知れているのに。


 「面白い。なら、やってみろ」


 洛叉も笑う。所詮子供の、女の世迷い事だ。真面目に耳を貸す方が馬鹿。こんな無学で無教養な異母妹に、この俺を理解できるはずがない。されたいとも思わない。他人は道具。身内も他人。利用できるものなら何だって利用してきた。その例外を決めるのは血ではなく、この俺の脳だ。

 告げた瞬間に埃叉の青い髪が見えた。長い髪を靡かせて彼女がふわりと舞い上がる。屈んでなどやらなかったから、背伸びだけでは足りなかったのだろう。首筋に添えられた彼女の両手から重みが伝わる。そのまま腕の力で顔を合わせ、埃沙が口付けてくる。


 「私の勝ちね、兄さん」


 離れた瞬間に風に乗せられた言の葉。

 それに気付いて、急いで吐き捨てるが咽を抉る苦味と痛みは消えない。

 毒を飲ませられたのだと悟る。身体がふらつき膝を折る。視界も次第に霞んで暗さを増していく。

 この俺がこんな妹に嵌められたのだと気付いて怒りが湧き上がる。此方の悔しげな顔を目に焼き付けているのか、耳から聞こえる埃沙の声は本当に愉しげだった。


 「ちょっと待ってて」


 今までずっと待たされたんだから、少しはこちらが待たせても良いでしょう?と埃沙は笑う。


 「私が戻ってくる頃には、もう兄さんは私の物よ」


 そう。愛しい人を手に入れるために、その人を生かしておく必要はない。どこにも行かせないように、殺めてしまえばいいのだ。

 心変わりはそこにはない。そもそもその心を手に入れたかもわからない。それでもそうすることで、もうその人は否定も拒絶もしないのだ。だからそれは自分だけのもの。

 妹の取り憑かれた妄執。その狂気に共感できてしまう、自分もやはり狂っているのだ。

 自分の死を自覚して……湧き上がる、後悔はどうしてあの人を殺めなかったのかということで。

 あの人に好かれるように、頼られるように、出来る限り心を抑えて……冷静な大人を演じてきた。そんな自分がこの際には、本当に愚かに思えて仕方なかった。


 *


 ディジットの父親が連れてきた、審査員の三人を視て……トーラは自らの失策を知る。


 「…………まっずいなぁ」


 口から漏れる乾いた笑い。状況は最悪。とても笑えるようなものではない。それでもは笑わずにはいられなかった。


 「ヴァレスタ異母兄さんまで生きてたか……いや、参ったね」


 境遇も境遇。一応は兄妹のよしみもあった。それからそれは西を守るための情報の一つ。彼の正体を不用意に明かす必要はもうなかった。勘づいているかもしれないが、それを言葉として知ればリフルがまた思い悩むのが嫌だった。

 だからこうした。彼は死んだのだからもう教える必要はない。それでも決定的な証拠はない。情報収集は随時行っていた。しかしそれに彼の情報は入らない。下手に東を刺激するようなことは出来ない。本人が生きていた場合でも死んでいた場合でもそれを侮辱とし西を攻め込ませるための理由を与えることになっていた。

 ここでそれを暴露するなら、ああ確かに彼は討てるかも?


(いや……駄目だ。桁が違うよ……)


 見える。彼の周りの幸福値。明らかに自分たち数札が束になって掛かっても彼を殺すことは出来ないだろう。唯一渡り合える幸運を与えられたリフルは、今ここにはいない。そして居たところで、渡り合えるのはその幸運値だけ。その数値が同じなら、後は両者の実力の差だけで勝負が決まる。

 リフルは真っ当な戦闘には向いていない。成長の止まっている身体は出来上がっていないし、力もなければ体力もない。どうしても毒と邪眼に頼ってしまう戦闘スタイル。そしてこの男には、邪眼が効かない。如何に片割れ殺しの混血が人目を引く美しさを持っていようと、この男が魅せられるはずがない。この世で唯一彼に魅せられない相手が居るとするならそれは、おそらくこの男。

 半年前、実際に対峙して……男の正体を私は知った。

 その男が居ることで、洛叉は迂闊に出られない。そしてその男が連れている子供の所為で、ディジットとアルムが動けない。


(カードの数なら此方に分がある。だけど……こっちにコートカードは誰もいない)


