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2:Magnas inter oper inops.

「あー!ほんと久しぶりっ!ここんところ全然来ないからどっかで野垂れ死んだんじゃないかと思ってたわよ!ていうか死んだって噂で持ちきりだったからびっくりしたわー!」


 ヴァレスタというあの男との一件で、殺人鬼SUITは死んだという事になっていた。

 あの後は怪我が治るまで時間も掛かったし、そこからは仕事ばかりをしていた。そんな風に思われるのも仕方がないことかもしれない。

 夜分遅くに戸口を叩けば、笑顔で迎える少女が一人。金色の髪に青い瞳のカーネフェル人。

 通された部屋は相変わらず小汚い。ちゃんと風呂に入っているかも怪しい。

 彼女の顔立ちは可愛らしいものではあるが、髪は切りそろえるのも面倒だとボサボサ。それをまとめる黒いヘアバンドだけが彼女から感じられる女の子っぽさかもしれない。

 彼女はとことん自分自身に興味がない人間だった。しかしその飾り気のなさは何も外見だけではない。内面もだ。

 トーラからの仕事を引き受けたばかりの頃。殺人鬼SUITとして一人で無茶をしていた一年と何ヶ月か前。自分を匿ってくれた彼女に、お礼としてデッサン人形代わりにされること屡々。彼女はとことん芸術にしか興味が無いらしく、生身の人間には何の興味もない。邪眼の効かない部類の人間だった。だから彼女の元を訪ねるのは、リフル自身にとっても悪い話ではなかった。

 とうとうフォースまで邪眼に狼狽えるようになってしまった今、気兼ね無しに話が出来る相手というのも周りから消えてしまっていたのだ。まったく別の世界を生きている友人と茶を飲みながら世間話をするというのもなかなか気が休まるものだった。


「……すまない。最近仕事で遠出していてな。今日は近場まで来たので寄らせて貰った。こんな時間に迷惑だったか?」


 手土産に持ってきた菓子を差し出せば、彼女の顔がぱぁっと明るくなる。甘いものが好きというわけではないだろうが、食料品が増えるのは喜ばしいことのようだった。これで一食浮いた!とかガッツポーズを決めている。高カロリーは大歓迎!とか言いながら飛び跳ねてもいた。さっそく貴重なカロリーを消費しているように見えたがそれもまた彼女らしさだ。

 以前トーラと足を運んだ店に時間があった内に立ち寄って、日持ちしそうなものをいくつか買っておいたのだけれど、ここまで喜んで貰えると此方としても嬉しい。


「いやいやまさかー!私夜型だから。絵描いてると昼夜逆転してたりするのよねぇ。絵売りに行く時の方が眠くて大変なくらい」

「そうか。あまり無理はしないようにな」

「へいへい。ま、君はほんと助かるモデルだわ。もうそろそろ出会って二年?でも全然見た目変わらないから時間あけても絵に支障がないっていうか。うんうん、それって才能よ!君はこのリア様のモデルになるために生まれてきたんだわきっと。って毎度毎度ごめんねー。うちでちゃんと衣装用意できればいいんだけど。つか良い服着てるわねぇ。てかデフォルトで女装で遊びに来るとは勇者ね君。いや、ほんと似合ってるからいいんだけど、私が男だったら口説いてるわ、なんちゃって。にしても創作意欲が湧くわねぇ。私の筆が鳴るってもんだわ」

「……腕じゃないのか?まぁ、それはともかく最近仕事の方はどうだ?」

「ふふふ、君の協力のおかげなのかしら。ちょっと生活がマシになって来たんだわ。前はパン一枚買うのがやっとだったのにそれにバターとジャムとスープの材料くらいは毎食買えるようになったもの」


 彼女が指さす方向にはスライスされていないパンがごろごろと置かれている。


「切り分けないのか?」

「え?あのまま食べるけど?丸かじりで」

「一食一枚じゃないのか?」


 ひもじい思いをしているのだろうと思っていたため、丸かじりというのは初耳だった。それはそれだけ食費に稼ぎを費やしていたら他の物に困ることもあるだろう。


「一食一斤みたいな?」

「よく食べるんだな」

「そりゃあまあ、人間の三大欲求しってる?暴食欲!昼寝欲!芸術欲!って言うじゃない」

「合ってなくないか?いや、ある意味合っているのか?」

「おお!その悩める仕草いいね!いいね!そのまま止まってて!」

「リア、済まないがコップは置いてはいけないか?腕が震えてきた」

「君ほんと体力とか力ないねー。うんいいよ。ただし顔はそのまんまそっち向いてて」


 サラサラと用紙の上を滑っていく鉛筆の音を聞きながら、その静けさに耳を傾ける。リアというこの少女は変わっている。


「そう言えば……どうして君は一人で暮らしているんだ?」

「え?家出」

「家出?」

「うちの両親頭固いのよ。女はああだこうだっていっつもそればっかり。この部屋見たら卒倒するか発狂するかするんじゃない?」


 少女がけたけたと笑い出す。


「そんなのが嫌になってね。別に絵なんか大して売れなくても良いのよ。描けるのが私にとっては幸せなんだ。それでまぁその日暮らしでも食べる程度が稼げればそれでいいんだわ。綺麗な洋服着て着飾ってうふふあははってのはそういうの似合うことか綺麗な子がやればいいんだし。興味ないんだよねあんまり。どこどこの店の何々が高いから持ってると素敵だとか自慢できるとか。みんなそんなことばっかりで張り合って貶して、蹴落として。何が楽しいんだかわからないわ。そういう子について専属絵描きなんかなるともう人生地獄よ地獄。ありのままに描いても私はもっと美しいわって怒られるし?特徴目立たせると反感買うし?全く違う美少女描いてやったらやれば出来るじゃない、だって。一回鏡見てみろって言いたくなったわあん時は。そういうの我慢できるなら食っていけるのかもしれないけど描きたくもないもの描いて暮らすって拷問じゃない?」


 自分とは本当に遠い世界のその話。彼女がけたけたと嗤いながら話すと笑い話みたいだが、実際そんな状況に陥ったらそれはそれで大変なのだとそう思う。

 唯、その言葉の端々から、彼女は生きることを本当に楽しんでいるのが解る。それがとても眩しく感じた。彼女にだって不満は幾らでもあるだろう。この世界はそう言う場所だ。それでもそんな中から楽しむべき事、愛すべき物を見つけて人生を愛することが出来るのは素晴らしい才能だと思う。肝心の彼女の絵の方に才能があるのかはよくわからない。

 ただ、奴隷時代に見た屋敷に飾られていたお高くとまった絵よりは、親しみや温かみを感じさせるものだとは思った。彼女の明るい人柄が絵の中にも入り込んでしまっているのか。絵の中に描かれている自分は鏡で見る自分よりも温かい表情をしている。生き生きしているようにも見えた。


「それなら私は私の描きたいものだけ描いて面白おかしく暮らした方がよっぽどいいって思ってね。人生って別に長さじゃないと思うのよ」

「確かに長いだけ長くとも細すぎるのはどうかと思うな。太さがあっても短すぎるのも問題だが。やはり適度に両方を兼ね揃えた……あ、すまない。私は何を言っているんだ。太さって言うのは密度という意味であって変な意味ではなくてだな」

「顔に似合わず君って下ネタ意外と好きだよね」

「い、いや……そういうつもりでは」

「あはは。いいんじゃない?セネトレアらしくて。セネトレア流のジョークでしょ。私はそれなら極太短小人生の方がいいわねぇ。うん、そっちの方が楽しいわ」


 セネトレアに毒されて、うっかり口から出てしまった言葉をリアは咎めるでもなく便乗しながらからから笑う。そんな彼女の微笑みを、羨ましくもあり微笑ましくもある……形容しがたい思いで見つめる。


「……そうだな。確かにそうかもしれない」

「毎日悔いなく生きていられるかって言われたら後悔ばっかりなんだけど、それでも毎日全力で楽しんで生きていられるってのもまぁ幸せなんじゃないかな。例えばここで地震が起きて私が潰れて死んじゃったら、そりゃ悔いはあるよ。あのパンまだ食べてないのにこんちくしょうとか。でも今日一日は楽しんで生きられたし、ま、いっかとも思える気がする」

「毎日……楽しく、か」


 そんな風に過ごせた日々が自分の中にはあっただろうか?

 少女の語る人生観に、己の過去を顧みる。難しい。そう簡単には見つからない。唯楽しいというだけの記憶はない。楽しいけど苦しいとか、楽しいけど辛いとか、楽しいけど悲しいとか。必ず何か要らないおまけがついて回る。そのおまけ分のマイナスを見て見ぬ振りで人生をプラスとして楽しむことが自分には出来ない。

 やはりこうして話をしていても、遠い場所をこの少女は生きているのだなと感じてしまう。


「そういやリフル、聞いた?私も今日市で耳にしたんだけどさ」


 デッサンを続けながら、リアが話題をがらっと変える。思い付きで生きているような彼女だ。思い付きで思い出したのだろう。


「半年くらい前に就いたっていうアルタニアの新しい辺境伯様なんだけどさー、なんか凄い人みたいなんだって。残虐公よりは全然優しいし税率も下げたり良い人っぽいんだけど、変人みたいなんだわこれが。そんな彼が始めたのが名前狩り」

「名前狩り……?」

「そ。名前狩り。ある女の名前をアルタニアで付けることを禁止して、今それ名乗ってる人はすぐに改名しないと死刑っていうなんじゃこりゃって法を打ち立てたらしいんだ。それがまたなんか知らないけど私と同じ名前だっていうじゃない?だからほんとアルタニア住んでなくて良かったーって思ってた所なのよ」

「リア狩り?」

「あ、言ってなかった?女っぽくてなんだかなーと思ったから略して使ってたの。私がマリアって柄でも無いでしょ?」


 女なんて身分とっくに捨ててるわと言わんばかりのリアの表情。家を捨てるときに両親から貰った名前も捨てたのだと言う。でも他に何か思いつくものはなくて、一文字削ってみたら男の名前に聞こえてきた。それで採用。そんな流れで画家としての名前を決めたらしい。いる物といらない物の区別のつかない、ごちゃごちゃとした部屋。空き巣に荒らされた後のようなその荒れた空間で、彼女は幸せそうに笑っている。


「……確かに」

「あはは、そこで肯定するなって!酷いなもう!まぁ馬小屋って言うか豚小屋って感じのマイルームではあるけどね。自覚はあるのよ。ただこれが暮らしやすいんだから仕方ないよね、うん仕方ない」


 片付ける気はありませんと彼女はきっぱり言い切り笑う。そんな表情に暗い影を落とすのは、彼女が述べた名前狩り。


「でもその名前狩りってそっから広がった名前まで狩り対象なのよ。マリーとかメアリとかも駄目らしいわ」


 何とも無しに呟かれた母の名前に心臓が冷たい手で掴まれたようにドキリとする。


(母様……)


 母の名前。それと彼女の類似性。

 記憶の片隅の母と、リアは似ても似つかないけれど、名前という繋がりにこの出会いさえ神という名の存在に仕組まれていたのでは、そんな不安に駆られてしまう。

 洛叉が憎んだもの、トーラが恐れているもの。人の行動、それに導き出される結果さえ、数字を操る彼らの掌の上での出来事なのだと彼らは、いつか……口にしていた。


「え、知り合いでもいた?」


 不安な気持ちを誤魔化すように、リフルは話題を変えてみる。そうだ。気にする点はそこじゃないはず。


「い、いや……まぁ。けれどよくある名前だからな。今更それを変えろだなんて言われても、これまで呼ばれ続けてきたものを捨てるというのも難しい話だな」


 名とは親しみ。そして愛着も少なからずあるものだ。瑠璃椿という名前は今は滅多に呼ばれることはなくなったけれど、記憶の中でその名を呼び続ける人がいる。愛すべき人と、憎むべき相手。親しみ以外にも、名前は服従の証。その名を呼ばれることが支配されることと同等。愛憎という言葉を表すに等しい物。それが名前。

 それをある日いきなり変えろと言われても、それは難しいことだ。


(アルタニア公か……)


 カルノッフェルというあの金髪の青年。フォースが仇として未だ恨んでいる相手。彼が言うにはハルシオン達と同じ後天性混血児だという話。


(……確かに変人だったが)


 父を捜しにと大嘘をついて城を訪ねたリフルを盲目の新領主は何を血迷ったのかそれを姉だと勘違いした。言われてみればその勘違いの方向がおかしかった気がする。

 あの時は姉ではないことがバレていたから口を割らせようとしたのだと思ったが、よくよく考えれば、どうもおかしい。盲目な分鼻が利くのか、フォースが所持していた香水の匂いを暫く行動を共にしただけのリフルから感じ取り、そこからなにやらおかしな流れになった。この身体が保有する毒で昏倒させたは良いが、当時あの領主と繋がりのある商人組合の方に属していた洛叉がその解毒をしてしまったのだから、今日も健在だという話。



「そうそう、それで……別にその位の噂なら私も気にしないんだけどさ。最近王都周辺でも飛び火してるって噂聞いたんだ」


 明るい調子のリアの声が、僅かに暗くなったのはその時だ。


「飛び火?」

「ここ何日か、死体で見つかった子の話なんだけど。まぁこんな国でしょ?誰が死んだなんてよくあることだけど、偶然かなんだかわかんないけど。それがその名前狩りに当てはまる名前の子だったの。いや、ほんとリアって名前使ってて良かったわー」


 からからと彼女は笑うが、そうではないのだ。彼女は……彼女も人間なのだ。

 日々を楽しく生きようと、自分に言い聞かせてはいるけれど、得体の知れない死に感化され……それに脅える心が芽生えているのだ。


「…………リア、しばらく私の所に避難しないか?」

「え?」


 なんとなく口から転がり出た言葉。この気の良い友人に万が一でも何かあって欲しくない。そんな思いで一杯だった。しかし冷静になってみると思い切りの良すぎた言葉かもしれない。リアもちょっと引いている。


「あ、いや……私がこの辺りを守ることが出来ればいいのだが、ちょっとそれは難しい。仕事もあるし仲間にあまり無理を言うわけにもいかなくて……だがうちのアジトは平和なものだし、この事件が収まるまでいてくれても構わない。混血も沢山いるしな。食指が動くんじゃないか?」


 今までだって、その日暮らしの彼女のために、アジトへ来ないかと何度か口にしそうになったことがある。けれどその度、彼女は違う世界の人間だから。明るい世界の表側を生きている人間だから、巻き込んではいけないと思っていた。だから精々食料品の差し入れ止まり。

 それが今口から転げ落ちてしまったのは、自分が彼女をとても心配しているからなのだと言った後に気がついた。こうやって彼女と話をする時間が好きだ。自分には触れられない世界のことを、彼女との会話を通じてかいま見ることが出来る気がするから。


「いや、お気持ちは有り難いけど流石にそこまで君を頼ったりはできないかな。悪いし。いや確かに隙あらばデッサン出来るってのはほんと願ったり叶ったりなんだけど」

「あ……すまない。確かに私に関わった方が危険かもしれないな」

「いやいや、そんなことはないけどさ。どうしてそんなこと急に?殺し屋のアジトに絵描きなんて必要な人材だとは思えないよ」

「いや、そうかもしれないが……君みたいな人がいてくれたら、あの街も明るくなるんじゃないかと思ったんだ」

「ぶはっ……!そんなに辛気くさい所なの?ちょっと逆に興味湧いたんですけど」

「まぁ、自給自足みたいなものだし配給あるし食には困らないとは思うが」

「よし、それじゃあ行こうかリフル君!嫌だな、断るなんて嘘嘘!私と君の仲じゃない!さぁどこに行けばいいのかな?」


 テキパキと手際よく荷物をまとめる少女。試しに言ってみた冗談のつもりの一文で釣れるとは流石に思わなかった。


(いや、違うのかもしれないな)