 心を鬼にするなら、確かにこれはチャンス。相手がコートカードなら、数兵が束になっても敵わないのは確か。それでも相手の幸福値を削ることは出来る。


(リーちゃんに繋ぐことが出来れば……)


 幸運さえ味方するなら、リフルがヴァレスタよりも弱くても……リフルの勝機はある。そう。彼のために全てを犠牲にすることを認めるなら……

 彼はそれを絶対に許してくれない。でも、それが何より彼のためになる。


 「惚れた弱みってほんと怖いね……昔の僕なら絶対にそうしたのにさ」


 ゆくゆくの彼のため。それを今では選べない。近い未来。見える場所。そこで彼が泣いていたら嫌なんだ。僕も後どのくらい幸福が続くか解らない。それなら残りの時間……その中で彼に笑っていて欲しいと思ってしまう。


(我が儘だよね。それって結局僕が見たくないだけ。彼のためじゃない。僕が……最期に見るのがそんなリーちゃん何だって言うのが嫌なだけ)


 今は何とか切り抜ける。ここでは誰も死なせない。それが僕がやるべき仕事。報酬はリーちゃんの笑顔。それで十分。死ぬ気で挑む価値はある。


 「さて……僕の腕の見せ所ってとこか」


 下手な情報を、ディジット達には流せない。中途半端な真実は、今の状況を悪い方向へと誘いかねない。


 「蒼ちゃん、あっちの件は大丈夫」


 トーラは返事を待つが、何も帰ってこない。振り返り、蒼薔薇を見る。そこには彼が控えていた。それでも心ここにあらずと言うようなその表情。


 「蒼……ハルちゃん?」

 「は、はいっ!マスター……奴は問題ありません!」


 不安になって問いかける。間近で彼を覗き込む。それにようやく彼が気付いて視線を戻す。


 「何か怪しいなぁ。ハルちゃん僕に何か隠してるでしょ?」

 「え……っ!?あ、あの……っ」


 口ごもる蒼薔薇。彼は少しの間をおいて、呼吸を整え……覚悟を決めたみたいだった。


 「……マスター、僕はマスターが大好きです。マスターの力になりたいと何時も思っています」

 「ハルちゃん……」


 流石にここで「うん、知ってるよ」と返す面の厚さはトーラにもなかった。


 「そしてそれは鶸も同じです」

 「鶸ちゃんに、何かあったの?」


 ここで彼女の名前が出るのは何かある。躊躇う素振りを見せるハルシオン。そこから察した。これは今まで彼女に口止めされていた情報。状況は今トーラが考えているものより悪かったのだ。

 だから彼は今言う。それがトーラを精神的に追い詰める情報なのだとしても、知らないよりは知っていた方がこれからの対処に幾らかマシだろう。そう考えて……


 「鶸紅葉から伝えられた情報です。昨日、王宮でユリウス様が死亡したとお伝えしましたが……殺したのは情報請負組織TORAを名乗る人間です」

 「!?」

 「情報によれば、それは金髪に金の瞳の青年だったと聞いています」


 その言葉にトーラは目を見開いた。やられたなんてものじゃない!これは最悪なんてレベル、とっくに越えている。昨日のうちに全員連れてさっさと西に逃げ帰るべきだった!

 まだ方法はあった。


 「マスター……黙っていたのは僕です。責めるなら僕を!鶸は貴女のためを思ってっ……」


 西は危険だ。今トーラが戻るには。東に留まらせておく方がまだマシだと鶸紅葉は考えた。トーラが東にいる内に、その問題を片付けようと彼女は考えたのだろう。手に取るように解る。彼女はそういう子だ。物心ついた時からずっと一緒だったんだから、……誰よりも自分がそれを知っているはずだったのに。


 「……ありがとう蒼ちゃん、言ってくれて」

 「マスター……」


 何故僕を責めないのかと訴えかけるハルシオン。それでも責められるわけがない。


 「僕は馬鹿だよね」

 「そんなことはありません!マスターは最高ですっ!」

 「ううん、馬鹿だよ。いっつもリーちゃんリーちゃんって、リーちゃんのことばかり見ていてさ。それで君たちがどんなに僕を大切に思っていてくれるかなんて……知ってるつもりで全然解っていなかった」


 今だって迷っている。ここに留まるか、西へ帰るか。

 TORAの頭としてならどうするべきか。リフルに好意を寄せる1人の人間、トーラとしてはどうするべきか。暗殺請負組織SUITの一員としてどうするべきか。そしてセネトレア王女としてどうするべきか。

 組織も街も心配。鶸紅葉も心配。そしてリフルも心配。大事なモノが多すぎて、身動きが取れなくなっている。何をどうするのが誰のためになるのかわからない。

 西に戻っても、何が出来るか。それが余計悪い目を引くことになる?或いはそれはこのままここに留まることで?


 「うん、悩みたくなる気持ちはよく分かるよ。だけど僕を失望させないでくれないかい?」


 ぽんと肩を叩かれた。それに気付いて、身体が強張った。振り返る寸前に、割り込んできた蒼薔薇に抱えたれてトーラは退避。

 飛び退いたことで広がった距離。それでもそう広くはない室内。気配もなく現れたそいつの姿は視界に映る。

 城に現れた偽者の話を聞いたときから、最悪の想定はしていた。ある程度此方の情報を知っているものの犯行だと言うことくらい。

 トーラは基本的に表に姿を現さない。仕事の時は視覚数術で外見を変え、年齢性別までを偽る。だからトーラが金髪に金の虎目石の瞳の姿をしていることを知っている人間は組織内でもそう多くはない。組織外に至っては、本当に限られてくる。

 ライトバウアーで生活していた頃はそれを知っている者も多かったが、11年前あの街で多くの混血が殺された。死人に口なし。幼なじみも友達も……みんなトーラを語らない。

 いるとするなら、それは……


 「やぁ、久しぶりだね」


 そう語る青年は自分より背が高い。それでも数式の解除で、彼は本当の姿を現す。


 「………兄様」

 「兄様!?マスターの!?それではこの方は、フェネストラ様……?」


 ハルシオンと兄の面識はない。それでも何度か兄の話をトーラがしてやったことはある。


 「ああ、そうだよ可愛い片目のナイト君。それに僕の可愛いチェネレント。ああ、今はトーラだったっけ?可愛い名前だね、その由来まで僕は手に取るようにわかるよ」


 くすくすと笑う少年は、トーラの鏡あわせのように瓜二つ。それは背丈に至るまで。

 唯違うのは、その服装が真っ黒な喪服だということか。その小さな紳士はその黒に似つかわしい邪悪な微笑みを湛える。告げられる好意を正面から受け止めることが出来ないのはその微笑みの所為ではないか?


 「僕の名前とお前の名前を合わせて作った名前なんだろう?本当にお前は可愛いね」

 「それには全面的に同意します」

 「ハルちゃんって……うん、そういう子だよね」


 息を飲む程、大変な状況だというのに、何この間抜けな会話。そしてその間抜けな会話に、うっすら赤面している自分が居るのが情けない。ハルシオンには……追い詰められた時にこそ、大事にされているのが解る。普段は何も、言わない癖に。こういう時ばかりそんなことを言ってのける。

 トーラの方がずっと強いし何でも出来る。それでも今の自分は彼に守られている。それを強く感じている。

 ハルちゃんは強いことは強い癖に、普段は頼りなくて精神的にも隙がある。だから能力的には遙かに格下のアスカ君やリーちゃんにまで負けてしまうんだ。


 「……その、お兄様とやらが一体何の用なわけですか?」


 強く斬り込む口調には、先程までの迷いや動揺がない。


 「ああ、あのね。僕の所に1羽の鳥が迷い込んできたんだ。綺麗な鳥だったけど、どうにも凶暴で僕のことをつつくからね。流石の僕も少々気分を害したよ」


 彼の問いに返されたのは、私を嘲笑うような兄様の笑みと……それに遅れて鳴らされる指。その音に応えるよう、空間が切り裂かれる。

 そこから落下するのは……見覚えのある赤いリボン。

 こんな数術、私は知らない。音声数術のそれとも違う。だけどそれを応用……違う旧世代の混血でも扱えるよう、その程度を下げてそこから汲み上げた式。今のはそれに空間転移を組み込んだ。

 恐るべきは、その早さ。数式の記述と数式の展開は瞬き1秒にも満たない。まさにあっという間とはこのことだ。

 そして使い勝手の良さも恐ろしい。音声数術は声が出なくなったらお終いだ。だけどこの数術は声以外の全ての音を引き金に事象を引き起こす。


(こんな式……)


 発想が恐ろしい。どんなものを見れば思いつくのだろう?