 匿ってくれたときと同じ気まぐれ。その気まぐれで此方の暗い表情を晴らすための協力を申し出てくれたのだろう。

 彼女が本当に困っているのなら、匿ってくれたお礼も兼ねて何かと支援しても良かったのだが、彼女はそう言うのは受け取らない性格だとすぐに解った。何だかんだ言いながら自称豚小屋マイルームも気に入っていたのだろう。彼女は食欲はあるが物欲はない。広い部屋には興味がないだろう。それでもついて来てくれることを選んでくれたのは、放っておけないと思ったからなのだろうか。


 *


「り、り、リーちゃんの馬鹿ぁあああああああああああああ!僕というものがありながら女の子連れて帰って来るなんてぇえええええええええええええええええ!!」

「リフル、お前朝帰りとは良い度胸だなぁああああああああああああ」


 窓から部屋へと戻ると鬼のような形相のアスカとトーラがそこにいた。


「起きてたのかお前達……」

「あはは、まだ夜中の3時じゃないですかお兄さん方」


 リアは鬼達の歓迎を面白がってけたけた笑う。


「彼女は画家のリア。私の友人だ。もうそろそろ二年か?トーラから仕事を一人で引き受けるようになったばかりの頃に追っ手に追われている所を匿ってくれた恩人だ」

「まぁそんな成り行きで、その匿いの礼をしろってことで時々絵のモデルになって貰ってたんです彼に」

「画家……だと?」

「なるほど……」


 今の今まで般若面をしていたと言うのに、突然リアの肩を掴み壁際まで連れて行くアスカとトーラ。そのままひそひそと耳打ちをされたリアはああと頷く。その後戻ってきた彼らは完全にうち解けていた。


「何をしているんだお前達は……」

「いや別に大したことじゃないから気にしないで」

「そうそ。僕らは別にリアさんにリーちゃんの絵を描いて分けて欲しいだなんて言ってないよ」

「ああ、そんなことは全然言ってないから安心しろ。あまつさえ家宝にして飾るなんて俺は言っていないからな。しかし忙しくなるな。モデル用に着せる服を調達してこないと」

「僕はむしろリーちゃんのヌードでも構わないんだけどお願いできるかなリアさん」

「隠すつもりが全く感じられないのだが、酔っているのか?それともわざとなのか?」

「だってほらリーちゃんってその身体のせいで基本イエスロリショタノータッチみたいな人間じゃない。触れない分せめて絵で君のエロスに触れても良いじゃない!」


 やはり酔っているようだ。トーラがいつもに増して暴走している。


「まぁ、それはそうとして……最近王都は物騒だろう。トーラなら何か知っていないか?」

「ああ、あのマリア事件?ああ、そっかリアさんって、あの名前か。そういうことか。それなら納得」

「どういうことだよ虎娘」


 本題に戻るため酔い覚ましの数術でも紡いだのだろう。トーラの口調がしっかりしたものへと変わる。


「ここのところ外回りの仕事多かったし、君たちも今日は疲れてるだろうし明日話そうと思ってここに来たんだけどさ、アルタニアの名前狩りがこの島まで拡大してきたみたいなんだ」


 その名前に飛び起きる影。眠っていたらしいフォースの傍でこれだけの人間が大騒ぎしていたのだ。起きても仕方がない。


「すまないな、フォース……」

「いや、アルタニアなんて聞いたら、俺黙ってるわけにはいきません」


 彼を起こしたのは騒音ではなく、その単語。因縁の地の話題に、眠気も一気に吹っ飛んだようだ。


「前アルタニア公アーヌルスに代わり、セネトレア第三島の辺境伯として就いたアルタニア公カルノッフェル。彼が、超絶シスコン野郎だって事はまぁ羞恥の………いや周知の事実」


「……そういやあいつ、リフルさんを自分の姉と勘違いして口説こうとしてたよな」

「おいフォース、その辺詳しく教えろ」

「アスカ君、単身で暗殺向かおうとするのは止めてよね。ていうか君じゃ返り討ち合うのが関の山だよ」

「そんなに強いのか?」

「アスカ君。君は剣士としてはそれなりだし、卑怯にかけてもなかなかのものだ。でも君がまっとうな剣士なら、僕の鶸ちゃんや蒼ちゃんが負けるはずないよ。あの子達は後天性混血児。身体能力は純血を遙かに上回る」

「そんならまっとうに戦わなきゃ十分やり合えるってことだろ」

「あいてがまともな人間ならそれでいいんだけどね。アスカ君、相手は狂人だ。まともな相手じゃない。この僕にだって彼の一手一手を読むことは難しい。……そうだね、洛叉さんの妹さんの力だったら読むことは出来たかも知れないけど生憎僕の先読みは小回りと融通は利かないやつなんだ」


 いつも自信たっぷりを演じているトーラが自分自身を低く語ることは珍しい。それだけ厄介な相手だと自分たちに教えるためだ。アスカもそれに気付いたのだろう。舌打ち一つで黙り込む。


「……後天性、混血」

「うん。フォース君なら知ってるよね。リーちゃんも気付いていたと思うけど、カルノッフェルってあの領主は後天性混血だ。変異した髪の色が金色だったから、カーネフェル人として紛れることが出来た。でも並大抵の覚悟じゃないよ。人種偽るためにタロック色の両目抉り出すなんて」

「あいつ……そこまであの人を、恨んでいたのか」

「アーヌルスを殺すことで彼の復讐は終わったはず。それでも彼の狂気は収まらず、あんなことを始めたんだね。人種に関係なく及ぶ狂気ってのはこの国では珍しいケースだけど……」


「この第一島までその狂気を持ち込んだのは、模倣犯か?」

「かもしれない。偉い人がやったことを真似するのは、正当性と理由を手に入れるに等しい。殺しのね……混血狩りだってそうやって広まったんだ」

「…………ああ、そうだな」


 自分があの日、死を拒んで逃げ出せば、こんなことにはならなかった。混血狩りが正当化されることなどなかったのだ。


「あと、最近妙な商売が広まってきているって情報があるんだ。今回の件もそれとなにか関係しているのかもしれない」

「妙な商売?」

「リーちゃん、三ヶ月前のこと覚えてる?」

「ああ」


 トーラがそんな言い方をしたということは、ロクでもない仕事の中でもとりわけロクでもない標的のこと。三ヶ月前といわれ、その中での大きな仕事となれば自ずと答えは決まってくる。アスカとフォースの協力を得て行った最初の仕事だ。


「あの屍姦マニアの変態貴族は剥製作るの好きだったでしょ?でもみんな目を閉じていた」


 部下へ集めさせた情報と裏のいろいろとの関連性の裏筋を揃えられたらしく、トーラはあの事件について語り出す。


「それって眼球が無かったからなんだよ」

「眼球が、ない?」


 トーラの言葉に一番反応したのはフォース。


「混血のパーツで一番高く売れるのって何処か知ってる?目、その次が髪。珍しいし綺麗な色であることが多いからね。…………大分昔からあるにはあったんだけど、最近王都で広まってきてるのがこの解体ビジネス。混血丸ごと買うお金って結構大変でしょ?でも、パーツだけなら安くなる。それに衣食住で養う分のお金もかからない。中流階級の貴族に人気があるらしいんだ」