 数式の完成には何らかの犠牲が必要。無から有は作れない。人の作る数式は犠牲の集大成。

 以前エルフェンバインという学者が、多くの混血を殺したのも数式開発のためだった。命懸けで他人の作った作りかけた、書き上げたその式のカンニング。それを見て、観察して、研究者は式を完成させる。余程の閃きと苦痛を知る者以外が新しい式を作ると言うことは、それだけ困難なこと。

 兄が苦痛を知らないとは言わないが、本来の得意分野とまるで異なるその式に、開花も発想もあるわけがない。

 それを認めた瞬間から、辺りに死臭が立ちこめる。兄は……人殺しを何とも思わない人間に成り下がった!!あの優しかった、兄様が!!


 「鶸ちゃんに……何をしたの?」


 赤いリボンに付けられているのは、真っ赤な紅葉の葉一枚。数値異常で年がら年中、手に入れることが出来るようになった美しい赤。

 昔私がその髪に挿してやった日から、彼女は何時もその葉を髪に挿し続けた。

 鶺鴒(ベルジュロネット)のように綺麗だからとそう名付けられた彼女の黒髪。それが鶸色のそれに変わっても、彼女の秋は移ろわない。紅葉の赤い瞳は、変わらず私を見つめていた。ずっと傍にいてくれた。


 「下女如きが僕に逆らうなんて侮辱以外の何物でもないからね」


 薄ら笑う、私の兄がもう一度指を鳴らせば……質量を感じさせる重みの音。それが空中から落下する。


 「ベルちゃんっ……」


 鶸紅葉……ベルジュロネットは傷だらけ、その肌も髪も服も赤く染まって床に落ちる。

 駆け寄れば、まだ息はある。守りはハルシオンに託し、急いで回復数術を展開。


 「まだ紅葉の季節にはちょっと早かったかな、夏だしね」


 兄はけたけたと笑っていた。何がおかしいのかわからない。彼女と彼は面識もある。あるどころでは済まない。済ませない。

 幼い頃は共に遊んで共に育った仲なのに何でこんなことが出来るの?

 彼女の母は兄と私の乳母。母に代わって私達の世話を焼いてくれた人。だから彼女とは本当に、近しく育って来た関係だった。

 私と彼女の関係は、唯の上司と部下じゃない。私にとって彼女との繋がりは、もっと別のものでもっとずっと大切な物。それは兄にとってもそのはずだと、私はこれまで信じていた。それなのに……


 「申し訳……ありません、……姫、さ……ま」

 「良いから!喋らないでっ!!」


 急激な回復は痛み。身体の故障を無理矢理治すのだ。だから速度を上げることはその苦痛を激しくすること。それを和らげる麻酔数術を施す内に、彼女の瞼が重くなっていく。


 「起きたらしっかり何でも聞いてあげるから。今は何も考えないで」

 「…………はい」


 優しく、それでも譲らない口調で言葉を告げる。それに彼女は諦めたよう、口元に笑みを浮かべて目を閉じる。

 その間も、回復が終わるまで律儀に待っているらしい兄の得体の知れなさを私は背中でひしひしと感じていた。それには彼が会話のために、彼女をここまで痛めつけたのかと思ってしまうほど。少なくとも治療をしている間は、私は空間転移で逃げられない。


 「あのね僕の可愛いチェネレント。僕は今、とある仕事をしていてね。それも大分軌道に乗ってきた。死神商会って聞いたことくらいはあるんじゃないかい?」

 「死神、商会……?確か第五島ディスブルーで勢力を拡大している……?」


 集中している僕の代わりに、相手から情報を引き出そうとハルシオンが頑張ってくれている。死神商会、それは僕も聞いたことくらいはある。裏付けはまだ取れていないが、怪しいと踏んでいた組織の名だ。


 「ああ、そうだよナイト君。僕は死神商会改め人身売買専門請負組織Orcusのお頭オルクス=べーリー、今はそれが通り名だね」

 「人身売買……専門、請負組織だって!?」

 「ご依頼とあらば、君の片目を植えてあげようか?何、君の上司と僕が兄妹っていうのよしみだよ。サービスで10%オフにしてあげてもいいけど?」


 ハルシオンのトラウマに踏み込むオルクスの嫌味。今の彼が人として欠陥品だと言わんばかりのその言葉には、僕も怒りを覚える。

 僕だって目を植え付けることくらい出来なくはない。だけどそのために、憎き東の商人の客になることは矛盾している。それなら何処から目を奪ってくる?それも本末転倒だ。

 人の目は無から生じない。それを補うと言うことは、代わりに誰かがそれを失うこと。それは全く意味がない。

 それに彼の無くした目は、彼の思い出で拠り所でもある。それを癒すことで、彼が幸せになれるわけでもない。トラウマは時に人との結びつき。失った愛情の埋み火だ。癒されることを望んでいない人間だって存在する。二度と手に入らない愛情、そこに縋れる唯一のモノ。

 だからその言葉に、ハルシオンは唯ならぬ怒りを覚えたはずだ。それでもじっと耐えている。彼は私に忠実で、役目を果たすことを優先するような子だから。


 「僕の妹じゃ、目や足や腕を新しく生やすなんて出来ないだろう?僕だってそれは出来ない。数術に不可能はあんまりないとはいえ、人間の限界……この場合は数術を掛けられる側の人間のだけどね。そう、限界がある以上、そういうことは結構難しい」


 彼の我慢を推し量ることもせず、オルクスはペラペラと言葉を紡ぐ。理論としては正しくとも、今ここでそれを語ることが正しいとは思えなかった。


 「僕らレベルになれば知り尽くしてる自分の身体くらいなら、そうすることも不可能ではないかもだけど、他人の情報を全て完璧に網羅するのはまず不可能だ。だから他人をどうこうすることはまず無理」


 そこまで言い切ったあと、彼はにたりと歪にほくそ笑む。それはトーラの施術が終わったのを見越しての笑み。


 「となれば画期的な商売だとは思わない?」


 今度の言葉はハルシオンではなくトーラに向いていた。

 治療の際に聞こえていた情報。その話でトーラは多くを結びつけることに成功。先の見えない今にあって、それでも見える物がそこにある。それはこの男がもはや兄ではなく、憎むべき敵だと言うこと。


 「あれは……貴方の仕業だったんだね」

 「あれとはどれのことかな?いろいろやりすぎて心当たりが多すぎてあんまり覚えていないなぁ」

 「なら、一つ一つ言ってあげようか?」


 とぼけた演技を繰り返す、道化のような兄にトーラは苛立った。


 「まずはリア。マリア=イーゼルという少女のこと」

 「ああ、お前の思い人の思い人か」


 そして適確に此方の胸を抉るような言葉で返す兄。何時からこんな性悪に変わってしまったのだろう。


 「そうだな、お前のことだ。彼女の本当の名前くらいは割り出したんだろ?」

 「彼女はマリア。アルタニア公アーヌルスのご息女にして…………現アルタニア公カルノッフェル=アーヌルス、この事件の犯人である彼。その彼の実の姉さんだ」


 トーラの言葉に、良くできましたと頷くオルクス。両手はパチパチと乾いた拍手をもたらしてさえ……


 「…………リーちゃんに、何をする気なの?」

 「ああ、そこまで理解するとは……流石は僕の妹だね」


 トーラの言葉をあっさりと死神は肯定する。この男が、二人の姉弟に目を付けたのはリフルのため。

 カルノッフェルは姉への執着が行き過ぎている。その強すぎる妄執に、彼は二重の意味で盲目。勘違いとはいえ、姉と誤認したリフルを襲いかけた前科もある。

 そしてどういう経緯かは知らないが、カルノッフェルの姉の身柄を手に入れたらしいこの男は、それを餌に二人の殺人鬼を釣り上げたのだ。


 「リアはよく出来た人形だっただろ?僕の最後にして最高の作品だよ」

 「彼女の人格を、破壊したっていうの!?」

 「混血のみんながみんな、職を選べると思うのかい?僕に才能がなければ、商品になっていたのは僕だったんじゃないかな」


 人の脳を壊して、新たな情報で上書きをする。そういう数術があることは知っていた。

 人の尊厳をどこまでも馬鹿にしたその数式。それを用いるのは、主に東の人間。元は犯罪者の人格強制のための式の一つ。それを教会から式を盗み出して、人のための式を悪用した奴が居る。そんな人間達と一緒に仕事をしていたのだ、この兄は!!