「…………なるほど。それも新アルタニア公との関係がある、と?」

「リーちゃん達が見た彼は、目がなかったでしょ?」

「ああ」


 窪んだ眼窩。生ける屍のようなあの男の顔を思いだす。


「それじゃ、これ見て」


 差し出されたのは一枚の写真。映っているのは長い金色の髪に青い瞳の青年。澄んだ瞳に浮かんだ微笑。優しげな眼差しの彼がこの話と何の関係があるのか。


「なかなかの好青年じゃないか」

「リーちゃんったら……もう。そうじゃなくてだよ」

「まさかトーラ……、こいつがカルノッフェル?」

「はい、フォース君大正解」


 前後の文脈から察した答えを口にしたフォース。その言葉に面食らう。もう一度まじまじと見てみれば、確かに眉や口元、鼻筋あたりは以前見た彼と重なるものがある。


「眼球移植。これで彼の見た目は完全にカーネフェル人になったわけ」


 消えた目。移植される目。その二点を繋ぐ糸とは何か。


(そうだ……名前狩り)


 名前狩りも混血狩りも、上の人間の影響が下まで及んで拡大したもの。それならば……このビジネスもそうだ。


「カルノッフェルの眼球移植で、それが外へと広まった……?」

「これは儲かるって目を付けた商人がどこかにいるんだよ。そう、成金貴族は挙って瞳を欲しがるよ。深い色の目があれば真純血の貴族に馬鹿にされずに済むから」

「…………これはただ事じゃない。こんなものが広まれば、混血狩りどころじゃない。純血だって狩られるぞ」

「うん、現在進行形でそれはもう開始されている。あの変態貴族が何人も混血を買う資金がどこから出てきたか。ようやくこの件でわかったんだ。彼が買った混血の目に、買った後に混血本人よりもずっと高い価値が付いてしまた。だから彼はその目を売り払った。剥製には要らないからね。混血の目って純血とは絶対に違うものだけど、アルムちゃんの瞳とかみたいな突然変異もある」

「アルムの目は、赤だったな」

「うん。あんなに深い赤、真純血の貴族王族じゃなきゃ発現しない色。勿論彼女にそんな血は入っていない。平民には十分あり得ない突然変異なんだ」

「彼女の目は星入りだから混血だってばれてしまうけれど、そんなオプションのない真純血そっくりの突然変異色を発現したなら……それって凄い価値が付くと思わない?」


 元々混血を安く買うためのパーツ産業。それの需要が変わり、混血以上の価値を生み出すという矛盾が生じているのだとトーラは言う。それに冷ややかな瞳で疑問を投げかけるのはアスカ。


「なぁ虎娘。消えた眼球、売られてる眼球は混血のものだろ?こいつが移植したのは純血のものだ」

「そうだね。純血奴隷は比較的安価だから、わざわざ殺人事件なんか起こさなくても手に入る。でも、被害者からは眼球が奪われている。これは何を意味するんだろうね」

「…………情報の誤った伝達、か?眼球なら何でも高価だと勘違いした者が湧いているのか?」

「その線もあるだろう。名前狩りを行った人間と、眼球狩りをしている人間が同じ者とも限らない。捨てられた死体から金になるって話のパーツを持ち去ろうとしたハイエナが湧いたと考えるのが自然かな」


「……何にせよ、この件を放っておくことは出来ない。本腰を入れて捜査を進めるべきだな」

「うん。僕もそう思う。犯人への手がかりを早く見つけてたたき出さないと、この国はもっとおかしな方向へ向かってしまう。……止めないと」


 話がひとまず落ち着いたところで、ようやく気付く。自分の身の危険から飛躍した話についていけず所在なさ気に話を聞いていたリア。彼女もこのセネトレアの不穏さをそこから察することは出来ていたらしく、気まずそうな表情だ。


「あ、……すまないリア。君に聞かせる話ではなかったな」

「え、ああ……ううん。大丈夫」

「あ、そうだリアさん。君は僕が借りてる部屋においでよ。こんな男ばっかりの部屋に女の子泊まらせるわけにはいかないからね」


 ずるずるとリアの手を引いて、廊下へ出て行くトーラ。ディジットに宿泊客が一人増えたことを伝えに行くのだろう。バタンと閉まる扉の音を聞き、しんと部屋が静まりかえる。

 気まずい思いを感じて視線をフォースの方へと向けるが、彼は彼で物思いに耽っているようでそれには気付かない。……となるとこの気まずさ発生装置かつ消去法的に見なければならない相手は一人しかいない。


「あ、アスカ……」


 恐る恐る視線を彼の方へと向けると、さっと視線を逸らす彼が映った。


「…………悪かった」

「……え?」


 思いもよらない第一声に、驚かされる。


「俺は俺がしたことに後悔なんかしていない。それをお前に謝るつもりもない。だが……それでお前を追い詰めて、無茶させたんなら……そのことだけは謝罪する」


「怪我、見せろよ。ったく……またこんな適当に手当てして、これじゃ治るものも治らないだろ」


「……俺のやってることは、お前にとって迷惑か?」

「……アスカ?」

「それなら俺に死ねって言ってくれないか?そしたら俺がお前を苦しめることもなくなる」

「どうしてお前はいつもそう……極論で物を言うんだ!」

「極論って……要するに突き詰めればそう言う話だって言ってんだろ。俺は何が何でもお前を守るし、お前を守るためなら何だってする」


 アスカの言葉にリフルは絶句する。

 こいつはなんて我が儘な人間なんだ。同じ事を私がしたら、絶対に許さない癖に。私の中ではお前は今だってまだ主のままなんだ。心の、脳の一部分が支配されている。完全に忘れることなんか出来ない。何かあればすぐにお前を思い出してしまう。

 もしここにアスカがいたならこんなことを口にするだろうとか、こんな顔で私を見るんだろうとか。安易に想像できてしまうのだ。

 たった数日だけの奴隷だったけれど、あの時、瑠璃椿はとても満たされていた。あのままこの人の道具として生きるのもいいと思ったくらいだ。


「……………お前はあの時、私がどんな思いをしたのか何も解っていない。だからそんなに軽々しい言葉が言えるんだ!お前に死なれて私が何も感じないとお前はそう思うのか!?」


 道具としての自分が誰より守りたい相手は彼だ。道具の生を捨てた今でも、その気持ちが消えることはない。そんな相手に主と仰がれ守られる続ける弱い自分に耐えられない。

 もっとなりふり構わず生きていた。あの頃の方が今よりずっと強くいられたようにさえ思うのだ。

 自分を守りきった彼はとても幸せそうに笑って目を閉じた。あの時残された自分がどんな顔をしていたのか、この男は何も知らないのだ。だからそんなことを言う。

 彼をそこまで駆り立てるのが、命さえ惜しくないと投げ出させるようし向けているのが、この邪眼なら、呪うべきは糾弾すべきは彼ではなく自身の方だ。


「お前は私の主だったんだ。私が守らなきゃいけない人だったんだ!お前の道具だった私が、本気でお前に会いたくないと思っていたと思うのか!?そんなわけがないだろう!?私だって……こんな目さえなかったら、そんな風に生きられた。生きたいと思った日もあった!そんな風に生きられるなら……」


 この西裏町での生活。請負組織としていろんな仕事に追われる彼を手伝う。彼に人を殺されることなんかしないで、私自身ももう誰も殺さない。人々のための些細な仕事、大きな仕事を請け負うことが出来たならどんなに良かっただろう。

 会いたくなかったんじゃない。会ってはいけなかった。

 傍にいたくないんじゃない。傍にいてはいけなかったのだ。

 結果は同じでも過程は全く違う。そこに至るまでの結論を導き出すためにこの心がどんな思いを味わったか。彼はその結果ばかりを責め立てる。過程なんか知ろうともしない。


「でも……私はもう道具じゃない。お前のためには生きられない」


 那由多の名前を思い出したから、瑠璃椿は死んだんだ。王族としてやらなければならないこと。償わなければならないこと。そのためだけに那由多は生きなければならない。それでもアスカは違う。