 生きるためなら何をしても良いと彼は……平然と開き直る。


 「それが当時の仕事だったんだよ。そこから今は独立して、違う仕事を始めたわけだ。マリアは僕の最後の商品だったかな」


 奴隷の教育以外にも、間に合わせの仕事の下請けは来る。人捜し、それが見つからないのなら……依頼人の望むそれに似た人間を作れという依頼。


 「その時の商品が家出をして野放しになっていると聞いてね、何かの時に使えるかと思って彼女の捜索を始めたのさ」

 「……それでヴァレスタ異母兄さんに、リアさんの正体を洗わせたんだ?」

 「ああそうだよ。東の情報は彼が一番よく知っている。しかし何の因果か、彼の駒に彼女の弟が居たって言うんだから驚きだよね」


 世の中の意外な狭さを嘆くように、呆れるように……オルクスは肩をすくめている。


 「でも僕も鬼じゃない。最後の商品である彼女に、リセットボタンなんか作っちゃいない。この世に奇跡があるのなら、それもそれで悪くはないと思わないかい?」

 「まさか……解除コードを、設定指定していた……?」

 「そういうこと。解けない呪いなんて面白味に欠けるし、物語る価値も観察する楽しみもないだろう?」


 何のチャンスもない。唯の絶望に意味はない。絶望の、その淵にもチャンスはある。それでもそれに至らず敗れていくのを見るのが楽しいのだと語る死神。


 「彼女がマリアの記憶を取り戻し、それで弟を止めるのなら……この事件は平和的に解決したかもしれないね」

 「……今回のことは、結局……リーちゃんを焙り出すためのものだったんだね?」


 その否定も肯定もせず、兄は薄ら笑う。


 「薄暗い場所を生きる奴ほど、光を求めるものだよ。だからあの汚れた王子様は、殺人とかそういう物騒事とは縁遠い……普通で普通じゃない女の子に興味を持ったんだ。同じ闇を生きるお前ではなく」


 自分の罪を自覚すればするほど、普通に彼は憧れる。それでもあまりに普通では、普通ではない彼の中で特別にまでのし上がれない。なぜなら彼の基準がそもそも普通ではないから。気を惹けるとはいえ過去の思い人を模倣するのは、嫌だ。そんなことで気持ちを手に入れても嬉しくない。釣り上げるなら、全く別方向の予想だにしない変化球。その位の読みはトーラにもある。だから自分らしさを忘れない。それが一番の手だとは思った。

 それでも負けたのだ。いきなり現れた女の子に。

 自分に向けられる心とそれが違うとはすぐに気付いた。彼女は弱いし、唯の絵描きで……戦うことも情報を得ることも出来ない何も出来ないのに……それでもあの人は、彼女に癒されている。それは自分には出来ない。

 それは本当に悔しかったけど、どこか高をくくっていたのも確か。彼女は同じ場所を生きられない。彼の本当の痛みも苦しみも理解することはない。だから一番傍に居られる女の子は、自分なんだって言い聞かせた。彼女も自分も彼とどうこうなるわけはないけれど。

 僅かな苦味を思いだしたトーラに向かって、オルクスはにっこりと嫌味なくらい優しげに微笑んだ。


 「でも良かったね、恋敵が死んでくれて。これで晴れてお前の独壇場かもね」

 「リアさんが……死んだ?」

 「ああ、そうさ。だからこの事件はまだまだ続く。彼が破滅するまでね」

 「……っ!それじゃあ……彼女はカルノッフェルに殺されたの!?」

 「うん、否定の言葉もない。そういうことだよ」


 彼女の死。その驚き。悲しむよりもまず先に……僅かにほっとした胸の隙。それを曝くように死神は、まくし立てる。罪深い安堵への後悔を、する暇さえ与えないと言うように。


 「これをアルタニア公に教えたなら、彼はどうなるだろうね?もう誰に求められない。今でも似たようなものだけど、もっと無差別に人を殺すよ。そして人はそれがお前の愛しの王子様のやったことだと誤解する。それに城での騒動だろ?西はどうなることだろうね」