「でもお前は私の道具じゃない。そう言ったじゃないか……」


 互いに互いの主だなんて面倒だ。過去を水流して今日から友人と言うことにしようと、この手を差し伸べた。それなのにアスカはまるで自分自身を道具のように扱うのだ。そんなものは友人なんかじゃない。全然対等なんかじゃない。奴隷をなくすために動いている自分が、奴隷を仕えさせているようなものじゃないか。そんなのはおかしい。間違っているんだ。


「アスカ。お前は自由に生きてくれ。私なんかに縛られるな。それは本当にお前の意思なのか?違うだろう。私への引け目など忘れてくれ。私はお前を恨んでいない。邪眼なんかに惑わされないでくれ。アスカにはもっと……違うことが出来るはずだ。違う人生があるはずなんだ。私なんかのためにそれを手離すのは止めてくれ」

「俺は俺の意思でここにいる。お前に仕えるのが俺の誇りだ」

「嘘だ」

「嘘じゃない」

「理由がないじゃないか。邪眼が効いていないのなら、お前がそこまで私に思い入れる理由がない」

「理由なんかなくてもいいだろ。そんなもんなくても俺はお前の騎士だ」


 駄目だ。何を言ってもこの男には通じない。


「………それならアスカ、命令だ」


 本当は嫌だ。こんな言い方をするのは嫌だ。それでも彼がそう言い張る以上、主の立場を演じなければ話さえ聞いてはもらえない。


「明日から一週間、視界に入った女を片っ端から口説いて茶に誘え!」

「はぁ!?何だそりゃ」

「私の騎士なら私の命令を聞いてくれ!私の騎士じゃないと認めるなら別に聞かなくても構わない。文句を言うなら口説く対象に男も含めるぞ」

「……へいへい。ったく……謹んでお受けしますよリフル様」


 *


「というわけでディジット、茶でも飲みに行かないか?」

「はい」

「え、何コレ」

「あんたが茶飲みたいって言ったんでしょ」


 目の前に置かれたアイスティー。確かに最近気温も上がってきたし丁度良く冷えていて茶葉の香りも悪くない。ディジット自身もそれを自分用に注ぎ、啜り始める。


「はい、これでお終い。代金は私の分もあんた持ちってことね」

「いや、確かに茶は飲んでるけどな、そういうのじゃなくて俺の主から命令下ってるんだよ。そこらへんの軟派な男みたいに女口説いて遊んでこいって」

「あんた馬鹿?こっちは店の人手も減って猫の手でも借りたいところなのよ。店ほっぽりだして遊びになんかいけないでしょう?……エルムが帰ってきたら、一番に迎えてあげたいの」

「ディジット……」

「ふみまふぇんふぇんふゅふぁん!ふぉふぃふぉふぁふあふぃ!」


 こっちのシリアスモードを一気に打ち砕く間の抜けた少女の声に、ディジットが我に返り調理場へと駆けだした。


「あ、ごめんなさいね!今おかわり持ってくるわ」

「よく食うなあんた……」


 がつがつと食事を平らげているリアという少女。最初こそフォースもそれに応戦していたが今は完全に完敗して落ち込んでいる。そしてリアの横で澄ました顔で茶を啜っているのがリフル。


(まったく……一体今度はどういう気まぐれなんだあいつ)


 つい昨日までべったりしていた癖に、今ではそんなこともない。視線がこっちを追ってくることもないし、立ち上がって上の階にむかっても後ろからついてくる足音はない。


「そういえばリフル、今日はあんたたち向こうのホームの方に帰るんだっけ?」

「ああ。……そうだアスカ。お前には一週間の任もある。それを終えるまでここに滞在させてもらえ。人手が足りないのならアスカを扱き使ってやってくれ」


 舌打ちながら階段を下れば、リフルはディジットとの談笑でさりげなく自分だけここに置いていく事を取り決めている。


「おい、ちょっと待てって!」

「何だアスカ。主の命令にも従えない者が私の騎士だって?」

「………くそっ」


 彼の身に危険があるなら命令なんて破るが、そうではない状況でこんなことを言われると逆らえない。逆らえばこの役職を奪われかねない。


「いったいどういうつもりなんだリフル?今はそんな状況じゃねぇだろ。今日から本腰入れて捜査始めるって言ってたのはお前だろ?」

「ああ、だからアスカには暇を与えようと思ってな」

「暇ぁ!?」

「被害者は皆女性だ。アスカのような長身の女が歩いていたら不自然だろう?お前は潜入捜査には向かない。しばらく私とトーラで捜査を進める。私の護衛はフォース、お前に任せる。ついてきてくれるか?」

「は、はい!リフルさん!」


 その一言で途端に顔が明るくなる子供が羨ましい。いや自分だってああ言われたら似たような顔にはなっただろう。


「アスカは留守番してろよ!」


 自分が必要とされたのが嬉しいのか、置いてけぼりを食らったこちらをせせら笑うフォース。


「こらガキ……!」


 伸ばし引き寄せた肘で首を絞めてやると暴れる少年。フォースはしばらくぎゃーぎゃー騒いでいたが、それを演じながらこっそり小さく囁いた。


「アスカ、お前馬鹿?少しはあの人の気持ちも察してやれよな」

「は?」

「ぎゃぁああああ!アスカの馬鹿力!」


 暴れる振りを続け逃げる振りをしながらフォースが上の階へと誘った。それを追いかければ、先程の続きを紡ぎ出す。壁に背を預けて大きな溜息を吐くフォース。


「アスカはディジットのこと好きなんだろ?リフルさんはそれを応援してやってるんだよ」


 自分が彼女をそりゃ好きか嫌いかで言ったら好きだし、好みのタイプだ。今までだって日常会話のように口説いてはスルーされるような友好的な関係だ。


「“傷心の彼女に付け入る隙は十分ある、頑張れ”だって」


 弟のように可愛がっていたエルムは重傷で生きてるのかさえ危うい。生きていたとしても奴隷商の手の中だ。この半年間、音沙汰もない。ディジットも気が気でないはずだ。

 ディジットが可愛がっていた双子を見捨てて助けようとしたあの闇医者の洛叉に至っては、旧ライトバウアー迷い鳥に居座って、怪我の絶えない暗殺組織と、保護された人間達の治療を行っている。ディジットの傍で彼女に償い、支えることもしない薄情者だ。


(あの変態野郎……リフルの邪眼にやられたのかなんなのか、開き直って来やがったしな)


 本人曰く、王子時代の那由多の遊び相手兼主治医みたいなものだったらしいが、当の本人には忘れられているという。いい気味だ。


 瑠璃椿と出会ったことは忘れられていたことにふて腐れていたのか知らないが、畏れ多いだの何だの口にしたり、15歳はストライクから外れているとかほざいていたような気がするが、今のあの男の目は怪しいものだ。


(俺が目を離したらあいつ口説きに来そうで怖いったらねぇな)


 あんな変態に異父弟を任せられるはずもない。だって変態だし。何されるかわかったもんじゃない。塩でも撒かせるか。持っていかせるか。


「おいフォース、あいつとあの変態だけは絶対二人っきりにすんなよ。いいな」

「俺的にはアスカとリフルさん一緒にする方が心配なんだけど。すぐに喧嘩するし」

「喧嘩じゃねぇよあんなの」

「どっからどうみても喧嘩だろあんなの」

「しかし……頑張れ、ねぇ……。何考えてるんだあいつは」

「アスカって騎士らしくないなぁ、どこだかで読んだ本の騎士は主の奥さんとの浮気のために主裏切るようなことしてんのに」


 世界は広い。そんな人間だっているだろう。愛だの恋だのという感情に振り回されて、忠誠を見失う者だって。


「その辺俺はタロック育ちだからタロック気質なんだよ。んな浮ついた心より忠誠心が大事で一体何が悪いってんだ」

「いや、別に悪くないし俺もそういうのはわかるけど。アスカのはなんか行き過ぎ」


 疑問と僅かの畏怖を宿した灰色の瞳で少年が此方を見ている。


「俺だってアーヌルス様は大事だったし、今だってカルノッフェルへの憎しみは消えない。だけど……俺はアスカと同じになれるとは思えない」


「元々俺があの人に仕えていたのは、生きるためだ。そうしなきゃ殺されてた。それが始まり…………それが段々親父代わりみたいに感じてきてさ。俺は親父っての知らなかったから、それが凄く嬉しかった。大事になって力になりたい、守りたいって思うようになった。でも俺の中には恐れがある。あの人に教えられた。死への恐怖だ」