 「っ……なんてことを!!」

 「ああ、本当に大変だよ。彼やお前がいくら頑張ったってどうにかなるものじゃない」


 他人事のように待ち受ける騒動を、死神が笑う。それは禿鷹の笑み。屍肉を喰い漁る亡者の目。もう本当に、ここには兄は欠片もいないのだ。トーラはそれを知った。


 「そう言うわけで僕はお前に取引をしに来たんだよ、トーラ?」


 初めてその名で呼ばれた。それはこの男が私を妹としてではなく、西の主として呼びかけているからなのだろう。


 「……どういう用件かな、オルクスさん?」


 だから私もそういう態度で、彼に挑んだ。

 退いたら負け。何も守れない。傍にいる二人も向かいの店のみんなも、そして離れた場所の、あの人も。


 「この騒動を僕が収めてあげてもいい。僕が彼の望むそれらしいマリアを作り上げれば彼はまた騙される。その隙に煮るなり焼くなりしてしまえばいいんだ。城の方も、僕が化けたのと同じ姿の男を仕上げて、嘘の記憶で自白をさせて処刑でもさせればいい」


 この男は、さらっと自然に城の方の犯人は自分だと暴露した。それを教えたところで痛くもかゆくもない。どうせ何も変わらないと考えて。余裕のある奴はわざと戯れに油断と隙を与える。一方的な展開はつまらないと言わんばかりに。


 「それで、その条件って言うのは?」

 「それは、お前の最愛の……あの那由多王子さ」


 死神の口からもたらされたのは……半ば予想していた答えだった。


 「彼のあの紫の目は本当にレア物だ。眼球コレクターの僕としてはあれは咽から手が出るほど欲しい。間近で見たけどあれはなかなか」

 「そんなこと、僕が許すと思う?」

 「まぁお前の言いたい事も解るよ。確かにあの目が欠けるのはちょっとあまりに勿体ない総合的な集大成的な美しさが彼にはある。だから彼の目を抉るのは、彼が死んでからにしようかなとは思っているよ。どうせ彼はそんなに長くは生きられないだろう?そのつもりもなさそうだ」


 その口ぶりは、リフルがカードであると見抜いての言葉。それは更に彼を悪用したいと言っているようにしか聞こえない。

 今しばらくの生の保証をされたところで、トーラはそれには従えない。仲間を大切な人を売るようなこと出来るはずがないのだ。トーラが扱っているのはあくまで情報。情報で人を売ったとしても、人間を売ることはしない。それが情報屋というものだ。


 「帰りなさい、オルクス。僕はそんな取引には応じない。この事件は僕らで片を付ける。貴方の手を借りるまでもない」

 「無実の罪を被るのかい?二人で手を取って?健気なものだねぇ僕の妹は。それともその共犯意識を深めることが彼の独占だとでも履き違えているのかな?」


 「まぁ、お前がそう言うなら僕にも考えがある。僕は別に鬼でもないからね」


 それは取引の基本だ。商売の基本だ。

 まずは無理難題、そんな法外な値段で。次は譲歩してやるつもりで、まだ良心的な話に入る。そもそも最初の目的が二番目の話だったりすることは、商売上ではよくあることだ。

 だけどその話術は、まだマシと思わせる力が確かにある。


 「なら代わりにお前を貰うか?それで僕は彼を諦めるし、この街の混乱を静めてあげる」

 「ふ、ふざけるなっ!」


 最初からそれが目的だったのだろうと吠えるハルシオン。その態度が気に入らないと眼光を鋭く細める死神男。

 トーラは部下に視線をやり、落ち着きなさいと目で命じる。それにしぶしぶと彼は従う。静けさを取り戻した室内で、トーラはオルクスの言葉を吟味する。


 「…………どういう意味?」


 それは命を?それとも目玉を?何を差し出せという取引なのか。それがわからなくては此方も応じようがない。そんな問いかけ。


 「ああ、安心して。別にお前の目には興味ないよ。お前を殺そうとは思っていないから。僕の願いはただ一つ。チェネレント、僕はお前を迎えに来た」


 その裏を探りたくなるような、にこりと人の良さそうなオルクスの笑み。


 「僕はお前を妻に迎えたい」


 実の妹へのそのいかれた提案に、トーラもハルシオンも絶句する。


 「さぁ、答えを貰おうか?」


 その先では死神が、不吉にも微笑んでいた。

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