 語られる言葉は、離れていた間に彼が見た風景。世界の一面、一つの狂気。この少年はその狂気に触れ、それに支配された。その支配の中に、宿った温かなもの。それでも、そんな思いさえ、死の前では揺らぐ。その可能性を口にしている。


「もし俺が間に合ったのなら、あの人を守るために飛び出すところまでは同じだよ。だけどあいつを目の前にして、自分が本当に死にそうになって、それでも果たして俺は逃げ出さずにいられるかって言われるとわからない。身体が震えそうなくらい、怖いんだ。アスカ凄ぇ大怪我したじゃん。なのにアスカ笑ってるんだ。俺はアスカのそんな所に驚いたし、それが少し怖かった。昨日だってそうだ。リフルさんに自分を殺せなんて平然と言う。タロック人の俺でもアスカのあの人への忠誠心はよくわからない」


「俺にはもう主はいない。タロックには帰る場所もないし、グライドだって俺を見限った。だから俺はリフルさんが大切だよ。俺にはもうカルノッフェルへの憎しみしか残っていないんだと思ってた……それをそうじゃないっていいんだってあの人が教えてくれたんだ。だからあの人の力になりたいってそう思う」


「そう思うけど……やっぱり俺はアスカと同じ事が出来るかどうかわからない。その時になって足が竦むかもしれない。大事なのに、自信がないんだ」

「……そうだな。お前の言うことはもっともだ。それが普通だ」


 この子供は普通の子供だ。運命とやらに仕組まれて手を汚すことになったが、彼の本質は変わっていない。

 自分だって相手が彼でなかったのなら、そこまでは思わない。給料分の働きくらいしかしないだろう。命あってこその物種だ。結局は自分の命が一番。誰だってそうだ。そうであるはずだ。

 それでも彼は唯の主ではない。最後の家族だ。たった一人の弟だ。母の面影を色濃く残す、約束の証。自分の生きる意味そのものなのだ。


「俺はあいつを恨んでた時期がある」

「……え?アスカが、リフルさんを?」

「殺してやりたいとか、死んでしまえばいい。消えてしまえ。そう思った瞬間が俺にはある。それを俺は否定はしない」



 突然の言葉に、信じられないと此方を見るフォース。そうだろう。この少年と出会ったときの自分たちは、そんな風には見えなかったはずだ。あの時は奴隷と主の関係だった。


「俺の両親が死んだのは、あいつの存在に関係してる。王子だったあいつが奴隷なんかになったのは……俺の行動が原因だ」


「俺は最初から唯あいつが大事だったてわけじゃない。今もあいつを憎む心は消えた訳じゃない。たぶんそれをゼロにすることは出来ないんだろうな。でもそれ以上に俺は今あいつが大事なんだ。それに俺は過去の俺がしたことが許せない。俺の行動があいつを傷付けた。あいつは俺を恨んでいないと言っているが、そんなことはないんだ。許せるはずがないんだ。あいつだって……」


 家族を奪った存在に、家族の片鱗を求めているだなんて馬鹿げている。それでもそれが自分の真実だ。

 自分が支配されているとしたらそれは邪眼ではなく、彼への憎しみだ。この憎しみが続いているからこそ、自分は彼をずっと大切だと思い続けることが出来ている。


「俺は俺を絶対に許さない。あいつへの償いのために生きるのが俺の人生の全てであるべきなんだと解ってる。それでもあいつは俺を許そうとし続ける。そんなあいつだから、俺は仕えていたいんだ。跪いて頭を垂れることを厭わない」


 こんな面倒な立ち位置に生まれていなければ、ここまでの執着は生まれなかっただろう。彼の不幸の始まりが自分ならば、償わなければならない。彼が幸福になるまで、何もかもを犠牲に捧げなければならない。彼の望みを阻むなら、相手だ誰でも斬り殺す。そうだ。代われるものなら代わりたい。彼の毒も、彼の罪も、自分が引き受けたい。身代わりとして死んでもいい。それで彼が普通の人間として笑っていられるのなら。

 けれど、彼の毒を引き受ける事なんて出来ないから、彼の傍で彼の力になるしか出来ることがないのだ。どんなに歯痒い思いをしても、そうして償うしか出来ない。


「アスカ……」

「……っと柄にもねぇ話しちまったな。他言無用な。喋ったら半殺しにするぜ」

「物騒だな!わ、わかったよ。アスカがリフルさん大好きなのはわかったけどさ」

「いや別にそうは言ってないだろうが」

「言ってただろ。まぁ、それは解ったけどリフルさんは、その償いのために生きるのを止めて欲しいんだよ。騎士としての自分じゃなくてアスカとしてのアスカを探して、そのために生きて欲しいってことじゃない?」

「俺としての、俺……」

「ああ。その切っ掛けがディジットあたりなんじゃないかって思ったんだろうな」

「確かにあの野郎があんなんなったんじゃ、張り合いもねぇっていうか……頑張れば口説けるのかもしれねぇが…………なんだかなぁ……」


 ディジットとは長い付き合いだ。彼女の親父さんが行き倒れていた俺を拾ってくれたのがきっかけだ。あれから居候兼幼なじみ兼兄妹のような関係だったわけだ。

 彼女の人間性は好きだったし、青い瞳も好きだった。彼女がなんでか洛叉の野郎に惚れてしまっていたから簡単には渡したくなかったしあんな男を認めたくなかったが、彼女が本気なら、見守るしかないんだろうなとからかい程度に口説き続けていた。こっちがそんな中途半端な気持ちだから、ディジットもそれをスルーしていたのだろう。

 彼女を支えられるのは、自分しかいないのかもしれない。リフルもそれを望んでいる。


(でも俺は……俺に、それが出来るのか?)


 騎士として、彼の道具としての自分ばかりを追い求めている自分が。一人の男として人間として、彼女を守り大切に幸せに出来るような器量があるのか?

 そういう風に生きる道を模索しろと、引き返せるのなら引き返せと彼は言いたいのだろう。人殺しなんて商売に身を落としてから、自分は主を困らせてばかりだ。再会してから泣かせてばかりだ。


(マリー様……)


 あの人は言った。二度と悲しいことがないように。二度と泣かないようにと彼の幸せを。それを命を賭けて守ろうと誓ったのが今のアスカの起源。

 彼女が願ったように、自分だって願っているのだ。彼の幸せを、彼の笑顔を。それなのに何だ。自分がしていることは。

 彼の傍で彼と同じ道を歩いて、彼を守ること。それが彼を悩ませ傷付ける。

 彼の遠くで違う道を歩いて、普通の人間らしく平凡な幸せを見つけること。それが彼が自分に願うこと。あの人はそれを遠くから見つめるのだろう。俺の幸せがさも自分の幸せの代用品だと言わんばかりに、箱庭の幸福を見守るのだろうか。

 そんなの、彼にとって本当に幸せなことなのだろうか。彼は自分の毒と邪眼のせいで、人としての幸福を諦めている。それを俺に託すばかりだ。それに従うことであの人の心を本当に穏やかに、守ることが出来るのか?本人がそう言っていても、それが本当に真実なのか?

 フォースとの会話を終え、下へ降りれば彼がいる。問いかけるよう視線を投げかけても彼はそれに応えない。相も変わらず涼しげな顔で茶葉の香りを楽しむだけだ。


 *


「リーちゃん、いいの?」

「アスカが捜査に来ても邪魔なだけだ」

「まぁそうなんだけどね。でもこうしてるとフォース君ったら両手に花って感じだね。よ、この色男!」

 二人の背中を負って歩く街中。突然話題を振られ。振り向き様のトーラから肘打ちを食らう。地味に痛い。溜息を吐くフォースをトーラが気にする様子はない。


「なんか全然そんな気がしないんだけど。親子で買い物気分だよ俺は」

「あはは!大歓迎だよフォース君。ママでもマミィでも母上でもお母様でも僕は気にしないから言ってごらん」

「い、言うわけないだろ」

「え、それじゃあフォース君はリーちゃんの方がお母さん派?困ったなぁ。そうかそれじゃあ僕はダディ呼びでも構わないよ」

「そんなところで女捨てるなよトーラ……」

「あはは、些細なことだよフォース君」


 トーラは元々金髪。瞳の色だけ誤魔化せばあっという間にカーネフェリーの女の子。瞳は緑の色硝子。金色の瞳の彼女が誤魔化すにはその色の方がやりやすいらしい。

 リフルは長い金髪のウィッグ。紫の瞳を青い色に誤魔化す。そしてデフォルトでやっぱり女装。もうこの人のこういうところにも慣れてきた。二人とも視覚数術と変装の二重の策だ。色硝子を目に入れるのは痛いとか聞いたことがある。見てるこっちが痛くなって叫いていたら二人ともそこまで痛くなかったらしいのだが、大げさに痛がっていた。心配をしていたらネタ晴らしをされて馬鹿にされた気分だった。


 カーネフェル人の女二人とタロック人の男。価値の低い人間だからセネトレアとはいえ危険に遭遇する確立は低くなっている。大通りに裏通り……いろいろ通りを歩くがそこまでの危険には出会さない。午前中は手がかり一つ掴めない。

 外の店で昼食を取りながら、トーラが数術でキャッチした情報を洗っていたが、やはりこれといったものはない。三人で顔を合わせ溜息を吐いていた。そんな時だ。絹を裂くような悲鳴が聞こえた。それに弾かれたようにリフルが走り出す。


「フォース君っ!」

「ああ!」


 数式は見えないが、トーラは数術を紡ぎ始めた様子。後方支援を彼女は選ぶ。

 それなら自分は急いで彼を追う。足は自分の方が速い。それでも人混みが多くて追うのは困難。それでも見失わないように必死に追った。


 やっと追いついた。彼の背中がすぐそこまで来たのは、丁度現場に着いたとき。裏路地に転がる死体。それを発見した女性が腰を抜かしてそれを凝視している。


「リフルさん……?」


 リフルも目を離さない。吹き出した血。それで塗りたくられた壁。その赤をじっと見つめている。

 それはなんだろう。ただの血だと思った。だけど良く見てみれば、それは何かを形作っている。それは文字だ。


「S…U、I……T。え……、……スート!?」


 刻まれていたのは文字。殺人鬼としてのこの人を差す名称。世間では死んだということにされている、その名前。

 野次馬の人々がその名前に叫き出す。


「い、生きてたのか!あの殺人鬼っ!!」

「この子、普通の女の子じゃない……平民まで殺すなんて、とうとう見境無しになったの!?」


「何だこの騒ぎは!」


 ざわめき立てる人々を一喝する凛とした声。金髪のカーネフェル人。片目が黒の聖十字……昔会ったことがある。確かラハイアって名前の……以前は腐れきった上司に率いられていた末端兵の一人。それが今は何人かの部下を率いてこの場にやって来た。出世したんだろうか。聖十字への憎しみが胸の中へと甦る。自分の正体が知れれば捕えられるんだろうか。自分は人殺しだ。こいつらのせいでそこまで落ちた。それでも自分を捕らえ裁くのか?それで偉くなるのか?こいつらが光の中で。


(いや……駄目だ)


 何か酷いことを口にしそうになる。それを抑えるため思いきり奥歯を噛み締めた。


「………君は」


 バレたのか。そう思って逃げだそうとした。だけど違った。聖十字兵が駆け寄ったのは違う人。リフルの傍で立ち止まった。


(リフルさん……)


 その声に呼ばれるように振り返った彼は、感情を失った瞳から雫を滴らせている。泣いている。

 自分が駆け寄るより先に、二人が動いた。


「ベラドンナ……」

「ライル……っ」


 泣き崩れそうな彼女……あ、彼が、聖十字へと駆け寄って。その肩を抱く聖十字。


(…………………え?)


 目の前の光景に、ちょっとついて行けなくなった。正体ばれてるのかあの人?ていうかその名前何?

 よくわからない。よくわからないまま二人を見つめていた。たぶんアスカあたりがコレ見たら切れるんじゃないかと心のどこかで思いながら。


 *


「…………何か用か?」

「いや、仏頂面のお兄さんも絵になるなぁと思って。どう?一枚脱いでみない?私がその肉体美をキャンバスの中に留めてあげるから」


 画用紙と鉛筆を持ちカウンター席に残っている画家少女。太陽のように屈託のない明るい笑顔で笑いかけてくる。


「リアちゃんうちの店から客が減るから止めて貰えると嬉しいわ。ていうかアスカなんか元々雰囲気半裸とか全裸みたいなものじゃない。脱がせても楽しくないしそこまで価値はないと思うけれど」

「ディジットの容赦ない言葉が懐かしい……」

「あんたも大概変態よね」

「おいおい、一年近くろくに顔会わせてなかった幼なじみに対しそれは辛辣じゃねぇか?」

「滞納してた一年分の家賃払えよ今月末までに」

「はいすいません」


 ディジットに謝罪をすれば、それを見てケタケタとリアが笑う。そういえばどうして彼女はここにいるのだろう。


「そういや、あんたはあいつらについて行かなくて良かったのか?」

「迷い鳥だっけ?うん、そっちも気になるんだけどね。このお店のご飯気に入っちゃって!」

「ちょうど人手不足だったから賄い付きでちょっとお手伝いしてもらえないかって私が頼んだのよ。部屋も余っているしね……アスカが置いて行かれたのは私やこの子の護衛のためなんだから、しっかり店の警備やってよね。あんた剣しか取り柄無いんだから」


 ああ、そんな理由もあったのか。


(信頼は、されてるんだよな)


 ディジットの言うよう、剣の腕は買われてる。自分一人を配置して、ここの店を一人で守れると認められている程度には。分かり難い信頼を教えられ、とりあえずこの仕事も頑張るかとようやくやる気も多少出てきた。


「でも驚いたわ。あの子が女の子連れてくるなんて。あんな女の子みたいな顔して隅に置けないわねぇ」

「ああ、そんなのじゃないですよ。私とリフルは茶飲み友達件画家とモデルの関係です」

「ええ、そうなの?せっかくあの子にも春が来たのかと思ったのに」


 女同士の明るい会話。リアの否定にちょっと残念そうなディジットの声。


「それはそうと店主さん、そっちの可愛い女の子の絵描いて良いですか?今朝から気になってたんです」

「え……?」

「あらアルムの絵?いいわね。是非描いて。言い値で買わせていただくわ!何処に飾ろうかしら」


 素早く方向転換。アルムの桜色の髪に夢中になる画家。さらさらと鉛筆を動かし始め……くるりと此方に振り返る。そして思い出したように差し出された一枚の紙。


「あ、そうだお兄さん!これ礼の物」

「ん?」

「昨日言ってたじゃないですか。リフルの絵寄越せ家宝にするって」


 そういえば酔いが回ってそんなことを口にしていたかもしれない。


「大分前に描いた絵なんですけど。私のお気に入りの一品です。売るの勿体なくて取ってたんですけどあげます」

「……いいのか?」

「だって私すぐに散らかして無くしちゃいそうだしお兄さんの方が大事にしてくれそう。はい、リア様の最高傑作『荊姫』」


 けらけら笑うリア。手渡されたそれに映るのは大きなリボンで髪を留め、着飾った少女の姿。淡い色で輝く銀色の髪は触れてみたら柔らかそうな感触をそこへ映し、深きを宿した紫の瞳は微笑を讃え遠くを見つめている。優しげに、悲しげに、慈しむように……笑っていた。それが一瞬、初めて見た彼の表情と重なって見えた。処刑の最後、苦しみを抑え微笑んだ彼に似ていた。手足が震える。夢の景色の風景が、そこに宿ったようだ。心臓を冷たい掌で握りしめられたように、どくどくと音がする。目を見開いて、その絵を見つめる。見つめ続ける。魅入られてしまったみたいに、唯じっと。


「…………茶飲み友達故、いろいろ話をするんです。仕事の折言った話とかはしないですけど。これ描いてたときの彼が話してたのって、お兄さんのことじゃないかなって思って」

「俺のこと?」

「昨日お兄さんと話してるときのリフルの目も、こんな色してましたから」


 切り取られた一瞬。この絵の中の少女の視線の先に、心の先に自分がいた?歓喜にも似た思いが胸に芽生える。これは一体何なのだろう。あの処刑の日のように、得体の知れないものに支配されていく感覚。絵から眼をそらせない。

 絵の中の少女は何処かを見つめている。その先に自分がいるのだとしても、今この少女は目の前にいる自分を見つめ返しはしない。それが納得のいかないことのように思える。


「あの日の彼は、私に聞いたんです。自分は出会って良かったと思うけれど、相手のことを考えるなら、出会わなければ良かったと思うような人が君にはいるのかって」


 絵描きは語り出す。この絵の解説なんだろうその言葉。


「私は今はいないなって言えば彼はそれ以上を語らなかったけれど、……とても大事に思ってる人がいるんだなってのは馬鹿な私にも解ったんです」


 絵の中の少女は何にも囚われてはいない。荊の蔓も長き眠りも彼女を襲わない。彼女は自由の中にいる。それでもその瞳は何かに囚われているように見える。心をどこかに置き忘れてしまったように、遠くを見つめる。人形のような微笑みの中に僅かに残った心で彼女は微笑んでいる。一秒後には泣き出してしまいそうな儚い笑みで。


「歌とか詩とか手紙とか小説とか。そういったものでも人に何かを伝える事ってできるんでしょうけど、私全然そういうの駄目だし。絵だって似たようなものだけど、私夢があるんですよ」

「人って誰かを完全に理解することって出来ないでしょう?私はそれを手伝えるような絵を描きたいんです。私が誰かに伝えたいことなんかあんまりないから駄目なんですけど、だから誰かを描いて、その人が伝えたがっていることをその誰かに絵を通じて伝えられたらいいなって」

「だから彼はとっても創作意欲の湧くモデルなんですよ。彼はいろんな人に伝えたいことを抱えている。それでもそれを語る言葉を持たない。本当を言いたがらない不器用な人」


 リアの言葉に耳を傾けていたのは自分だけではない。いつの間にか、ディジットもアルムも……店の客達もそれを聞いていた。


「ねぇリアちゃん、私のも一枚描いてくれない?」

「わ、私も……描いて、くれますか?」


 ディジットとアルムが光が差し込んだように、希望を求めてリアを見る。客達も口々に絵の予約と取り付けていく。

 凄い光景だ。人はここまで欲するものがあるのか。そのために一人の少女に縋り付く。

 言葉や態度では伝えられない何かがある。それでも伝えたい何かがある。これは文字や音では伝えられない手紙だ。


「そ、そうですね。着色まですると時間掛かりますけど、鉛筆でしたらすぐに出来ますよ」


 それでも構わないと客達の行列。それが何事かと外から覗き込む人間達。次第に店の中にも客で溢れかえっていく。

 少女は人々の悩みを見抜き、それを紙の上へと落とす。それは一つの理解。誰かに受け入れられると言うこと。それだけで人は救われることもあるのだろうか。

 その絵を彼らは誰に贈るのだろう。自画像を贈るなんて、酷い自己愛者だと笑われるだろうか?いや、それはない。少女は適確に人の本質を見抜く。トーラのような数術使いでもない普通の人間の目が、それを曝く。曝かれた紙の上の人々。それは服を着ていても、心の方は丸裸。剥き出しの心を宿した人が紙の中に住んでいる。

 これは自画像などではない。その枠に留まらない。声なき声を伝える手紙だ。


 アスカは見ていた。少女が紙の中の人々を作り出すその様を。引き込まれるようにそれを見ていた。夕暮れになりようやく人も捌け、疲れたように伸びをする彼女。


「お疲れ」

「え、何ですかこれ」

「俺の奢りだ。絵の礼もあるしな」


 ディジットから買った茶と菓子を持っていけば、目を輝かせる少女。ぱぁと明るくなる顔が本当に子供のように素直な反応。


「しかしあれだけ描いたんだ。しばらく遊んで暮らせるんじゃないのか?」

「そうですね、三日くらい食べ放題ですね」

「………は?一枚300シェルってそんな安い値段で引き受けてたのか!?お、お前馬鹿か!?」

「あはははは。十分ぼったくりじゃないですか。紙一枚そんなにしませんし」

「笑い事じゃねぇだろ。大丈夫なのか?」

「私別にそこまでお金が欲しい訳じゃないですし。画材とご飯買えればいいんです」

「………はは、この国にとことん似合わねぇな。で……今日はもう店終いか?」

「はい、指が棒みたいです」

「指なんて元々棒みたいなもんだろ」

「あはは、そうかも。お兄さん頭良いですね」


「そういやそのお兄さんっての止めてくれよ。俺は誰の兄でもないし」

「訳ありですか?」

「……何でそう思う?」

「顔のパーツとか骨格とか雰囲気とか。重なるところと重ならないところが見えます。親戚か血縁者かと思ったんですけど」

「画家って凄いんだな」


 生きている世界が違うと言うより、この少女は見えている世界が違う。普通の人間が気にも留めないところから世界の真実をいとも容易く見抜いてしまう。


「ああ。訳ありだからあいつらには黙っていてくれよ」

「……いいですよ。その代わり今度一枚絵描かせてくださいよ」

「口止め料そんなんでいいのか?」

 リフルの大切な友人だとは知っていても、もし断られたら最悪の手段と方法が一瞬頭を過ぎった。そんなことを気付かないのか気にもしないのか、少女はけたけたからから笑うだけ。


「そうですね。剣構えて格好良くポーズ決めて下さい。服装もちゃんとしてくれた方がもっとびしっと決まると思いますよ、アスカさん」


 夜になり酒場が始まり店に入ってきた客達。彼らの噂話が耳へと届く。いつもは気にも留めないそれが、耳に残ったのはその単語のせい。


「しっかしまた物騒になったな。あれだろ?SUITってこの西にいるんだろ?まだ生きてたってなると……」

「しかも今度は貴族でも商人でもない女の子殺したって話だろ?無差別殺人ってことか?おっかねぇ……」

「おい飲んだくれ共!滅多なことを言うなよ。もうあいつは死んだって話じゃねぇか。模倣犯か何かだろ」

「お前しらねぇのか?今日表通りの近くの路地裏で死体が上がったんだよ。壁にはでかでかとSUITの血文字!ありゃ復活宣言だろ」


 あいつがそんなことをするはずがない。こいつらは何を言っているんだ?あいつの何を知っている?何も知らない癖にそんなふうにあいつを語るな。

 酷い言葉達に頭に血が上っていく。


「アスカさん」


 それを留めるのは絵描きの少女。


「貴方が彼を信じているのなら、ここで怒ったら負けですよ」


 穏やかで、それでも強い口調で少女が語る。


「こういうときはお茶とお菓子でも食べながら、まったりと悠然と優雅に彼を待つことにしましょうよ」


 唖然とする。その言葉に。そして頭が冷えていく。参った。また礼にと奢るはめになりそうだ。

 苦笑しながら、アスカはリアにメニューを差し出すことにした。

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